第32話『三行目は、まだ歌じゃない』
ノエルが次に白銀聖騎士団へ来る日は、朝から雨だった。
激しい雨ではない。
細く、静かで、石畳を濡らすだけの雨。
王都の屋根を淡く曇らせ、訓練場の土を黒く湿らせ、白銀聖騎士団の詰所にも少しだけ落ち着いた空気を運んできた。
面談室の窓には、細かな雨粒が並んでいる。
レオンはそれを見ながら、机の上の白い札を確認した。
『今日はここまで』
前回と同じ場所。
すぐ手の届く位置。
ただし、今日の面談室には少しだけ変化があった。
机の上に、小さな布が置かれている。
白い布。
何の変哲もない、柔らかい布。
レオンはそれを見て、首を傾げた。
「これは?」
リーネが花瓶の位置を整えながら答える。
「もしノエル様が聖歌集を持つ手に力が入りすぎた時、代わりに握れるようにと思いまして」
「ああ、なるほど」
「聖歌集を強く握ると、本人も『読まなきゃ』という気持ちになってしまうかもしれませんから」
ミラがその布をつまみ上げた。
「柔らかい。これなら握っても痛くなさそうね」
「はい。クラウディア様のハンカチの報告を参考にしました」
「支援室、どんどん細かくなってるわね」
ミラはそう言いながら、どこか嬉しそうだった。
エルザは記録板に今日の項目を書き込んでいる。
「本日のノエル様面談確認事項。一、三行目を読むかどうかは未定。二、発声の有無を評価しない。三、白札による中断権継続。四、神殿側同席者はシスティナ様のみ。五、ミラの声量管理」
「五番!」
ミラが即座に反応した。
「私、最近ちゃんと抑えてるでしょ!」
「通常時に比べれば抑制傾向はあります」
「褒め方が硬い!」
「褒めています」
「なら、もう少し柔らかくして!」
リーネがくすくす笑う。
「ミラさんは、ノエル様にとって大事な“神殿っぽくない空気”ですから」
「それ、褒めてます?」
「もちろんです」
「……ならいいけど」
ミラは少し照れたように、白い布を机へ戻した。
セリアは窓際に立ち、外の門の方を見ていた。
今日はいつもより警戒が強い。
神殿は、ノエルの声を成果として扱おうとした。
それは一度止めた。
だが、完全に諦めたとは思えない。
「神殿側から追加の連絡は?」
レオンが聞くと、セリアは振り返らずに答えた。
「今朝の時点ではない。システィナ殿からは、予定通り本人のみ来訪と連絡があった」
「本人のみ?」
「付き添いはシスティナ殿だけ、という意味だ」
「ああ」
ミラが腕を組む。
「前みたいに若い神官がくっついてきたら、今度は門前で止めるから」
「前回も止めた」
セリアが言う。
「今回はもっと早く止めるの」
「頼む」
セリアが短く言うと、ミラは少しだけ胸を張った。
「任せて」
レオンはその姿を見て、思わず言った。
「ミラ、最近本当に頼もしいな」
「だから急に言うなってば!」
ミラは耳まで赤くした。
「しかもノエル来る前に! 心の準備が!」
「褒めるのに準備がいるのか?」
「いるの!」
エルザが記録板を少し上げる。
「ミラ、直球評価への耐性は依然として低め」
「書かない!」
「善処します」
「それ残すやつ!」
笑いが起きる。
その笑いの中で、セリアが小さく言った。
「いい空気だ」
全員がセリアを見る。
セリアは少しだけ目を逸らした。
「ノエル殿が来る前に、部屋の空気が硬すぎない方がいいという意味だ」
ミラがにやりとした。
「団長、今の照れ隠しですね」
「ミラ」
「はい、でも今日は言う価値ありました」
雨の音が、窓の外で静かに続いていた。
◇
ノエルの馬車は、予定より少し早く到着した。
門前で出迎えた時、ノエルは傘を差していなかった。
システィナが慌てて傘を差しかけているが、ノエル本人は雨に濡れることをあまり気にしていないようだった。
淡い灰色の外出着。
今日は白いリボンではなく、細い青い紐で髪を結んでいる。
腕には、いつもの聖歌集。
ミラが駆け寄る。
「ちょっと、濡れてるじゃない!」
「雨だから」
「そういう問題じゃない!」
「神殿だと、雨の日は外に出るなって言われる」
ノエルは空を見上げた。
「でも、今日は出たかった」
その声は静かだった。
ミラは何か言いかけて、少しだけ言葉を飲み込む。
そして、持っていた布をノエルの肩にかけた。
「風邪ひいたら次来られないでしょ」
「……ミラはうるさいけど、こういう時は優しい」
「毎回それ言う!」
ノエルの口元が少しだけ上がった。
システィナは深く頭を下げる。
「本日もよろしくお願いいたします」
セリアは周囲を確認した。
「神殿側の追加同行者は?」
「おりません」
「よし」
ノエルはセリアを見る。
「今日は門で止めない?」
「必要がなければ止めない」
「そう」
「嫌なら、ここで帰ってもいい」
「今日は行く」
ノエルは、少しだけ聖歌集を抱き直した。
「三行目は、まだ決めてないけど」
「それでいい」
セリアの返事は短い。
でも、その短さがノエルには合っているようだった。
「団長は、今日も短い」
「必要なことだけ言っている」
「嫌じゃない」
「そうか」
ミラが横で小声で言う。
「団長、ノエルに懐かれてる」
「懐いてない」
ノエルが即座に返す。
「聞こえてたの!?」
「ミラは声が大きい」
「エルザに言われるより刺さる!」
雨の中でも、空気は悪くなかった。
ノエルは自分の足で、白銀聖騎士団の門をくぐった。
◇
面談室に入ると、ノエルは最初に白い札を見た。
次に、机の上の白い布を見る。
「これ、何?」
リーネが説明する。
「聖歌集を持つ手に力が入りすぎた時、代わりに握れる布です。使わなくても大丈夫ですよ」
「私用?」
「はい」
「また変なもの用意してる」
「嫌でしたか?」
ノエルは布に触れた。
指先で少しだけ押す。
「嫌じゃない。変だけど」
「変だけど嫌じゃない、いただきました」
ミラがなぜか得意げに言う。
「ミラが用意したの?」
「発案はリーネ」
「じゃあミラは得意げにしないで」
「辛口!」
ノエルは少し笑い、前回と同じ出口に近い席へ座った。
聖歌集を机に置く。
今日は、すぐには開かなかった。
レオンは斜め前の席に座る。
「今日は、どうしますか」
「分からない」
「分からないままで大丈夫です」
「知ってる」
ノエルはそう言ったあと、少しだけ視線を落とした。
「でも、知ってても怖い」
「何が怖いですか」
「三行目を読めなかったら、戻ったと思った声がまた消えたみたいで怖い」
システィナの指が少し動いた。
だが、今日は何も言わない。
リーネも静かに見守っている。
「読めたら読めたで、次は四行目って思われるのが怖い」
「ここでは、そう思いません」
レオンが言うと、ノエルは顔を上げた。
「本当に?」
「はい。三行目を読んでも、読まなくても、今日はここまでで終わっていいです」
「声が出ても?」
「はい」
「出なくても?」
「はい」
「途中でやめても?」
「もちろん」
ノエルは白い札を見る。
そして、机の上の白い布へ手を伸ばした。
聖歌集ではなく、布を握る。
ぎゅっと。
それから、少しだけ息を吐いた。
「今日は、布から」
「はい」
レオンは頷いた。
エルザが記録する。
「本人、聖歌集開封前に布を使用。緊張緩和目的」
「記録の人」
ノエルが言う。
「はい」
「今のは書いていい」
「承知しました」
ミラが小さく吹き出す。
「ノエル、エルザの扱い慣れてきたわね」
「記録されるなら、こっちも決める」
「強い!」
ノエルは少しだけ口元を緩めた。
そして、ようやく聖歌集を開いた。
一行目。
二行目。
前回、声が出た場所。
彼女の指が、そこをゆっくりなぞる。
部屋の中には、雨音だけが響いている。
誰も「頑張れ」と言わない。
誰も身を乗り出さない。
ただ、待つ。
ノエルの唇が少し動く。
声はまだ出ない。
彼女は一行目を目で追い、二行目へ進む。
そして、三行目の頭で止まった。
指が震える。
握っている布が、少し潰れる。
ミラが動きかける。
だが、レオンは首を横に振った。
まだ、ノエルは自分で止まっている。
助けを求めてはいない。
ノエルはしばらく三行目を見ていた。
そして、小さく息を吸った。
「……」
声は、出なかった。
唇だけが動いた。
音にならない。
前回のような小さな声もない。
ノエルの目が揺れる。
失敗した。
そう思った顔だった。
彼女はすぐに白い札へ手を伸ばそうとした。
けれど、その前にレオンが静かに言った。
「読んでいました」
ノエルの手が止まる。
「声、出なかった」
「はい」
「読めてない」
「俺には、読んでいるように見えました」
ノエルはレオンを見る。
不満そうで、不安そうな目。
「音がないのに?」
「音がなくても、目で追って、息を止めて、三行目の前に立っていました」
「立ってた?」
「はい。今日は三行目の前まで来たんだと思います」
ノエルは黙った。
握っていた布を、少しだけ緩める。
ミラが小さく言った。
「声が出る日と、出ない日があってもいいんじゃない?」
ノエルがミラを見る。
「ミラは、槍を毎日同じように振れる?」
「振れない」
即答だった。
「体が重い日もあるし、手に豆ができる日もあるし、気持ちが乗らない日もある。そういう日は基礎だけやって終わる」
「終わっていいの?」
「終わるわよ。無理して崩す方が嫌だもん」
ノエルは聖歌集へ視線を落とした。
「歌も、そう?」
「たぶん。私は歌わないけど」
ミラは少し困ったように笑った。
「でも、何でもそうなんじゃない? 今日はここまでって決めるの、逃げじゃないでしょ」
ノエルは白い札を見た。
『今日はここまで』
そして、ゆっくり札を倒した。
「今日は、ここまで」
声は出た。
聖歌ではない。
でも、はっきりした自分の声だった。
システィナが両手を強く握る。
泣かないように。
リーネがそっと頷く。
エルザが記録する。
セリアが静かに見守る。
レオンは、ただ言った。
「はい。今日はここまでです」
ノエルは、少しだけ目を伏せた。
「声、出なかった」
「聖歌の声は、出ませんでした」
「うん」
「でも、今日はここまでって言えました」
ノエルの目に涙が浮かぶ。
「……それも、私の声?」
「はい」
「そっか」
ノエルは布を握ったまま、ぽつりと言った。
「じゃあ、今日はそれでいい」
◇
面談は、そこで終わらなかった。
白い札を倒したので、聖歌集の話は終わり。
だが、ノエルはすぐ帰るとは言わなかった。
彼女は聖歌集を閉じ、机の上に置き、雨の窓を見た。
「少し、雨を見ていたい」
「いいですよ」
リーネが答える。
「話さなくても?」
「はい」
ノエルは頷き、窓の方を見た。
部屋の中に、雨音が戻ってくる。
しばらく誰も話さなかった。
その沈黙は、重くなかった。
ノエルが自分で選んだ沈黙だったからだ。
やがて、彼女がぽつりと言った。
「神殿だと、沈黙も祈りになる」
「ここでは?」
レオンが聞く。
「ただの雨の音」
「それでいいですか」
「うん。今日は、それがいい」
ミラが小声で言う。
「何か、今日のノエル、詩人みたい」
「違う」
「即否定!」
「雨を見てるだけ」
「はいはい」
ノエルが少しだけ笑う。
その笑い声は小さかった。
でも、聖歌ではない。
ただの笑い声。
それが、この部屋では一番大事だった。
◇
帰る時、ノエルは自分から白い布を手に取った。
リーネが尋ねる。
「持って帰りますか?」
「いいの?」
「もちろんです」
ノエルは布を少し握った。
「次も、これ持ってくる」
「はい」
「三行目は……まだ分からない」
「分からないままで大丈夫です」
ノエルは頷いた。
それから、ミラを見る。
「ミラ」
「何?」
「今日は、声が出なくてもいいって言ってくれて、ありがとう」
ミラの顔が赤くなる。
「べ、別に。槍と一緒に考えただけだし」
「ミラは、やっぱりうるさいけど優しい」
「もうそれ定型文になってない!?」
「なってる」
「認めた!」
ノエルはほんの少し笑った。
次にセリアを見る。
「団長」
「何だ」
「雨の日も、ここに来ていい?」
セリアは迷わず答えた。
「本人が望むなら」
「短い」
「必要なことだけ言っている」
「うん。嫌じゃない」
そして最後に、レオンを見た。
「レオン」
「はい」
「今日は、三行目の前まで来たって言ったこと、覚えてて」
「覚えています」
「次、忘れそうになったら言って」
「何回でも言います」
「ずるい」
「よく言われます」
「うん。ずるい」
ノエルはそう言って、システィナと一緒に面談室を出た。
白い布を、大事そうに握ったまま。
◇
ノエルを見送ったあと、支援室では記録の書き方を相談した。
エルザが筆を持ったまま言う。
「本日の記録。聖歌集三行目に視線到達。ただし発声なし。本人は一時不安反応を示すも、白札により聖歌関連面談を終了。その後、雨音を聞く時間を希望。白布を持ち帰り」
「発声なしって書くと、失敗みたいに見えない?」
ミラが言う。
「記録上は事実です」
「でも、言い方」
エルザは少し考えた。
「では、『聖歌としての発声は行わず』にします」
リーネが頷く。
「その方がよいですね。代わりに『今日はここまで』を本人が発声できたことも記録しましょう」
「はい」
エルザが書き加える。
レオンも追記した。
『今日は三行目の前まで来ました。声が出ない日でも、本人が終わりを選べたことは前進です』
セリアがそれを見て、静かに頷く。
「いい」
「本当に?」
「ああ。今日のことが、正しく残る」
その言葉で、レオンは少し安心した。
記録は盾。
今日も、その意味を感じた。
◇
その日の夕方、近衛騎士団からアリアの報告が届いた。
痛み申告、十段階中四。
訓練量、前日と同じく軽度。
剣の封印予定、治療当日より実施。
本人コメント。
『白銀の支援室に倣い、痛みを記録することにしました。少々屈辱ですが、必要なことなのでしょう。ミラには、まだ怒られたくありませんので』
ミラはそれを読んで、顔を真っ赤にした。
「何で私の名前出すのよ、あの金髪きらきら!」
「効いてるんだな」
レオンが言うと、ミラはそっぽを向いた。
「知らない!」
セリアは少しだけ口元を緩めた。
「よい傾向だ」
「団長まで!」
エルザが予定板のアリア欄に追記する。
『痛み記録継続/ミラ効果あり』
「その書き方やめて!」
「簡潔です」
「簡潔だけど!」
支援室に笑いが広がった。
ノエルの面談のあと、少し湿っていた空気が明るくなる。
こういう流れも、支援室らしくなってきた。
◇
夜。
ノエルは神殿の自室で、白い布を握っていた。
聖歌集は机の上に閉じて置いてある。
今日は開かない。
三行目は読めなかった。
声も出なかった。
でも、「今日はここまで」は言えた。
レオンは、それも私の声だと言った。
ノエルは布を握り、窓の外の雨を見る。
「三行目の前まで来た」
小さく呟く。
その言葉は、不思議と胸を苦しくしなかった。
進めなかったのではない。
そこまで来た。
そう思うと、少しだけ息がしやすくなる。
扉が開き、システィナが入ってきた。
「今日は、聖歌集は開かないのですね」
「うん」
「それでいいと思います」
「システィナ様も、変になった」
「白銀聖騎士団の影響です」
ノエルは少し笑った。
「悪くない影響」
「はい」
ノエルは白い布を握ったまま、静かに目を閉じた。
◇
白銀聖騎士団詰所の夜。
レオンは報告書を読んでいた。
ノエルの三行目。
声が出なかったこと。
でも、「今日はここまで」と言えたこと。
アリアの痛み記録。
クラウディアのハンカチ報告への返事。
全部、小さなこと。
でも、どれも大切だった。
壁の向こうから、いつもの声がした。
「まだ起きているのか」
「起きてる」
「寝ろ」
「今日は雨の音で眠れそう」
「なら寝ろ」
「正論だ」
「正論しか言っていない」
「時々、感情も混じる」
少し間が空いた。
「……そうだったな」
レオンは笑った。
報告書を閉じる。
「今日は、ノエルに何もしてないのに疲れた」
「何もしないことは疲れる」
「前にも聞いた」
「何度でも言う」
「ノエル、三行目は読めなかったけど、前まで来たんだよな」
「ああ」
「それでいいんだよな」
「いい」
セリアは即答した。
「今日は、そこまで来た日だ」
「うん」
「そして、自分で終わりを選べた日だ」
「うん」
「十分だ」
その言葉で、レオンの胸が少し軽くなった。
「セリア」
「何だ?」
「いつも、最後にちゃんと十分だって言ってくれるの、助かる」
壁の向こうで、少し沈黙。
「……私も、そう言いながら確認しているのかもしれない」
「何を?」
「私たちのしていることが、間違っていないか」
その声は、いつもより少しだけ柔らかかった。
レオンは静かに答えた。
「間違ってないと思う」
「そうか」
「うん。少なくとも、ノエルはまた来るって言った」
「ああ」
「それで十分だ」
今度はレオンが言った。
壁の向こうで、セリアが小さく息を吐いた気がした。
「……そうだな」
「おやすみ、セリア」
「ああ。おやすみ、レオン」
雨の音が続いている。
ノエルは三行目を読めなかった。
でも、三行目の前まで来た。
それを失敗にしない場所が、白銀聖騎士団にはある。
支援室は、今日も誰かの小さな前進を守った。




