第34話『注目される支援室と、剣を置く前の静かな騒ぎ』
アリア・グランフィールの初回治療まで、あと四日。
白銀聖騎士団の特別魔力支援室は、朝から妙に人の出入りが多かった。
まず、王宮法務部から協定草案の修正版が届いた。
次に、王立魔導院から追加測定器具の貸与申請が届いた。
さらに、エルンスト公爵家からクラウディアの経過報告が届き、神殿治癒院からノエルの面談予定確認が届き、近衛騎士団からアリアの痛み記録が届いた。
そして最後に、見慣れない貴族家からの封書が三通。
机の上は、完全に紙の山だった。
「……魔獣より紙の方が強い気がしてきた」
レオンが呟くと、ミラが机の向こうで大きく頷いた。
「分かる。魔獣は倒せば終わるけど、紙は倒しても増える」
「倒すな。読むんだ」
セリアが文書を仕分けしながら言う。
その手つきは早い。
王宮、神殿、近衛、貴族家、魔導院。
封筒の紋章を見ただけで、迷いなく山を分けていく。
リーネはお茶を配りながら、少し困ったように微笑んでいた。
「支援室の存在が、かなり広まり始めていますね」
エルザは予定板の横に新しい小板を掛けている。
そこには、こう書かれていた。
『新規要請・未審査』
ミラがそれを見て、うわっと声を出した。
「ついに未審査板までできた」
「必要です」
エルザは淡々としている。
「現在、正式要請前の問い合わせが増えています。整理しないと、支援対象者の進行管理に支障が出ます」
「支援室、完全に役所みたいになってきたわね」
「役所ではない。騎士団の一部だ」
セリアが即座に言う。
「でもやってることは、かなり役所ですよ。書類、審査、受付、拒否、予定調整」
ミラが指折り数える。
レオンは苦笑した。
「俺、追放された冒険者だったはずなんだけどな」
「今は王国特別保護対象兼、支援室最重要案件です」
エルザが真顔で言った。
「その肩書き、重すぎる」
「事実です」
「軽くならない?」
「なりません」
リーネがくすくす笑う。
「でも、最初に比べると、レオンさんもだいぶ支援室に慣れましたね」
「慣れたというか、逃げられなくなったというか」
「逃げる必要はない」
セリアが言った。
「お前を支える仕組みを作っているのだから」
言い方は事務的だった。
でも、その言葉の中にあるものは、もう分かる。
レオンは少しだけ笑った。
「ありがとう」
セリアの手が一瞬止まる。
「……受け取っておく」
ミラが即座に反応した。
「団長、最近ほんと受け取り上手になってきましたよね」
「ミラ」
「はい、でもこれは言う価値ありました」
エルザが記録板を上げる。
「団長の謝意受領能力、向上傾向」
「記録するな」
「心理安全上、重要です」
「便利に使うな」
支援室に小さな笑いが起きた。
だが、その笑いも長くは続かなかった。
セリアが、見慣れない貴族家からの封書を一通開いたからだ。
読み始めた彼女の目が、すっと冷えた。
「……却下だな」
「早い!」
ミラが身を乗り出す。
「まだ読み始めて少しじゃないですか」
「十分だ」
セリアは文書を机に置いた。
エルザが覗き込み、すぐに頷く。
「却下が妥当です」
「何て書いてあるんだ?」
レオンが聞くと、リーネが少し眉を寄せながら文面を読んだ。
「伯爵家の令息が魔力不調を抱えているため、レオンさんによる早期診断を希望する。なお、支援室への寄付金として金貨五百枚を用意している……と」
ミラの顔が一瞬で険しくなった。
「はい、駄目」
「寄付金は支援室の運営補助であり、順番に影響を与えるものではない、と書いてはありますが」
リーネは文書の先を見た。
「ただし、その後に『王国貴族としての責務を果たすためにも、優先的な調整を期待する』とありますね」
「言ってるじゃない。順番に影響させたいって」
ミラが吐き捨てるように言った。
レオンは文書を見つめた。
金貨五百枚。
昔の自分なら、想像もできない額だ。
けれど今は、それが何に見えるか分かる。
黄金の鎖。
少し形を変えただけのもの。
「本人の意思確認は?」
セリアが聞く。
エルザが文書を確認する。
「ありません。家長名義のみです」
「却下だ」
「ですね」
レオンも頷いた。
「本人が望んでいるか分からないなら、受けない」
セリアがこちらを見る。
「その通りだ」
ミラが腕を組む。
「最近、レオンも判断早くなってきたわね」
「そうか?」
「うん。昔なら、ちょっと迷ってたかも」
「昔って、そんな前じゃないだろ」
「でも、支援室ができてから濃すぎるのよ。体感半年くらいある」
リーネが笑う。
「分かります」
エルザが却下理由を書き込んでいく。
『本人同意なし。金銭による優先調整を示唆。支援室規定により受理不可』
「強い」
ミラが満足そうに頷く。
「そのまま送って」
「文面は整えます」
「整えなくてもいいくらいだけどね」
「整えないと外交問題になります」
「面倒!」
セリアは別の封書を開く。
今度は神殿治癒院からだった。
彼女は文面を読み、少しだけ表情を緩めた。
「ノエル殿の件だ」
全員が少し身を乗り出す。
「昨日は聖歌集を開かず、白い布を握って雨音を聞いた。今日は本人希望により、聖歌集を机の上に置くだけにする予定。開くかどうかは未定」
「いい」
ミラがすぐ言った。
「またそれか」
レオンが笑うと、ミラは胸を張る。
「いいものはいいの」
リーネも頷いた。
「ノエル様、自分で負荷を調整できるようになってきていますね」
エルザは予定板のノエル欄に書き加える。
『聖歌集:置くだけ予定/開封未定/白布使用継続』
その横に、セリアが小さく追記した。
『未定を認める』
レオンはその文字を見て、少し笑った。
「セリアの追記、今日もいいな」
「必要なことを書いただけだ」
「標語になりそう」
「するな」
エルザが無言で別紙に書き始める。
セリアがすぐ気づいた。
「エルザ」
「支援室標語候補として仮記録です」
「仮でも書くな」
「検討します」
「書いたな」
エルザは答えなかった。
◇
昼前、支援室に珍しい客が来た。
エルンスト公爵家の家令バルナードである。
いつものように礼儀正しく、背筋も伸びているが、今日はどこか表情が柔らかかった。
「本日は、クラウディアお嬢様の経過報告と、こちらをお届けに参りました」
差し出されたのは、小さな布包みだった。
セリアの目が細くなる。
「礼品は受け取らないと言っている」
「承知しております」
バルナードは慌てず布包みを開いた。
中にあったのは、高価な宝石でも薬でもなかった。
丁寧に畳まれた、白いハンカチ。
端が少し歪んでいる。
ただし、きちんと畳もうとした跡がある。
「お嬢様が、右手を添えて畳まれたものです」
部屋が静かになった。
ミラが息を呑む。
「……これ、クラウディアが?」
「はい。皆様へ見ていただきたいと。ただし、贈り物ではなく、経過報告として」
バルナードの声は少しだけ誇らしげだった。
「お嬢様は、『歪んでいるけれど、自分で畳めた証拠だから』と」
リーネの目元が柔らかくなる。
「とても大切な報告ですね」
エルザは静かに言った。
「現物記録として、一時保管の許可をいただけますか。後ほど返却します」
「もちろんでございます」
ミラはハンカチを見つめたまま、黙っている。
レオンはその横顔を見た。
「ミラ?」
「……泣いてない」
「まだ何も言ってない」
「先に言ったの」
ミラは少しだけ鼻をすすった。
「槍じゃなくて、ハンカチ。しかも、歪んでる。でも、ちゃんと畳んでる」
「うん」
「すごいじゃない」
レオンは頷いた。
「すごいな」
バルナードは深く頭を下げた。
「お嬢様は、次回の治療も槍なしで進めると申しております。今は、日常の中で右手を思い出す時間を大切にしたいと」
セリアが頷く。
「良い判断だ」
「ありがとうございます」
バルナードは少しだけ笑った。
「公爵閣下も、最近は『今日は何を握れたか』より『今日は何を無理に握らなかったか』を先に聞かれるようになりました」
「公爵様も変わったのね」
ミラが言う。
「はい。お嬢様に叱られましたので」
バルナードは真面目な顔でそう言った。
少し間が空き、支援室に笑いが起きた。
◇
午後、近衛騎士団からアリア本人が訪れた。
初回治療まで、あと四日。
今日は治療ではない。
剣の封印手順と、治療後の休養場所についての確認だった。
アリアは相変わらず優雅に支援室へ入ってきたが、今日は腰の剣を少しだけ気にしているように見えた。
ミラはそれを見逃さなかった。
「剣、触る回数増えてる」
アリアは苦笑した。
「よく見ていますわね」
「ライバルだから」
「最近、それを自然に言うようになりましたわね」
「うるさい」
ミラはそっぽを向く。
だが、表情は真剣だった。
「怖い?」
アリアは一瞬、答えに詰まった。
いつもなら笑ってかわすところだ。
でも今日は、少しだけ目を伏せた。
「ええ。怖いですわ」
支援室が静かになる。
アリアは腰の剣に軽く手を置いた。
「治療当日に預けると決めてから、剣の重さをいつもより感じます。腰にあるだけで、安心していたのだと分かりました」
「置くの、やめたい?」
ミラが聞く。
「少し」
アリアは正直に答えた。
「でも、やめません」
「何で?」
「剣を置くと決めた私を、なかったことにしたくないからです」
その言葉に、レオンは胸を打たれた。
アリアは強がっているだけではない。
怖さを認めたうえで、それでも選び直そうとしている。
セリアが短く言った。
「それでいい」
アリアはセリアを見る。
「団長は、いつも短いですわね」
「必要なことだけ言っている」
「ノエル様の言葉を思い出しますわ」
「よく言われる」
セリアが真顔で返す。
ミラが吹き出した。
「団長、それ気に入ってません?」
「事実だ」
支援室に少し笑いが戻る。
エルザが書類を出した。
「治療後の休養場所について確認します。近衛宿舎内の静養室が候補として提出されていますが、支援室としては、白銀側の訪問確認が可能な場所を希望します」
アリアが頷く。
「近衛宿舎の東翼静養室なら、白銀の担当者が入る許可を取りました。ガレス副長も同意済みです」
「担当者は?」
セリアが聞く。
「近衛側は医務担当とガレス副長。白銀側は、どなたが?」
セリアは即答した。
「リーネとエルザ。必要に応じて私も行く。ミラは――」
「行きます!」
ミラが勢いよく言った。
セリアは少しだけ目を細める。
「お前は護衛担当としてなら」
「護衛でも監視でもライバル確認でも何でもいいです」
「最後のは職務ではない」
「気持ちの問題です」
アリアが楽しそうに微笑む。
「ミラが来てくださるなら、痛みを少し少なめに言うわけにはいきませんわね」
「言ったら怒る」
「ええ、存じています」
アリアの声は軽い。
でも、その奥に安心が混じっているように聞こえた。
リーネが穏やかに言った。
「怒ってくれる人がいるのは、悪くありませんよ」
「そうですわね」
アリアは素直に頷いた。
ミラは顔を赤くした。
「何で私が照れる流れになるのよ……」
「ミラ効果です」
エルザが淡々と言った。
「その言葉、定着させないで!」
◇
アリアとの確認が終わったあと、支援室には少しだけ静かな時間が訪れた。
レオンは予定板を見た。
クラウディアの欄には、ハンカチ。
ノエルの欄には、置くだけ予定。
アリアの欄には、剣封印手順確認済。
それぞれが、何かを手放したり、少しだけ触れたり、まだ触れなかったりしている。
支援室は、それを一つずつ記録している。
「レオン」
セリアが隣に来た。
「何だ?」
「疲れているか」
「少し」
「今日は魔力を使っていない」
「でも、こういう日も疲れる」
「だろうな」
セリアは予定板を見た。
「支援室が注目されるほど、こういう日が増える」
「書類と面談と確認?」
「ああ」
「戦場じゃないのに、戦ってるみたいだ」
「戦い方が違うだけだ」
セリアの声は静かだった。
「誰かの歩幅を守るには、剣より書類が必要な時もある」
「セリアが言うと説得力あるな」
「剣も書類も嫌いではない」
「書類も?」
「必要ならな」
レオンは笑った。
「俺はまだ苦手だ」
「それでいい。得意な者が補えばいい」
「支援室っぽい」
「支援室だからな」
ミラが遠くから叫ぶ。
「団長とレオン、また二人でいい空気出してる!」
「出していない」
セリアが即座に返す。
レオンはもう慣れてきたので笑うだけだった。
◇
その夜、クラウディアは自室で返却されたハンカチを見つめていた。
少し歪んでいる。
けれど、白銀聖騎士団はそれを笑わなかった。
経過報告として、大切に扱ってくれた。
レオンからの返事には、こうあった。
『添えるだけでも前進です』
クラウディアは右手を見つめる。
明日は、水差しではなく、本の表紙に添えてみよう。
重い本ではない。
薄い詩集でもいい。
槍はまだ遠い。
でも、右手は少しずつ、日常の中へ戻り始めている。
◇
神殿治癒院では、ノエルが聖歌集を机に置いていた。
今日は開かない。
でも、机の上には置いた。
白い布を握りながら、それを見ている。
「置くだけ」
小さく呟く。
置くだけでも、少し怖い。
でも、今日はそれでいい。
白銀聖騎士団なら、きっとそう言う。
ノエルは布を握り、目を閉じた。
「今日はここまで」
声は、小さいけれど、確かに自分のものだった。
◇
近衛騎士団宿舎では、アリアが剣を腰から外して机の上に置いた。
まだ封印当日ではない。
けれど、今夜は少しだけ、腰から離してみることにした。
ほんの一刻。
それだけ。
剣がない腰は、心許ない。
けれど、身体は軽い。
その軽さが、少し怖くて、少し悔しい。
「……一刻だけですわ」
アリアは誰に言うでもなく呟いた。
そして、痛み記録表に『四』と書いた。
嘘をつかずに書けた。
それだけで、今日は十分だと思うことにした。
◇
白銀聖騎士団詰所の夜。
レオンは報告書を読んでいた。
支援室に集まる視線が増えていること。
新規要請が増えていること。
金銭による優先調整を示唆する文書を却下したこと。
クラウディアのハンカチ。
ノエルの聖歌集を置くだけの日。
アリアの剣封印準備。
最後に、セリアの追記があった。
『注目されても、歩幅は変えない』
レオンはその一文を何度か読んだ。
短い。
でも、今日の支援室には必要な言葉だった。
壁の向こうから声がする。
「まだ起きているのか」
「起きてる」
「寝ろ」
「今日は、セリアの追記を読んでた」
「またか」
「いい言葉だったから」
「必要なことを書いただけだ」
「注目されても、歩幅は変えない」
「ああ」
「難しいな」
「難しい。だから確認する」
「誰が?」
「全員で」
壁越しの声は、いつもより少しだけ穏やかだった。
「レオン」
「何だ?」
「支援室が広まれば、お前を急がせようとする者も増える。助けを求める声も、利用しようとする声も増える」
「うん」
「だが、歩幅は相手ごとに違う。クラウディア令嬢にはクラウディア令嬢の、ノエル殿にはノエル殿の、アリア殿にはアリア殿の歩幅がある」
「俺の歩幅は?」
少し沈黙。
セリアは静かに答えた。
「それも、私たちが見る」
レオンは、胸の奥が少し温かくなるのを感じた。
「俺も支援対象?」
「最重要案件だと何度言えばいい」
「はいはい」
「はいは一回」
「はい」
いつものやり取り。
それがあるだけで、今日の紙の山も、外から集まる視線も、少しだけ軽くなる。
「おやすみ、セリア」
「ああ。おやすみ、レオン」
灯りを落とす。
支援室は注目され始めた。
人も、書類も、思惑も増えていく。
けれど、守るものは変わらない。
誰かの歩幅を、勝手に広げないこと。
誰かの小さな前進を、別の誰かの成果にしないこと。
そして、レオン自身も急がせないこと。
聖魔力源を中心にした支援室は、今日も少しだけ騒がしく、少しだけ温かく、そして確かに誰かの明日を守っていた。




