第一話「父の約束」
朝の九時、紬のスマホが鳴った。
画面に「お母さん」と出ていた。平日の朝に母から電話が来ることは、ほとんどない。紬は資料を持ったまま廊下に出た。
「もしもし」
「紬、お父さんが」
母の声が、いつもと違った。乾いていた。泣いた後の声じゃなくて、泣くことも忘れたような声だった。
「病院に運ばれて。今、集中治療室で」
紬の手から、資料が落ちた。拾う気になれなかった。床に散らばったまま、そこに立っていた。
新幹線とソニックを乗り継いで、別府に着いたのは夕方だった。
窓の外に別府湾が見えた時、紬は思わず顔を上げた。夕陽が水平線に沈みかけて、海面がオレンジ色に染まっていた。子供の頃、お父さんに連れてきてもらった海だ。あの頃のお父さんは無口だったけれど、海を見る時だけ、少しだけ穏やかな顔をしていた。
もっと早く帰ればよかった。
そう思っても、もう遅い。三年間、ほとんど連絡を取らなかった。喧嘩別れというほど派手なことでもなかった。ただ少しずつ疎遠になって、気がついたら三年が経っていた。
病院の廊下で、母が立っていた。
小さくなった気がした。三年ぶりに見る母の背中が、三年分だけ小さかった。
「お母さん」
母が振り返った。目が赤かった。でも泣いていなかった。泣き終わった人の顔だった。
「会えるよ。先生が、今なら大丈夫って」
集中治療室のドアを開けると、ベッドの上にお父さんがいた。
竹内正蔵、六十五歳。いつも厨房に立っていたお父さんが、白いシーツの上に横たわっていた。チューブが繋がれていて、顔色が悪かった。でも目は開いていた。紬を見て、少し目を細めた。その細め方が、昔と同じだった。何かを褒める時の、あの顔と。
「紬」
掠れた声だった。
「来た」
紬はお父さんの手を握った。
ごつごつした手だった。蕎麦を打ち続けた手だった。節くれだって、固くて、皮が厚くて、でも不思議と温かかった。この手が三十年間、毎日蕎麦を打ち続けてきた。紬が幼い頃から、ずっとこの手だった。
しばらく黙っていた。
何を言えばいいかわからなかった。三年分の距離が、その沈黙の中にあった。謝りたいのか、泣きたいのか、怒りたいのか、自分でもわからなかった。ただ、手を握っていた。
「正庵を」とお父さんが言った。「継いでくれ」
紬はお父さんを見た。
東京での生活が頭をよぎった。会社、アパート、友達、十年かけて作ってきた生活。でもお父さんの目を見た瞬間、そういうものが全部、遠くなった。懇願でも命令でもなかった。ただ、頼んでいた。こんな顔でお父さんに頼まれたことは、今まで一度もなかった。
「……約束する」
お父さんがゆっくりと頷いた。握り返す力は弱かった。でも、確かに握り返してくれた。
その夜、お父さんは逝った。
葬式が終わった。
親戚が帰って、花が片付いて、静かになった夜、紬は母と二人で正庵に入った。
暖簾をくぐると、蕎麦の香りがした。人がいなくなっても、匂いだけはまだそこにいる。紬は立ち止まって、深く吸い込んだ。鼻の奥が痛くなった。
厨房に入った。
蕎麦打ち台、麺棒、こね鉢。道具が綺麗に並んでいた。お父さんが毎日使っていた道具が、そのまま待っていた。誰かが使うのを待っているように。
「お母さん」と紬は言った。「レシピは?」
母が少し黙った。
「お父さん、全部頭の中に入れてたから」
「……メモとか、ノートとか」
「何もないんだよ。三十年、全部ここに入ってたから」
母が自分の頭を指差した。
紬はその場に座り込んだ。
道具はある。場所はある。でも三十年分の技が、レシピが、全部お父さんと一緒に逝ってしまった。どこから手をつければいいかもわからない。蕎麦を打ったことすらない。約束はした。でも何をすればいいかが、まるでわからなかった。
「どうやってやるの……」
声が情けなかった。
厨房が静かだった。お父さんの道具が、黙って紬を見ていた。窓の外に別府の夜が広がっていた。温泉の湯気が、街灯に白く浮かんでいた。この街で、お父さんは三十年間蕎麦を打ち続けた。
紬は膝を抱えて、しばらくそのままでいた。
泣こうとしたが、涙が出なかった。途方に暮れていた。途方に暮れるという言葉の意味を、初めて体で理解した気がした。
それから、顔を上げた。
泣いてもいい。でも、座り込んでいるわけにはいかない。約束したのだから。お父さんが最後に頼んだことだから。あの手の温かさが、まだ両手に残っていた。
「お父さん」
紬は厨房に向かって、小さく呟いた。
「正庵の蕎麦、絶対に守ってみせるから」
返事はなかった。
でも、蕎麦の香りが少しだけ濃くなった気がした。
(第一話 了)




