第27話『その声は、神殿の成果ではない』
翌朝、特別魔力支援室に届いた神殿からの文書は、いつもより薄かった。
薄い。
ただし、薄いからといって軽いとは限らない。
むしろ、封筒を手に取った瞬間から、ミラは嫌そうな顔をしていた。
「……この薄さ、嫌な薄さ」
レオンが首を傾げる。
「薄さに種類があるのか?」
「あるわよ。分厚い文書は面倒。薄い文書は、短い言葉でこっちを刺してくる」
「経験則が物騒だな」
「最近、書類と戦ってるからね」
ミラは腕を組んで、机の上の封書を睨んだ。
白い封筒。
神殿治癒院ではなく、神殿上層部の印。
セリアは何も言わず封を切った。
リーネは茶を配る手を止め、エルザは記録板を開いている。
レオンも、自然と背筋を伸ばした。
セリアは文面を読み、すぐに表情を冷やした。
「何て?」
レオンが尋ねる。
セリアは紙を机に置いた。
「神殿上層部が、ノエル殿の回復兆候について王宮へ報告するそうだ」
「回復兆候?」
リーネの声がわずかに低くなる。
「昨日の発声のことですか」
「ああ」
セリアは続けた。
「文面では、『神殿治癒院の長期療養下にあった聖女候補ノエルに、聖歌再起の兆候が確認された』とある」
ミラが即座に机を叩いた。
「はあ!? 聖歌再起!? あれ、ノエルの声でしょ!」
「そうだ」
セリアの声は短い。
だが、怒りは滲んでいた。
エルザが文書を手に取り、目を走らせる。
「問題があります。発声を『聖歌再起』と表現しています。本人の意思による面談終了には触れていません。白銀聖騎士団の面談環境については、『神殿治癒院の指導のもと、外部協力機関で経過観察』と記載されています」
「外部協力機関?」
ミラが顔をしかめる。
「うちが神殿の下請けみたいになってるじゃない!」
リーネは静かに目を伏せた。
「ノエル様が一番嫌がる形ですね」
「うん」
レオンの声も低くなった。
「ノエルは、神殿の声じゃなくて自分の声だって受け止めたんだ。そこを変えられるのは違う」
セリアがレオンを見る。
「そうだ。だから訂正を求める」
「今すぐ?」
「今すぐだ」
ミラが勢いよく立ち上がる。
「私、神殿行ってくる」
「座れ」
「でも!」
「槍で文書は訂正できない」
「できたら楽なのに!」
ミラは不満そうに座り直した。
エルザが筆を取る。
「訂正文の要点を整理します。一、昨日の発声は聖歌再起ではなく、本人の自発的発声である。二、白銀聖騎士団は神殿の下部機関ではなく、王宮認定の特別魔力支援室として独立管理している。三、面談は治療行為ではない。四、本人が白札を用いて自発的に面談終了を選んだことを明記すべき。五、本人同意なく回復成果として公表しないこと」
「五番、強めに」
レオンが言った。
エルザが頷く。
「強めにします」
「レオンさんの意思表明も入れましょう」
リーネが言う。
「ノエル様の声について、レオンさんがどう受け止めたかは重要です」
レオンは少し考えた。
昨日のノエルの顔が浮かぶ。
声が出たか不安そうに尋ねた表情。
そして、「私の声」と受け止めた時の、少し泣きそうな顔。
「こう書いてほしい」
レオンはゆっくり言った。
「昨日の声は、聖女候補としての成果ではなく、ノエル本人が自分で出した声です。本人の同意なく、誰かの成果にしないでください」
部屋が静かになった。
ミラが小さく頷く。
「それ、いい」
リーネも微笑む。
「はい。とても大事な言葉です」
セリアは短く言った。
「入れよう」
エルザが筆を走らせる。
その時、支援室の扉が叩かれた。
「団長、近衛騎士団のアリア様より急ぎの封書です」
ミラが露骨に眉を寄せた。
「また金髪きらきら」
だが、今回ばかりは誰も茶化さなかった。
セリアが封書を受け取り、すぐに開く。
読み終えた彼女の表情が、さらに硬くなった。
「何?」
ミラが身を乗り出す。
「アリア殿からの情報だ。神殿は、王宮で『聖女候補回復兆候報告』として、ノエル殿の事例を提出する準備をしているらしい」
「最悪じゃない!」
「さらに、白銀聖騎士団の支援室を『神殿治癒制度の外部補助機関』と位置づける文案が回っている」
ミラは今度こそ立ち上がりかけた。
レオンは無意識に拳を握る。
「外部補助機関……」
違う。
あの部屋は、ノエルが嫌だと言えるように作った場所だ。
神殿の成果を出すための部屋ではない。
ミラが怒るのも当然だった。
セリアは静かに立ち上がった。
「王宮へ行く」
「今から?」
「ああ。訂正文だけでは遅い。直接、法務部と近衛連絡役に確認する」
「俺も行く」
レオンが言うと、セリアは即座にこちらを見た。
「必要になるかもしれない。だが、お前が出れば向こうはお前の言葉を利用しようとする可能性もある」
「それでも行く」
レオンは言った。
「ノエルの声のことは、俺が言いたい」
セリアはしばらく黙った。
それから頷く。
「分かった。ただし、私の隣にいろ」
「いつものやつだな」
「必要だ」
「分かってる」
ミラがすぐ手を挙げた。
「私も行く」
「お前は残れ」
「また!?」
「神殿側がノエル殿へ直接接触する可能性がある。システィナ殿と連絡を取り、ノエル殿の面談記録が本人同意なく渡されないよう確認しろ」
ミラは一瞬悔しそうな顔をしたが、すぐ頷いた。
「分かった。そっちは私がやる」
「頼む」
セリアの声は短い。
その一言だけで、ミラの顔が引き締まる。
「任せて」
レオンは思った。
今のミラは、本当に頼もしい。
そう言おうとした瞬間、ミラに睨まれた。
「今、褒めようとしたでしょ」
「何で分かるんだ」
「顔」
「そんなに出てたか」
「出てた。あと今言われたら照れるから、帰ってからにして」
リーネが口元を押さえて笑う。
エルザが記録板を上げかけ、ミラの視線を受けて下ろした。
「自制します」
「よろしい」
ほんの少しだけ、空気が軽くなった。
だが、すぐにセリアが言う。
「行くぞ」
◇
王宮法務部の会議室は、前回よりも人が少なかった。
だが、空気は重かった。
王宮法務官が二名。
近衛騎士団からアリア。
王立魔導院からイザベラ。
そして白銀聖騎士団から、セリア、レオン、リーネ、エルザ。
神殿側はまだ到着していない。
アリアは白い近衛制服のまま、腕を組んで待っていた。
「ごきげんよう、と言うには少々面倒な朝ですわね」
「情報提供、助かった」
セリアが言うと、アリアは少しだけ微笑んだ。
「どういたしまして。今回は私も少し腹が立ちましたので」
ミラがいれば、きっと驚いただろう。
レオンは尋ねた。
「アリアさんも?」
「ええ。順番待ちをしている身として、支援室の意味を勝手に変えられるのは困ります。それに……」
アリアは少しだけ目を伏せた。
「ノエル様の声を、神殿の成果として扱うのは美しくありませんわ」
その言い方はアリアらしかった。
美しくない。
けれど、今はその言葉がよく合っていた。
王宮法務官が資料を並べながら言った。
「白銀聖騎士団からの抗議文は拝見しました。神殿側の文案については、まだ正式決定ではありません。ただ、聖女候補の回復兆候として扱うべきという意見が出ているのは事実です」
「回復兆候という言葉は、本人の意思を無視している」
セリアがすぐに返す。
「昨日の面談は、治療ではない。神殿主導でもない。本人が白銀聖騎士団の面談室で、本人の意思で二行目を読み、本人の意思で終了した。それだけだ」
法務官は頷いた。
「白銀側の記録にはそうあります」
「なら、そう扱ってください」
レオンは思わず口を開いていた。
セリアが一瞬こちらを見たが、止めなかった。
「ノエルは、神殿の成果として声を出したんじゃありません。聖女候補として期待に応えたんでもありません。本人が、自分で一行、二行って進んだだけです」
法務官はレオンを見る。
「レオン殿は、昨日の発声をどう評価しますか」
「評価しません」
即答だった。
部屋が少し静まった。
「評価しない?」
「はい」
レオンは頷いた。
「綺麗だったとか、聖歌に近かったとか、回復したとか、そういう評価はしません。俺が言ったのは、ノエルの声だった、ということだけです」
リーネが静かに目を伏せる。
エルザの筆が止まらない。
アリアはじっとレオンを見ていた。
「ノエルは、歌えなくなったことで苦しんでいます。そこで誰かが『回復兆候』って言ったら、次はもっと声を出さなきゃ、もっと歌わなきゃってなる。たぶん、それは苦しい」
「では、記録しない方がいいと?」
「いいえ。記録は必要です」
レオンはエルザを見る。
「記録は盾だって、エルザが言っていました。だから記録する。でも、誰かの成果にしないでください」
エルザが小さく頷いた。
アリアが口元を少し緩める。
「なるほど。記録は盾、ですか。良い言葉ですわね」
「私の言葉です」
エルザが淡々と言った。
「知っていますわ」
少しだけ空気が緩みかけた時、扉が開いた。
神殿側の高位神官たちが入ってくる。
先頭に立つ神官は、前回の協議にもいた男だった。
彼は穏やかな笑みを浮かべている。
「お待たせしました。皆様、お集まりのようで」
セリアの目が冷える。
「神殿提出予定の文案について確認したい」
「ええ。もちろんです。誤解があるようですので」
神官は席につき、白い文書を机に置いた。
「我々はノエルを利用するつもりなどありません。ただ、聖女候補に回復の兆しがあるならば、王国として共有すべきだと考えただけです」
ミラがいれば机を叩いていたかもしれない。
だが、ここにはいない。
代わりに、セリアが静かに言った。
「共有するなら、本人同意が必要だ」
「もちろん配慮はいたします」
「配慮ではない。同意だ」
神官の笑みが少し硬くなる。
「聖女候補は神殿に属する者です。神殿として状態を把握し、報告する責務があります」
「ノエル殿は、まずノエル殿だ」
セリアの声は低い。
「聖女候補である前に、本人だ」
神官はレオンへ視線を向けた。
「レオン殿。あなたは本当に、それでよろしいのですか。ノエルの声が戻ることは、多くの民に希望を与えます。聖女候補が再び歌える可能性を示すことは、神殿だけでなく王国全体にとって明るい報せです」
「でも、ノエル本人が望んでいません」
「まだ、でしょう」
その一言で、レオンの胸に嫌なものが走った。
まだ。
今は望んでいない。
でも、いずれ望むはず。
だから先に進めてもいい。
そういう響きだった。
「まだ、かどうかはノエルが決めることです」
レオンは言った。
「誰かが先に決めることじゃない」
「あなたは優しい方だ。しかし優しさだけでは救えない者もいます」
「そうかもしれません」
レオンは否定しなかった。
「でも、押しつけたら壊れる人もいます」
部屋が静まる。
「ノエルは、やっと自分で『今日はここまで』を選べるようになりました。その声を、本人の許可なく回復報告に使ったら、きっとまた声を出すのが怖くなります」
神官はすぐには答えなかった。
代わりに、法務官が文書へ目を落とす。
「神殿側の文案については、本人同意なしの対外報告は認められません。王宮法務部としても、白銀側の記録表現を基礎に修正を求めます」
神官の表情がわずかに変わる。
「つまり、聖歌再起という表現は使えないと?」
「現時点では不適切です」
法務官は淡々と答えた。
「『本人が聖歌集二行目を読み、自発的に一部発声。その後、本人意思により面談終了』。この範囲が妥当でしょう」
エルザが小さく頷いた。
「当支援室記録と一致します」
神官は沈黙した。
しばらくして、穏やかな笑みを戻す。
「分かりました。表現は再考いたしましょう」
「表現だけではない」
セリアが言う。
「今後、ノエル殿の面談内容を報告に用いる場合、本人同意を必須とする」
「それは、神殿内の管理上――」
「必須だ」
セリアの声が鋭くなった。
アリアがそこで口を開く。
「近衛騎士団としても、本人同意なき情報利用は混乱を招くと考えます。聖女候補の名が王宮内に広まれば、見舞い、儀式復帰要請、政治利用が起こりかねませんわ」
「近衛まで……」
神官がわずかに苦い顔をした。
イザベラも続ける。
「魔導院としても、心理的負荷による反応悪化の可能性を指摘します。現段階の公表は研究上も医療上も非推奨です」
「今日は味方が多いですわね」
アリアが小声で言う。
レオンも少しだけ息を吐いた。
結論は、完全な勝利ではない。
だが、少なくとも神殿の文案は止まった。
ノエルの声は、聖女候補回復の報告材料にはならずに済んだ。
今は。
◇
協議が終わった後、廊下でアリアがレオンに声をかけた。
「レオン様」
「はい」
「今日のあなたの言葉、また効きましたわ」
「必死だっただけです」
「その必死さがよいのです。きれいすぎる言葉より、ずっと刺さります」
アリアは微笑む。
「ただ、お気をつけください。あなたの言葉が効くと知れば、今度はあなた自身を場に引き出そうとする者が増えます」
「俺を?」
「ええ。本人意思を守るためにレオン様の発言が必要だ、という形で」
セリアがすぐに言う。
「その場合も支援室で判断する」
「そうしてくださいませ」
アリアはセリアへ視線を向けた。
「守る側もまた、利用されますから」
その言葉は軽くなかった。
アリア自身も、近衛騎士として利用される立場を知っているのだろう。
「情報提供、助かりました」
レオンが頭を下げる。
アリアは少しだけ目を細めた。
「では、次回の診断順が少し早まることを期待しても?」
「アリア」
セリアの声が低くなる。
「冗談ですわ」
「三割本気だろう」
「今回は四割です」
「増やすな」
アリアは楽しそうに笑った。
レオンも思わず笑った。
重い協議のあとに、このやり取りは少し救いだった。
◇
白銀聖騎士団へ戻ると、ミラが支援室で待っていた。
「どうだった!?」
「神殿の文案は止まった」
セリアが答える。
ミラは大きく息を吐いた。
「よかった……!」
「ただし、今後も本人同意を巡って揉める可能性は高い」
「でしょうね。あの神殿が一回で引くわけないもの」
リーネがシスティナから届いた連絡を確認する。
「ノエル様には、まだ詳細は伝えていないそうです。必要以上に不安にさせないよう、面談記録は本人のものとして守られた、とだけ伝える予定だそうです」
「それがいい」
レオンは頷いた。
ミラがじっとこちらを見る。
「レオン、ちゃんと言えた?」
「たぶん」
「たぶんじゃなくて」
セリアが言う。
「言えた」
「団長が言うなら大丈夫ね」
「俺本人より信用されてないか?」
「だってレオン、自分の評価低いし」
ミラは即答した。
リーネも微笑む。
「それはありますね」
エルザも頷く。
「自己評価補正が必要です」
「みんなで言うのか」
レオンが苦笑すると、セリアが静かに言った。
「お前は今日も、必要なことを言った」
その声は、まっすぐだった。
レオンは返事に少し詰まる。
「……ありがとう」
「受け取っておく」
ミラがにやっとする。
「団長、最近ちゃんと受け取るようになりましたね」
「ミラ」
「はい、でもこれは言う価値ありました」
支援室に、いつもの笑いが戻る。
◇
その夜、神殿治癒院の部屋で、ノエルはシスティナから短い説明を受けた。
自分の声が、本人同意なく王宮へ成果として報告されることは止まった。
面談記録は、本人のものとして扱われる。
白銀聖騎士団と支援室が、そう主張した。
ノエルは、しばらく聖歌集を見つめていた。
「……私の声って、言ってくれた?」
「はい」
「レオンが?」
「はい。皆さんも」
「そっか」
ノエルは聖歌集を開いた。
一行目。
二行目。
今日は声を出さない。
読むだけ。
それでいい。
「私の声なら、私が決めていいんだよね」
「はい」
「じゃあ、今日は声出さない」
「はい」
「明日も分からない」
「はい」
「でも、次も白銀に行く」
システィナは微笑んだ。
「はい」
ノエルは小さく息を吐く。
「……変な人たち」
その声は、少し嬉しそうだった。
◇
白銀聖騎士団詰所の夜。
レオンは自室で、今日の報告書を読んでいた。
『ノエルの発声は本人の声として扱う。聖歌回復兆候としての公表は、本人同意なく不可』
その下に、セリアの追記。
『その声は、本人のものだ』
短い。
けれど、揺るがない。
レオンはその一文を見て、静かに息を吐いた。
壁の向こうから声がした。
「まだ起きているのか」
「起きてる」
「寝ろ」
「今日も言われた」
「今日も言う」
「過保護だな」
「自覚はある」
いつものやり取り。
レオンは報告書を閉じた。
「今日は疲れた」
「分かっている」
「神殿の言葉は、やっぱり綺麗だった」
「ああ」
「でも、その綺麗な言葉でノエルの声が別のものにされるのは嫌だった」
「止められた」
「みんなのおかげで」
「お前の言葉もあった」
「そうかな」
「そうだ」
セリアは、いつも通り断言した。
それが今日は、とてもありがたかった。
「セリア」
「何だ?」
「俺、自分の言葉が利用されるかもしれないってアリアに言われた」
「そうだろうな」
「怖いな」
「怖いなら、支援室を通せ」
「俺も?」
「当然だ」
レオンは少し笑った。
「俺自身も支援室案件なのか」
「最重要案件だ」
「重いな」
「重い。だから、皆で持つ」
壁一枚越しの言葉。
それだけで、少し息がしやすくなった。
「ありがとう」
「受け取っておく」
「おやすみ、セリア」
「ああ。おやすみ、レオン」
灯りを落とす。
ノエルの声は守られた。
少なくとも、今日のところは。
だが、聖魔力源を巡る言葉の争いは、まだ続く。
誰かを救う力は、誰かに利用される力にもなる。
だからこそ、白銀聖騎士団は記録する。
守る。
待つ。
そして必要な時には、綺麗な言葉に対して、まっすぐな言葉で立ち向かう。
その声は、神殿の成果ではない。
ノエル自身のものだ。




