第33話『水差しを持つ右手と、封印される近衛の剣』
クラウディア・エルンストから届いた次の報告は、白銀聖騎士団の支援室を少しだけ静かにした。
そこには、たった一つの出来事が書かれていた。
『今朝、右手を添えて水差しを持ちました。重くはできませんでした。けれど、左手だけではなく、右手も少し添えることができました』
それだけだった。
戦いでもない。
槍でもない。
魔法でもない。
ただ、水差しを持った。
けれど、ミラはその一文を読んだまま、しばらく黙っていた。
「……水差し、か」
レオンが横から声をかける。
「また胸に来た?」
「来るわよ」
ミラは珍しく素直に認めた。
「だって、右手ってそういうことに使うじゃない。槍を持つためだけじゃなくて、服を畳んだり、扉を押さえたり、コップを持ったり、誰かに手を振ったり」
彼女は少しだけ視線を落とす。
「そういうのが戻るって、たぶん槍を握るのと同じくらい大事なんだと思う」
リーネが静かに頷いた。
「はい。日常の動作が戻ると、自分の身体が自分のものだと感じやすくなりますから」
エルザは予定板のクラウディアの欄に追記する。
『水差し補助保持成功。右手首反応後の日常動作拡大』
「補助保持成功って、硬い」
ミラが言う。
「正確です」
「でも、クラウディアが聞いたら、何か実験みたいじゃない?」
エルザは少し考えた。
そして、横に小さく書き加えた。
『右手が日常へ戻る兆候』
ミラが目を丸くする。
「エルザが詩的になった」
「記録表現の改善です」
「照れなくていいのに」
「照れていません」
レオンはその文字を見て、小さく笑った。
「いいと思う」
エルザはほんの少しだけ目を逸らした。
「……ありがとうございます」
「エルザも照れた」
ミラが即座に言う。
「照れていません」
「今日は全員照れる日?」
「ミラ」
セリアの低い声が飛ぶ。
「はい、でも言う価値ありました」
いつもの調子に戻った支援室で、レオンはクラウディアへの返事を書き始めた。
『クラウディア様へ。
水差しに右手を添えられたこと、とても大きいと思います。
槍の重さを思い出した手が、今度は生活の中の重さも少しずつ思い出しているのだと思います。
重いものを持つ必要はありません。
添えるだけでも前進です。
次も焦らず、右手が日常に戻る時間を大事にしてください。
レオン』
書き終えると、ミラがまた横から覗き込む。
「字、さらに読みやすくなってる」
「本当か?」
「うん。でも、味はある」
「味はもう諦める」
「個性よ、個性」
リーネが微笑み、セリアは短く言った。
「いい手紙だ」
その一言で、レオンは少し安心した。
◇
その日の午後、支援室には別の報告も届いた。
近衛騎士団からの正式通知。
アリア・グランフィールの初回治療に備え、治療当日より剣を近衛武具庫に封印管理すること。
治療後、最低二日間の完全休養に入ること。
その間、王宮防衛任務、儀礼警備、待機任務、訓練見学をすべて停止すること。
そして最後に、アリア本人の署名が添えられていた。
『剣を置くことを、逃げではなく準備として受け入れます』
その一文を読んだ瞬間、ミラは腕を組んだまま黙った。
「どうした?」
レオンが聞くと、ミラは少しだけ口を尖らせた。
「何か、ちゃんとしてて腹立つ」
「またそれか」
「だって、あの人、ちゃんとしすぎなのよ。もっと文句言えばいいのに」
リーネがくすりと笑う。
「ミラさんは、アリア様が文句を言ったら安心するんですね」
「そういうわけじゃ……あるかも」
ミラは自分で言って、さらに顔を赤くした。
「だって、あの人が全部綺麗に飲み込むの、危ないじゃない」
セリアが書類から顔を上げた。
「いい見方だ」
「え?」
「アリア殿は綺麗に受け入れようとする。だが、本音では怖いはずだ。そこを見落とすな」
ミラは少し驚いたあと、真面目な顔で頷いた。
「分かりました」
エルザが予定板にアリアの札を更新する。
『剣封印予定確定/完全休養承認済/本人発言:準備として受容』
「準備として受容」
レオンはその言葉を見て、少しだけ胸が重くなった。
アリアは本当に怖いのだと思う。
剣を置くことが。
近衛の列から、一時でも外れることが。
それでも、受け入れると書いた。
「返事を書くか?」
セリアが聞く。
「書きたい」
「なら書け」
レオンは筆を取った。
『アリアさんへ。
剣を置くことを準備として受け入れる、という言葉を読みました。
怖いことだと思います。
でも、それを自分で決めたことは、とても大きいと思います。
治療当日は、無理に強がらなくて大丈夫です。
痛みも、怖さも、欲しくなる気持ちも、隠さず教えてください。
壊さないために、一緒に確認しながら進めます。
レオン』
書き終えた時、ミラが言った。
「これは……効くわね」
「何に?」
「アリアに」
「効かせるために書いたわけじゃないんだけど」
「だから効くのよ」
ミラは複雑そうな顔をした。
「でも、いいと思う。……ちょっと腹立つけど」
「最後いるか?」
「いる」
リーネが笑い、エルザが記録しようとしてミラに睨まれ、そっと筆を下ろした。
◇
その日の夕方、白銀聖騎士団の訓練場は雨上がりの匂いがした。
湿った土。
濡れた木剣。
騎士たちの汗と革鎧の匂い。
レオンは支援室の外へ出て、少しだけ空気を吸っていた。
そこへ、セリアがやってきた。
「休憩か」
「少し」
「いい判断だ」
「セリアに褒められると、まだ少し慣れないな」
「私も、褒めることに慣れていない」
真顔で返されたので、レオンは笑った。
「でも最近、ちゃんと受け取ってくれるようになった」
「お前が何度も言うからだ」
「迷惑か?」
「迷惑なら受け取らない」
短い言葉。
でも、そこにあるものは以前より柔らかかった。
レオンは訓練場を見る。
若い騎士たちが、木剣を振っている。
その音を聞きながら、ぽつりと言った。
「剣を置くって、怖いんだろうな」
「怖い」
セリアは即答した。
「私も、剣を手元から離すと落ち着かない」
「セリアでも?」
「ああ」
彼女は腰の剣に軽く手を置いた。
「騎士にとって、武器はただの道具ではない。責任であり、役目であり、自分を保つものでもある」
「アリアさんにとっては、近衛騎士でいる証みたいなものか」
「そうだろうな」
「それを二日置く」
「短いようで、長い」
セリアの声は静かだった。
「だから支援が必要だ」
レオンは頷いた。
「治療当日だけじゃなくて、その後も」
「ああ。むしろ、治療後の方が難しいかもしれない」
「アリアさん、動きそうだもんな」
「動くだろう」
「断言」
「アリア殿だからな」
レオンは笑った。
「それ、セリアの中でも定着してきたな」
「事実だからな」
その時、訓練場の方からミラの声が響いた。
「レオン! 団長! アリアから返事来た!」
「早いな」
レオンが目を丸くする。
セリアが言った。
「近衛の伝令は速い」
「手紙の返事も速いんだな」
「アリア殿だからな」
「またそれ」
二人は支援室へ戻った。
◇
アリアからの返事は、短かった。
『レオン様。
お手紙、拝読いたしました。
強がらなくてよい、という言葉に、少々困りました。
私は強がることに慣れておりますので。
けれど、治療当日は努力いたします。
痛みは痛みとして。
怖さは怖さとして。
欲しくなる気持ちは欲しくなる気持ちとして。
隠さず申告することを、ここに約束いたします。
なお、ミラには怒られたくありませんので、その点も努力材料に加えておきます。
アリア・グランフィール』
読み終えた瞬間、ミラが顔を真っ赤にした。
「何で最後に私が出てくるのよ!」
「効いてるんだな」
レオンが言うと、ミラは机を叩いた。
「効いてるのはいいけど、何で毎回私をからかう方向に使うの!」
リーネが笑っている。
「アリア様なりの信頼表現では?」
「もっと普通に信頼して!」
エルザは予定板に追記する。
『本人、痛み・怖さ・欲求申告を約束/ミラ効果継続』
「だからその書き方!」
「簡潔です」
「もう!」
支援室の空気は明るかった。
けれど、レオンにはアリアの手紙の奥にある怖さも伝わっていた。
強がることに慣れている。
その一文が、なぜか胸に残る。
◇
夜になる前に、もう一つの連絡が届いた。
神殿治癒院のシスティナからだった。
『ノエル、本日は聖歌集を開かず、白い布を握ったまま雨音を聞いて過ごしました。本人曰く、「三行目の前まで来た日は、次の日に無理して開かない方がいい気がする」とのことです』
ミラがそれを読んで、深く頷いた。
「いい。すごくいい」
「今日は何回目だ、それ」
レオンが言うと、ミラは真面目な顔で返した。
「いいものは何回でもいいって言うの」
リーネも穏やかに言った。
「ノエル様、自分の休み方を少しずつ覚えていらっしゃいますね」
エルザが記録する。
『ノエル、面談翌日に聖歌集を開かず休む選択。白布使用継続。自己調整能力向上』
「自己調整能力向上」
レオンは小さく笑った。
「硬いけど、いい記録だな」
「ありがとうございます」
セリアは予定板を見上げる。
「三人とも、今日は進むために休む選択をしているな」
クラウディアは槍ではなく水差し。
アリアは剣を置く準備。
ノエルは聖歌集を開かない選択。
進むことと、休むこと。
それは対立しないのかもしれない。
「休むのも前進か」
レオンが言うと、セリアは頷いた。
「ああ」
そして少し考えてから、予定板の端に小さな紙を貼った。
『休むことも、戻るための道』
ミラが目を丸くする。
「団長、今日も名言貼った」
「名言ではない」
「いや、これは名言です」
リーネが微笑む。
エルザも頷く。
「支援室標語として記録します」
「標語にするな」
「有用です」
「……好きにしろ」
セリアが珍しく折れた。
ミラが嬉しそうに笑う。
「団長が諦めた!」
「諦めていない。許可しただけだ」
「それを諦めたって言うんです」
支援室に、また笑いが広がった。
◇
その夜、クラウディアは自室で水差しを見ていた。
右手を添えた時、少しだけ怖かった。
落としたらどうしよう。
割ったらどうしよう。
右手がまた言うことを聞かなかったらどうしよう。
けれど、左手だけではなく、右手も添えられた。
ただそれだけ。
それだけなのに、朝からずっと胸が温かかった。
机の上には、レオンからの返事がある。
『添えるだけでも前進です』
クラウディアは、その一文を何度も読んだ。
「添えるだけでも……」
彼女は右手を見つめる。
槍を握るのは、まだ遠い。
でも、今日の右手は水差しに添えられた。
それなら明日は、何に添えられるだろう。
そう考えられること自体が、少し前の自分には信じられなかった。
◇
近衛騎士団の宿舎では、アリアが自室で剣を見ていた。
まだ封印前の剣。
あと数日で、治療当日から二日間、武具庫へ預けることになる。
怖くないと言えば嘘になる。
むしろ、怖い。
剣を手元から離すだけで、自分の輪郭が少し薄くなるような気がする。
だが、レオンの手紙をもう一度読む。
『痛みも、怖さも、欲しくなる気持ちも、隠さず教えてください』
アリアは小さく息を吐いた。
「本当に、困った方ですわ」
隠すことに慣れている自分に、隠さなくていいと言う。
優しい。
けれど、それは逃げ道ではなく、向き合うための言葉だった。
「ミラに怒られるのも、癪ですし」
そう呟いて、アリアは痛み記録表に『四』と記入した。
本当は三と書きたかった。
でも、胸の奥の鈍い痛みは、四だった。
正直に書くのは、思ったより悔しい。
でも、少しだけ楽だった。
◇
神殿治癒院の部屋で、ノエルは白い布を握って雨の音を聞いていた。
聖歌集は閉じたまま。
今日は開かない。
開かないことを、自分で決めた。
以前なら、それは逃げだと思っただろう。
でも今は、少し違う。
三行目の前まで来た日。
その次の日に、無理に進まない。
それも、たぶん必要なこと。
ノエルは白い布を握り、小さく呟いた。
「今日は、ここまで」
その声は小さかった。
けれど、自分の声だった。
◇
白銀聖騎士団詰所の夜。
レオンは自室で、今日の報告を読み返していた。
水差し。
剣の封印準備。
聖歌集を開かない日。
どれも、休むことに関わっていた。
進むために休む。
支援室の予定板に貼られたセリアの言葉が、頭に残っている。
壁の向こうから、いつもの声がした。
「まだ起きているのか」
「起きてる」
「寝ろ」
「今日は、休むことも戻るための道なんだろ?」
少し沈黙。
「……なら、なおさら寝ろ」
レオンは笑った。
「完璧な返しだ」
「当然だ」
「今日はいい日だったな」
「ああ」
「みんな、休む選択をした」
「簡単なことではない」
「セリアは休むの得意?」
壁の向こうで、少し長めの沈黙があった。
「……不得意だ」
「やっぱり」
「だが、努力はしている」
「それも支援室案件だな」
「私を予定板に書くな」
「まだ言ってない」
「言いそうだった」
レオンはまた笑った。
少しして、静かに言う。
「セリアも、ちゃんと休んでくれた方が安心する」
壁の向こうが静かになる。
雨はもう止んでいる。
窓の外には、濡れた夜の匂いがあった。
「……受け取っておく」
セリアが小さく答えた。
レオンは目を閉じる。
「おやすみ、セリア」
「ああ。おやすみ、レオン」
アリアの初回治療まで、あと五日。
その間にも、人は進む。
そして、休む。
そのどちらも守ることが、今の支援室の仕事だった。




