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つむぎのそば〜正庵からつむぎ庵へ〜  作者: 八雲 海


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第十一話「紬の蕎麦」

三ヶ月が経った。


正庵に、客が戻ってきた。


最初は田中さんたちだけだった。でも口コミが広がって、少しずつ新しい顔が来るようになった。「正庵が再開したらしい」「娘さんが継いだんだって」。そういう話が別府の中で静かに広がっていた。別府は狭い街だ。いい話も、悪い話も、湯気のように広がっていく。


紬は毎朝七時に厨房に立った。耕二は毎日来た。一回だけのつもりが、三ヶ月になっていた。お互い、そのことには触れなかった。触れない方がいい気がした。言葉にした途端に、何かが変わってしまう気がした。




ある朝、耕二が来た。いつものように道具を確認して、紬が蕎麦を打ち始めた。


その日は、何かが違った。蕎麦粉に触れた瞬間から、違った。


袋を開けて、粉を少し手に取った。指先でこすった。今日の粉の状態が、すぐにわかった。乾いている。昨日より少し乾いている。水を少し多めにする。そこまでが、頭で考える前に手が知っていた。


水回しをした。一回目の水を垂らした。指先が、いつもより素直に動いた。粉が水を受け取っていく感触が、手のひらに伝わってきた。均一に、均一に。二回目、三回目。粉が水と馴染んでいく。バラバラだったものが、少しずつひとつになっていく。


こねた。体重を乗せた。前に押し出して、引いて、また押す。生地の声が聞こえる気がした。固い、柔らかい、もう少し。手のひらから伝わってくるものが、昨日より鮮明だった。生地がつやつやになってきた。耳たぶの柔らかさになってきた。


布巾で包んで、休ませた。


十五分後、布巾を開けた。生地を触った。しっとりと、落ち着いていた。水が隅々まで行き渡った生地だった。


伸ばした。麺棒を転がした。体重を乗せながら、転がす。押すんじゃなくて、転がす。生地が素直に広がっていった。端まで、均一に。縮まなかった。今日の生地は、まるで伸ばされることを知っているみたいだった。


畳んで、切った。音を聞いた。


トントントン。トントントン。


リズムが最初から揃っていた。包丁と駒板が、一体になって動いていた。右手が引くと同時に、左手が一定の幅だけ動く。そのリズムが、今日は最初から体の中にあった。


切り終わった蕎麦を見た。太さが、揃っていた。今まで見たことがないくらい、揃っていた。一本一本が、同じ太さで並んでいた。


耕二が横で黙って見ていた。


茹でた。湯が完全に沸騰しているのを確認してから、蕎麦を入れた。丁寧に、ほぐしながら。茹で上がったら、すぐに大量の冷水に取った。急冷した。しっかりと、丁寧に。コシが生まれるように。


湯気が上がった。


蕎麦の香りが厨房に広がった。


いつもより濃い香りだった。粉の香りが、茹でた後まで生きていた。水回しから茹でまで、全部が揃った時に初めて出る香りだった。紬はその香りを嗅いで、少し手が止まった。


お父さんの厨房の匂いだ、と思った。


器に盛った。耕二の前に置いた。


「食べてみてください」


耕二が箸を取った。一口食べた。止まった。目が、少し細くなった。もう一口食べた。また止まった。器を見た。また食べた。


紬は何も言わなかった。ただ、待った。心臓が速かった。


耕二が器を置いた。長い沈黙だった。厨房の時計の音だけが聞こえた。


「耕二さん」と紬が言った。


「……」


耕二が答えなかった。


「どうでしたか」


耕二が紬を見た。目が、少し赤かった。


「耕二さん、泣いてますか」


「泣いてない」


「目が赤いです」


「……赤くない」


紬は耕二を見た。耕二は視線を逸らした。でも逃げなかった。


「師匠の蕎麦に、近い」


耕二が静かに言った。


「近い、ですか」


「近い。同じじゃない。でも、確かに近い。あの香りが、少し出てる。水回しから茹でまで、全部が揃った時に出る香りだ」


紬は器を見た。自分が打った蕎麦を。細くて、揃っていて、湯気が上がっていた。


「全部が揃ったから、香りが出たんですか」


「そうだ。どこか一つが狂えば、香りは出ない。蕎麦は正直だ。全部が揃った時だけ、本当の香りが出る」


紬の目から、涙がこぼれた。今日は止めなかった。止める必要がない気がした。頑張ってきた三ヶ月分の涙が、ようやく出てきた気がした。


耕二が「また泣いてる」と言った。


「今日は泣いていいんです」と紬が言った。


耕二が黙った。それから、小さく言った。


「……師匠も、喜んでると思う」


紬は泣きながら笑った。三ヶ月で初めて、本当に笑えた気がした。




昼過ぎ、田中さんたちが来た。蕎麦を出した。


三人が食べた。田中さんが顔を上げた。しばらく、黙っていた。


「……お父さんの蕎麦だ」


紬が固まった。


「お父さんの、ですか」


「そうだ。正蔵さんの蕎麦に、似てる。この香りだよ。正蔵さんの蕎麦はいつも、この香りがした」


隣の男性の目が、赤くなっていた。


「懐かしいな」ともう一人が言った。声が少し震えていた。「ここに来るといつも、この蕎麦が食べられた。また食べられると思ってなかった」


田中さんが紬を見た。


「紬ちゃん、ありがとうな。正庵を続けてくれて。諦めないでいてくれて」


紬は頭を下げた。頭を下げながら、泣いた。




夕方、営業が終わって、耕二が帰る前に言った。


「紬」


「はい」


「一つ、聞いてもいいか」


紬が耕二を見た。耕二が珍しく、少し迷っているような顔をしていた。こういう顔をするのを、初めて見た気がした。


「喧嘩別れの理由、本当のことを話す」


紬が黙った。


「三年前、俺は師匠に『俺の蕎麦は師匠を超えた』と言った。師匠は『まだまだだ』と言った。俺は頭にきて、飛び出した」


「……それだけですか」


「それだけだ。でも」


耕二が厨房の窓の外を見た。別府の夕方が、窓の向こうにあった。


「今日、紬の蕎麦を食べて、わかった。師匠が正しかった。あの時の俺の蕎麦は、師匠には遠く及ばなかった。でも俺は気づかなかった。師匠だけが、わかってた」


紬は耕二を見た。


「謝りたかったんですね、お父さんに」


耕二が黙った。


「会いに行けば良かったのに」


「……行けなかった」


「なんでですか」


「悔しかったから。認めたくなかったから。自分の蕎麦が師匠に及ばないと認めたら、三年間が全部崩れる気がして。そうこうしているうちに、師匠が逝ってしまった」


厨房が静かだった。夕方の光が、斜めに差し込んでいた。


「耕二さん」と紬が言った。「お父さんは、耕二さんのことを心配してたって言いましたよね」


「ああ」


「それは、耕二さんが大切だったからだと思います。謝れなくても、会いに行けなくても、お父さんはわかってたと思います。不器用な子だって言ってたって、お母さんが言ってました。自分に似てるって」


耕二が紬を見た。


「……なんでそう思う」


「弟子は耕二さんだけだったから。三十年で、耕二さんだけに教えたんです。それだけで十分じゃないですか」


耕二が視線を逸らした。目が、また赤かった。


「泣いてますか」


「泣いてない」


「目が」


「赤くない」


紬は笑った。


「耕二さんも、不器用ですね」


耕二が「うるさい」と言った。でも、怒った声じゃなかった。




その夜、紬は一人で厨房に立った。明日のことを考えていた。


看板を変えようと思っていた。正庵から、つむぎ庵に。お母さんには話した。お母さんは「いいんじゃない。お父さんも喜ぶと思う」と言った。でも、耕二にはまだ言っていなかった。明日、言おうと思った。


「お父さん」


紬は言った。


「明日、看板を変えようと思う。正庵から、つむぎ庵に」


少し間を置いた。


「怒る?」


返事はなかった。


「怒らないよね。お父さんの蕎麦を守りながら、私の店にするから。つむぎ庵。糸を紡ぐ、紬だから」


少し間を置いた。


「今日ね、香りが出たよ。耕二さんが、水回しから茹でまで全部が揃った時に出る香りだって言ってくれた。お父さんの蕎麦の香りだって、田中さんが言ってくれた」


窓の外で、温泉の湯気が夜に白く立ち上っていた。


「正庵の蕎麦、守れた気がする」


今度は「気がする」じゃなくて、本当にそう思えた。三ヶ月前、この厨房で座り込んだ夜のことを思った。どうやってやるの、と言った声を思った。あの夜からここまで来た。


「明日から、つむぎ庵の蕎麦を、始めるよ」


その言葉が、厨房に静かに広がった。




(第十一話 了)

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