第46話『声になりたい息を、白い布へ戻す日』
ノエルが白銀聖騎士団へ来る前に、支援室では少しだけ議論が起きていた。
原因は、神殿治癒院から届いた一文だった。
『ノエル本人、「声を出したい気持ちを布に戻す練習をしたい」と希望』
ミラはそれを読んで、腕を組んだまま首を傾げた。
「……言葉としては分かるんだけど、実際どうするの?」
レオンも同じことを思っていた。
クラウディアが槍へ伸びかけた手を膝へ戻した。
アリアが柄へ伸びそうになる手を膝へ戻す練習を始めた。
では、ノエルの場合はどうなるのか。
声は手ではない。
伸びるものではない。
でも、出そうになるものではある。
リーネが静かに言った。
「息だと思います」
「息?」
「はい。声になる前の息。歌になる前の喉の動き。その段階で、白い布を握って止まる。声を出さないのではなく、声になりたい息を自分で戻す、という形でしょうか」
エルザが記録板へ書き込む。
「本日の目標案。聖歌集三行目を視認するかは未定。発声欲求が出た場合、白布を握り、息を整える。発声の有無ではなく、発声欲求の言語化および自己調整を評価」
「硬い」
ミラが即座に言った。
「でも、今日のエルザの硬さは必要な硬さね」
「褒めていますか?」
「褒めてる」
「受領します」
「エルザまで受け取り上手になってきた」
レオンが笑うと、エルザは少しだけ目を逸らした。
セリアは面談室の配置図を見ていた。
「今日は、聖歌集を開くかどうかも本人に任せる。三行目を見るかどうかも本人に任せる。ただし、声を出したい気持ちが出たら、必ず言葉にする」
「声を出したい気持ちを、声に出して言うの?」
ミラが言うと、少し変な沈黙が落ちた。
たしかに、ややこしい。
レオンは考えてから言った。
「『出したい』って言えない時は、布を握るだけでもいいんじゃないかな」
リーネが頷く。
「そうですね。言えない時の合図も必要です。白い布を強く握ったら、発声欲求が高まっている可能性として確認する」
エルザが追記する。
「白布強握りを合図として扱う。本人同意を取る」
ミラが少しだけ不安そうに言った。
「今日、ノエル泣くかもね」
「泣いてもいい」
セリアが短く答えた。
「泣くことを失敗にしない」
その言葉に、支援室の空気が静かに整った。
今日の目標は、声を出すことではない。
声を出したい気持ちを、自分で戻せるか。
それだけだ。
◇
ノエルは、白い布を両手で握って来た。
聖歌集はシスティナが持っている。
それだけで、いつもと違った。
門の前でミラが気づく。
「あれ。今日は聖歌集、自分で持ってないの?」
「うん」
ノエルは小さく頷いた。
「持ってると、開かなきゃって思うから」
「じゃあ今日は?」
「システィナ様に預けてる。開きたくなったら、返してもらう」
「いいじゃん」
ミラがそう言うと、ノエルは少しだけ目を細めた。
「ミラがいいって言うと、少し安心する」
「だから急にそういうこと言わないで」
「何で?」
「照れるから!」
ノエルはほんの少し笑った。
その笑いは、声というより息に近かった。
セリアが確認する。
「今日は、声を出したい気持ちを布へ戻す練習だと聞いている」
「うん」
「聖歌集を開くかどうかは、本人が決める」
「うん」
「三行目を見るかどうかも、本人が決める」
「うん」
「声は、出しても出さなくてもいい」
ノエルは少し黙った。
それから、小さく言う。
「出したい気持ちは、あるかもしれない」
「それを言えたら十分だ」
ノエルはセリアを見た。
「団長は、短いけど、たまに優しい」
「必要なことを言っているだけだ」
「それ、白銀の合言葉?」
「ほぼそうだ」
ミラが横から答えた。
ノエルは少しだけ笑い、白銀聖騎士団の門をくぐった。
◇
面談室に入ると、ノエルはいつもの席に座った。
出口に近い椅子。
机の上には、白い札。
『今日はここまで』
その隣に、裏返しの緊急札。
そして、何も置かれていない中央の空白。
聖歌集は、まだシスティナの手元にある。
ノエルは白い布を両手で握った。
「今日、聖歌集を開くかどうか、まだ決めてない」
「はい」
レオンは頷いた。
「決めてないままで大丈夫です」
「でも、来たからには開いた方がいい気がする」
「開かない日もありました」
「うん」
「今日も、開かないで終わっても大丈夫です」
ノエルは布を見下ろした。
「それだと、何しに来たのか分からない」
ミラがすぐ言った。
「白銀に来る練習」
ノエルが顔を上げる。
「来る練習?」
「そう。神殿じゃない場所に来て、何もしないで帰ってもいいって覚える練習」
「……何もしないで帰るのも練習?」
「たぶん。私だったら、訓練場に行って槍を振らずに帰るの、けっこう難しいし」
ノエルは、ミラをじっと見た。
「ミラは、変だけど分かりやすい」
「褒めてる?」
「たぶん」
「たぶんかあ」
少しだけ、空気が緩む。
ノエルはシスティナを見る。
「聖歌集、置いて」
「はい」
システィナは聖歌集を机に置いた。
ノエルはまだ触らない。
ただ見る。
「今、開きたい気持ちは?」
リーネが尋ねる。
「五」
「声を出したい気持ちは?」
「まだ、二」
「怖さは?」
「六」
エルザが記録する。
「本人、開封欲求五、発声欲求二、恐怖六を申告」
ノエルがエルザを見る。
「今日も書いてる」
「はい」
「書かれるの、前より嫌じゃない」
「それは良い変化です」
「たぶん」
「たぶんでも、記録します」
ノエルは小さく頷いた。
そして、聖歌集に手を伸ばした。
◇
聖歌集が開かれる音は、とても小さかった。
一行目。
ノエルは見た。
二行目。
少しだけ呼吸が浅くなる。
三行目。
昨日見た場所。
その文字列が視界に入った瞬間、ノエルの白い布を握る手が強くなった。
レオンはすぐ気づいた。
けれど、急かさない。
ノエルの唇がわずかに動いた。
声は出ていない。
でも、息が声になりたがっている。
喉が、昔の形を思い出そうとしている。
ノエルの目が揺れた。
「……出したい」
小さな声だった。
言葉そのものは出た。
でも、それは聖歌ではない。
発声欲求の申告。
「声を?」
レオンが聞く。
ノエルは頷く。
「出したい。三行目、読めるかもって思った」
「はい」
「でも、今日は声を出す日じゃない」
「はい」
「出したい気持ち、どれくらい?」
ミラが聞いた。
「七」
部屋の空気が少し緊張する。
七。
かなり高い。
リーネが静かに言う。
「白い布へ戻せますか?」
ノエルは布を握った。
強く。
けれど、それだけでは戻らない。
唇がまた動きそうになる。
「出したい」
今度は少し泣きそうな声だった。
「出したら、出るかもしれない」
「うん」
ミラが頷く。
「出るかもしれないね」
ノエルは驚いたようにミラを見る。
「止めないの?」
「止めるよ。でも、出るかもしれないって思ったことは否定しない」
「出してみたい」
「うん」
「でも、怖い」
「うん」
「出たら、次も出さなきゃってなる」
「たぶんね」
「出なかったら、また駄目だったって思う」
「それも、たぶん思う」
ミラは、今日はとても静かだった。
「だから今日は、出したいって言って終わるのも勝ちだと思う」
「勝ち?」
「うん。出すか出さないかじゃなくて、出したい気持ちを言えたから」
ノエルの目から涙が落ちた。
「……ミラは、変」
「今日はそこに戻るの?」
「変だけど、分かりやすい」
「ならいいけど」
ノエルは白い布を胸元へ寄せた。
声になりたがっていた息が、震えながら戻っていく。
喉ではなく、手の中へ。
白い布へ。
ノエルは目を閉じた。
「今日は、声を出さない」
その声は、はっきりしていた。
出さないと決めるための声。
聖歌ではない。
けれど、自分の声だった。
レオンは頷いた。
「はい」
「でも、出したかった」
「はい」
「それは、覚えてて」
「覚えています」
「次、私が出したくなかったみたいに言いそうだから」
「何回でも言います。今日は、出したかったけれど、出さないと決めた日です」
ノエルは泣いた。
でも、聖歌集は閉じなかった。
三行目をもう一度見ようとはしない。
ただ、開いたまま、白い布を握って泣いていた。
◇
しばらくして、ノエルは自分で聖歌集を閉じた。
白い札には、まだ触れていない。
机の上の札を見て、少し迷う。
「今日はここまでって、言った方がいい?」
リーネが優しく答える。
「言わなくても終われますよ」
「でも、言いたい」
「では、言いましょう」
ノエルは白い札に触れた。
ゆっくり倒す。
「今日は、ここまで」
声が出た。
それは、発声しないと決めた後の声だった。
ノエル自身も、それに気づいたように少し目を丸くする。
「……声、出た」
ミラがすぐ言った。
「聖歌じゃない」
「うん」
「三行目でもない」
「うん」
「終わるための声」
ノエルは白い札を見た。
「終わるための声」
「それなら、今日の目的に合ってると思う」
ノエルは、少しだけ笑った。
泣きながら。
「ミラ、今日は本当に分かりやすい」
「いつも分かりやすいわよ」
「うるさい日もある」
「否定できない」
システィナは、とうとう一粒だけ涙をこぼした。
ノエルがすぐ見る。
「泣いた」
「一粒です」
「一粒ならいい」
「ありがとうございます」
システィナは本当に一粒だけでこらえた。
白銀式の成果だった。
◇
ノエルが帰ったあと、支援室では記録の表現を慎重に決めた。
エルザが読み上げる。
「ノエル様、聖歌集三行目を視認。発声欲求七を本人申告。発声せず、白布を握り自己調整。『今日は声を出さない』と本人が決定。その後、白札を倒し『今日はここまで』と発声。聖歌としての発声なし」
「いいと思う」
レオンが言うと、ミラも頷いた。
「聖歌じゃなくて、終わるための声。そこ、入れてほしい」
エルザが追記する。
「『終了意思表示としての発声あり』」
「硬いけど、正しい」
「ありがとうございます」
リーネが微笑む。
「今日のノエル様にとって一番大事なのは、声を出したことではなく、声を出したい気持ちを扱えたことですね」
セリアが予定板に追記した。
『声になりたい息を、布へ戻せた日』
レオンはその文字を見て、静かに笑った。
「今日もいい」
「必要なことだ」
「うん」
その時、エルンスト公爵家から報告が届いた。
『クラウディア、本日は槍を見ない日。右手を膝へ戻す練習として、詩集を開く前に右手を一度膝へ置く動作を行った。本人発言、「戻せる手は、焦らず伸ばせると思います」』
さらに近衛からも報告が届く。
『アリア、本日は柄へ伸びる手を膝へ戻す練習を実施。封印剣は腰装着せず。ノエルの報告を受け、「声になりたい息があるなら、剣を抜きたい手があっても当然ですわね」と発言』
ミラが目を丸くした。
「みんな、すごい受け取り方するわね」
リーネが頷く。
「それぞれ、自分の形に置き換えているんですね」
レオンは予定板を見た。
クラウディア。
ノエル。
アリア。
三人はまだ同じ部屋にいない。
でも、確かに支援室の中で互いの一歩を受け取っている。
◇
夜、神殿治癒院の部屋で、ノエルは白い布を握っていた。
聖歌集は閉じてある。
今日はもう開かない。
出したかった。
声を。
三行目を。
読めるかもしれないと思った。
それでも、出さないと決めた。
白銀から届いた記録の写しには、こう書かれていた。
『声になりたい息を、布へ戻せた日』
ノエルはその一文を指でなぞる。
「声になりたい息……」
少し変な言葉だと思った。
でも、嫌いではなかった。
自分の喉にいたものが、無理に押し込められたわけではなく、白い布へ戻って休んでいるように感じたからだ。
「今日は、出したかった」
ノエルは小さく言った。
その声は震えていない。
「でも、出さなかった」
それも、自分の声だった。
◇
白銀聖騎士団詰所の夜。
レオンは報告書を読んでいた。
ノエルの面談。
発声欲求七。
声を出したい気持ち。
白い布。
終わるための声。
最後に、セリアの追記がある。
『出したいものを、出さないと決める力もまた回復だ』
レオンはしばらくその一文を見ていた。
壁の向こうから声。
「まだ起きているのか」
「起きてる」
「寝ろ」
「今日の追記、すごく刺さった」
「またか」
「出したいものを、出さないと決める力もまた回復だ」
「ああ」
「ノエル、すごかったな」
「すごかった」
「声を出したいって言えた」
「ああ」
「出さないって決めた」
「ああ」
「俺だったら、出せるかもって思ったら、出してみたくなるかもしれない」
「だろうな」
「即答」
「だから支援室がある」
レオンは笑った。
そして、少しだけ真面目に言った。
「俺にも、出したいものってあるのかな」
「あるだろう」
「何だろう」
「助けたいという衝動。もっと流したいという魔力。大丈夫だと言われたい弱さ」
レオンは返事ができなかった。
壁の向こうの声は、静かだった。
「それらを出すなとは言わない。ただ、出す時を選べ」
「……白銀式だな」
「そうだ」
レオンは報告書を閉じた。
「ありがとう」
「受け取っておけ」
「受け取る」
「なら寝ろ」
「はい」
「はいは一回でいい」
「一回だった」
「そうだったな」
小さく笑って、レオンは灯りを落とした。
ノエルは声を出したかった。
でも、出さなかった。
それは失敗ではない。
声を失った少女が、自分の声の入口を自分で守った日だった。




