第45話『槍へ一歩近づく日、右手は膝へ戻る』
クラウディア・エルンストが二度目に槍を見る日は、前回よりも慎重に準備された。
王立治癒院の中立診療室。
白い壁。
淡い緑色の魔法陣。
窓辺の薄い光。
そして、部屋の端に置かれた一本の槍。
前回と同じように、槍の柄には白い布が巻かれている。
ただし、今回は置かれている場所が少しだけ違った。
ほんの一歩分。
前より、クラウディアに近い。
手を伸ばして届く距離ではない。
立ち上がって二歩、いや、三歩ほど進まなければ届かない距離。
けれど、前回よりは確かに近い。
その一歩分の距離が、今日の課題だった。
白銀聖騎士団の支援室で、その配置案を見たミラは、最初に渋い顔をした。
「近づけるの、早くない?」
エルザが図面を机に広げる。
「前回、接触欲求は最大八まで上昇しましたが、白い布への視点誘導により七へ低下。本人の意思で終了できています。二度目としては、一歩分のみ近づける案は妥当範囲です」
「妥当範囲って言われると正しそうに聞こえるけど、槍って近いだけで来るのよ」
「分かっています」
エルザは真顔で答えた。
「そのため、今回の終了条件は前回より厳しくします。接触欲求八で終了。立ち上がり動作の予兆があれば終了。右手がハンカチから離れて槍方向へ動いた場合も終了」
「うん、それなら……」
ミラは腕を組んだまま、まだ納得しきれない顔をしていた。
リーネが静かに言う。
「今回の目標は、槍に近づくことではありません。槍が前より近くにあっても、右手を自分で戻せるかを見ることです」
「右手を戻す?」
レオンが聞くと、リーネは頷いた。
「前回、クラウディア様はハンカチに右手を添えていました。今回は、もし右手が槍を探すように動いたら、その手を自分で膝へ戻す。そこまでできれば、大きな前進です」
セリアが短く言った。
「槍へ一歩近づく日ではなく、手を膝へ戻す日だな」
「そうです」
エルザが即座に予定板へ書き込む。
『クラウディア:二度目の槍視認/槍位置一歩近く/右手を膝へ戻す練習』
ミラがそれを見て、少しだけ息を吐いた。
「……なら、行けるかも」
「お前は立ち会う」
セリアが言う。
「当然です」
「声量は」
「抑えます」
「本当に?」
「本当に。クラウディアの時は、私もちゃんとします」
「いつもちゃんとしろ」
「それは難しいです」
「認めるな」
少しだけ笑いが起きた。
レオンは予定板の文字を見ていた。
槍が一歩近づく。
右手を膝へ戻す。
たったそれだけ。
だが、クラウディアにとっては、槍を持つ日へ続く大切な途中の一段だ。
焦ってはいけない。
前に進める時ほど、止まる場所を用意する。
それが支援室のやり方になっていた。
◇
診療室に入ったクラウディアは、すぐに槍の位置が変わっていることに気づいた。
足が止まる。
視線が、槍へ向かう。
前回より近い。
それだけで、彼女の右手の指先がわずかに震えた。
今日は、膝の上に白いハンカチを置いている。
前回と同じハンカチ。
だが、今日は右手を最初からその上に置いていなかった。
右手は膝の横。
包帯の薄くなった指先が、わずかに動いている。
クラウディアは槍を見つめたまま言った。
「……近いですね」
セリアが答える。
「前回より一歩分だけ近い。嫌なら、前回の位置に戻す」
「いいえ」
クラウディアは首を横に振った。
「この距離で、見たいです」
「触れない」
「はい」
「握らない」
「はい」
「立ち上がらない」
その言葉に、クラウディアは少しだけ目を伏せた。
「……はい。立ち上がりません」
ミラがその微妙な間を拾った。
「今、立ち上がりたいって思った?」
クラウディアは驚いたようにミラを見る。
それから、苦笑に近い表情を浮かべた。
「思いました」
「数字」
「六です。まだ、座っていられます」
「じゃあ座る」
「はい」
クラウディアは出口に近い椅子へ腰を下ろした。
槍は前回より近い。
けれど、まだ届かない。
白い布が巻かれた柄が、視界の端ではなく、はっきりと見える。
バルナードは後ろで静かに控えていた。
彼も今日は何も言わない。
それが一番の支援だと、もう分かっているのだろう。
レオンは斜め前に座った。
今日は治療ではない。
魔力は流さない。
それでも、ここにいる。
クラウディアが自分で終われるように。
自分で手を戻せるように。
「クラウディア様」
レオンは静かに言った。
「今日の目標を、確認してもいいですか」
クラウディアは槍を見たまま答えた。
「槍を見ることです」
少し間が空く。
それから、自分で訂正した。
「……違いますね。槍を見て、触れずに終わることです」
ミラが小さく頷いた。
「もう一つ」
クラウディアは白いハンカチを見る。
「右手が槍へ向かいそうになったら、膝へ戻すこと」
「うん」
ミラの声は短かった。
「それでいい」
エルザが記録する。
「本人、目標を訂正。槍視認そのものではなく、非接触終了および右手自己制御を目標化」
クラウディアは少しだけ笑った。
「記録されると、難しいことをしている気分になります」
「難しいことをしています」
エルザは真顔で答えた。
「そうですね」
クラウディアはまた槍を見た。
◇
最初の一分は、静かだった。
クラウディアは槍を見ている。
視線は柄に向かいそうになるが、そのたびに白い布へ戻している。
前回、ミラが言った「約束の布」。
その言葉が、彼女の中に残っているのだろう。
右手はまだ膝の横にある。
ハンカチには触れていない。
リーネが穏やかに確認する。
「触りたい気持ちは?」
「七です」
「前回より上がり方が早いですね」
「近いからだと思います」
クラウディアは正直に言った。
「でも、白い布を見ると少し落ち着きます」
ミラが言う。
「柄じゃなくて布」
「はい。柄ではなく、布」
「約束を見る」
「はい」
二分。
クラウディアの右手が、わずかに動いた。
机の上のハンカチではなく、槍の方向へ。
ほんの少し。
だが、ミラは即座に反応した。
「右手」
クラウディアが息を呑む。
自分でも気づいていなかったのだろう。
右手が止まる。
指先が宙で震える。
レオンは思わず手を伸ばしかけたが、止めた。
今、助けすぎてはいけない。
これは、クラウディアが自分で戻す練習だ。
リーネも動かない。
セリアも静かに見守っている。
「クラウディア」
ミラの声は低く、でも優しかった。
「どこへ行こうとした?」
クラウディアは右手を見た。
「槍へ」
「触りたい?」
「触りたいです」
「数字」
「八です」
終了条件。
空気が張り詰める。
だが、クラウディアはそのまま続けた。
「でも、戻します」
彼女は震える右手を、ゆっくり膝へ戻した。
ハンカチの上ではない。
膝の上。
自分の身体の上。
槍へ伸びかけた手を、槍ではなく自分のところへ戻した。
その動きは、ほんの数寸だった。
しかし、全員がその意味を分かっていた。
ミラが息を吐く。
「戻せた」
クラウディアの目に涙が浮かぶ。
「……戻せました」
エルザが記録する手を止めずに言った。
「接触欲求八。右手槍方向移動あり。本人、自己判断により膝へ戻す。成功」
クラウディアは小さく笑った。
「成功、ですか」
「はい」
エルザは即答した。
「非常に重要な成功です」
バルナードが後ろで口元を押さえていた。
今にも何か言いたそうだったが、こらえている。
それでいい。
今は、クラウディアの時間だ。
◇
ここで終わるべきかどうか。
全員が同じことを考えた。
接触欲求は八まで上がった。
右手も動いた。
ただし、本人が膝へ戻せた。
続けるのは危険だ。
だが、ここで終われれば、今日の目標は達成される。
レオンはクラウディアに尋ねた。
「今日は、ここまでにしますか」
クラウディアは槍を見た。
白い布。
柄。
穂先。
そのすべてを目に焼きつけるように。
「……終わりたくありません」
正直な声だった。
ミラがすぐ頷く。
「うん」
「もう少し見たいです」
「うん」
「右手を戻せたから、もう少し大丈夫な気もします」
「それ、危ないやつね」
ミラの声はきっぱりしていた。
クラウディアは少しだけ目を伏せる。
「……はい。自分でも、少しそう思います」
「じゃあ、どうする?」
ミラは答えを押しつけない。
クラウディアは右手を膝に置いたまま、ゆっくり息を吸った。
「今日は、ここまでです」
前回より早い終了。
だが、今日の方が難しかった。
槍は近かった。
右手は動いた。
それでも戻せた。
そして、終われた。
レオンは頷いた。
「はい。今日はここまでです」
クラウディアの涙がこぼれた。
「悔しいです」
「うん」
ミラが答える。
「まだ見たかったです」
「うん」
「でも、このまま見ていたら、また右手が動くと思います」
「うん」
「だから、終わります」
「勝ち」
ミラは短く言った。
「それは勝ち」
クラウディアは涙を拭いながら、少し笑った。
「ミラさんは、勝ちの決め方が優しいですね」
「それ、アリアにも言われた」
「では、アリア様と同じことを思ったのですね」
「何か照れるからやめて」
診療室に小さな笑いが起きた。
クラウディアはゆっくり立ち上がった。
今回は、槍を振り返らなかった。
扉へ向かう。
一歩。
二歩。
槍へではなく、出口へ。
そして扉の前で、静かに言った。
「次も、約束の布を見ます」
その声は震えていたが、前より強かった。
◇
白銀聖騎士団へ戻る馬車の中で、レオンは今日の場面を思い返していた。
右手が槍へ動く。
ミラが気づく。
クラウディアが自分で膝へ戻す。
それだけ。
だが、それだけが大きい。
「ミラ」
レオンが声をかけると、ミラは窓の外を見たまま答えた。
「何?」
「今日、すごかった」
「クラウディアがね」
「ミラも」
ミラは一瞬、肩を揺らした。
「……今日は素直に受け取る」
「うん」
「正直、怖かった。右手が動いた瞬間、止めに行きそうになった」
「俺も」
「でも、クラウディアが戻した」
「うん」
「戻せたの、すごい」
ミラは鼻をすすった。
「泣いてない」
「まだ聞いてない」
「先に言ったの」
リーネが微笑む。
「今日のミラさんも、よく待てましたね」
「私も待つ練習ですか?」
「はい」
ミラは少し考えてから、頷いた。
「……白銀式、意外とみんなに効くんですね」
「そうですね」
セリアが短く言った。
「効くから続ける」
「団長らしい」
◇
支援室に戻ると、エルザはすぐに予定板へ書き込んだ。
『クラウディア:二度目の槍視認/右手槍方向移動あり/本人が膝へ戻す/早期終了成功』
その横に、セリアが追記する。
『槍へ伸びた手を、自分へ戻せた日』
レオンはその文字を見つめた。
「今日も、いい追記だ」
「必要なことだ」
「うん」
その時、神殿治癒院からノエルの報告が届いた。
『本日は聖歌集を開かない日。クラウディアが右手を戻せたと聞き、ノエル本人が「じゃあ私は、声を出したい気持ちを布に戻す」と発言』
ミラが目を丸くする。
「声を出したい気持ちを布に戻す……」
リーネが静かに微笑んだ。
「ノエル様なりに受け取ったのですね」
続いて近衛からも報告が届く。
『アリア、本日は封印剣装着訓練なし。クラウディアの報告を聞き、「私は柄に伸びる手を膝へ戻す練習をします」と発言。腰帯勤務は安定』
レオンは予定板を見る。
三人の欄が、また少し繋がった。
クラウディアの右手。
ノエルの声。
アリアの柄へ伸びる手。
それぞれが、自分のところへ戻している。
「今日の共通項は……」
エルザが考える。
ミラが言った。
「戻す日」
エルザは頷いた。
「採用します」
予定板の端に、新しい小さな紙が貼られた。
『今日の共通項:戻す日』
◇
夜、クラウディアは自室で右手を見つめていた。
槍へ伸びかけた手。
自分で膝へ戻した手。
まだ震えている。
でも、怖い震えだけではなかった。
戻せた。
その事実が、指先に残っている。
槍を握る日は、まだ遠い。
けれど、槍へ伸びる手を戻せるなら、いつか本当に握る日にも、自分で力を調整できるかもしれない。
クラウディアはハンカチを膝に置き、右手をそっと重ねた。
「今日は、戻せました」
誰に聞かせるでもなく、そう言った。
◇
白銀聖騎士団詰所の夜。
レオンは報告書を読んでいた。
クラウディアの二度目の槍視認。
右手が槍へ動いた。
本人が膝へ戻した。
早期終了。
触れず、握らず、立ち上がらず。
ノエルは声を出したい気持ちを布へ戻すと言った。
アリアは柄へ伸びる手を膝へ戻す練習をすると言った。
最後に、セリアの追記。
『戻せる手は、いつか正しく伸ばせる』
レオンは、その一文を見てしばらく黙った。
壁の向こうから声がする。
「まだ起きているのか」
「起きてる」
「寝ろ」
「今日の追記、すごくいい」
「またか」
「戻せる手は、いつか正しく伸ばせる」
「ああ」
「クラウディア様、本当にそうだといいな」
「そうするために支援する」
「うん」
少し沈黙。
レオンは自分の手を見た。
「俺の手も、戻せるかな」
「何をだ」
「助けたいって思って、伸びすぎそうになる手」
壁の向こうで、セリアが少し黙った。
やがて、静かな声が届く。
「戻せる」
「本当に?」
「今日、お前は戻した。クラウディア令嬢の右手に触れず、待った」
「……そうか」
「ああ。お前も進んでいる」
その言葉で、レオンの胸が少し軽くなった。
「ありがとう」
「受け取っておけ」
「うん。受け取る」
「なら寝ろ」
「はい」
「はいは一回でいい」
「今日は一回」
「よし」
レオンは小さく笑い、灯りを落とした。
クラウディアは槍へ伸びかけた右手を、自分の膝へ戻した。
それは、槍を握るよりも地味な動作だった。
けれど、未来のためにはきっと必要な動作だった。
戻せる手は、いつか正しく伸ばせる。
支援室は今日も、その小さな確信を記録した。




