第43話『三行目を見る日、まだ歌わない日』
ノエルが「三行目を見る」と言ったのは、朝の神殿治癒院だった。
声は小さかった。
けれど、システィナには聞こえた。
窓際の椅子に座ったノエルは、膝の上に白い布を置き、その上に聖歌集を閉じたまま載せていた。
ここ数日、彼女は聖歌集を開いたり、開かなかったりしている。
一行目だけを見る日。
二行目を見ない日。
机に置くだけの日。
白い布だけを握る日。
神殿の人間が見れば、それを停滞と言うかもしれない。
けれどシスティナは、そうは思わなかった。
ノエルは、以前よりずっと自分で選んでいる。
開くことも。
開かないことも。
見ることも。
見ないことも。
そこに小さな意思がある。
「三行目を、読むのですか?」
システィナが慎重に尋ねると、ノエルは首を横に振った。
「読まない」
「では、見る?」
「うん。見るだけ」
ノエルは白い布の端を指で押さえた。
「クラウディアは槍を見て、触らなかったって聞いた」
「はい」
「アリアは剣を見ない日にしたって」
「はい」
「じゃあ私は、三行目を見る日でもいいかなって思った」
システィナは、胸の奥が熱くなるのを感じた。
でも泣かなかった。
泣くとノエルが困る。
それはもう、学んでいる。
「とても良いと思います」
「でも、歌わない」
「はい」
「声も、出さないかもしれない」
「はい」
「三行目を見るだけ。途中で嫌になったら閉じる」
「はい」
ノエルは少しだけシスティナを見た。
「システィナ様、最近、はいしか言わない」
「余計なことを言わない練習中です」
「白銀っぽい」
「影響されていますね」
ノエルは、ほんの少し笑った。
その笑い声は小さい。
聖歌ではない。
神殿に響く声でもない。
ただ、ノエル自身の笑い声だった。
「今日、白銀に行く」
「はい」
「三行目を見る。歌わない。読めなくても失敗じゃない」
システィナは頷いた。
「失敗ではありません」
「でも、怖い」
「怖いままで行きましょう」
ノエルは目を丸くした。
「システィナ様、本当に変わった」
「はい。たぶん、良い方に」
「うん」
ノエルは聖歌集を抱えた。
「良い方だと思う」
◇
白銀聖騎士団の支援室には、その朝、三つの報告が届いていた。
クラウディアは、前日に槍を見て触れなかったあと、夜も発熱や痛みの悪化はなかった。
ただし、夢で槍を握りかけ、目覚めてから右手が少し震えたという。
アリアは、剣を見ない日を選んだあと、封印剣の腰装着訓練を一日空けることに同意した。
近衛側は、剣返却を急がず、腰帯勤務と書類確認を継続する方針にした。
そして、ノエル。
『本人、白銀聖騎士団で三行目を見ることを希望。ただし、読む・歌う・発声することは目的としない。本人発言「見るだけの日」』
エルザが読み上げた瞬間、ミラが机を軽く叩いた。
「来た」
レオンが予定板を見る。
ノエルの欄には、昨日までこう書いてあった。
『一行目のみ開封/二行目視認せず/本人終了』
そこへ新しい札が加わる。
『三行目を見る予定/発声目的なし』
リーネがその文字を見て、柔らかく微笑んだ。
「ノエル様らしい進み方ですね」
「見るだけ」
レオンは呟いた。
「簡単そうに見えて、全然簡単じゃないんだろうな」
「ええ」
リーネは頷いた。
「見るだけ、というのは、自分で欲求を途中で止めることでもあります。三行目を見れば、読みたくなるかもしれない。声が出るか試したくなるかもしれない。神殿で教えられてきた期待が、また戻るかもしれません」
セリアが短く言う。
「だから今日も白い札を置く」
「白い布も?」
ミラが聞く。
「もちろん」
エルザが即答した。
「白い布、白い札、聖歌集。配置は前回と同様。ただし、今日は聖歌集の開封前に本人から目的を確認します」
「目的?」
「三行目を見るだけ。読むこと、歌うこと、声を出すことを目的にしない。本人がそう言えた状態で始める必要があります」
レオンは頷いた。
「大事だな」
ミラは腕を組んだ。
「今日は私、声量管理する」
「自分から言った」
エルザが驚いたように見た。
「何よ」
「成長を確認しました」
「その言い方!」
リーネがくすくす笑う。
「ミラさんも、ノエル様と一緒に少しずつ変わっていますね」
「そ、そういうのはいいです」
ミラは顔を赤くしてそっぽを向いた。
セリアは予定板を見たまま言った。
「今日の目標は、三行目を見ることではない」
レオンが顔を上げる。
「じゃあ?」
「三行目を見て、歌わずに終われることだ」
その一言で、支援室の空気が決まった。
◇
面談室には、雨の日と同じ白い布が用意された。
机の右端には白い札。
『今日はここまで』
その隣に、裏返しの緊急札。
エルザはまた置こうとしてミラに見られたが、今日は何も言われなかった。
「裏返しならいいわ」
「許可されました」
「何か腹立つ言い方」
「事実です」
リーネは窓を少し開け、風を通した。
今日は雨ではない。
けれど、空は薄く曇っている。
強すぎない光が、面談室の机に落ちていた。
レオンは席の位置を確認する。
ノエルは出口に近い椅子。
システィナは少し後ろ。
リーネは横。
ミラは斜め向かい。
エルザは記録係。
セリアは扉近く。
いつもの配置。
逃げ道のある配置。
「レオン」
セリアが声をかけた。
「何だ?」
「今日は、声が出ても褒めない」
「分かってる」
「声が出なくても慰めすぎない」
「分かってる」
「三行目を見られなくても、失敗と言わない」
「言わない」
「本当に?」
「本当に」
セリアはしばらくレオンを見て、それから頷いた。
「ならいい」
ミラが横でぼそっと言う。
「団長、毎回レオン確認してるけど、最近その確認でレオンも落ち着いてる感じする」
セリアが見る。
「何だ」
「いや、言う価値あるかなって」
「あるか?」
「たぶん」
レオンは少し笑った。
「ある。確認されると、自分でも止まれる」
セリアは目を伏せた。
「……そうか」
ミラがにやっとする。
「団長、今ちょっと嬉しそう」
「ミラ」
「はい、ここから声量管理します」
「今からか」
支援室らしい笑いが、小さく面談室に広がった。
◇
ノエルは、予定通りの馬車で来た。
付き添いはシスティナだけ。
今日は白い布を手に持っていた。
聖歌集は胸に抱えている。
門をくぐる時、彼女は少しだけ空を見上げた。
「雨じゃない」
ミラが迎えに出て言う。
「残念?」
「分からない。雨の日は、声が出なくても雨の音のせいにできる」
「じゃあ今日は?」
「白銀がうるさいせいにする」
「私のこと?」
「たぶん」
「たぶんじゃないでしょ!」
ノエルはほんの少し笑った。
システィナも、そのやり取りに安心したようだった。
セリアが短く確認する。
「今日は、三行目を見る日だと聞いている」
「うん」
「読まなくていい」
「うん」
「歌わなくていい」
「うん」
「声を出す必要もない」
「うん」
「嫌なら帰っていい」
ノエルは少しだけセリアを見た。
「門で?」
「門でも」
「団長は、いつも最初から逃がす」
「逃げられる方が、進めることもある」
ノエルは黙った。
それから、小さく頷く。
「今日は、行く」
「分かった」
ミラが小声で言う。
「団長、いいこと言った」
「ミラ」
「声量管理中です」
「そのわりに聞こえたぞ」
「失敗」
ノエルがまた少し笑った。
◇
面談室に入ると、ノエルは最初に白い札を確認した。
それから、白い布。
そして、席に座る。
聖歌集はまだ開かない。
ノエルは白い布を両手で握った。
その手の中で、布が少しだけ潰れる。
「今日の目的を、確認してもいいですか」
レオンが静かに言った。
ノエルは頷く。
「三行目を見る」
「読む?」
「読まない」
「歌う?」
「歌わない」
「声を出す?」
「出さない。出ても、目的じゃない」
その言葉を聞いて、リーネが小さく頷いた。
エルザが記録する。
「本人、目的を明確化。三行目視認のみ。発声目的なし」
ノエルはエルザを見る。
「それは書いていい」
「承知しました」
「記録の人、最近少し安心する」
エルザの筆が止まった。
ミラが目を丸くする。
「エルザが褒められた」
「褒められたのでしょうか」
エルザが珍しく少し迷う。
ノエルは言った。
「たぶん」
「たぶん」
エルザは小さく繰り返した。
ミラが吹き出しそうになって、声量管理を思い出して口を押さえた。
緊張が、ほんの少し薄くなる。
ノエルは聖歌集に手を置いた。
表紙を撫でる。
開く前に、一度目を閉じた。
誰も急かさない。
そして、彼女はゆっくり聖歌集を開いた。
一行目。
白い布を握る手に力が入る。
二行目。
呼吸が浅くなる。
三行目。
指が止まった。
ノエルは、その文字を見た。
読まない。
唇は動かない。
声も出ない。
ただ、見る。
三行目の始まりから、少しずつ、目だけで追う。
半分ほど進んだところで、ノエルの肩が震えた。
白い布が強く握られる。
ミラが動きかけるが、リーネがそっと目で止める。
まだ、ノエルは自分で見ている。
ノエルの視線が三行目の終わりへ届く。
届いた。
その瞬間、彼女は聖歌集を閉じようとした。
けれど、手が止まる。
もう一度見たい。
そんな衝動が伝わってくる。
「ノエル」
レオンは静かに呼んだ。
「今、もう一回見たいですか」
ノエルの目が揺れた。
正直に答えるまで、少し時間がかかった。
「見たい」
「はい」
「読めるかもって思った」
「はい」
「声、出るかもって思った」
「はい」
「でも、今日は見るだけの日」
「はい」
ノエルは唇を噛んだ。
「でも、もう一回見たい」
ミラがそっと言う。
「それ、言えたから偉い」
「偉い?」
「うん。黙ってもう一回見なかったでしょ。言えた」
ノエルは白い布を握る手を見た。
「……もう一回見ると、読もうとするかも」
「そう思うなら、白い札」
ミラの声は小さい。
でも、はっきりしていた。
ノエルは机の端を見る。
『今日はここまで』
白い札。
逃げる札ではない。
終わりを選ぶ札。
ノエルは震える手で、その札に触れた。
倒す前に、もう一度聖歌集を見る。
閉じられた表紙。
その下にある三行目。
見た。
読まなかった。
歌わなかった。
声も出さなかった。
それでも、見た。
ノエルは札を倒した。
「今日は、ここまで」
声は出た。
小さいけれど、はっきりと。
聖歌ではない。
でも、自分の終わりを選ぶ声だった。
レオンは頷いた。
「はい。今日はここまでです」
ノエルの目に涙が浮かぶ。
「三行目、見た」
「はい」
「読んでない」
「はい」
「歌ってない」
「はい」
「でも、見た」
「はい。見ました」
ノエルは、ほっとしたように息を吐いた。
「失敗じゃない?」
レオンは首を横に振った。
「失敗じゃありません」
「本当に?」
「本当に」
ノエルは白い布を胸に寄せた。
「じゃあ、今日は成功?」
レオンは少しだけ考えた。
評価しすぎない。
でも、本人が求めている言葉はある。
「今日は、ノエルが決めた通りに終われた日です」
ノエルは黙った。
その言葉をゆっくり受け取るように。
「……それ、覚えてて」
「覚えています」
「次、忘れそうになるから」
「何回でも言います」
「ずるい」
「よく言われます」
ノエルは泣きながら、少し笑った。
◇
面談後、ノエルはすぐには帰らなかった。
聖歌集は閉じたまま、机の上に置かれている。
白い札は倒れたまま。
白い布は、彼女の手の中にある。
ノエルは窓の外を見ていた。
曇り空。
雨でも晴れでもない空。
「今日、雨じゃなくても大丈夫だった」
ぽつりと言う。
ミラが小声で返す。
「白銀がうるさいせいにもできたし?」
「うん」
「それ、嬉しくないようでちょっと嬉しいんだけど」
「ミラは変」
「ノエルに言われると、何か刺さる」
ノエルは少しだけ笑った。
システィナは、今日は泣かなかった。
ただ、膝の上で手を強く握っていた。
ノエルがそれに気づく。
「システィナ様」
「はい」
「泣かないの、上手くなった」
「練習しています」
「白銀式?」
「はい」
システィナの声は少しだけ震えていた。
でも、笑っていた。
「良い式だと思います」
ノエルは頷いた。
「うん。たぶん」
◇
ノエルが帰ったあと、支援室では記録をまとめた。
エルザが読み上げる。
「ノエル様、三行目を視認。発声なし。読唱なし。再視認欲求を本人申告。白札使用により本人意思で終了。終了後、『今日はここまで』と発声」
「読唱なしって言葉、神殿に送っても大丈夫?」
ミラが聞く。
「誤解されにくい表現です」
エルザは答える。
「聖歌ではなく、読唱も行っていない。目的は視認であり、本人が終了を選んだ。そこを明記します」
リーネが頷く。
「とても大事ですね」
レオンは追記を書く。
『三行目を見ることができた。読まなくても、声が出なくても、本人が決めた通りに終われた。次回も、本人の目的から始める』
セリアがそれを見て頷いた。
「いい」
「足りる?」
「足りる。必要なことがある」
エルザは予定板に書き込んだ。
『ノエル:三行目視認成功/再視認欲求申告/白札終了』
その横に、セリアが短く追記する。
『決めた通りに終われた日』
レオンはその文字を見て、少し笑った。
「今日もいい追記だ」
「必要なことだ」
「うん」
◇
その日の午後、クラウディアから短い報告が届いた。
『昨日、槍を見て触れなかったあと、今日は槍を見ない日にしました。右手は少し震えましたが、詩集を一頁めくりました。ミラさんに、約束の布の話をありがとうございましたとお伝えください』
ミラはそれを読んで、顔を赤くした。
「私に?」
「はい」
エルザが淡々と答える。
「クラウディア様からミラへの謝意です」
「……受け取ります」
ミラは小さく言った。
セリアが見ている。
「ちゃんと受け取れたな」
「団長、それは言わないでください。今、けっこう来てるので」
「そうか」
セリアは少しだけ口元を緩めた。
さらに近衛からも報告が届いた。
『アリア、本日は封印剣装着訓練なし。腰帯勤務継続。ノエルの三行目視認成功を聞き、「では私は今日は柄を見ずに終わります」と本人申告』
リーネが微笑む。
「また繋がりましたね」
ノエルは三行目を見た。
クラウディアは槍を見なかった。
アリアは柄を見なかった。
それぞれが、誰かの一歩を聞いて、自分の一歩を選んでいる。
支援室の予定板に、三人の名前が並んでいる意味が少しずつ変わってきていた。
◇
夜。
ノエルは神殿治癒院の部屋で、聖歌集を閉じたまま見ていた。
今日はもう開かない。
三行目を見た。
それだけで十分だった。
もう一回見たいと思った。
読めるかもと思った。
声が出るかもと思った。
でも、白い札を倒した。
今日はここまで、と言えた。
「決めた通りに終われた日」
白銀から届いた記録の写しに、そう書かれていた。
ノエルはその一文を何度も読んだ。
歌えた日ではない。
読めた日でもない。
声が戻った日でもない。
決めた通りに終われた日。
それなら、胸が苦しくない。
「今日は、ここまで」
ノエルは小さく言った。
その声は、ちゃんと自分のものだった。
◇
白銀聖騎士団詰所の夜。
レオンは今日の報告書を読んでいた。
ノエルの三行目。
クラウディアの槍を見ない日。
アリアの柄を見ない日。
それぞれの選択。
最後に、セリアの追記。
『進むことより、決めた通りに終わることが難しい日もある』
レオンはその一文を見て、静かに息を吐いた。
壁の向こうから、いつもの声。
「まだ起きているのか」
「起きてる」
「寝ろ」
「今日の追記もよかった」
「またか」
「進むことより、決めた通りに終わることが難しい日もある」
「ああ」
「本当にそうだな」
少し沈黙。
レオンは報告書を閉じた。
「ノエル、三行目見たな」
「ああ」
「でも読まなかった」
「それでいい」
「声も出なかった」
「それでいい」
「自分で終われた」
「それが大事だ」
セリアの声は迷いがなかった。
レオンは、その迷いのなさに救われる。
「俺も、決めた通りに終わるの、下手かもしれない」
「知っている」
「即答」
「だから確認している」
「いつも?」
「いつも」
レオンは笑った。
「ありがとう」
「受け取っておく」
「おやすみ、セリア」
「ああ。おやすみ、レオン」
灯りを落とす。
ノエルは三行目を見た。
けれど読まなかった。
歌わなかった。
声を出さなかった。
そして、自分で終わった。
それは派手な奇跡ではない。
けれど、彼女自身が決めた通りに終われた、確かな前進だった。




