第39話『二日目の休養と、剣を持たない復帰判定』
アリア・グランフィールの休養二日目は、昨日より少しだけ静かに始まった。
近衛騎士団宿舎、東翼静養室。
窓から差し込む朝の光は薄く、王宮の白い壁を柔らかく照らしている。
アリアは寝台ではなく、窓際の椅子に座っていた。
剣はない。
昨日と同じように、腰は軽い。
けれど昨日ほど、寒くはなかった。
それが嬉しいような、少し寂しいような、不思議な感覚だった。
「……慣れてしまうのも、悔しいですわね」
小さく呟いたところで、扉が叩かれた。
「入るわよ」
今日も返事を待たず、ミラが入ってきた。
手には紙袋。
顔には眠そうな不機嫌。
そして、目だけはしっかりアリアを観察している。
「おはよう。立ってない?」
「ごきげんよう、ミラ。今日は座っていますわ」
「よし。痛みは?」
「三……いえ、二と三の間くらいですわ」
ミラはじっと見る。
「ごまかしてる?」
「ごまかしていません。三と言うには軽く、二と言うにはまだ怖い。だから、二と三の間です」
「……じゃあ二・五」
「数字にされましたわ」
「記録に便利でしょ」
アリアは小さく笑った。
「白銀式に染まってきましたわね、私も」
「いいことよ。たぶん」
ミラは椅子を引いて座ると、紙袋を机に置いた。
「今日は蒸しパン」
「また厨房ですの?」
「そう。私は作ってない」
「正直でよろしいですわ」
「その返し、私が昨日言ったやつに似てない?」
「影響ですわ」
「便利に使うなあ」
アリアは蒸しパンを一つ受け取った。
柔らかい甘さ。
昨日の焼き菓子よりも軽くて、朝にはちょうどよかった。
「剣、見たい?」
ミラが唐突に聞いた。
アリアは手を止める。
昨日なら、少し笑ってごまかしたかもしれない。
けれど今日は、少し考えてから答えた。
「見たいです。でも、昨日よりは弱いですわ」
「どれくらい?」
「昨日の夕方が七なら、今は四」
「治療の温かさをもう一回欲しい感じは?」
「三。朝は、そこまで強くありません」
「じゃあ記録。剣四、温かさ三、痛み二・五」
「ミラ、本当に記録係みたいですわね」
「エルザに鍛えられた」
「恐ろしい鍛錬ですわ」
二人は少し笑った。
その笑いが自然に出たことに、アリアは自分で驚いた。
剣がない朝。
それでも、笑えた。
昨日より少しだけ、剣のない自分が薄くならない。
「今日は、歩く?」
ミラが聞いた。
アリアはすぐに顔を上げた。
「よろしいの?」
「部屋の中だけ。リーネが来てから。廊下はまだ駄目」
「厳しいですわね」
「昨日、剣の音で立ちかけた人に言われたくない」
「返す言葉もありませんわ」
アリアは素直に認めた。
そう。
昨日、剣の音だけで身体が動いた。
あれは怖かった。
自分の意思より先に、近衛騎士としての身体が反応した。
けれど、座り直せた。
その記憶が、今も胸の奥に残っている。
「今日は、座り直す前に立たない練習ね」
ミラが言った。
「それは、ずいぶん地味な訓練ですわ」
「地味だけど大事」
「……ええ。そうですわね」
アリアは頷いた。
地味な訓練。
剣を振らない訓練。
休むための訓練。
それがこんなに難しいとは、数日前まで思ってもいなかった。
◇
白銀聖騎士団の支援室には、朝から三つの報告が並んでいた。
クラウディアから。
『本日は、右手を添えて詩集を開きました。閉じるより開く方が少し難しかったです。槍はまだ見ていません』
ノエルから。
『白い布を持って、聖歌集を机に置いた。今日は一行目だけ開くかもしれない。でも、開かないかもしれない』
そして、近衛宿舎からミラの第一報。
『アリア、痛み二・五。剣を見たい気持ち四。治療の温かさが欲しい気持ち三。朝食は蒸しパン一個半。昨日より落ち着いている。まだ腹立つくらいアリア』
エルザはそれを読み上げて、最後の一文で少しだけ止まった。
「……『腹立つくらいアリア』は、記録上どう処理すべきでしょうか」
レオンは笑ってしまった。
「そのままでいいんじゃないか?」
「医療記録としては不適切です」
リーネがくすくす笑う。
「では、『本人らしさ維持』でどうでしょう」
「採用します」
エルザは予定板へ書き込んだ。
『アリア:休養二日目朝/痛み二・五/本人らしさ維持』
セリアがそれを見て頷いた。
「良い傾向だ」
「ミラも頑張ってるな」
レオンが言うと、セリアは短く答えた。
「ああ」
「今日、本人に言う?」
セリアは一瞬だけ黙った。
「……言う」
「おお」
「何だ」
「いや、セリアがちゃんと褒める予定を立てたと思って」
「必要な評価だ」
「便利な言葉」
「便利だからな」
リーネが笑い、エルザが無言で記録板を上げた。
セリアが鋭く見る。
「書くな」
「まだ書いていません」
「なら書くな」
「検討します」
いつものやり取り。
だが、今日の支援室には落ち着きがあった。
アリアは一日目を越えた。
油断はできない。
けれど、少なくとも最初の山は越えた。
レオンは予定板を見ながら、ふと呟いた。
「今日、俺は行かない方がいいんだよな」
「基本は行かない」
セリアが答える。
「基本は?」
「午後の復帰可否判定では、支援室としてお前の意見も必要になるかもしれない。ただし直接治療はしない。接触もしない。顔を合わせるなら短時間だ」
「分かった」
「本当に?」
「本当に」
その確認に、レオンはもう慣れている。
いや、慣れたというより、支えに近くなっていた。
確認されることで、自分も止まれる。
◇
昼前、リーネとエルザが東翼静養室を訪れた。
ミラはまだ室内にいた。
アリアは椅子に座り、机の上に置かれた紙を見ている。
そこには、ミラの字で今日の目標が書いてあった。
『今日の目標:部屋の中を三往復まで。剣の音がしても廊下に出ない。暇だと言ったら深呼吸。痛みを二にしたくなっても二・五と言う』
リーネがそれを見て、微笑んだ。
「ミラさん、ずいぶん具体的ですね」
「昨日、色々あったので」
ミラが胸を張る。
エルザが紙を確認し、頷いた。
「分かりやすいです。支援室様式に取り込めます」
「やめて。私の雑な紙を様式にしないで」
「改善して使います」
「使う気だ!」
アリアは少し笑った。
リーネがアリアの体温、呼吸、魔力の揺れを確認する。
「状態は安定していますね。痛みは?」
「二・五です」
「欲求は?」
「剣を見る欲求が四。治療の温かさが欲しい気持ちは……三。時々四」
「正直に言えていますね」
「皆様に鍛えられましたので」
アリアは苦笑した。
エルザが記録する。
「自己申告精度、改善傾向」
「記録の人に褒められましたわ」
「褒めています」
「そういうところはミラに似てきましたわね」
「心外です」
「私も心外なんだけど!」
ミラが突っ込む。
リーネが柔らかく言った。
「では、室内歩行を試しましょうか。三往復までです」
アリアは一瞬、緊張した顔になった。
「歩くだけですのに、緊張しますわ」
「剣なしで歩くからでしょうね」
「ええ」
アリアは立ち上がった。
腰に剣がない。
昨日よりは慣れた。
でも、立つとやはり空白が分かる。
体の片側にあるはずの重さがない。
アリアは一歩踏み出した。
ゆっくり。
窓際から扉の手前まで。
一往復。
手が腰へ伸びかけた。
「一回」
ミラが言う。
「怒りませんの?」
「数えるだけ」
「本当に、あなたは私の癖をよく見ますわね」
「ライバルだから」
「便利な言葉ですわ」
二往復目。
今度は手が伸びなかった。
けれど、扉の前で一瞬止まる。
廊下の向こうから、誰かの足音が聞こえたからだ。
剣の音ではない。
ただの足音。
それでも、アリアの身体は反応した。
リーネが優しく声をかける。
「戻れますか?」
アリアは息を吸った。
「戻れます」
自分で言って、部屋の中央へ戻る。
三往復目。
最後は、少しだけ自然に歩けた。
終わると、アリアは椅子へ戻り、深く息を吐いた。
「……歩いただけで、疲れましたわ」
「剣なしで歩く練習、成功」
ミラが言う。
「また勝ちですの?」
「三勝目くらい」
「昨日から数えると?」
「もっとある」
アリアは少しだけ笑った。
「悪くありませんわね」
エルザが記録に残す。
『剣なし室内歩行三往復成功。腰部確認動作一回。扉前反応あり。本人、自力で戻る』
リーネが頷く。
「復帰可否判定に向けて、かなり良い材料です。ただし、まだ廊下は早いですね」
「分かっています」
アリアは素直に頷いた。
「今、扉の前で止まりかけましたから」
「それを自分で言えたので、大丈夫です」
リーネの言葉に、アリアは少し安心したようだった。
◇
午後、白銀聖騎士団支援室と近衛宿舎東翼静養室をつないで、復帰可否判定が行われた。
実際には、書面と伝令を介した確認だ。
だが、最終判断のため、セリア、リーネ、エルザ、ガレス副長が同席し、レオンも支援室側にいた。
アリア本人は静養室の椅子に座っている。
剣はまだ戻されていない。
ガレスが問う。
「痛みは」
「二・五です」
「欲求は」
「剣を見る欲求四。治療継続欲求三から四。王宮の廊下へ戻りたい気持ちは……六」
ミラが横で眉を上げる。
「六」
「そこは高いですわ」
「正直でよし」
ガレスは少し驚いたようにミラを見る。
だが、何も言わなかった。
セリアは支援室側で書類を見る。
「本日の状態から判断する。明日の完全任務復帰は不可」
アリアの表情が少し揺れた。
ガレスも眉を動かす。
「完全復帰は不可、か」
「ただし、復帰準備段階へ移行は可能」
「内容は?」
セリアが読み上げる。
「明日は午前のみ、近衛宿舎内での書類確認。王宮防衛区域への立ち入り不可。剣の返却は行わない。腰帯のみ着用許可。午後は休養継続」
アリアは目を瞬かせた。
「腰帯のみ?」
「剣なしで近衛の装備に少しずつ戻る練習だ」
リーネが説明する。
「いきなり剣を戻すより、身体と心の反応を確認しやすくなります」
「剣なしの腰帯……」
アリアは少し複雑そうな顔をした。
「それはそれで、かなり落ち着かなさそうですわね」
「だから練習になる」
ミラが言う。
「明日も私が見に行くから」
「また監視ですの?」
「復帰準備監視」
「肩書きが増えていますわ」
ガレスが低く言った。
「剣の返却はまだか」
セリアは即答する。
「まだだ」
「三日目以降か」
「状態次第だ。早ければ明後日、短時間の腰装着のみ。抜剣禁止。訓練禁止」
ガレスはしばらく考え、頷いた。
「妥当だ」
アリアは少しだけ肩を落とした。
完全復帰できないことへの落胆。
それでも、完全に止められたわけではないことへの安心。
両方が混じっている。
レオンは少し迷ってから、口を開いた。
「アリアさん」
伝令を通じて声が届く形だが、アリアは顔を上げた。
「はい」
「明日は戻る日じゃなくて、戻る準備の日だと思います」
アリアは黙って聞いている。
「剣を持たない腰帯って、たぶん変な感じだと思います。でも、剣を戻す前に、そこを通るのが大事なんだと思います」
少し間が空いた。
アリアは静かに笑った。
「レオン様は、いつも変なところを大事だと言いますわね」
「そうですか?」
「ええ。でも、今は少し分かります」
アリアは腰に手を当てた。
「剣の前に、腰帯。戦場の前に、書類。復帰の前に、準備」
「はい」
「……分かりました。明日は、戻る準備の日にします」
ミラがすかさず言った。
「勝手に戻る日へ変えたら怒る」
「はいはい」
「はいは一回」
「はい」
アリアが素直に返したので、ミラが逆に固まった。
「え、素直」
「鍛えられましたので」
静養室に小さな笑いが起きた。
◇
判定後、アリアは少しだけ静かになった。
ミラが残って、向かいの椅子に座っている。
「落ち込んでる?」
「少し」
「完全復帰したかった?」
「ええ」
アリアは正直に頷いた。
「胸は軽い。痛みも減りました。だから、戻れると思ってしまいました」
「でも欲求六だった」
「ええ。王宮の廊下へ戻りたい気持ちが、思ったより強かったですわ」
「それで戻ったら、たぶん動いちゃう」
「そうでしょうね」
アリアは窓の外を見る。
遠くに、王宮の尖塔が見えた。
「昨日までは、剣のことばかり考えていました。でも今日は、廊下のことを考えています。王宮の白い廊下。交代の足音。扉の前に立つ感覚」
「近衛に戻りたいんだ」
「戻りたいです」
「じゃあ、準備しないとね」
ミラは当たり前のように言った。
「戻りたいなら、戻る準備をちゃんとする。途中を飛ばしたら、戻る前に壊れる」
アリアはミラを見た。
「あなた、本当に時々、良いことを言いますわね」
「時々じゃない」
「では、かなり」
「それも昨日聞いた!」
二人は笑った。
アリアは胸元の内ポケットに手を当てる。
クラウディアとノエルの手紙が、まだそこにある。
「クラウディア様は、水差しや詩集から始めている。ノエル様は、聖歌集を開かない日も作っている」
「うん」
「私も、腰帯から始める」
「それでいい」
ミラは言った。
「剣は逃げない」
「皆様、本当に同じことを言いますわね」
「大事なことは何度も言うの」
アリアは、静かに頷いた。
◇
夜、支援室に最終報告が届いた。
アリア休養二日目、終了。
痛み二・五。
発熱なし。
呼吸安定。
剣を見たい欲求四。
王宮廊下へ戻りたい欲求六。
室内歩行三往復成功。
完全任務復帰は不可。
翌日は近衛宿舎内での書類確認のみ許可。
剣の返却は保留。
腰帯のみ着用許可。
エルザが予定板へ書き込む。
『アリア:休養二日目終了/復帰準備段階へ/剣返却保留/腰帯のみ』
レオンはそれを見て、ゆっくり息を吐いた。
「完全復帰じゃなくて、よかったんだよな」
「よかった」
セリアが答える。
「戻りたい気持ちが六ある状態で、剣を返すのは危険だ」
「アリアさん、落ち込んでるかな」
「落ち込むだろう」
「でも、受け入れた」
「ああ。それが大きい」
リーネが微笑む。
「今日は、本当に大きな日でしたね。休み切ることができた日です」
ミラも戻ってきていた。
少し疲れた顔だが、どこか満足そうでもある。
「アリア、今日はちゃんと休んだわよ」
「ミラもよく止めた」
セリアが言った。
ミラが固まる。
「……今、団長、私を褒めました?」
「褒めた」
「本当に?」
「本当に」
ミラの顔が一気に赤くなった。
「うわ、変な感じ!」
「失礼だな」
「嬉しいけど慣れないんです!」
レオンは笑った。
エルザが記録板を構える。
「ミラ、団長からの明確な評価を受領。反応大」
「今日は書いていい!」
「記録します」
支援室に笑いが戻った。
◇
その夜、アリアは静養室で一人、腰に手を当てていた。
剣はない。
明日も戻らない。
けれど、腰帯だけは着けることになった。
剣の前に、腰帯。
王宮の廊下の前に、宿舎内の書類。
復帰の前に、準備。
「……地味ですわね」
そう呟いて、少し笑った。
地味だ。
近衛騎士の物語としては、あまりに地味。
剣を掲げるでもなく、敵を斬るでもなく、王を守るでもない。
ただ、休む。
座る。
歩く。
欲しいと言う。
戻りたいと言う。
でも、その全部が今の自分には必要だった。
「明日は、腰帯だけ」
アリアは小さく言った。
「今日は、ここまでですわ」
その声は、もう昨日ほど震えていなかった。
◇
白銀聖騎士団詰所の夜。
レオンは今日の報告書を読んでいた。
アリア休養二日目。
休むことを最後までやり遂げた日。
完全復帰を望んだが、準備段階を受け入れた日。
セリアの追記がある。
『戻りたい者ほど、戻る前の一歩を飛ばしてはならない』
レオンはその一文を見て、少し笑った。
「今日もいい言葉だ」
壁の向こうから声がする。
「まだ起きているのか」
「起きてる」
「寝ろ」
「セリアの追記読んでた」
「明日も読める。寝ろ」
「それ、昨日も似たようなこと言ってた」
「毎日言う」
レオンは報告書を閉じた。
「アリアさん、二日目も越えたな」
「ああ」
「明日は腰帯だけ」
「それも大事な一歩だ」
「剣じゃなくて腰帯」
「剣を戻す前に、剣のない装備に慣れる」
「本当に、細かいな」
「細かくしないと、人は急ぐ」
セリアの声は静かだった。
レオンはその言葉に頷いた。
急がないために、段階を刻む。
クラウディアは水差しや詩集。
ノエルは聖歌集を置くだけ。
アリアは腰帯だけ。
全部、地味だ。
でも、必要な地味さだった。
「ミラ、今日すごく頑張ったな」
「ああ」
「褒めてた」
「必要な評価だ」
「嬉しそうだった」
「調子に乗らなければいいが」
「乗るかな」
「少しは乗るだろう」
二人とも、少し笑った。
それから、セリアが言った。
「レオン」
「何だ?」
「今日は、お前もよく待った」
「俺?」
「ああ。行きたい気持ちを抑えて、支援室で待った」
「……見抜かれてたか」
「顔に出ていた」
「魔力にも?」
「少し」
レオンは苦笑した。
「俺も、待つ練習中だな」
「そうだな」
「難しい」
「難しい。だが、できている」
その言葉が、今日の最後にちょうどよかった。
「ありがとう」
「受け取っておく」
「おやすみ、セリア」
「ああ。おやすみ、レオン」
灯りを落とす。
アリアは二日間の完全休養を越えた。
だが、まだ剣は戻らない。
明日は、腰帯だけ。
地味で、もどかしくて、けれど必要な一歩。
支援室は明日もまた、その小さな一歩を大げさなくらい丁寧に見守るのだろう。




