第40話『腰帯だけの近衛騎士と、剣のない半日勤務』
アリア・グランフィールが近衛騎士団の宿舎内勤務へ戻る朝、彼女の腰には剣がなかった。
代わりに、白い腰帯だけがある。
近衛の制服に腰帯。
だが、そこへ収まるはずの剣がない。
鏡の前に立ったアリアは、しばらく自分の姿を見つめていた。
白い上着。
整えた金髪。
胸元の近衛騎士団章。
背筋はいつも通り伸びている。
それなのに、腰だけが空いている。
見慣れた自分の姿から、一本だけ線が抜け落ちているようだった。
「……妙ですわね」
アリアは小さく呟いた。
剣を持っていないだけ。
ただそれだけ。
けれど、その「だけ」が大きい。
剣のない腰は、もう凍えるほど寒くはなかった。
だが、まだ落ち着かない。
ふとした瞬間に、手が腰へ伸びる。
鞘の感触を探してしまう。
そこに何もないと分かるたび、自分が半分だけ近衛騎士から外れているような気がした。
机の上には、白銀聖騎士団から届いた今日の確認書が置かれている。
『復帰準備一日目。午前のみ。近衛宿舎内書類確認。王宮防衛区域立ち入り不可。剣返却不可。腰帯のみ。痛み・欲求は正直に申告』
その下に、ミラの走り書きがあった。
『勝手に廊下へ出たら怒る。腰帯だけでも腹立つくらいアリアだから大丈夫』
アリアは、その一文を見て少し笑った。
「本当に、言葉選びが独特ですわ」
腹立つくらいアリア。
褒め言葉としては、どう考えても奇妙だ。
だが、今のアリアには妙に効く。
剣がなくても、腹立つくらいアリア。
そう言ってくれる人がいる。
机の上には、クラウディアとノエルの手紙も置いてあった。
槍を置く時間。
聖歌集を開かない日。
今日はここまで。
彼女たちも、それぞれ自分の道の途中にいる。
「腰帯だけでも、近衛騎士」
アリアは鏡の中の自分へ言う。
声にすると、少しだけ輪郭が戻った。
「行きますわ」
◇
近衛宿舎の書類室へ向かう廊下は、いつもより長く感じた。
アリアに与えられた本日の仕事は、過去一週間分の巡回記録の確認と、儀礼警備表の誤記チェック。
剣を使う仕事ではない。
立つ仕事でもない。
戦う仕事でもない。
それでも、近衛騎士団の仕事ではある。
ガレス副長はそう言った。
――剣を持たぬ間に、剣を抜かぬ者の仕事を学べ。
いかにも副長らしい、硬くて、少しだけ不器用な言葉だった。
書類室の前には、若い近衛騎士が二人立っていた。
アリアを見て、二人は慌てて姿勢を正す。
「グランフィール先輩。おはようございます」
「おはようございます」
アリアはいつも通り微笑んだ。
「本日は書類確認に参りました」
二人の視線が、ほんの一瞬だけアリアの腰へ落ちた。
剣がないことに気づいたのだ。
気づかないはずがない。
近衛騎士にとって、腰の剣は顔の一部に近い。
アリアはその視線を感じた瞬間、胸の奥が少し硬くなった。
痛みではない。
恥ずかしさ。
悔しさ。
そして、見られたくないものを見られた感覚。
けれど、彼女は笑みを崩さなかった。
崩さないまま、今度は自分から言った。
「治療後の復帰準備中ですの。今日は剣なし勤務ですわ」
若い騎士の一人が、はっとした顔になる。
「し、失礼しました」
「失礼ではありません。見れば分かることですから」
アリアは少しだけ肩の力を抜いた。
「それに、隠しているわけではありませんわ」
言えた。
そう思った。
剣がないことを、自分で言えた。
若い騎士たちは深く礼をし、扉を開けた。
アリアは書類室に入る。
その背中は、いつもと同じように真っすぐだった。
◇
白銀聖騎士団の支援室では、朝からミラがそわそわしていた。
予定板の前を行ったり来たりしている。
レオンは三度目に通り過ぎたところで、つい声をかけた。
「ミラ、床が削れるぞ」
「削れないわよ」
「でも落ち着かないんだろ」
「落ち着かない」
即答だった。
ミラはアリアの欄を見る。
『復帰準備一日目/腰帯のみ/午前書類確認』
その文字を見て、また腕を組む。
「あの人、絶対平気な顔してる」
「いいことじゃないのか?」
「違うのよ。平気な顔をしすぎると、周りも平気なんだって思うでしょ。そうすると本人も、平気なふりを続けるしかなくなる」
ミラの声は、思ったより真面目だった。
リーネが頷く。
「その通りですね。今日のアリア様に必要なのは、平気でいることではなく、平気ではない時に申告できることです」
エルザは記録板を確認している。
「午前の途中報告は一刻後の予定です。近衛医務担当から、痛み、欲求、腰部確認動作、書類処理量が届きます」
「書類処理量まで見るのか」
レオンが言うと、エルザは真顔で答えた。
「集中力の確認に必要です」
「なるほど」
セリアは朝から王宮法務部の協定草案を読んでいたが、そこで顔を上げた。
「ミラ」
「はい」
「午後、短時間の確認に行け」
ミラの目が輝いた。
「いいんですか?」
「状態が安定していればな。午前を乗り切った後、余計に気が緩む可能性がある」
「見張ります」
「見舞いだ」
「見舞い兼監視です」
「……まあいい」
セリアが折れると、ミラは少しだけ嬉しそうに頷いた。
レオンはそれを見て笑った。
「ミラ、完全にアリア担当だな」
「ライバルだから」
「便利だな、その言葉」
「便利なのよ」
ミラは胸を張った。
以前なら否定していた言葉を、今では当たり前に使っている。
それもまた、少しずつの変化だった。
◇
近衛書類室での仕事は、想像以上に疲れた。
アリアは机に向かい、巡回記録を一枚ずつ確認していた。
いつもなら、書類の数字や時刻のずれを見つけるのは得意だ。
近衛の仕事は剣だけではない。
記録の精度もまた、防衛の一部。
それは分かっている。
けれど今日は、集中が途切れるたびに腰の空白が意識に上がってくる。
右手が腰へ伸びる。
何もない。
戻す。
しばらく書類を見る。
また伸びる。
何もない。
戻す。
「……四回」
アリアは小さく呟いた。
エルザに言われたわけではないのに、自分で数えていた。
腰部確認動作。
白銀式。
少し悔しい。
でも、数えることで少し落ち着くのも事実だった。
紙の上に小さく印をつける。
正の字の一画目。
腰へ手が伸びた回数。
そうしていると、扉が叩かれた。
「グランフィール。入るぞ」
ガレス副長だった。
「はい」
ガレスは書類室に入り、机の上を見る。
「進みは?」
「巡回記録は半分ほど。誤記が二つありました」
「痛みは」
「二・五です」
「欲求は」
アリアは少しだけ息を吐いた。
「剣を触りたい気持ちは四。王宮廊下へ出たい気持ちは五。治療の温かさを思い出す頻度は昨日より少ないです」
ガレスは黙って頷く。
「正直でよい」
アリアは思わず顔を上げた。
ガレス副長が、そんな言い方をするとは思わなかった。
「……白銀式ですわ」
「便利な言葉だな」
「皆様そうおっしゃいます」
ガレスは机の端の印を見る。
「それは?」
「腰へ手が伸びた回数です。四回」
「自分で数えたのか」
「ええ」
「よい」
短い一言だった。
だが、その言葉は思いのほか胸に響いた。
アリアは少しだけ目を伏せる。
「ありがとうございます」
「午前で終われ。午後は休め」
「書類はまだ残ります」
「明日でよい」
「……はい」
返事に少し間が空いた。
ガレスはそれを見逃さなかった。
「今、続きをやりたいと思ったな」
「思いました」
「よく言った。だが午前で終われ」
「はい」
ガレスはそれだけ言って出ていった。
扉が閉まる。
アリアは、ふっと力を抜いた。
近衛も、少し変わっている。
自分だけではない。
ガレス副長も、痛みや欲求を聞くことに慣れようとしている。
そのことが、少し不思議だった。
◇
一刻後、白銀支援室に途中報告が届いた。
エルザが読み上げる。
「痛み二・五。剣接触欲求四。王宮廊下復帰欲求五。治療温感追想は少なめ。腰部確認動作四回。巡回記録半分確認。誤記二件発見。午前で終了予定」
ミラは腕を組んだまま、何度も頷いた。
「いい。かなりいい」
「今日はいい判定が多いな」
レオンが言う。
「だって、いいんだもん。腰に手が伸びた回数を自分で数えたの、すごくいい」
リーネも微笑む。
「自分で気づけている証拠ですね」
セリアが言った。
「午後の訪問を許可する。ミラ、行ってこい」
「はい!」
「ただし、褒めすぎるな。調子に乗る」
「アリアが?」
「お前が」
「私!?」
セリアは淡々と続ける。
「見舞い兼監視。時間は半刻。剣の話をしすぎるな。休養を促して戻れ」
「分かりました」
「本当に?」
「本当に」
ミラは勢いよく頷いた。
レオンが横から言う。
「ミラ、頼んだ」
「……うん」
今日は照れながらも、ちゃんと受け取った。
エルザが記録板に書く。
「ミラ、依頼受領。反応安定」
「それは書かなくていい!」
「安定していませんでした」
「訂正しないで!」
◇
午前の書類確認が終わる頃、アリアはかなり疲れていた。
剣を振っていない。
立哨もしていない。
ただ書類を読んだだけ。
それなのに、背中が重い。
理由は分かっている。
剣がないまま近衛の仕事をする。
それ自体が、まだ慣れない緊張なのだ。
近衛医務担当から休憩を告げられ、アリアは東翼静養室へ戻った。
扉を閉めると、ようやく深く息を吐けた。
「……午前だけで、これほど」
椅子に座った瞬間、腰の力が抜けた。
疲れた。
悔しいけれど、疲れた。
剣を持っていない半日勤務が、ここまで消耗するとは思っていなかった。
少しして、扉が叩かれる。
「入るわよ」
ミラだった。
「今日も返事を待ちませんのね」
「待ったら、アリアが姿勢正すでしょ」
「もう正していますわ」
「ほら」
ミラは紙袋を持って入ってきた。
「今日は甘いパン」
「毎回食べ物を持ってきますのね」
「休ませるには食べさせるのが早いって、リーネが言ってた」
「なるほど。白銀式」
「便利に使うようになったわね」
アリアは甘いパンを受け取った。
少しだけ口にする。
温かい。
「午前、どうだった?」
ミラが尋ねる。
アリアは少し考えた。
「悔しかったです」
「何が?」
「書類だけなのに疲れたこと。腰帯だけで落ち着かなかったこと。若い騎士に剣のない腰を見られたこと」
「うん」
「でも、自分から言えました。治療後の復帰準備中です、と」
「おお」
ミラは素直に感心した。
「それ、かなり大きいじゃない」
「そうですの?」
「大きい。隠さなかったんでしょ」
「はい」
「じゃあ勝ち」
アリアは苦笑した。
「あなたの中では、本当に何でも勝ちになりますわね」
「必要なら勝ちにするの。負けた気分のままだとしんどいでしょ」
アリアは、ミラを見た。
騒がしくて、真っ直ぐで、時々驚くほど核心を突く少女。
彼女が支援室にいる理由が、少し分かる気がした。
「ミラ」
「何?」
「私は今日、剣なしで半日、近衛の仕事をしました」
「うん」
「疲れました。悔しかった。でも、逃げませんでした」
ミラは真顔で頷く。
「うん。すごい」
アリアの目が揺れた。
「……あなたにそう言われると、効きますわね」
「だから、急にそういうこと言わないで!」
「事実ですもの」
「もう、白銀式の悪いところだけ吸収してない?」
アリアは笑った。
その笑いは、午前中に固まっていた胸を少しほぐした。
◇
その日の午後、ノエルから短い連絡が届いた。
『聖歌集を一行目だけ開いた。声は出さない。白い布を握った。今日はここまで』
クラウディアからも報告が届いた。
『詩集を右手で押さえたまま、一頁だけめくりました。まだ少し怖いですが、紙の重さなら大丈夫でした』
支援室でそれを読んだレオンは、予定板を見上げた。
アリアは腰帯だけで書類仕事。
ノエルは一行目だけ開く。
クラウディアは一頁だけめくる。
みんな、少しずつ戻っている。
ただし、元の場所へ一気に戻るのではない。
間にある小さな段階を、一つずつ踏んでいる。
「今日は、三人とも“少しだけ”の日だな」
レオンが言うと、リーネが微笑んだ。
「とても良い日ですね」
エルザが予定板に書き込む。
『本日の共通項:一部復帰』
ミラが戻ってきて、それを見るなり言った。
「一部復帰って硬い」
「正確です」
「でも、嫌いじゃない」
「記録します」
「何を!?」
セリアが予定板を見て、静かに言った。
「一部ずつでいい」
その言葉に、レオンは頷いた。
一部ずつ。
右手の一頁。
聖歌集の一行目。
腰帯だけの半日。
それでいい。
◇
夕方、近衛騎士団から正式な経過報告が届いた。
アリア、復帰準備一日目終了。
痛み二・五。
剣接触欲求三。
王宮廊下復帰欲求四。
治療温感追想二。
腰部確認動作、午前四回、午後一回。
剣なし腰帯勤務、午前のみ完了。
翌日は午前・午後各一刻、宿舎内書類確認を許可。
剣返却は引き続き保留。
ミラがそれを読んで、満足そうに頷いた。
「かなり落ち着いてきた」
リーネも頷く。
「腰部確認動作が午後一回に減っていますね」
「自分で慣れてきたのか」
レオンが言うと、セリアは静かに答えた。
「慣れ始めた。だが、ここで剣を戻すと急ぎすぎる」
「まだ保留?」
「まだ保留だ」
ミラが言った。
「アリア、悔しがるだろうな」
「悔しがるだろう」
セリアは頷いた。
「だが、受け入れるだろう」
「そうね」
ミラは少し笑った。
「腹立つくらいアリアだから」
エルザは予定板に記入する。
『アリア:腰帯勤務成功/剣返却保留/翌日段階拡大』
レオンは、それを見て少しだけ安心した。
ようやく、アリアが戻る道の形が見え始めている。
◇
その夜、アリアは自室で腰帯を外した。
剣はまだない。
それでも、昨日より怖くなかった。
半日、剣なしで近衛の仕事をした。
若い騎士たちに見られた。
自分で説明した。
書類を読んだ。
誤記を見つけた。
疲れて、悔しくて、それでも逃げなかった。
「一部復帰、ですか」
白銀支援室から届いた経過まとめに、そんな言葉があった。
硬い。
硬いけれど、悪くない。
全部ではない。
でも、一部は戻った。
アリアは机の上の剣のない腰帯を見て、小さく微笑む。
「明日は、もう少し」
そう言ってから、すぐに首を横に振る。
「いいえ。一部ずつ、ですわね」
白銀式は、少し面倒だ。
だが、悪くない。
◇
白銀聖騎士団詰所の夜。
レオンは今日の報告書を読んでいた。
アリアの腰帯勤務。
ノエルの一行目。
クラウディアの一頁。
最後に、セリアの追記。
『全部でなくていい。一部ずつ戻ればいい』
レオンはその一文を見て、ふっと笑った。
壁の向こうから声がする。
「まだ起きているのか」
「起きてる」
「寝ろ」
「今日の追記もよかった」
「またか」
「全部でなくていい。一部ずつ戻ればいい」
「必要なことだ」
「うん。必要だな」
レオンは報告書を閉じた。
「アリアさん、今日は大きかったな」
「ああ」
「剣なしで近衛の仕事をした」
「一部だがな」
「一部でいいんだろ」
「そうだ」
少し沈黙。
レオンはゆっくり言った。
「俺も、一部ずつでいいのかな」
「何がだ」
「聖魔力源とか、支援室の中心とか、いろいろ急に増えたから。全部ちゃんとやらなきゃって思う時がある」
壁の向こうが、静かになった。
やがて、セリアが言った。
「一部ずつでいい」
短く、はっきりした声だった。
「お前も、全部を一度に背負う必要はない」
「……そうか」
「ああ。支援室は、そのためにある」
レオンは胸の奥が少し軽くなるのを感じた。
「ありがとう」
「受け取っておく」
「おやすみ、セリア」
「ああ。おやすみ、レオン」
灯りを落とす。
アリアは腰帯だけで半日を越えた。
ノエルは一行目を開いた。
クラウディアは一頁をめくった。
どれも全部ではない。
でも、それでいい。
一部ずつ戻る。
その地味で確かな道を、白銀聖騎士団の支援室は今日も記録し、守っていた。




