第42話『槍は見た。ただし、まだ握らない』
クラウディア・エルンストから「槍を見たい」という希望が届いたのは、アリアが封印布付きの剣を腰に戻し、自分で外せた翌朝のことだった。
白銀聖騎士団の支援室では、朝の予定確認が始まったばかりだった。
エルザが予定板の前に立ち、淡々と読み上げる。
「本日の主な確認事項。一、アリア様の封印剣装着後経過。二、ノエル様の聖歌集三行目再挑戦予定の有無。三、クラウディア様より、新規希望あり」
「新規希望?」
ミラが反応した。
「クラウディア、何かあったの?」
エルザは封書を開き、文面を確認する。
「クラウディア様本人より。『右手を添えて詩集を一頁めくれました。次の治療前に、一度だけ槍を見たいです。ただし、触れません。握りません。部屋に置くだけで構いません』とのことです」
支援室が静かになった。
レオンは思わず予定板を見る。
クラウディアの欄には、昨日の記録が残っている。
『詩集一頁めくり成功/槍は未確認』
そこから、ついに「槍を見る」へ進む。
大きい。
だが、危うい。
ミラがゆっくり息を吐いた。
「来たか……」
「ミラ?」
レオンが声をかけると、ミラは真剣な顔で頷いた。
「いつか来ると思ってた。槍使いなら、見たくなる。触らなくても、まず見たい。自分の相棒がそこにあるって確かめたい」
リーネは封書を受け取り、静かに読む。
「『触れません。握りません』と、本人が先に条件を書いていますね」
「それだけ、本人も危ないって分かってるんだと思う」
ミラの声は低かった。
「見たら触りたくなる。触ったら握りたくなる。握ったら構えたくなる。そこまで一気に行く可能性がある」
セリアが腕を組む。
「アリア殿の封印剣装着訓練と似ているな」
「はい」
エルザが記録板を開いた。
「ただし、アリア様は封印布という物理的制限がありました。クラウディア様の槍には、同様の封印を施すか、距離を取る必要があります」
「封印?」
レオンが聞く。
「槍の柄に触れられないよう、布で巻いておくことはできます。ただし、視覚刺激は残ります」
リーネが考えるように言う。
「今回は、部屋の端に置くのがよいと思います。クラウディア様の手の届かない場所に。本人の席も出口に近い方がいいですね」
「面談室と同じ作りか」
「はい。逃げられる位置に」
ミラが拳を握った。
「私、立ち会う」
セリアは即答した。
「当然だ」
「当然なんですか」
「槍に関しては、お前の反応が早い。クラウディア令嬢が触りたいと言う前に、表情で分かるだろう」
「分かります」
ミラは迷わなかった。
「たぶん、手を見るより先に肩が動く。目線も変わる」
「なら頼む」
「はい」
レオンはクラウディアの手紙を見つめた。
一度だけ槍を見たい。
ただし、触れない。
握らない。
その言葉には、願いと怖さが両方詰まっている。
「俺は、どうすればいい?」
セリアがレオンを見る。
「今日は治療ではない。魔力接触もなし。お前は、クラウディア令嬢が自分で終われるように声をかける役だ」
「声をかける役」
「ああ。アリア殿の時もそうだった。剣を戻しても外せたことを評価した。今回も同じだ」
ミラが頷く。
「槍を見たことより、見たあとに触らず終われたことを評価する」
「そうだ」
セリアは短く言った。
「今回の目標は、槍を見ることではない。槍を見て、触れずに終わることだ」
その言葉で、支援室の方針が決まった。
◇
王立治癒院の中立診療室。
その部屋の端に、一本の槍が置かれていた。
クラウディアの聖槍。
ただし、今日は壁際のさらに奥。
椅子から立ち上がっても、すぐには届かない距離。
柄には白い布が巻かれている。
封印というほど強いものではない。
けれど、「今日は触れない」という約束が目に見える形になっていた。
クラウディアは診療室に入った瞬間、足を止めた。
彼女の視線が、まっすぐ槍へ向かう。
右手の指が、わずかに動いた。
ミラがすぐに見ていた。
レオンも気づいた。
けれど、誰も何も言わなかった。
クラウディアはしばらく槍を見つめたあと、静かに息を吐いた。
「……ありますね」
それだけだった。
でも、その声は震えていた。
バルナードは後ろで口を結んでいる。
彼もまた、娘が槍を見る日をどれほど待ったか分かっているのだろう。
セリアが短く確認する。
「本日は、槍を見るだけ。触れない。握らない。治療もしない」
「はい」
クラウディアは頷いた。
「自分の意思で、そう希望したか」
「はい。私の意思です」
「嫌になったら、すぐに終了する。席は出口側だ」
「ありがとうございます」
クラウディアは出口に近い椅子へ座った。
槍からは遠い。
しかし、視界には入る。
彼女は膝の上に白いハンカチを置いていた。
先日、自分で畳んだものだ。
その端を左手で握り、右手をそっと添えている。
ミラが気づいて、小さく笑った。
「ハンカチ、持ってきたんだ」
「はい。槍を見た時、右手が落ち着かなくなると思って」
「いい判断」
「ミラさんにそう言われると、少し安心します」
「さん付け、まだ照れる」
クラウディアが少しだけ笑った。
その笑いで、部屋の緊張がわずかに薄まった。
レオンはクラウディアの斜め前に座る。
正面ではない。
彼女が槍を見ても、人の視線に閉じ込められない位置。
「クラウディア様」
「はい」
「今、槍を見てどう感じていますか」
クラウディアはすぐには答えなかった。
槍を見る。
白い布が巻かれた柄。
かつて手の中にあった重さ。
訓練場の風。
試合前の静けさ。
折れそうなほど痛んだあの日の記憶。
たぶん、その全部が彼女の中で動いている。
「嬉しいです」
やがて、クラウディアは言った。
「怖いです。悔しいです。触りたいです。……それから、少し怒っています」
「怒っている?」
リーネが静かに聞く。
クラウディアは頷いた。
「こんなに近くにあるのに、まだ触れない自分に」
ミラの表情が少しだけ変わった。
槍使いとして、その言葉が分かるのだろう。
「触りたい気持ちは、どれくらい?」
ミラが聞く。
「七……いえ、八に近い七です」
「高いね」
「はい」
「でも、言えてる」
「はい」
「じゃあ、まだ座っていられる」
クラウディアはハンカチを握った。
「座っています」
エルザが記録する。
「槍視認直後、接触欲求七から八未満。本人申告あり。着席維持」
バルナードが小さく息を吐く。
彼も緊張している。
だが、今は何も言わない。
それでいい。
レオンはクラウディアの右手を見た。
ハンカチに添えられた指先が、少し震えている。
「右手は?」
「動きたがっています」
クラウディアは正直に言った。
「槍の柄を探しています。まだ届かないと分かっているのに」
「ハンカチは?」
「助かっています」
彼女は小さく笑った。
「変ですね。槍を見ながら、ハンカチに助けられています」
「変じゃないと思います」
レオンは言った。
「今のクラウディア様の右手には、槍の前に覚えるものがあるんだと思います」
「槍の前に?」
「水差しとか、詩集とか、ハンカチとか」
クラウディアはハンカチを見る。
「……そうですね」
声が少しだけ落ち着いた。
「この手は、槍だけの手ではありませんものね」
ミラが目を丸くした。
それから、ぐっと唇を噛む。
「ミラさん?」
「泣いてない」
「まだ何も言っていません」
「先に言ったの」
クラウディアが少し笑った。
◇
槍を見る時間は、最初から五分までと決められていた。
ただし、接触欲求が八を超えた場合は即時終了。
クラウディアが立ち上がろうとした場合も終了。
そして、本人が「今日はここまで」と言った場合も終了。
時間が二分を過ぎた頃、クラウディアの視線が槍の柄へ固定された。
ミラがすぐ反応する。
「クラウディア」
「はい」
「今、触りたい?」
「触りたいです」
「数字」
「八です」
部屋の空気が引き締まる。
八。
終了条件ぎりぎりだ。
リーネが静かに言う。
「ここで終わっても大丈夫ですよ」
クラウディアは目を閉じた。
息を吸う。
右手がハンカチを強く握ろうとして、途中で止まる。
「……終わりたくありません」
正直な声だった。
「もう少し見たいです。まだ、見ていたい」
ミラが言う。
「じゃあ、何を見てるか言って」
「何を?」
「槍のどこを見てるのか。柄? 穂先? 布?」
クラウディアは戸惑いながらも答える。
「柄です」
「じゃあ柄から目を外して、白い布を見て」
「布……」
「あれは、今日触らないって約束の布。触れないように巻いてある布。柄じゃなくて、約束を見て」
クラウディアの視線が、柄そのものから白い布へ移る。
呼吸が、少しだけ戻った。
彼女は小さく呟く。
「約束の布」
「そう」
ミラの声は優しかった。
「今日の槍は、握るものじゃなくて、約束を守るために見るもの」
クラウディアの目に涙が浮かんだ。
「ミラさんは、時々とても厳しいのに、優しいです」
「時々じゃない」
「では、かなり」
「それ、アリアにも言われた!」
わずかに笑いが起きた。
その笑いで、クラウディアの接触欲求が少し下がったのが、レオンにも分かった。
エルザが記録する。
「接触欲求八から七へ低下。ミラの視点誘導、有効」
「またミラ効果だな」
レオンが小さく言うと、ミラが赤くなる。
「今は言わないで!」
クラウディアがまた少し笑った。
泣きながら、笑った。
◇
四分を過ぎたところで、クラウディアは自分から白いハンカチを机に置いた。
右手を添えたまま。
そして、槍を見た。
白い布。
柄。
穂先。
最後に、目を閉じる。
「今日は、ここまでです」
その声に、全員が黙った。
クラウディア自身が、終わりを選んだ。
五分までまだ少し残っている。
触れていない。
立ち上がっていない。
それでも、自分で終わった。
レオンは静かに頷いた。
「はい。今日はここまでです」
ミラが深く息を吐いた。
「よく言えた」
クラウディアの涙がこぼれる。
「触りたかったです」
「うん」
「今でも触りたいです」
「うん」
「でも、触りませんでした」
「うん。触らなかった」
ミラの声が少し震えていた。
クラウディアは槍を見ないように、ゆっくり椅子から立ち上がった。
バルナードがすぐに支えようとしたが、彼女は首を横に振る。
「大丈夫です。自分で歩きます」
出口まで、ゆっくり。
槍へ向かわず、扉へ向かう。
それだけの歩行が、今のクラウディアにとっては大きな勝利だった。
扉の前で、彼女は一度だけ振り返った。
槍を見た。
そして、小さく言った。
「また、会いに来ます」
触れるためではなく。
握るためでもなく。
まずは、また見るために。
◇
白銀聖騎士団へ戻る馬車の中で、ミラはやけに静かだった。
レオンが声をかける。
「ミラ、大丈夫か?」
「大丈夫」
「泣いた?」
「泣いてない」
「でも目が赤い」
「雨のせい」
「今日は晴れてる」
「じゃあ風」
リーネが微笑む。
「ミラさん、今日は本当にお疲れ様でした」
「私は何もしてないです」
ミラは即座に言った。
「クラウディアが頑張っただけ」
セリアが静かに言う。
「お前もよく支えた」
ミラが固まる。
「……団長」
「何だ」
「今日は、ちょっとそれ、効きます」
「そうか」
「はい」
ミラは窓の外を見た。
照れているのではなく、受け止めている顔だった。
レオンは少し笑った。
支援室は、支援する側も少しずつ変えていく。
◇
その日の午後、支援室にはノエルからの連絡も届いた。
『聖歌集を一行目だけ開いた。二行目は見なかった。白い布を握った。今日はここまで』
クラウディアの報告を受け取ったあとだったので、レオンはその短い文に、別の重みを感じた。
見ないことも選べる。
触れないことも選べる。
終わることも選べる。
エルザが予定板に書き込む。
『ノエル:一行目のみ開封/二行目視認せず/本人終了』
さらに、近衛からアリアの報告も届く。
『アリア、午前は腰帯勤務。午後、封印剣腰装着訓練は行わず休養。クラウディアの槍視認訓練成功の報告を聞き、「では私も今日は剣を見ない日にします」と本人申告』
ミラがそれを読んで、目を丸くした。
「アリアが、剣を見ない日にした?」
「はい」
エルザが頷く。
「クラウディア様の報告が影響した可能性があります」
リーネが微笑む。
「三人が、また少し繋がりましたね」
セリアは予定板を見て、短く言った。
「今日は、見た者と、見なかった者の両方が進んだ日だ」
レオンはその言葉に頷いた。
クラウディアは槍を見た。
ノエルは二行目を見なかった。
アリアは剣を見ない日にした。
全部、本人が選んだ。
◇
夜。
クラウディアは自室で、右手をハンカチに添えていた。
槍は部屋にない。
今日、見た。
触れなかった。
握らなかった。
でも、そこにあった。
まだ自分を待っているように、白い布を巻かれて。
「約束の布」
クラウディアは小さく呟いた。
次に見る時も、きっと触りたくなる。
でも、今日一度触れずに終われた。
その記憶が、右手の中に残っている。
槍の重さではない。
触れなかった自分の重さ。
それもまた、確かな前進だった。
◇
白銀聖騎士団詰所の夜。
レオンは今日の報告書を読んでいた。
クラウディア、槍視認四分少し。
接触欲求八まで上昇。
白い布への視点誘導で七へ低下。
本人の意思で終了。
触れず、立ち上がらず、退出成功。
ノエル、一行目のみ。
アリア、剣を見ない日。
最後に、セリアの追記。
『見ることも、見ないことも、本人が選べば前進になる』
レオンはその一文を見て、静かに息を吐いた。
壁の向こうから声がした。
「まだ起きているのか」
「起きてる」
「寝ろ」
「今日も、いい追記だった」
「必要なことを書いただけだ」
「見ることも、見ないことも、本人が選べば前進になる」
「ああ」
「本当に、そうだな」
少し沈黙。
レオンは手元の報告書を閉じた。
「クラウディア様、触らなかった」
「ああ」
「すごいな」
「すごい」
セリアが短く、迷いなく言った。
「ミラも、すごかった」
「ああ。よく見ていた」
「支援する側も、成長してるんだな」
「お前もだ」
急に返されて、レオンは少し黙った。
「俺も?」
「ああ。今日は魔力を使わなかった。だが、お前はきちんと場にいた」
「何もしなかった気もする」
「それでいい時もある」
レオンは目を閉じる。
何もしない。
でも、場にいる。
誰かが自分で終わるのを待つ。
それも支援。
「セリア」
「何だ」
「俺、少しずつ分かってきた気がする」
「何を」
「この力の使い方じゃなくて、使わない時の守り方」
壁の向こうで、少しだけ沈黙があった。
やがて、セリアの声が届く。
「それが分かるなら、もっと強くなれる」
「強く?」
「ああ。魔力ではなく、人を支える者として」
その言葉は、胸に深く残った。
「……ありがとう」
「受け取っておけ」
「今日は命令形だ」
「必要だからな」
レオンは笑った。
「受け取る」
「なら寝ろ」
「はい」
「はいは一回でいい」
「一回だった」
「そうだったな」
小さなやり取りのあと、レオンは灯りを落とした。
クラウディアは槍を見た。
けれど触れなかった。
ノエルは二行目を見なかった。
アリアは剣を見ない日にした。
見ることも、見ないことも。
触れないことも。
本人が選べば、それは前進になる。
支援室は今日も、その小さくて確かな前進を記録した。




