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つむぎのそば〜正庵からつむぎ庵へ〜  作者: 八雲 海


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最終話「つむぎ庵」

朝、紬は早く目が覚めた。


まだ暗かった。窓の外に、別府の街灯りが見えた。温泉の湯気が、夜明け前の空に白く立ち上っていた。


今日、看板を変える。


そのことを思ったら、眠れなくなっていた。布団の中で何度も寝返りを打った。頭の中が静かにならなかった。嬉しいのか、怖いのか、よくわからなかった。たぶん、両方だった。


六時に厨房に立った。


いつもより一時間早かった。


蕎麦粉の袋を棚から下ろした。道具を確認した。こね鉢を手に取って、重さを確かめた。麺棒を持って、手の中で転がした。最初に耕二が来た日、耕二がこの道具たちを一つずつ確認した。あの日と同じように、今日は紬がやった。


蕎麦打ち台を、丁寧に拭いた。お父さんが毎日拭いていた台を。木の感触が、手のひらに伝わってきた。三十年分の手垢が染み込んでいる台だった。この台に立ち続けた人間の時間が、木の中にある気がした。


「お父さん」


紬は言った。


「今日、看板を変えるよ」


返事はない。でも、厨房が静かに聞いている気がした。道具たちが、聞いている気がした。


「怒ってないよね。お父さんの蕎麦を守りながら、私の店にするから。つむぎ庵、って名前にする。糸を紡ぐ、って意味だよ。お父さんが紡いできたものを、私が受け継いで、また紡いでいく。そういう意味を込めて」


しばらく黙っていた。


「お父さん、ありがとう。約束、守れたかな」


返事はなかった。でも、蕎麦粉の袋が、棚の上から静かに紬を見ていた。見守ってくれているみたいだった。




七時、耕二が来た。


玄関を開けると、耕二がいつものようにエプロンを持って立っていた。三ヶ月間、毎朝この顔を見てきた。今日も同じ顔だった。でも今日は、その手に小さな紙袋も持っていた。


「それ、何ですか」と紬が訊いた。


「後で渡す」


「今じゃないんですか」


「うるさい。始めるぞ」


厨房に入った。いつもと同じように。


紬が蕎麦を打った。耕二が横で見ていた。


今日は、言葉がなかった。「なぜだと思う」もなかった。「感覚だ」もなかった。ただ、静かに見ていた。


紬は粉を手に取った。指先でこすった。今日の粉の状態が、すぐにわかった。三ヶ月前、何もわからなかった指先が、今日は粉と話していた。


水回しをした。一回目から丁寧に。粉全体に、均一に。二回目、三回目。


こねた。体重を乗せて、生地の声を聞きながら。つやつやするまで。


休ませた。伸ばした。麺棒を転がした。生地が素直に広がった。


切った。


トントントン。トントントン。


音が揃っていた。今日も揃っていた。昨日も揃っていた。もう、揃うことが当たり前になってきていた。


茹でた。湯が完全に沸騰してから。急冷した。しっかりと。


香りが出た。昨日と同じ香りが、今日も出た。一度出た香りが、また出た。これが紬の蕎麦の香りになってきている。そう思った。


二人で食べた。黙って食べた。でも、静かで、温かい時間だった。三ヶ月間、何度もこういう時間があった。


「耕二さん」と紬が言った。


「何だ」


「今日、看板を変えようと思います」


耕二が箸を置いた。


「つむぎ庵、にしようと思って」


耕二が紬を見た。


「お父さんの正庵から、私の店にしたくて。でも、お父さんの蕎麦を守りながら。お父さんが紡いできたものを、私が続けていくから」


耕二が黙っていた。しばらく、器を見ていた。


「……いい名前だ」


耕二が静かに言った。


「本当ですか」


「ああ。師匠も、喜ぶと思う」


紬の目が潤んだ。


「泣くな」


「泣いてません」


「目が」


「泣いてません」


耕二がため息をついた。でも、口の端が動いていた。




昼前、母が来た。


「今日、看板変えるんでしょ。手伝いに来たよ」


母が笑った。エプロンを持ってきていた。割烹着じゃなくて、お気に入りのエプロンだった。特別な日のエプロンだった。


「お母さん、来てくれたの」


「当たり前じゃない。大事な日だもの」


田中さんたちも来た。「聞いたよ、看板変えるって。見届けに来た」


近所の人たちも、何人か集まってきた。どこから聞いたのか。別府の街は、狭くて温かかった。湯気みたいに、話が広がっていく。




耕二が看板を外した。


長い間、そこにあった「正庵」の看板を。


木の古い看板だった。お父さんが三十年前に作ったものだと、母が言っていた。雨に濡れて、日に焼けて、少し色が薄くなっていた。でも、文字はちゃんと読めた。


母がその看板を受け取った。両手で、大切に持った。


「お父さんの看板、もらっとくね」


声が少し震えていた。


紬が頷いた。


新しい看板を、耕二が取り付けた。


「つむぎ庵」


筆で書いた文字だった。誰が書いたのかと思ったら、耕二が「田中さんに頼んだ」と言った。田中さんが照れた顔をした。「俺、昔少しだけ書道やってたんだよ」と言った。


新しい看板が、朝の光を受けた。「つむぎ庵」という文字が、光の中に浮かんだ。


紬はその看板を見た。


正庵じゃない。つむぎ庵だ。でも、正庵から続いている。お父さんから続いている。この看板が、正庵の次の話を始める。


涙が出た。止めなかった。


母が隣に来て、紬の肩に手を置いた。


「よかったね」と母が言った。


それだけだった。でも、それだけで十分だった。




昼、つむぎ庵として最初の営業が始まった。


常連の田中さんたちが来た。新しい顔も来た。席が埋まった。こんなに席が埋まったのは、初めてだった。


紬が厨房に立った。耕二が横にいた。今日だけ、手伝ってやる、と耕二が言っていた。


「耕二さん、今日だけですか」


「そうだ」


「明日からは一人ですか」


「そうだ」


「心細いです」


「打ち続けろ。水回しから茹でまで、全部丁寧に。それだけだ」


「……はい」


紬が蕎麦を打った。お客さんの顔を思い浮かべながら。田中さんの顔。常連のおじちゃんたちの顔。今日初めて来てくれた人たちの顔。この人たちに、美味しいと言ってほしい。


粉を触った。指先が、今日の粉の状態をすぐに読んだ。


水回しをした。丁寧に、均一に。こねた。生地の声を聞きながら。休ませた。伸ばした。麺棒を転がした。切った。トントントン。音が揃った。茹でた。完全に沸騰してから。急冷した。しっかりと。


香りが出た。


次々と蕎麦が出ていった。田中さんが食べて、「旨い」と言った。新しい客が食べて、「美味しいですね」と言った。その言葉が、厨房まで聞こえてきた。


紬は手を止めずに、笑った。耕二が横で蕎麦を茹でていた。何も言わなかった。でも、いつもより少し、動きが丁寧だった気がした。




夕方、営業が終わった。最後のお客さんが帰って、ドアが閉まった。


静かになった店の中を、二人で片付けた。テーブルを拭いて、食器を洗って、厨房を整えた。三ヶ月間、毎日やってきたことを、今日も同じようにやった。


全部片付いた後、耕二が紙袋を出した。


「これ」


中を開けると、小さな木の札が入っていた。「蕎麦打ち 竹内」と書いてあった。


「耕二さん、これは」


「師匠の名前を残したくて。厨房に飾っておけ」


紬は木の札を両手で持った。竹内。お父さんの苗字。お父さんの名前。


「ありがとうございます」


「俺は何もしてない」


「してます。たくさん、してくれました」


耕二が黙った。


「耕二さん」


「何だ」


「また来てくれますか。つむぎ庵に」


耕二が少し間を置いた。窓の外を見た。別府の夜が、灯りに照らされていた。


「……客として来てやる」


紬が笑った。


「お待ちしてます」


耕二が出ていった。ドアが閉まった。


紬は厨房に一人残った。木の札を、お父さんの道具の隣に置いた。こね鉢と麺棒と蕎麦打ち台の横に、「竹内」という文字が加わった。お父さんの道具と、お父さんの名前が、一緒に並んでいた。




その夜、ひかりから電話が来た。


「つむぎ庵、始まったね」


「始まったよ」


「どうだった、最初の営業」


「田中さんが旨いって言ってくれた。新しいお客さんも来てくれた。席が全部埋まった」


「やったじゃない! 全部!」


「うん」


「耕二さんは?」


「一緒に働いてくれた。今日だけだけど。耕二さんが、お父さんの名前を入れた木の札を作ってきてくれた」


「え、泣ける」


ひかりが本当に泣きそうな声を出した。


「でしょ。あたしも泣いた」


「耕二さん、本当にいい人だね」


「いい人だよ」


「紬、好きなんじゃないの」


「お蕎麦の先生だよ」


「そういうとこから始まるんだよ」


「切るよ」


紬は電話を切った。




厨房に立った。


「竹内」と書かれた木の札を見た。それから、蕎麦打ち台を見た。麺棒を見た。こね鉢を見た。


「お父さん」


紬は言った。


「つむぎ庵、始まったよ」


少し間を置いた。


「正庵の蕎麦、守れたよ。約束、守れたよ」


窓の外で、温泉の湯気が夜空に白く立ち上っていた。別府の夜が、いつもより少し温かかった。


糸を紡ぐ。お父さんが紡いできたものを、紬が続けていく。


つむぎ庵の蕎麦は、今日から始まった。




(第十二話 了)




つむぎのそば 〜正庵からつむぎ庵へ〜


著者:八雲海

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