第44話『五分の重さと、抜かないという約束』
アリア・グランフィールが封印布付きの剣を再び腰に戻すことになったのは、ノエルが三行目を見て、自分で白い札を倒した翌日のことだった。
白銀聖騎士団の支援室には、朝から三つの報告が並んでいた。
一つ目は、神殿治癒院から。
『ノエル、本日は聖歌集を開かず、白い布を握って過ごす予定。本人発言、「三行目を見た次の日は、見ない日でいい気がする」』
二つ目は、エルンスト公爵家から。
『クラウディア、本日は槍を見ない日。右手で詩集の頁を二枚めくることに成功。ただし、二枚目で少し震えあり。本人発言、「次に槍を見る時は、約束の布をもう一度見ます」』
三つ目は、近衛騎士団から。
『アリア、本日午後、封印剣腰装着訓練の再実施を希望。本人発言、「前回は三分四十秒で終わりました。今回は、五分まで持てるか試したいです。ただし、抜きません」』
エルザが読み上げ終わると、ミラが腕を組んだ。
「来ると思った」
レオンが予定板を見る。
アリアの欄には、前回の記録が残っている。
『封印剣腰装着三分四十秒成功/本人判断で終了/抜剣なし』
そこから五分へ。
たった一分二十秒ほどの差。
だが、レオンにも分かる。
その一分二十秒は、とても長い。
「五分まで持てるか、か」
レオンが呟くと、リーネが静かに頷いた。
「前回は柄に触りたい気持ちが強まったため、自分から終了を選べました。今回は、その気持ちが出た時に、五分まで待つのか、やはり自分で終わるのか。その見極めが大切ですね」
エルザが記録板に項目を書き出す。
「本日の訓練案。封印剣腰装着。目標最大五分。ただし、抜剣欲求六以上、柄接触欲求六以上、王宮廊下復帰欲求七以上、または本人の中止申告で即時終了」
「前回、柄に触りたい気持ちが六に近い五で終わったのよね」
ミラが言う。
「はい」
エルザが頷く。
「今回は、五分到達を目標にしすぎると危険です」
セリアは机の前で腕を組んだ。
「目標は五分ではない」
「じゃあ?」
レオンが聞く。
「五分を目安にしつつ、自分で終わりを選べることだ」
ミラが頷いた。
「ノエルの昨日のやつですね。決めた通りに終わる」
「そうだ」
セリアは予定板を見る。
「ノエル殿が三行目を見て終わった。クラウディア令嬢が槍を見て触れずに終わった。アリア殿も、剣を腰に戻して、抜かずに終わる。三人とも、今は終わり方を覚えている」
「終わり方の練習か」
レオンは静かに言った。
「そうだな。たしかに、それが一番難しい」
ミラがちらりとレオンを見る。
「レオンもね」
「俺?」
「だって、治療中にもう少しいけるって思うでしょ」
「……思う時はある」
「ほら」
ミラは得意げに言った。
セリアが短く続ける。
「だから今日も、お前は行かない」
「俺は?」
「アリア殿は、まだ治療の温度を思い出す可能性がある。封印剣装着訓練にお前が立ち会う必要はない」
「分かった」
少し寂しい。
けれど、それも支援だ。
会わないこと。
距離を置くこと。
温度を思い出させないこと。
レオンはそれを、だいぶ受け入れられるようになっていた。
「じゃあ、俺は何を?」
「支援室で待つ」
セリアは即答した。
「また待つ練習か」
「そうだ」
「俺も段階訓練中だな」
「その自覚があるならよい」
ミラが笑った。
「レオンも予定板に書く? 『待機訓練中』って」
「やめてくれ」
エルザが無言で別紙を用意した。
「エルザ?」
「冗談です」
「本当に?」
「半分」
「半分は本気なのか」
支援室に少しだけ笑いが起きた。
だが、すぐにセリアが文書をまとめる。
「午後、ミラ、リーネ、エルザが立ち会う。近衛側はガレス卿と医務担当。条件は白銀側から送る。五分到達を目的化するな。本人の申告を最優先」
「はい」
ミラはいつになく真剣に返事をした。
◇
午後の東翼静養室。
アリアは椅子に座って、机の上の封印剣を見ていた。
今日も剣は白い布で封じられている。
抜けない。
抜いてはいけない。
だが、そこにある。
アリアにとって、それだけで胸の奥が揺れる。
「痛みは?」
リーネが尋ねる。
「二・五です」
「剣を腰に戻したい気持ちは?」
「七」
「抜きたい気持ちは?」
「三」
「柄に触りたい気持ちは?」
アリアは少しだけ息を吸った。
「五です。まだ腰に戻していないのに、五」
ミラが真剣な顔になる。
「高いね」
「はい」
「じゃあ、今日は五分にこだわらない方がいい」
アリアはミラを見る。
「あなたがそれを言いますの?」
「言うわよ。五分いけたかどうかより、抜かずに外せたかどうかの方が大事だから」
アリアは少しだけ微笑んだ。
「ずいぶん白銀式になりましたわね」
「アリアもでしょ」
「否定できませんわ」
ガレス副長が腕を組んで見守っている。
彼も最近、こういう確認に慣れ始めていた。
ただ命じるのではなく、数値を聞く。
痛み、欲求、怖さ。
近衛らしくない確認。
だが、必要な確認。
エルザが記録板を構える。
「本日の確認。最大五分。ただし、本人判断での早期終了可。終了理由を言語化すること」
「終了理由まで?」
アリアが苦笑する。
「はい。理由を言えた方が、次回以降の判断に役立ちます」
「本当に容赦ありませんわね、記録の人」
「安全のためです」
「その言葉も聞き慣れましたわ」
アリアは剣へ手を伸ばした。
まず、両手で持ち上げる。
重い。
懐かしい。
前回より、少しだけ落ち着いて受け止められる。
それでも、胸の奥が熱くなる。
「今、抱きしめたい気持ちは?」
ミラが聞いた。
「三です」
「前回より低い」
「はい。今日は、抱きしめるより腰に戻したいです」
「それ、正直でよし」
アリアは剣を腰帯へ通した。
金具が鳴る。
カチリ。
その音が、前回と同じように胸へ響く。
だが、今回は涙は出なかった。
代わりに、長い息が出た。
「……戻りましたわ」
「痛みは?」
リーネがすぐ聞く。
「二・五。変化なし」
「抜きたい気持ちは?」
「四」
「柄に触りたい気持ちは?」
「六」
ミラが眉を動かす。
「もう六?」
「はい。腰に戻ると、柄の位置が分かります。手が覚えていますわ」
エルザが記録する。
「腰装着直後、柄接触欲求六。中止条件到達」
部屋が少し静かになった。
中止条件。
つまり、本来ならここで終わりにできる。
リーネが穏やかに言った。
「ここで終えても大丈夫です」
アリアは目を閉じた。
「……終えたくありません」
「はい」
「まだ始まったばかりです。五分どころか、一分も経っていない」
ミラが口を開く。
「でも、柄に触りたい気持ちは六」
「はい」
「じゃあ、今日はどうする?」
アリアは、ミラを見る。
その問いは、命令ではなかった。
終われとも、続けろとも言っていない。
自分で決めろと言っている。
アリアは腰の剣の重さを感じた。
柄に触りたい。
この手に、形を確かめたい。
でも、今日は抜かない。
そして、柄に触れれば、次はもっと欲しくなる。
「……一度、手を膝に置きます」
アリアは自分で言った。
右手も左手も、膝の上へ置く。
柄へ伸ばさない。
ミラが頷いた。
「いい。手を膝に置けたなら、少し続けられる」
リーネが時間を告げる。
「四十五秒」
まだ一分も経っていない。
けれど、アリアにとってはもう長かった。
◇
一分。
二分。
アリアは座ったまま、剣の重さに耐えた。
耐える、という表現は変かもしれない。
剣は痛みではない。
むしろ安心をくれるものだ。
だが、安心が強すぎると、人はそこへもたれかかりたくなる。
今のアリアにとって、剣は甘い毒に近かった。
戻ってきた自分。
戻りたい場所。
戻れるかもしれない希望。
その全部が、腰の重さになっている。
「今、欲求は?」
エルザが聞く。
「抜きたい気持ち四。柄に触りたい気持ちは……六のまま。王宮廊下へ戻りたい気持ち六」
「上がっていませんね」
リーネが言う。
「手を膝に置いたのが効いているのかもしれません」
ミラが腕を組む。
「アリア、今、何考えてる?」
アリアは目を閉じたまま答えた。
「廊下です」
「王宮の?」
「はい。白い廊下。朝の交代。扉の前の立ち位置。剣が腰にあると、そこへ行ける気がしてしまいます」
「でも、今日は行かない」
「行きません」
「言えた」
「はい」
「じゃあ、まだ大丈夫」
三分。
前回、終わりへ向かい始めた時間に近い。
アリアの呼吸が少し浅くなる。
ミラがすぐ気づいた。
「呼吸」
「はい」
アリアはゆっくり息を吸う。
剣の重さが、呼吸と一緒に少し落ち着く。
「柄に触りたい気持ちは?」
「六……いえ、六に近い五」
ミラが目を細めた。
「下がった?」
「少し。手を膝に置いているから」
「よし」
リーネが時計を見る。
「三分四十秒。前回終了時刻を越えました」
その瞬間、アリアの表情が揺れた。
越えた。
前回、自分で外した時間を。
それは嬉しい。
しかし同時に、次の欲が出る。
なら五分まで行ける。
ならもう少し。
なら次は柄に触れるかもしれない。
欲が階段を作り始める。
「アリア」
ミラが呼んだ。
「今、五分まで行きたいって思った?」
「思いました」
「かなり?」
「かなり」
「数字」
「八」
部屋の空気が硬くなる。
五分到達欲求八。
これは危ない。
五分まで行くこと自体が目的になりかけている。
ミラは低く言った。
「じゃあ、今終わる?」
アリアは目を見開いた。
「あと一分少しですわ」
「うん」
「ここまで来たのに」
「うん」
「……終わりたくありません」
「じゃあ、何のために五分まで行きたいの?」
アリアは答えられなかった。
五分まで行きたい。
でも、それは何のためか。
安全確認のため?
次の段階へ進むため?
違う。
今は、達成したいから。
負けたくないから。
自分が戻ってきていると証明したいから。
「……勝ちたいから」
アリアは正直に言った。
「何に?」
「弱い自分に」
ミラは少しだけ表情を変えた。
そして、静かに言った。
「じゃあ、ここで終われたら勝ちでしょ」
アリアは息を止めた。
「五分まで行くことじゃなくて?」
「違う。五分に勝つんじゃなくて、五分まで行きたい自分に勝つの」
アリアは腰の剣に意識を向ける。
重い。
温かい。
懐かしい。
もっと持っていたい。
五分まで行きたい。
でも、それを目的にしたら危ない。
ノエルは三行目を見て終わった。
クラウディアは槍を見て触れずに終わった。
自分は前回、三分四十秒で外せた。
今日も、終わりを選べるだろうか。
アリアはゆっくり、両手を膝から離した。
柄へは行かない。
剣帯の金具へ手を伸ばす。
「……終わります」
声が震えていた。
だが、はっきりしていた。
「四分十秒です」
リーネが告げる。
アリアは剣を外した。
机の上へ置く。
重さが腰から消える。
悔しい。
五分まで行けなかった。
でも、抜かなかった。
柄にも触らなかった。
五分まで行きたい自分を、途中で止めた。
アリアの目から涙がこぼれた。
「悔しいですわ」
ミラが頷く。
「うん」
「あと五十秒でした」
「うん」
「でも、今の私は五分にこだわっていました」
「うん」
「だから、終わりました」
「勝ち」
ミラは短く言った。
「これは勝ち」
アリアは泣きながら笑った。
「あなた、本当に、勝ちの決め方が変ですわ」
「必要なら勝ちにするの」
「白銀式?」
「ミラ式」
アリアは声を漏らして笑った。
◇
支援室に報告が届いた時、レオンは読み上げを聞きながら、拳を握っていた。
エルザの声が淡々と続く。
「封印剣腰装着。開始直後、柄接触欲求六。手を膝に置くことで継続。三分四十秒を越えた後、五分到達欲求八へ上昇。本人、『勝ちたいから』と理由を言語化。ミラの確認後、本人判断で四分十秒にて終了。抜剣なし。柄接触なし」
レオンは息を吐いた。
「五分まで行かなかったんだな」
「行かなかったのではなく、行かないと決めた」
セリアが言った。
「大きいな」
「ああ」
リーネはまだ戻っていないが、伝令文には彼女の追記もあった。
『五分到達より、五分にこだわる自分を止められたことが本日の成果』
エルザが予定板に書き込む。
『アリア:封印剣四分十秒/五分到達欲求八/本人判断で終了/抜剣・柄接触なし』
セリアはその横に追記した。
『五分に勝つのではなく、五分へ急ぐ自分に勝った』
レオンはその文字を見た。
今日も、短くて強い言葉だ。
「セリア」
「何だ」
「これ、アリアさんに送ろう」
「送るつもりだ」
「効くだろうな」
「効くだろう」
セリアは少しだけ口元を緩めた。
◇
夕方、アリアは白銀支援室から届いた記録の写しを読んでいた。
『五分に勝つのではなく、五分へ急ぐ自分に勝った』
何度も読む。
悔しさが、少しずつ形を変えていく。
五分まで行けなかった。
でも、途中で終われた。
それを負けにしない言葉が、支援室から届く。
「本当に、困った方々ですわね」
アリアは小さく笑った。
机の上の剣は、もう武具庫へ戻っている。
腰は軽い。
でも、今日の軽さは少しだけ誇らしかった。
◇
その日の夜、白銀聖騎士団詰所。
レオンは今日の報告書を読み返していた。
ノエルは聖歌集を開かない日を選んだ。
クラウディアは詩集を二頁めくった。
アリアは封印剣を四分十秒腰に戻し、自分で外した。
五分には届かなかった。
でも、それでいい。
最後に、セリアの追記がある。
『届かなかった時間も、止まれたなら前進だ』
レオンは、その一文を見て笑った。
壁の向こうから声がした。
「まだ起きているのか」
「起きてる」
「寝ろ」
「今日の追記もよかった」
「またか」
「届かなかった時間も、止まれたなら前進だ」
「ああ」
「俺も、そう思えるようになってきた」
「それはいい」
「五分まで行けなかったことより、四分十秒で止まれたこと」
「そうだ」
「難しいな」
「難しい。だが、アリア殿はできた」
「俺もできるかな」
「できるようにする」
壁越しの声は、迷いがなかった。
「一人で?」
「支援室で」
レオンは、胸の奥が少し温かくなるのを感じた。
「ありがとう」
「受け取っておく」
「おやすみ、セリア」
「ああ。おやすみ、レオン」
灯りを落とす。
アリアは五分に届かなかった。
けれど、五分へ急ぐ自分を止めた。
それは剣を抜くよりずっと難しい、静かな勝利だった。
支援室は、今日もその勝利を丁寧に記録した。




