第十話「もう一度、頭を下げる」
翌朝七時、耕二が来た。
玄関を開けると、エプロンを持った耕二が立っていた。いつもと同じ顔だった。特別なことは何もない、という顔だった。昨夜電話で頼んで、来てもらったのに、そういう顔をする人だった。
「来てくれたんですね」
「言っただろ」
「ありがとうございます」
「うるさい。始めるぞ」
耕二が厨房に入った。紬も後を追った。
耕二が道具を確認した。いつもと同じ手順だった。でも今日は、少し時間をかけていた。こね鉢を両手で持って、しばらくそのままでいた。内側を、指先でなぞった。最初に来た日と、同じ動きだった。
「耕二さん」と紬が言った。
「何だ」
「一人で打ってた間、戻ってしまってすみませんでした」
「謝るな」
「でも」
「お前が一人で打ち続けたことの方が大事だ」
耕二がこね鉢を置いた。
「戻ったのは当たり前だ。一ヶ月で身についたものが、二週間でなくなるわけがない。ただ、一人になって不安になっただけだ。不安が全工程に出ただけだ」
「茹でも、雑になってました」
「知ってる」
「知ってたんですか」
「田中さんから聞いた」
紬は少し驚いた。耕二はずっと気にかけていた。
「お客さんのことを思いながら打ったら、少し違ったと言ったな」
「はい」
「水回しから茹でまで、全部か」
「はい。全部の工程を、田中さんの顔を思い浮かべながらやったら、昨日と手が違った気がして」
「それが正しい。師匠も、そう言ってたか」
「お母さんから聞きました」
耕二が少し黙った。
「……師匠らしい言葉だ」
静かな声だった。懐かしむような、でも少し痛みのある声だった。
「今日は俺が教えるんじゃない」
耕二が腕を組んだ。
「お前が打て。俺は見てるだけだ」
紬が驚いた。
「一人で、ですか」
「そうだ。昨日と同じように、お客さんのことを思いながら打て。俺がいてもいなくても、同じように打てるようにならないといけない」
「耕二さんは何もしてくれないんですか」
「見てる」
「それだけですか」
「それだけだ。ただ、見てる」
紬は蕎麦粉の袋を持った。目を閉じた。
田中さんの顔を思い浮かべた。毎週来てくれるおじちゃんたち。「近づいてきた」と言ってくれた人たち。その人たちに、今日こそ美味しいと言ってもらいたい。
目を開けた。
粉を手に取って、指先でこすった。今日の粉の状態を確かめた。少し乾いている。水は昨日より少し多めにする。
水回しをした。一回目の水を細く垂らして、指先で素早く均した。粉全体に、丁寧に。二回目、三回目。均一になるまで、焦らずに。
こねた。体重を乗せて、前に押し出すように。生地がつやつやするまで。耳たぶの柔らかさになるまで。
布巾で包んで、休ませた。
十五分後、伸ばした。麺棒を転がした。押すんじゃなくて、転がす。端まで、均一に。生地が縮まなかった。素直に広がった。
切った。音を聞いた。
トントントン。トントントン。
リズムが揃っていた。今日は最初から揃っていた。昨日の感覚が、手に残っていた。一人でやっていた二週間も、無駄じゃなかったのかもしれないと思った。
茹でた。湯が完全に沸騰するまで待った。蕎麦を入れた。丁寧に、ほぐしながら。茹で上がったら、すぐに大量の冷水に取った。急冷した。田中さんの顔を思い浮かべながら。
耕二が黙って見ていた。何も言わなかった。
器に盛った。湯気が立ち上った。
耕二の前に置いた。
「食べてみてください」
耕二が箸を取った。
一口食べた。止まった。もう一口食べた。また止まった。器を見た。また食べた。
長い沈黙だった。
紬は待った。急かさなかった。ただ、待った。心臓の音が、自分で聞こえるくらい速かった。
「……親父さんの蕎麦じゃない」
紬が俯いた。やっぱりか、と思った。
「でも」
耕二が続けた。
「紬の蕎麦だ」
紬が顔を上げた。
耕二はまだ器を見ていた。こちらを向かなかった。
「紬の蕎麦、ですか」
「そうだ。親父さんの蕎麦を目指して、でもお前が打った蕎麦だ。それでいい。それじゃないといけない」
紬の目から、涙がこぼれた。
耕二が「また泣くのか」と言った。
「泣いてません」
「泣いてる」
「……泣いてます」
耕二がため息をついた。でも、立ち上がろうとしなかった。紬が泣き止むまで、そこにいた。
その日の午後、田中さんたちが来た。紬が蕎麦を出した。
三人が食べた。
田中さんが顔を上げた。隣の二人も顔を上げた。三人が顔を見合わせた。
「……旨いな」
田中さんが言った。
紬が固まった。
「頑張ってるな、じゃないんですか」
「今日は違う。旨い」
隣の男性も頷いた。「旨いな」
もう一人も言った。「旨いな」
三人が同じ言葉を言った。でも今日は、頑張ってるな、近づいてきた、とは全然違う言葉だった。旨い。それだけの、それ以上の、言葉だった。
耕二が厨房の入り口に立っていた。腕を組んで、壁に寄りかかっていた。
田中さんが耕二を見た。
「耕二くん、ありがとうな。来てくれて」
「俺は何もしてない」と耕二が言った。「紬が打った蕎麦だ」
田中さんが笑った。
「そうか。じゃあ紬ちゃん、ありがとうな。正庵を続けてくれて」
紬はまた泣きそうになった。こらえた。こらえきれなかった。
「また泣いてる」と耕二が言った。
「泣いてません」
「泣いてる」
「……泣いてます」
田中さんたちが笑った。耕二が小さくため息をついた。でも、その口の端が、少しだけ動いていた。
紬には見えていた。
その夜、ひかりに電話した。
「田中さんが、旨いって言ってくれた」
「やったあ! ついに!」
「頑張ってるな、から、近づいてきた、から、旨いになった」
「三段階クリアじゃない! すごい、紬!」
「うん」
紬は笑った。泣きながら笑った。今日だけで何回泣いたんだろう、と思いながら。
「耕二さんが、紬の蕎麦だって言ってくれた」
「どういう意味?」
「お父さんの蕎麦じゃないけど、私が打った蕎麦だって。それでいいって。それじゃないといけないって」
「……いい人じゃない、耕二さん。本当に」
「そうだね」
少し間を置いた。
「ひかり、来る?」
「行く行く。いつ?」
「いつでも」
「じゃあ来週」
「早い」
「いいじゃない。旨い蕎麦、食べたいし。あと耕二さんにも会いたいし」
「何しに来るの」
「紬に会いに来るんだよ。耕二さんはついでだよ」
「顔の順番が毎回逆だよ」
電話を切って、紬は厨房に入った。
道具を丁寧に拭いた。蕎麦打ち台を拭いた。麺棒を拭いた。こね鉢を拭いた。包丁を拭いた。お父さんが毎日拭いていた道具を、一つずつ丁寧に。
「お父さん」
紬は言った。
「今日、田中さんが旨いって言ってくれたよ。耕二さんも、紬の蕎麦だって言ってくれた」
少し間を置いた。
「水回しから茹でまで、全部お客さんのことを思いながらやった。お父さんが毎日そうやってたって、お母さんに聞いたから。そしたら手が変わった。全部の工程が、少しだけ揃った気がした」
窓の外で、温泉の湯気が夜空に白く上っていた。別府の夜が、いつもより少し温かく見えた。
「正庵の蕎麦、もう少しだから」
(第十話 了)




