第36話『治療前夜、三つの小さな応援』
アリア・グランフィールの初回治療まで、あと二日。
白銀聖騎士団の支援室では、朝から予定板の前に全員が集まっていた。
エルザが棒で予定板を指す。
「本日の確認事項。一、アリア様の治療前最終面談。二、剣封印手順の再確認。三、治療後休養場所の確認。四、治療当日の白銀側立会人決定。五、ミラの興奮管理」
「五番!」
ミラが即座に抗議した。
「何で私だけ毎回管理対象なのよ!」
「アリア様関連では、ミラの感情反応が治療環境に影響するためです」
「言い方!」
レオンは苦笑した。
「でも、ミラがいるとアリアさんが本音を言いやすいのは確かだと思う」
「ほら、レオンまでそういうことを……」
ミラは言いかけて、途中で止まった。
頬が少し赤くなる。
「……まあ、それなら、仕方ないけど」
リーネがにこにこしている。
「素直ですね、ミラさん」
「素直じゃないです!」
「素直です」
「リーネまで!」
セリアは机の上で書類を整えながら言った。
「ミラは当日も立ち会う。ただし、治療中は必要以上に口を挟まない」
「はい」
「アリア殿が痛みや怖さを隠そうとした場合は、言っていい」
「はい!」
「声量は抑えろ」
「……はい」
ミラは一瞬だけしょんぼりしたが、すぐに胸を張った。
「つまり、ここぞという時だけ刺せばいいんですね」
「言い方は物騒だが、だいたい合っている」
セリアが真顔で答えたので、レオンは思わず笑ってしまった。
支援室の空気は、いつも通り騒がしい。
けれど、その奥には確かな緊張があった。
アリアの初回治療。
クラウディアやノエルとは、また違う難しさがある。
損傷部位は胸部中央に近い。
治療によって楽になる可能性は高い。
そのぶん、もっと欲しくなる危険もある。
そして、治療後には剣を置いて二日休まなければならない。
アリア自身も、近衛騎士団も、そこを受け入れた。
だが、受け入れたからといって怖くなくなるわけではない。
「レオン」
セリアが呼んだ。
「何だ?」
「当日は、最大三分だ」
「分かってる」
「胸部へ直接触れない」
「分かってる」
「痛みが減っても、楽になっても、本人が続けたがっても、三分で終わる」
「……分かってる」
「本当に?」
レオンはセリアを見た。
その確認は、もう何度も聞いている。
でも、今日は少し重く聞こえた。
「本当に分かってる。アリアさんが楽になったとしても、初回は三分で止める」
「よし」
セリアは頷いた。
ミラも腕を組んで頷く。
「私も見てるから」
「頼りにしてる」
「だから急に……」
ミラは言いかけて、今日はぐっとこらえた。
「……うん。頼られた」
リーネが小さく拍手した。
「ミラさん、受け取りましたね」
「受け取りました!」
エルザが記録板を上げる。
「ミラ、信頼受領能力向上」
「もうそれは書いていいわよ!」
「では記録します」
セリアが呆れたように息を吐いたが、口元は少しだけ緩んでいた。
◇
その日の昼前、支援室に二通の手紙が届いた。
一通はエルンスト公爵家から。
もう一通は神殿治癒院から。
差出人の名前を見て、レオンは少し首を傾げた。
「クラウディア様と、ノエル?」
エルザが受け取った封書を確認する。
「どちらもアリア様宛てです。ただし、支援室経由で渡してほしいとのことです」
「アリアさん宛て?」
ミラが身を乗り出す。
「クラウディアとノエルが?」
「はい」
リーネが柔らかく微笑む。
「直接会ったことはなくても、支援室の中で少しずつ繋がっているのかもしれませんね」
セリアは封書を机に置いた。
「本人宛てなら、勝手に開封はしない」
「でも、内容は確認しなくていいのか?」
レオンが聞くと、セリアは少し考えた。
「安全上、差出人から内容共有の許可があるか確認する。エルザ」
「はい。添付文に、支援室確認可とあります。応援文であり、医療機密に関わる内容はないとのことです」
「なら、要点のみ確認する」
まず、クラウディアの手紙が開かれた。
文字は整っているが、以前より少し柔らかい。
『アリア様へ。
直接お目にかかったことはありませんが、支援室を通じて、あなたが剣を置く準備をされていると知りました。
私は今も槍を握れていません。
けれど、槍から離れている時間が、槍を諦める時間ではないことを、少しずつ知りました。
右手は、槍の前に水差しやハンカチを思い出しています。
アリア様の剣も、きっと二日間あなたを見捨てません。
どうか、剣を置く時間を、剣に戻るための時間として過ごせますように。
クラウディア・エルンスト』
読み終えたあと、支援室はしばらく静かだった。
ミラが最初に口を開いた。
「……あの子、本当に強くなってる」
リーネが頷く。
「はい。自分の経験を、誰かの支えにできるようになっています」
レオンは手紙の一文を見つめていた。
剣も、きっと二日間あなたを見捨てません。
クラウディアだから書ける言葉だと思った。
槍から離れている彼女だからこそ。
「アリアさん、これ読んだら効きそうだな」
レオンが言うと、ミラは少しだけ複雑そうな顔をした。
「効くわね。……ちょっと悔しいけど」
「また悔しいのか」
「だって、いい言葉なんだもん」
次に、ノエルの手紙が開かれた。
クラウディアのものより、ずっと短かった。
文字も少し不揃いだ。
『アリアへ。
私は歌えない日があります。
声が出ない日もあります。
でも、白い布を握って、今日はここまでって言う日は、少し楽です。
剣を置く日も、たぶん今日はここまでの日なんだと思います。
私はまだ三行目を読めていません。
でも、三行目の前まで来ました。
アリアも、剣を置く前まで来たんだと思います。
ノエル』
読み終えた瞬間、ミラは両手で顔を覆った。
「……何なの今日。胸に来る手紙しか来ない」
「ミラ、今日ずっと胸に来てるな」
「来るものは来るの!」
リーネは目元を押さえていた。
エルザも、少しだけ筆を止めている。
セリアは静かに言った。
「これは、アリア殿に渡そう」
「はい」
レオンは頷いた。
「治療前に」
「そうだな」
セリアは二通の手紙を丁寧に封筒へ戻した。
「ただし、本人が読みたくないと言えば読ませない」
「もちろん」
レオンは、予定板を見た。
クラウディア。
ノエル。
アリア。
支援対象者として並んでいた三つの名前が、初めて線で繋がったように感じた。
◇
午後、アリアは予定通り白銀聖騎士団へ来た。
今日は近衛の白い制服ではなかった。
淡い青の上着に、黒い細身のズボン。
剣は腰にある。
ただし、昨日よりも白い封印布がしっかり巻かれていた。
ミラがそれを見て言う。
「今日は近衛制服じゃないのね」
アリアは微笑む。
「治療前の面談ですから。少しずつ、剣以外の自分にも慣れる練習ですわ」
「おお」
ミラは素直に感心した。
「ちゃんと練習してる」
「ミラに怒られたくありませんので」
「またそれ!」
アリアは楽しそうに笑ったが、やはり少し緊張しているようだった。
レオンには、彼女の魔力の揺れが見える。
胸の奥の損傷が、いつもより硬い。
心が身構えているのだ。
面談室ではなく、今日は支援室で話すことになった。
予定板が見える場所。
クラウディア、ノエル、アリアの名前が並ぶ場所だ。
アリアは予定板を見上げて、少しだけ目を細めた。
「こうして見ると、私も本当に順番待ちなのですわね」
「そうよ」
ミラが言う。
「割り込み禁止」
「心得ておりますわ」
「本当に?」
「本当に」
アリアはふっと笑う。
「それを言うと、なぜか皆様に疑われますわね」
「アリアだからだ」
セリアが短く言った。
「団長まで」
支援室に笑いが起きる。
笑いが落ち着いたところで、セリアが二通の封書を差し出した。
「アリア殿。クラウディア令嬢とノエル殿から、支援室経由で手紙が届いている」
アリアの表情が変わった。
「私に?」
「ああ。ただし、読むかどうかはお前が決めていい」
アリアは封書を見つめた。
少し長い沈黙。
「……読みます」
声は静かだった。
まず、クラウディアの手紙。
アリアは一文字ずつ、丁寧に読んだ。
読み終えると、しばらく便箋から目を離さなかった。
「剣も、二日間あなたを見捨てません……」
小さく呟く。
その声は、少し震えていた。
ミラは何も言わない。
次に、ノエルの手紙。
こちらは短い。
だが、アリアは途中で一度、目を閉じた。
「剣を置く前まで来た……」
彼女は静かに息を吐いた。
「困りましたわね」
「何が?」
レオンが聞く。
アリアは、少しだけ泣きそうな笑みを浮かべた。
「私は、まだ何もしていないのに、二人に先を歩かれている気がします」
リーネが優しく言った。
「それぞれの道ですから」
「ええ。でも……心強いものですわね。自分だけが怖いわけではないと知るのは」
ミラが腕を組む。
「そうよ。みんな怖いのよ。クラウディアも、ノエルも、アリアも」
「あなたは?」
「私?」
ミラは一瞬だけ考えた。
「私は、あんたが無茶して壊れるのが怖い」
また、まっすぐだった。
アリアは何も返せなかった。
レオンも、少し息を止めた。
ミラは照れ隠しのようにそっぽを向く。
「だから、ちゃんと怖いって言いなさい。そうしたら怒る前に止めるから」
アリアは便箋を胸元に寄せた。
「……怖いですわ」
その言葉は、小さかった。
でも、確かだった。
「明後日、剣を置くのが怖い。治療で楽になってしまうのも怖い。楽になったあと、剣がない二日間を過ごすのが怖い」
「うん」
ミラが頷く。
「言えたなら、まずよし」
「ずいぶん上からですわね」
「ライバルだから」
「便利な言葉ですわ」
「そっちも使えば?」
アリアは少し考えた。
「では、ライバルとして言います。ミラ、治療後の二日間、私が痛みを少なく言ったら、遠慮なく怒ってくださいませ」
「任せて」
ミラは即答した。
「めちゃくちゃ怒る」
「頼もしいですわ」
「だから、そういう言い方が照れるの!」
支援室に笑いが戻った。
◇
最終確認は、予定より時間をかけて行われた。
治療当日の流れ。
朝、近衛武具庫に剣を預ける。
その後、白銀聖騎士団の医務室へ移動。
治療前に痛み申告。
左手接触のみで最大三分。
胸部への直接接触なし。
治療後、リーネとエルザが初期確認。
アリアは近衛宿舎東翼静養室へ移動。
二日間は完全休養。
ミラは短時間の見舞い兼監視を許可。
「見舞い兼監視」
アリアが復唱する。
「なかなか物々しいですわね」
「監視メインで見舞いがおまけよ」
ミラが言う。
「逆では?」
「痛みを隠さないなら逆にしてあげる」
「努力しますわ」
エルザが治療当日の中止条件を読み上げる。
「痛み急増、呼吸異常、発熱、魔力暴走反応、本人の中止申告、レオンさんの判断、団長の判断、リーネの判断、いずれかで即時中断」
「中断権が多いですわね」
アリアが言う。
「多い方がいい」
セリアは短く答えた。
「治療を止める手段が一つしかないと、その一つを使うのが重くなる」
アリアは少し驚いたようにセリアを見た。
「団長、時々とても優しいことを事務的におっしゃいますわね」
「必要なことを言っているだけだ」
「それ、支援室の合言葉ですの?」
「ほぼそう」
ミラが答えた。
レオンは治療計画書を見ながら、最後に尋ねた。
「アリアさん」
「はい」
「明後日、治療を受けたいですか」
支援室が静かになる。
何度も確認している。
それでも、最後に本人へ聞く必要があった。
アリアは、クラウディアとノエルの手紙を机に置いた。
そして、まっすぐレオンを見る。
「受けたいです」
「怖くても?」
「怖くても」
「剣を置くのが嫌でも?」
「嫌でも」
「楽になった時、もっと欲しくなるかもしれなくても?」
「その時は言います。欲しくなった、と」
アリアは少しだけ微笑んだ。
「隠さず言うことを、約束しましたから」
レオンは頷いた。
「分かりました」
セリアが確認書へ印を押す。
「アリア・グランフィール初回治療、予定通り実施する」
その言葉で、部屋の空気が一つ、決まった。
◇
アリアが帰る前、レオンは二通の手紙を彼女へ渡した。
「持って帰りますか?」
アリアは少し迷った。
それから、丁寧に受け取った。
「お借りします。治療当日の朝、もう一度読みたいので」
「きっと二人も喜ぶと思います」
「直接お礼を言いたいですわね」
アリアは予定板を見る。
「いつか、三人で会う日が来るでしょうか」
リーネが微笑む。
「無理のない形なら、いつか」
「その時は、ミラも?」
アリアが尋ねる。
ミラが胸を張った。
「当然。私がいないと空気が重くなるでしょ」
「否定はしませんわ」
「そこは否定して!」
ノエルがいたら、きっと「うるさいけど必要」と言っただろう。
クラウディアなら、微笑んで「ミラさんがいると安心します」と言うかもしれない。
レオンは、その光景を少し想像した。
悪くないと思った。
◇
その夜、近衛騎士団の宿舎。
アリアは自室で、二通の手紙を机に並べていた。
クラウディアの整った文字。
ノエルの少し不揃いな文字。
どちらも、怖さを知っている人の言葉だった。
「剣は、二日間私を見捨てない」
そう呟いてから、もう一通を見る。
「剣を置く前まで来た……」
アリアは剣を腰から外し、机の横へ置いた。
今日は、半刻。
それだけ剣を外して過ごす。
腰はまだ寒い。
でも、今日は少しだけ違った。
机の上には二通の手紙がある。
遠く離れた二人が、それぞれの場所で怖さと向き合っている。
自分だけではない。
それが、不思議と剣の代わりに腰を支えてくれる気がした。
「明後日」
アリアは静かに言った。
「私は治療を受けます」
その声は、少し震えていた。
でも、逃げてはいなかった。
◇
白銀聖騎士団詰所の夜。
レオンは自室で、今日の報告書を読み返していた。
クラウディアからの応援。
ノエルからの応援。
アリアの怖さの言語化。
初回治療実施の最終確認。
最後に、セリアの追記がある。
『怖いと言えた者は、もう一歩進んでいる』
レオンはその一文を見つめて、小さく笑った。
「本当に、追記が上手くなってる」
壁の向こうから声がした。
「何がだ」
「セリアの追記」
「またそれか」
「いい言葉だから」
「必要なことを書いただけだ」
「それも聞き慣れてきた」
「なら寝ろ」
「まだ早い」
「明後日はアリア殿の初回治療だ。お前も整えておけ」
「……そうだな」
レオンは報告書を閉じた。
明後日。
とうとうアリアの初回治療が始まる。
緊張していないと言えば嘘になる。
クラウディアともノエルとも違う。
アリアは接触だけで強く反応した。
楽になることを怖がっていた。
もっと欲しくなる自分を怖がっていた。
そこで止めるのが、自分の役目だ。
「セリア」
「何だ?」
「明後日、俺が迷ったら止めてくれ」
「当然だ」
「ミラも止めるだろうな」
「間違いなく止める」
「リーネも、エルザも」
「ああ」
「なら、大丈夫かな」
少し沈黙。
セリアの声が、壁越しに届く。
「大丈夫にするために、皆がいる」
レオンは、ゆっくり息を吐いた。
「いい言葉だな」
「報告書には書かない」
「残念」
「寝ろ」
「はい」
「はいは一回でいい」
「今一回だった」
「そうだったな」
小さく笑って、レオンは灯りを落とした。
アリア初回治療まで、あと二日。
剣を置く怖さを、アリアは言えた。
槍を置いているクラウディアから、歌を休んでいるノエルから、言葉が届いた。
三人はまだ会っていない。
それでも、支援室の中で少しずつ繋がっている。
その繋がりが、明後日のアリアをきっと支える。
レオンはそう信じて、目を閉じた。




