第41話『剣は戻る。ただし、まだ抜かない』
アリア・グランフィールの段階復帰二日目。
朝、近衛騎士団宿舎の自室で、アリアは腰帯を締めていた。
剣はない。
昨日と同じ、腰帯だけ。
けれど、昨日より少しだけ手つきは落ち着いている。
鏡の中の自分は、まだどこか不完全に見えた。
白い上着。
近衛騎士団章。
整えた金髪。
背筋は真っ直ぐ。
だが、腰には剣がない。
それでも昨日、アリアはその姿で半日、近衛の仕事をした。
若い騎士に見られた。
自分から説明した。
書類を読んだ。
誤記を見つけた。
疲れた。
悔しかった。
けれど、逃げなかった。
「……今日も、一部ずつ」
アリアは小さく呟いた。
白銀支援室から届いた昨夜のまとめに、そう書かれていた。
『全部でなくていい。一部ずつ戻ればいい』
セリア団長の追記らしい。
短いのに、妙に胸に残る。
アリアは腰帯に手を置いた。
「剣は、まだ」
声に出して確認する。
欲しくないわけではない。
むしろ、欲しい。
剣を腰に戻したい。
重さを感じたい。
いつもの自分に戻りたい。
けれど今日は、午前と午後に一刻ずつ、宿舎内で書類確認をする日。
王宮防衛区域へは入らない。
剣はまだ返却されない予定。
そのはずだった。
扉が叩かれる。
「グランフィール。入るぞ」
ガレス副長だった。
「はい」
ガレスは部屋に入るなり、アリアの姿を一瞥した。
腰帯だけ。
剣なし。
昨日より表情が落ち着いていることにも気づいたのだろう。
「痛みは」
「二・五です」
「欲求は」
「剣を腰に戻したい気持ちが五。剣を抜きたい気持ちは……二。王宮廊下へ戻りたい気持ちは四です」
ガレスは少しだけ眉を上げた。
「細かくなったな」
「白銀式ですわ」
「便利だな」
「ええ。少し癪ですが」
アリアがそう言うと、ガレスは短く笑った。
珍しいことだった。
「本日、午前の状態が安定していれば、午後に封印布付きの剣を短時間、腰に戻す訓練を検討する」
アリアは息を止めた。
「……剣を?」
「抜剣は禁止。歩行も室内のみ。時間は十分。白銀支援室の許可が出ればだ」
胸の奥が、強く跳ねた。
嬉しい。
怖い。
早すぎるのではないか。
でも、戻したい。
いくつもの感情が、一度に押し寄せる。
アリアは腰帯を握った。
「今、嬉しいです」
「だろうな」
「でも、怖いです」
「それも報告に入れておけ」
「はい」
アリアは、ゆっくり息を吐いた。
「副長」
「何だ」
「私は、すぐに抜きたいと言うかもしれません」
「言うだけなら構わん」
「白銀と同じことをおっしゃいますのね」
「移った」
ガレスは真顔で答えた。
アリアは思わず笑った。
近衛にも、白銀式が少しずつ入り込んでいる。
それが変な感じで、けれど悪くなかった。
◇
白銀聖騎士団の支援室では、朝から予定板の前に全員が集まっていた。
エルザが近衛からの報告を読み上げる。
「アリア様、痛み二・五。剣を腰に戻したい欲求五。抜剣欲求二。王宮廊下復帰欲求四。本日午前の状態安定を条件に、午後、封印布付き剣の短時間腰装着訓練を近衛側が提案」
ミラが勢いよく立ち上がった。
「来た!」
「座れ」
セリアが即座に言う。
「まだ決定ではない」
「でも、剣を戻す話ですよね?」
「腰に戻すだけだ。抜かない。振らない。歩き回らない」
「分かってます」
「本当に?」
「本当に!」
ミラは少しだけ悔しそうに座った。
レオンは予定板を見る。
アリアの欄には、昨日のまま。
『腰帯勤務成功/剣返却保留/翌日段階拡大』
そこへ今日、新しい一歩が加わるかもしれない。
「剣を戻すの、早すぎないかな」
レオンが言うと、リーネが静かに答えた。
「完全に返却するには早いです。でも、封印布付きで短時間、腰に戻すだけなら、本人の反応を見る意味はあります」
エルザも頷く。
「昨日、腰帯勤務を成功させています。次の段階としては妥当です。ただし、条件設定が重要です」
「条件は?」
ミラが聞く。
エルザはすぐに紙へ書いた。
「一、午前の勤務で痛み上昇がないこと。二、剣接触欲求が六以上に上がらないこと。三、午後の訓練は近衛宿舎内静養室で実施。四、剣は封印布付き。五、腰装着時間は最大十分。六、抜剣禁止。七、終了後は即座に近衛武具庫へ戻す。八、本人が『抜きたい』と申告した場合は即時終了」
「八番が大事ね」
ミラが真剣に言う。
「抜きたいって言えたら、そこで終わり」
「そうです」
リーネが頷いた。
「言えた時点で、終われるようにする必要があります」
セリアはレオンを見る。
「お前はどう思う」
「俺?」
「ああ。アリア殿はお前の治療を受けた。治療後の欲求の変化について、お前の意見も必要だ」
レオンは少し考えた。
昨日、アリアは胸が軽くなった。
剣がない二日間を過ごした。
腰帯だけで半日働いた。
剣を戻したいのは当然だ。
でも、戻した瞬間、前の自分に戻った気がして、次を急ぐかもしれない。
「……戻すなら、ちゃんと“まだ抜かない剣”だって分かる形がいいと思う」
「封印布か」
「はい。剣は戻る。でも、まだ抜かない。そこが見て分かるように」
セリアは頷いた。
「いい。条件に入れる」
ミラが少しだけ笑った。
「剣は戻る。ただし、まだ抜かない」
「今日の標語みたいですね」
リーネが言う。
エルザがすでに書き始めていた。
「支援室標語候補として記録します」
「また標語が増える」
レオンが苦笑すると、セリアは諦めたように息を吐いた。
「有用なら仕方ない」
「団長、最近諦めるの早くなりましたね」
ミラが言う。
「許可しているだけだ」
「それを諦めたって言うんです」
「ミラ」
「はい、でも今日は言う価値ありました」
少しだけ笑いが起きた。
緊張の中でも、支援室は支援室だった。
◇
午前のアリアは、昨日よりも安定していた。
近衛宿舎内の書類室で、巡回記録の残りを確認し、儀礼警備表の誤記を三つ見つけた。
腰部確認動作は二回。
痛みは二・五で変わらず。
剣を腰に戻したい欲求は、朝の五から一時六へ上がったが、自分で申告した。
王宮廊下へ戻りたい欲求は四。
抜剣欲求は二から三。
昼前、ガレス副長が確認に来た。
「状態は」
「痛み二・五。剣を戻したい気持ちは六まで上がりましたが、今は五です。抜きたい気持ちは三。書類は予定分を終えました」
「腰に手が伸びた回数は」
「二回です」
「昨日より減ったな」
「はい」
アリアは少しだけ誇らしかった。
腰に手が伸びる回数が減った。
こんなことを誇る日が来るとは思わなかった。
だが、今はそれが大事なのだと分かる。
ガレスはしばらくアリアを見た。
「午後の腰装着訓練、白銀支援室へ許可を求める」
アリアの心臓が跳ねた。
「……はい」
「嬉しいか」
「はい」
「怖いか」
「はい」
「抜きたいか」
「今は、少し」
「どれくらいだ」
「三です」
ガレスは頷いた。
「そのまま報告する」
「隠しませんわ」
「よい」
短い一言。
アリアはその一言を、素直に受け取れるようになってきていた。
◇
白銀支援室に届いた午前報告を読んで、ミラは大きく息を吐いた。
「欲求六まで上がったけど、申告できてる」
「そこが大事です」
リーネが言った。
エルザは条件表を確認する。
「実施条件は満たしています。ただし、抜剣欲求が三に上昇しているため、腰装着訓練は最大十分ではなく、初回は五分から始める方が安全です」
「五分か」
レオンが呟く。
「短いな」
「短くていい」
セリアが言った。
「最初は五分。状態が安定していれば後日十分へ進む」
「今日、十分はやらない?」
「やらない」
即答だった。
ミラも頷く。
「それでいい。アリアは絶対、五分でも効く」
「効く?」
「腰に剣が戻っただけで、かなり来ると思う」
リーネが真面目に頷いた。
「同感です。剣の重さは安心にもなりますが、同時に衝動も呼びます」
セリアは判断を下した。
「白銀支援室として、午後の剣腰装着訓練を許可する。ただし、時間は五分。封印布付き。静養室内。着席状態から開始。立ち上がりは最後の一分のみ。抜剣欲求を申告した時点で即時終了」
エルザが文面を整える。
「ミラ、立ち会いを」
「行きます」
「声量は」
「抑えます」
「本当に?」
「本当に!」
レオンが言う。
「ミラ、頼んだ」
「うん」
今日は、照れなかった。
それだけ真剣なのだろう。
◇
午後、東翼静養室。
アリアは椅子に座っていた。
リーネ、エルザ、ミラ。
近衛側からはガレス副長と医務担当。
机の上には、封印布を巻かれたアリアの剣が置かれている。
数日ぶりに見る自分の剣。
鞘。
柄。
白い封印布。
抜けないように封じられている。
それでも、そこにあるだけで胸が詰まった。
「触りたいですわ」
アリアは自分から言った。
ミラが頷く。
「言えた。よし」
「まだ始まってもいませんのに」
「始まる前が大事」
リーネが確認する。
「痛みは?」
「二・五」
「剣を腰に戻したい気持ちは?」
「七」
部屋の空気が少し動いた。
ミラが眉を寄せる。
「七か」
「剣を目の前にすると、上がりましたわ」
「抜きたい気持ちは?」
「四」
「高くなってる」
「はい」
アリアは正直に言った。
「それでも、訓練を受けたいです」
リーネはガレスと視線を交わし、エルザが記録を確認する。
ミラが問う。
「四から五になったら?」
「言います」
「六になったら?」
「その前に言いますわ」
「よし」
ガレスが短く言った。
「開始する」
まず、アリアは座ったまま剣を手に取った。
重い。
懐かしい。
手が覚えている。
喉が詰まる。
アリアは、剣を胸に抱き寄せそうになって、止めた。
「今、抱きしめそうになりました」
ミラが目を見開く。
「言えた」
「ええ。危なかったですわ」
エルザが記録する。
「剣接触直後、抱擁衝動あり。本人申告により抑制」
「記録にすると、とても恥ずかしいですわね」
「重要です」
「分かっています」
次に、剣を腰帯へ通す。
金具が鳴った。
カチリ。
その音が、アリアの胸の奥に響いた。
剣の重さが腰に戻る。
体の中心が、少しだけ元の場所へ戻った気がした。
「……戻りましたわ」
声が震えた。
ミラが真剣に見ている。
「痛みは?」
「二・五。変わりません」
「剣を抜きたい気持ちは?」
アリアは目を閉じた。
「五」
「上がった」
「はい」
「言えてるから、まだ続ける。でも六になったら終了」
「はい」
リーネが時計を見る。
「一分経過」
アリアは座ったまま、剣の重さを感じていた。
腰が温かい。
いや、温かいわけではない。
重さが戻ったことで、自分の輪郭が濃くなったように感じる。
それが嬉しい。
そして怖い。
「王宮の廊下へ行きたい気持ちは?」
エルザが尋ねる。
「六」
アリアはすぐ答えた。
「剣が戻ると、廊下へ戻りたくなりますわね」
「立ち上がりはまだです」
リーネが言う。
「はい」
二分。
三分。
アリアは座ったまま耐えた。
腰の剣に手を置きたい。
柄に触れたい。
抜かなくてもいいから、柄の形を確かめたい。
その気持ちが強くなる。
「柄に触りたいです」
アリアが言った。
ミラがすぐに答える。
「今日は触らない」
「分かっています」
「気持ちは?」
「六に近い五」
ミラが少し考えた。
「もう終わる?」
アリアは目を伏せた。
終わりたくない。
まだ腰に戻していたい。
でも、柄に触りたい気持ちが強くなっている。
このまま続ければ、手が動くかもしれない。
「……終わります」
自分で言った。
リーネがすぐに頷く。
「では、ここまでにしましょう。三分四十秒です」
「五分まででは?」
ガレスが静かに聞く。
アリアは首を横に振った。
「五分まで行くと、柄に触りたくなります」
ガレスは少しだけ目を細めた。
そして、頷いた。
「よく止めた」
その一言で、アリアの目に涙が浮かんだ。
ミラが近づく。
「外せる?」
「外します」
アリアは震える手で、剣を腰帯から外した。
机に置く。
重さが消える。
寂しい。
でも、少し誇らしい。
「剣は戻りました。でも、まだ抜きませんでした」
ミラが言った。
「その通り」
アリアは小さく笑った。
「剣は戻る。ただし、まだ抜かない」
「今日の標語」
「白銀式ですわね」
アリアは涙を拭った。
◇
白銀支援室に報告が届いた時、レオンは思わず立ち上がった。
「三分四十秒で自分から終了?」
「はい」
エルザが読み上げる。
「剣接触前、腰装着欲求七。抜剣欲求四。腰装着後、抜剣欲求五、王宮廊下復帰欲求六。柄接触欲求六に近い五。本人判断により五分前に終了。剣は近衛武具庫へ返却」
レオンは息を吐いた。
「すごいな」
ミラはまだ戻っていない。
その場で見届けているのだろう。
リーネは穏やかに頷く。
「アリア様、ご自分で止められましたね」
セリアも言った。
「大きな前進だ」
「剣を戻すより、外せたことの方が?」
「ああ。戻すだけなら欲求に流されてもできる。だが、外すには自制がいる」
レオンは深く頷いた。
クラウディアが槍に触れなかった日。
ノエルが白札を倒した日。
アリアが剣を外した日。
どれも、進むために止まった日だった。
◇
夕方、ミラが支援室へ戻ってきた。
少し疲れているが、顔は明るい。
「アリア、自分で外した」
「聞いた」
レオンが言う。
「すごいな」
「すごかった」
ミラは素直に言った。
「剣を腰に戻した時、泣きそうな顔してた。でも、柄に触りたくなったってちゃんと言って、自分で終わりますって言った」
セリアが頷く。
「ミラもよく見た」
ミラが固まる。
「……今、また褒めました?」
「褒めた」
「今日は何か多くないですか?」
「必要な評価だからな」
「便利な言葉なのに嬉しい!」
エルザが記録板を開く。
「ミラ、団長評価への受領反応良好」
「書いていい!」
「記録します」
支援室に笑いが広がった。
その笑いの中で、レオンは予定板に目を向ける。
アリアの欄に、エルザが新しく書き加えた。
『封印剣腰装着三分四十秒成功/本人判断で終了/抜剣なし』
その横に、セリアが短く追記する。
『戻すより、外せたことを評価』
レオンはそれを見て、静かに笑った。
「今日もいい追記だ」
「必要なことだ」
セリアはいつものように言った。
◇
その夜、アリアは自室で腰帯を外した。
剣はない。
武具庫へ戻っている。
けれど、今日、確かに一度腰へ戻った。
重さ。
金具の音。
腰に収まる感覚。
全部、覚えている。
そして、それ以上に覚えているのは、外した瞬間だった。
まだ持っていたい。
柄に触りたい。
抜きたい気持ちが、少しずつ強くなる。
その手前で、自分から終わった。
「……終われましたわ」
アリアは小さく呟いた。
机の上に、白銀支援室からの短い報告写しがある。
『戻すより、外せたことを評価』
アリアはその一文を何度も読んだ。
剣を戻せたことより、外せたこと。
それが今日の前進。
近衛騎士としては、不思議な評価だった。
でも、今の自分には必要な評価だった。
「明日は、どうなるのでしょうね」
そう言いながら、アリアは少し笑った。
焦らない。
一部ずつ。
剣は戻る。
ただし、まだ抜かない。
◇
白銀聖騎士団詰所の夜。
レオンは今日の報告書を読んでいた。
ノエルは、聖歌集を一行目だけ開いた。
クラウディアは、詩集を一頁めくった。
アリアは、封印剣を腰に戻し、自分で外した。
それぞれの一歩。
どれも地味だ。
でも、確かだった。
壁の向こうから声がした。
「まだ起きているのか」
「起きてる」
「寝ろ」
「今日はアリアさん、すごかったな」
「ああ」
「剣を戻せた」
「そして外せた」
「うん。そこが大事なんだな」
「そうだ」
レオンは報告書を閉じる。
「俺も、力を使うことより、止めることの方が難しい時がある」
「知っている」
「見られてるな」
「見ている」
短い言葉。
けれど、不思議と安心した。
「セリア」
「何だ」
「俺が進みすぎそうになったら、外してくれるか」
「何をだ」
「ええと……剣じゃないけど、気持ちを」
壁の向こうで、少し沈黙。
やがてセリアが言った。
「外すというより、止める」
「そっか」
「お前が戻れるように止める」
レオンは目を閉じた。
「ありがとう」
「受け取っておく」
「おやすみ、セリア」
「ああ。おやすみ、レオン」
灯りを落とす。
アリアは剣を腰に戻した。
そして、抜かなかった。
自分で外した。
それは、派手な勝利ではない。
けれど、剣を持ち続けるための大きな一歩だった。
支援室は明日もまた、その一歩を記録し、守る。




