第38話『休むことが一番難しい騎士』
アリア・グランフィールの休養一日目は、朝から波乱含みだった。
理由は単純だった。
本人が、休むのに向いていなかったからである。
近衛騎士団宿舎、東翼静養室。
白いカーテンの揺れる部屋で、アリアは寝台に座っていた。
剣はない。
制服もない。
今日は治療後の完全休養日。
王宮防衛任務なし。
儀礼警備なし。
剣術訓練なし。
魔力結界展開なし。
待機任務すらなし。
すべて禁止。
そして、その「すべて禁止」が、アリアにとっては想像以上に苦痛だった。
「……暇ですわ」
アリアはぽつりと呟いた。
窓の外では、近衛騎士たちが交代のため中庭を歩いている。
白い制服。
整った足並み。
腰に剣。
王宮を守る者の空気。
昨日まで、自分もあちら側にいた。
いや、二日後には戻る予定だ。
分かっている。
分かっているのに、剣のない腰が落ち着かない。
胸の奥は、昨日より少し軽い。
痛みは三。
呼吸も深い。
治療は成功したのだろう。
だからこそ、動けそうな気がしてしまう。
「……少しくらい、歩くだけなら」
アリアが立ち上がりかけた瞬間、扉が叩かれた。
「入るわよ」
返事を待つ前に、ミラが入ってきた。
手には紙袋。
顔には完全な警戒。
「今、立とうとしたでしょ」
アリアは微笑んだ。
「ごきげんよう、ミラ。朝から鋭いですわね」
「ごきげんようじゃない。立とうとしたでしょ」
「少し、窓辺へ」
「駄目」
「窓辺くらい」
「駄目」
「厳しいですわね」
「休養一日目の患者が、剣のない腰でそわそわしながら窓辺へ行こうとしてる時点で、もう怪しいのよ」
ミラは椅子を引いて、アリアの正面に座った。
「痛みは?」
「三ですわ」
「本当?」
「本当です」
「胸の違和感は?」
「あります」
「剣を取りに行きたい?」
アリアは一瞬、黙った。
ミラの目が細くなる。
「今の沈黙、はいってことね」
「……見に行きたいだけですわ」
「駄目」
「見るだけでも?」
「見ると触りたくなる。触ると持ちたくなる。持つと振りたくなる。振ると怒られる。だから最初から駄目」
アリアは小さく笑った。
「見事な論理ですわね」
「経験則よ」
「あなたも、槍を見たら触りたくなりますの?」
「なる」
即答だった。
そのあまりの正直さに、アリアは少し驚いた。
ミラは少し視線を逸らしながら続ける。
「だから、分かるの。武器を遠ざけるのって、理屈よりしんどい。手が勝手に探す。体が重さを思い出そうとする」
アリアは、自分の腰に手を当てた。
剣の重さがない。
その空白が、朝からずっと気になっている。
「寒いですわ」
「うん」
「昨日より、少し楽になった分、余計に剣を持てそうな気がします」
「うん」
「それが怖いです」
「言えたじゃない」
ミラは紙袋を机に置いた。
中には焼き菓子が入っていた。
「朝ごはん食べた?」
「少し」
「少しって?」
「パンを半分ほど」
「少ない。食べなさい」
「ミラ、あなた本当に見舞いではなく監視ですわね」
「見舞い兼監視って言われてるから」
「律儀ですわ」
アリアは焼き菓子を一つ取った。
小さくかじる。
甘い。
胸の奥の軽さとは違う、普通の温度が口の中に広がる。
「美味しいですわ」
「厨房のだからね」
「今日も自作とは言わないのですね」
「嘘ついてどうするのよ」
アリアは微笑んだ。
この正直さが、少し羨ましかった。
◇
同じ頃、白銀聖騎士団の支援室では、アリアの朝の状態報告を待ちながら、別の報告が整理されていた。
クラウディアからは、短い手紙が届いていた。
『本日は、右手を添えて本を閉じました。軽い詩集ですが、表紙を押さえることができました。槍はまだ見ていません』
ノエルからも連絡があった。
『白い布を握って、聖歌集を机に置いた。今日は開かない。声も出さない。でも、それでいい気がする』
レオンは二つの報告を見て、静かに息を吐いた。
「みんな、休み方を覚えていってるんだな」
リーネが頷く。
「はい。とても大事なことです」
エルザは予定板にそれぞれ追記する。
『クラウディア:詩集の表紙保持成功』
『ノエル:聖歌集を開かない選択継続』
『アリア:休養一日目/朝報告待ち』
セリアは腕を組み、アリアの欄を見つめていた。
「ミラから連絡は?」
「まだです」
エルザが答える。
「ただし、予定では朝の見舞い兼監視後に状態報告が来ます」
「ミラなら、何かあればすぐ騒ぐだろう」
レオンが言うと、セリアは頷いた。
「そこは信頼している」
「ミラが聞いたら喜びそうだな」
「本人には言うな。調子に乗る」
「言わないのか?」
「必要なら言う」
セリアらしい返事だった。
レオンは少し笑った。
「今日は俺、行かない方がいいんだよな」
「ああ」
セリアは即答した。
「アリア殿は昨日、お前の魔力で痛みが軽くなったばかりだ。今日会えば、温度を思い出す可能性がある」
「分かってる」
「不安か?」
「少し」
「ミラとリーネが見る。午後にはエルザも確認に行く。必要なら私も行く」
「俺だけ行かない」
「それも支援だ」
レオンは、自分の手を見た。
何もしないこと。
会わないこと。
それが支援になる。
最近、何度も学んできたことだ。
でも、やはり難しい。
「分かった。俺は支援室で待つ」
「それでいい」
セリアは短く言った。
その短さが、今日はありがたかった。
◇
東翼静養室では、ミラがアリアに「休む練習」をさせていた。
「まず、椅子から立たない」
「それは練習と言いますの?」
「言う。次、窓の外を見すぎない」
「それは難しいですわ」
「じゃあ、三回に一回は室内を見る」
「雑ですわね」
「雑でもいいの」
ミラは机の上に小さな紙を置いた。
そこには、白銀支援室の文字でこう書かれている。
『今日の目標:剣を見に行かない。痛みを少なく言わない。暇だと言ったら深呼吸する』
アリアはそれを読んで、肩を震わせた。
「暇だと言ったら深呼吸」
「リーネ案」
「リーネ様、意外と容赦ありませんわね」
「優しい人ほど、こういうところちゃんとしてるのよ」
アリアは紙を指でなぞった。
「剣を見に行かない……」
「うん」
「……見たいですわ」
「言えた。よし」
「あなたは本当に、言えたらよしと言いますのね」
「言わないよりずっといいから」
ミラは少しだけ表情を緩めた。
「剣を見たいって言うのはいいの。勝手に行くのが駄目」
「では、言います。剣を見たいです」
「はい、駄目」
「即答」
「即答」
二人はしばらく見つめ合った。
先に笑ったのはアリアだった。
「あなたがいてよかったですわ」
ミラは固まった。
「……急にそういうこと言わないで」
「本心ですわ」
「余計に照れる!」
アリアは焼き菓子をもう一口食べた。
「昨日の治療の温かさを思い出します」
その言葉に、ミラの顔がすぐ真剣になる。
「今?」
「ええ。胸が少し軽いと、あの温かさをもう一度欲しくなります」
「痛みは?」
「三」
「欲しさは?」
「……六」
ミラは少し驚いた。
アリアがそこまで正直に言うとは思わなかったのだ。
しかし、すぐに頷いた。
「よし。支援室に送る」
「送りますの?」
「送る。欲しさ六は重要」
「恥ずかしいですわね」
「隠す方が危ない」
「ええ。分かっています」
アリアは胸元に手を当てた。
内ポケットには、クラウディアとノエルの手紙がある。
槍を置く時間。
歌を休む時間。
今日はここまでの日。
自分も今、その中にいる。
「ミラ」
「何?」
「私は今、剣を見たいです。治療の温かさも、もう一度欲しいです。でも、ここにいます」
ミラは、まっすぐアリアを見た。
「うん。今の、すごく大事」
「大事?」
「動かずに言えたから」
アリアは少しだけ目を伏せた。
「では、今日の私は少しだけ勝っていますわね」
「何に?」
「剣を見に行きたい私に」
ミラはにっと笑った。
「そういう言い方なら、認める」
◇
支援室に、ミラからの報告が届いたのは昼前だった。
エルザが読み上げる。
「アリア様、痛み三。発熱なし。呼吸安定。剣を見たい欲求あり。治療の温かさを再度求める感覚あり。本人申告、欲求六。ミラの制止により外出なし。焼き菓子摂取」
「最後いるか?」
レオンが聞くと、エルザは真顔で答えた。
「食事状況も重要です」
「そうか」
リーネは少し安心したように微笑んだ。
「欲求六を言えたのは大きいですね」
セリアも頷く。
「隠して動くよりいい」
「ミラ、ちゃんと見てるな」
レオンが言うと、セリアは短く答えた。
「ああ。よくやっている」
「本人に言う?」
「……必要なら言う」
エルザが記録板を上げる。
「団長、ミラ評価を保留」
「記録するな」
「保留も記録対象です」
「違う」
レオンは少し笑った。
それから、アリアへの短い返事を書く。
『剣を見たい、温かさが欲しい、と言えたことが大事だと思います。今日は動かずに言えたので、それだけで前進です。午後も無理をしないでください』
書き終えると、リーネが見て頷いた。
「よいと思います」
セリアも短く言う。
「送れ」
◇
午後、アリアはレオンからの短い返事を読んだ。
何度も。
『今日は動かずに言えたので、それだけで前進です』
動かずに言えた。
ただそれだけ。
けれど、確かに今の自分には難しいことだった。
剣を見に行きたい。
治療の温かさをもう一度欲しい。
それでも部屋にいる。
それを、前進と言ってくれる人がいる。
「本当に、困った方ですわ」
アリアが小さく呟くと、向かいに座るミラが焼き菓子をかじりながら言った。
「レオンの手紙?」
「ええ」
「変なこと書いてあった?」
「優しいことが書いてありました」
「ああ、いつものやつね」
「あなた、慣れていますの?」
「慣れないわよ。毎回変なところに刺さる」
アリアは微笑んだ。
「分かりますわ」
「分からないでほしい」
「無理ですわね」
二人は少し笑った。
午後の静養室は、午前より穏やかだった。
剣を見たい気持ちは消えていない。
温かさが欲しい気持ちもある。
でも、それを言葉にして、誰かに見張られて、焼き菓子を食べている。
それが、今のアリアの休養だった。
◇
夕方、事件は小さく起きた。
廊下の向こうで、近衛騎士たちの足音がした。
その中に、聞き慣れた金具の音が混じっていた。
剣の鞘が揺れる音。
アリアの身体が反応した。
椅子から立ち上がりかける。
ミラがすぐに腕を伸ばし、アリアの前に立った。
「座る」
「……今の音」
「剣の音ね」
「近衛の交代ですわ」
「分かってる。でも、アリアは座る」
アリアの呼吸が少し速くなる。
「確認だけ」
「駄目」
「何かあったのかもしれません」
「何かあったなら、ガレス副長が来る。来てないなら、何もない」
「でも」
「アリア」
ミラの声が低くなった。
「今行ったら、明日の朝めちゃくちゃ怒る」
「今ではなく?」
「今は止めるのが先。怒るのは明日」
アリアは、その言葉に少しだけ笑ってしまった。
笑ったことで、呼吸が一つ戻る。
「……あなた、怒る予定を翌日に回せますのね」
「怒りの予約よ」
「怖いですわ」
「座る?」
「座ります」
アリアはゆっくり椅子に戻った。
胸に手を当てる。
「今、行きたかったです」
「うん」
「剣の音がしただけで」
「うん」
「情けないですわ」
「情けなくない。反応しただけ」
ミラはアリアの前に立ったまま言う。
「座れたから勝ち」
「また勝ちですの?」
「今日は勝ちを増やす日」
アリアは目を伏せた。
「では、二勝目ですわね」
「そう。午前に剣を見に行かなかった。一勝。今、剣の音で立ちかけたけど座った。二勝」
「……悪くない数え方ですわ」
ミラは胸を張った。
「でしょ」
◇
その報告が支援室へ届いた時、レオンは思わず息を止めた。
「剣の音だけで?」
「それだけ、身体が覚えているということです」
リーネが言った。
「でも、座れたのはとても大きいですね」
エルザが追記する。
『剣音反応あり。立ち上がり未遂。ミラ制止により着席。本人、行きたい欲求を言語化』
セリアはその記録を見て、静かに言った。
「今日の最大の山だったかもしれないな」
「行かなかったんだな」
レオンが言う。
「ああ。行かなかった」
それだけなのに、胸が熱くなった。
アリアは今、剣を持っていない。
剣の音がすれば、身体が動く。
それでも座った。
それは、確かに勝ちだった。
◇
夜。
アリアの静養室に、ガレス副長が顔を出した。
「どうだ」
「痛みは三。欲求は……剣に関しては五、治療の温かさに関しては四ですわ」
ガレスは一瞬だけ眉を上げた。
「ずいぶん正直になったな」
「白銀式です」
「便利な言葉だ」
「ええ」
アリアは少し笑った。
「今日、剣の音を聞いて立ちかけました」
「報告は受けている」
「行きたかったです」
「だろうな」
「でも、座りました」
ガレスは静かに頷いた。
「よく座った」
アリアは目を見開いた。
副長からそんな言葉が出るとは思わなかった。
「……ありがとうございます」
「明日も座っていろ」
「はい」
「剣は逃げん」
そう言って、ガレスは部屋を出ていった。
アリアはしばらく扉を見ていた。
それから、小さく笑う。
「皆様、同じことを言いますのね」
剣は逃げない。
分かっている。
それでも、誰かに言われると少し楽になる。
◇
白銀聖騎士団詰所の夜。
レオンは今日の報告書を読み返していた。
アリア休養一日目。
剣を見たい欲求。
温かさを求める感覚。
剣の音への反応。
それでも、外へ出なかったこと。
最後に、セリアの追記があった。
『動かずに言えた日。座り直せた日』
レオンはその一文を見て、静かに息を吐いた。
壁の向こうから声がする。
「まだ起きているのか」
「起きてる」
「寝ろ」
「今日はアリアさん、頑張ったな」
「ああ」
「治療した昨日より、今日の方が大変だったのかもしれない」
「そうだな」
「動かないって、難しいんだな」
「難しい。特に動ける者ほど」
レオンは少し黙った。
アリアはもう動ける。
痛みも少し軽い。
だからこそ、動かないことが難しい。
「ミラも頑張った」
「ああ。よく止めた」
「本人に言う?」
壁の向こうが少し静かになる。
「……明日、言う」
「お」
「何だ」
「いや、セリアが素直だと思って」
「必要な評価だからな」
「万能返答」
「便利だからな」
二人とも少し笑った。
レオンは報告書を閉じる。
「俺、今日会わなくてよかったのかな」
「よかった」
「即答だな」
「アリア殿は今日、治療の温かさを求めていた。お前が行けば、欲求が強まった可能性がある」
「分かってる」
「会わないことも支援だ」
「うん」
その言葉は、昨日より少しだけ胸に馴染んだ。
何もしないこと。
会わないこと。
距離を取ること。
それも、誰かを守る方法なのだ。
「おやすみ、セリア」
「ああ。おやすみ、レオン」
灯りを落とす。
アリアは一日目を越えた。
剣の音を聞いても、座り直した。
治療の温かさを欲しても、言葉にした。
休むことが一番難しい騎士は、今日、確かに休むことと戦っていた。
そして支援室は、彼女が剣のない一日を越えられるように、遠くから支えていた。




