第35話『剣を外した腰と、消えない騎士の輪郭』
アリア・グランフィールの初回治療まで、あと三日。
白銀聖騎士団の支援室には、朝一番で近衛騎士団からの定期報告が届いた。
痛み申告、十段階中四。
前日夜、剣を腰から外して一刻過ごす練習を実施。
強い不安感あり。
ただし、発作的な再装着はなし。
睡眠は浅め。
最後に、アリア本人の短いコメントが添えられていた。
『剣がない腰は、思ったより寒いです』
ミラはその一文を読んだ瞬間、黙った。
いつものように「何よそれ」と突っ込むかと思ったが、そうしなかった。
しばらく紙を見つめてから、ぽつりと言う。
「……分かる」
レオンは顔を上げた。
「分かるのか?」
「分かるわよ」
ミラは腰の槍留めに触れた。
今日は訓練前なので槍は持っていないが、それでも彼女の身体には、いつも槍の重さを前提にした癖が残っている。
「武器って、重いの。でも、その重さがあるから落ち着く時もある。ないと軽いはずなのに、逆に不安になる」
リーネが静かに頷く。
「身体が覚えているのでしょうね。守るための重さを」
「うん。だから、アリアの『寒い』って表現、たぶん本当」
エルザは記録板に追記した。
『剣を外した状態で身体的不安感を確認。本人表現「寒い」。治療前心理負荷として記録』
セリアは腕を組んで、その記録を見ていた。
「今日、アリア殿を呼ぶ」
「え、今日も?」
ミラが顔を上げる。
「治療前の確認だ。剣を外す練習で強い不安が出たなら、治療当日まで放置しない」
「それはそうだけど」
「何だ」
「いや……あの人、来たらまた平気な顔するだろうなって」
ミラの声には、苛立ちより心配があった。
レオンも同じことを思った。
アリアはきっと、笑う。
優雅に、軽く、いつもの調子で。
剣がない腰は寒かったですわ、と冗談めかして言うかもしれない。
でも、それはたぶん本音でもある。
なら、そこを笑いだけで流してはいけない。
「レオン」
セリアが声をかけた。
「何だ?」
「今日は、お前も面談に入る」
「分かった」
「ただし、治療はしない。接触もしない」
「分かってる」
「本当に?」
「本当に」
ミラが横からすぐに言う。
「アリアは絶対、『温めてくださる?』とか言うから」
「言うかな」
「言う!」
セリアも否定しない。
「可能性はある」
「セリアまで」
リーネが困ったように笑った。
「では、先に対応方針を決めておきましょう。剣を外した不安について話す。代替の安心材料を探す。身体的接触で解決しようとしない」
「最後、重要」
ミラが力強く頷く。
エルザが記録する。
『アリア様面談方針。接触による安心提供は禁止。言語化と代替行動を優先』
「俺、危険物扱いみたいだな」
レオンが苦笑すると、セリアが即答した。
「危険物ではない。高影響対象だ」
「言い換えても重い」
「事実だ」
支援室に小さな笑いが起きた。
それでも、朝の空気はどこか引き締まっていた。
アリアの治療が近づいている。
それはもう、予定板の上だけの話ではなかった。
◇
アリアが支援室へ来たのは、昼前だった。
今日の彼女は近衛制服ではなく、白い上着を羽織った軽装だった。
腰には剣がある。
しかし、その剣の柄には治療当日に封印される予定の白い布が、すでに仮で巻かれていた。
ミラはそれを見て、すぐに言った。
「剣、今日はあるのね」
アリアは微笑んだ。
「今日はまだ治療当日ではありませんから」
「でも、布巻いてる」
「慣らしですわ」
「剣も段階治療?」
「そういうことになりますわね」
アリアはいつものように軽く返した。
だが、声に少しだけ疲れがある。
レオンには分かった。
昨日、あまり眠れていない。
表情は整っているが、魔力の揺れが少し鈍い。
「アリアさん」
「何でしょう、レオン様」
「眠れてませんね」
アリアの笑みが止まった。
ミラがすぐ振り向く。
「やっぱり?」
「少しだけですわ」
「少しってどのくらい?」
「……半分ほど」
「全然少しじゃない!」
アリアは苦笑した。
「剣を外して眠るのは、まだ難しいですわね」
セリアが席を示す。
「座れ。今日は治療前面談だ」
「承知しております」
アリアは椅子に座った。
背筋は伸びている。
だが、座った瞬間、無意識に腰の剣へ手が伸びた。
それに気づいて、彼女自身が少しだけ表情を曇らせる。
「……癖ですわ」
ミラが言う。
「癖でいいんじゃない?」
アリアが意外そうに見る。
「責めませんの?」
「責めないわよ。私だって槍ない時に、手が勝手に背中探すことあるし」
「あなたも?」
「ある。だから、癖があることは悪くない。でも、癖に気づかないまま動くのは危ない」
アリアはしばらくミラを見た。
「あなた、本当に時々鋭いですわね」
「時々は余計」
「では、かなり」
「それも何か違う!」
支援室に少し笑いが起きる。
笑いが落ち着いたところで、リーネが柔らかく聞いた。
「剣を外した時、何が一番不安でしたか?」
アリアはすぐには答えなかった。
視線を少し下げ、腰のあたりへ手を置く。
「軽いことです」
「軽い?」
「ええ。剣がない分、身体は軽いはずなのに、心が落ち着かない。まるで、自分の輪郭が薄くなるようでした」
ノエルの時にも似た言葉を聞いた気がした。
歌えないなら自分は何なのか。
クラウディアも、槍を握れない自分を怖がっていた。
アリアも同じなのだ。
剣がない自分を、まだうまく信じられない。
「剣を外すと、近衛騎士ではなくなる気がするんですか」
レオンが尋ねる。
アリアは目を伏せた。
「……少し」
その声は小さかった。
「白い制服を着て、剣を帯びて、王宮の廊下に立つ。そうしていれば、私はアリア・グランフィールでいられます」
「剣がないと?」
「ただの、怪我を隠している女になりますわ」
ミラが眉を寄せた。
「違うでしょ」
アリアはミラを見る。
ミラは腕を組み、まっすぐ言った。
「剣がなくても、アリアはアリアでしょ。腹立つくらい綺麗に立つし、腹立つくらい言葉遣い丁寧だし、腹立つくらい負けず嫌いだし」
「褒めていますの?」
「褒めてる!」
「腹立つが三回ありましたわ」
「そこは気持ちの問題!」
アリアは少しだけ笑った。
だが、その目は揺れている。
レオンは静かに言った。
「剣を置いても、アリアさんが守ってきたものは消えないと思います」
「守ってきたもの?」
「剣の扱いとか、近衛としての立ち方とか、誰かを守ろうとする気持ちとか。剣を外した瞬間に、全部なくなるわけじゃない」
アリアは黙って聞いていた。
「治療のために剣を置くのは、近衛騎士をやめることじゃない。剣を持ち続けるために、いったん置くことなんだと思います」
セリアが静かに頷いた。
「その通りだ」
アリアは少しだけ息を吐いた。
「あなた方は、本当に逃げ道を塞ぐようで、逃げ道を作りますわね」
リーネが微笑む。
「どちらでしょう」
「たぶん、両方ですわ」
アリアは自分の腰の剣に触れた。
今度は、無意識ではなく、自分で確かめるように。
「剣を置いても、消えない……ですか」
ミラが言う。
「試してみる?」
「ここで?」
「ここで」
アリアが目を瞬かせる。
「剣を外せってこと?」
「嫌ならいい。でも、ここなら皆いるし、すぐ戻せるし。治療当日いきなりより、少しはマシでしょ」
アリアは黙った。
レオンは、彼女の指が剣の柄を軽く握るのを見た。
怖いのだ。
でも、彼女は逃げなかった。
「……一刻ではなく、十分だけなら」
セリアが頷く。
「それでいい」
エルザがすぐ記録板を用意する。
「剣を外す練習。時間十分。本人同意あり。途中中止可能」
「記録の人、相変わらず早いですわね」
「ありがとうございます」
アリアは立ち上がった。
ゆっくりと、腰の剣帯を外す。
金具が小さく鳴る。
それだけの音なのに、部屋の空気が変わった。
アリアは剣を両手で持ち、机の上に置いた。
白い布が巻かれた剣が、静かに横たわる。
アリアの腰から、剣の重さが消えた。
彼女は立ったまま、少しだけ揺れた。
ミラがすぐに動きかける。
だが、アリアは片手を上げて制した。
「大丈夫ですわ」
「本当に?」
「……怖いですが、大丈夫」
ミラはそこで止まった。
アリアは剣のない腰に手を当てる。
「軽い」
「うん」
「寒い」
「うん」
「でも……」
アリアはゆっくり顔を上げた。
「消えてはいませんわね」
その声に、レオンは小さく息を吐いた。
ミラが真剣に頷く。
「消えてない。腹立つくらいアリア」
「腹立つくらい、は必要ですの?」
「必要」
アリアは笑った。
今度の笑みは、少しだけ泣きそうだった。
◇
十分は、思ったより長かった。
アリアは椅子に座り、剣を机の上に置いたまま過ごした。
途中で三度、腰へ手が伸びた。
そのたびに自分で気づき、手を膝に戻した。
エルザはその回数を記録したが、責めるような書き方はしなかった。
『腰部確認動作三回。本人、自己認識後に停止』
リーネは温かい茶を出した。
アリアはカップを持つ手を少し震わせながら、静かに飲んだ。
「こういう時、何を話せばいいのか分かりませんわね」
アリアが呟く。
ミラがすぐ答えた。
「別に話さなくてもいいんじゃない?」
「あなたがそれを言いますの?」
「私だって黙れるわよ」
「何秒ほど?」
「今すごく失礼なこと言った!」
アリアが少し笑う。
その笑いで、少し肩の力が抜けた。
レオンはそれを見て、言った。
「今、少し楽になりました?」
「ええ」
アリアは素直に頷いた。
「笑うと、腰の軽さを忘れますわ」
「じゃあ、治療後の二日間もミラにいてもらった方がいいかもしれないな」
レオンが何気なく言うと、ミラが跳ねた。
「え、私!?」
アリアが楽しそうに微笑む。
「それは心強いですわね」
「ちょっと待って。私、見張り役でしょ?」
「見張り兼、笑わせ役」
「役割増えてる!」
リーネが柔らかく言う。
「でも、よいかもしれません。アリア様には、静かすぎる休養より、少し気をそらせる環境も必要でしょうから」
エルザが記録する。
「治療後休養時、ミラの短時間訪問を検討。目的、心理的緊張緩和および過少申告抑制」
「またミラ効果じゃない!」
「今回は名称を使用していません」
「中身が同じ!」
アリアはそのやり取りを見て、また笑った。
剣は机の上にある。
彼女の腰にはない。
それでも、アリアはそこにいた。
近衛騎士としての姿勢は、少しも消えていなかった。
やがて、エルザが時間を告げた。
「十分です」
アリアは、すぐには剣に手を伸ばさなかった。
一度、深く息を吸う。
それから、剣を持ち上げ、腰に戻した。
金具が留まる音。
アリアの表情に、明らかな安堵が浮かんだ。
「……戻りましたわ」
ミラが言う。
「でも、外してる間も消えてなかった」
アリアは、ゆっくり頷いた。
「ええ。消えていませんでした」
◇
面談後、支援室の予定板にアリアの進捗が追加された。
『剣外し練習十分成功/腰部確認動作三回/本人「消えていない」と認識』
ミラがそれを見て、頷いた。
「いい記録」
「ミラが記録を褒めました」
エルザが少しだけ目を上げる。
「珍しい?」
「はい」
「そんなに?」
「かなり」
「じゃあ記録していいわよ」
「記録します」
ミラが許可したので、エルザは本当に記録した。
アリアはその横で、少しだけ呆れた顔をしている。
「白銀の記録文化、独特ですわね」
「よく言われる」
セリアが返す。
「団長まで乗らないでください!」
ミラが叫ぶ。
レオンは笑った。
支援室の空気は、今日も騒がしい。
でも、その騒がしさがアリアを支えているのなら、きっと悪くない。
帰る前、アリアはレオンの前で立ち止まった。
「レオン様」
「はい」
「剣を外しても消えない、と言ってくださったこと、覚えていてくださいませ」
「もちろんです」
「治療当日、忘れそうになるかもしれません」
「その時は言います」
「何度でも?」
「何度でも」
アリアは少しだけ目を細める。
「本当に、あなたはずるいですわね」
ミラが横から叫ぶ。
「それ、ノエルも言ってた!」
「分かりますわ」
「分からないで!」
アリアは笑いながら、支援室を出ていった。
◇
その夜、近衛騎士団宿舎。
アリアは自室で、もう一度だけ剣を外した。
今度は一人で。
机の上に置く。
部屋が静かになる。
腰が軽い。
寒い。
けれど、昼ほどではない。
「消えていない」
アリアは小さく呟いた。
白銀聖騎士団の面談室で、ミラが言った。
腹立つくらいアリア。
あの妙な褒め言葉を思い出して、少し笑う。
十分だけ。
そう決めて、アリアは剣のないまま椅子に座った。
近衛騎士である自分が、少しずつ剣の外側にも残っていく。
それを確かめる時間だった。
◇
白銀聖騎士団詰所では、夜になっても支援室の灯りが少し残っていた。
レオンは今日の報告書を読み返している。
アリアが剣を外した十分間。
腰へ手を伸ばした三回。
消えていないと認識したこと。
それは治療ではない。
魔力も使っていない。
でも、確かに初回治療へ向かうための大切な一歩だった。
壁の向こうから、声がした。
「まだ起きているのか」
「起きてる」
「寝ろ」
「今日は、アリアさんの記録を読んでた」
「明日も読める。寝ろ」
「正論だ」
「毎日正論を言っている」
「時々感情も」
「……それも言ったな」
レオンは笑った。
「セリア」
「何だ?」
「剣を外しても消えないって、アリアさんに言ったけど」
「ああ」
「セリアにも、そういうものある?」
少し沈黙。
壁の向こうで、セリアが考えている気配がした。
「ある」
「剣?」
「剣もそうだ。団長という立場もそうだ」
「それを外したら?」
「落ち着かないだろうな」
「消える?」
「……昔なら、そう思ったかもしれない」
その声は静かだった。
「今は?」
レオンが聞く。
少し長い沈黙。
そして、セリアが答えた。
「今は、少し違うと思える」
「そっか」
「ああ」
レオンはそれ以上聞かなかった。
でも、その答えだけで十分だった。
「お前もだ」
セリアが続けた。
「魔力譲渡がなくても、聖魔力源でなくても、お前は消えない」
レオンは返事に詰まった。
胸の奥が、静かに熱くなる。
「……急に返されると、困るな」
「必要なことだから言った」
「ありがとう」
「受け取れ」
いつもと逆だった。
レオンは笑った。
「受け取る」
「なら寝ろ」
「はい」
「はいは一回でいい」
「今一回だった」
「そうだったな」
壁の向こうで、少しだけセリアが笑った気がした。
レオンは灯りを落とす。
アリアの初回治療まで、あと三日。
剣を外しても、彼女は消えなかった。
その事実が、治療当日の彼女を支えるはずだ。
そしてレオン自身も、少しだけ思った。
自分は力だけではない。
そう言ってくれる人が、隣の部屋にいる。
それだけで、今夜は少し安心して眠れそうだった。




