第26話『二行目の聖歌と、声にならない声』
ノエルが二度目に白銀聖騎士団の詰所へ来る朝、面談室には前回と同じ白い札が置かれていた。
『今日はここまで』
机の端に、見えるけれど目立ちすぎない位置。
その隣に、エルザが前回から残した緊急用の札も置こうとして、ミラに止められた。
「それ、今日はしまっておきなさい」
「緊急時に有効です」
「分かるけど、『中止』って文字が強すぎるのよ。ノエルが見たら、面談前から戦場みたいになるでしょ」
「では裏返しておきます」
「置くことは置くんだ」
エルザは無表情で札を裏返した。
裏面は真っ白だった。
「これで視覚的圧迫は低減されます」
「何か納得しづらいけど、まあいいわ」
ミラは椅子の位置を確認しながら、ちらりと窓の外を見た。
今日も門の前に神殿の馬車が来る予定だ。
ただし、付き添いはシスティナだけ。
神殿上層部の同席は認めない。
昨日の王宮協議以降、白銀聖騎士団はそこをかなり強く打ち出していた。
レオンは面談室の入口付近に立ち、二つの扉を確認する。
廊下へ出る扉。
中庭へ出る扉。
どちらも、すぐ開く。
ノエルが帰りたいと言った時、誰の前を通らなくても出られるように。
「……ここ、面談室というより避難所みたいになってきたな」
レオンが呟くと、リーネが花瓶の位置を整えながら微笑んだ。
「それでいいと思います」
「いいのか?」
「はい。安心して逃げられる場所は、安心して少し留まれる場所でもありますから」
「リーネさんらしいな」
「そうでしょうか」
「うん。柔らかいけど、芯がある」
リーネは一瞬、目を丸くした。
そして、ほんの少し頬を染めて笑う。
「ありがとうございます」
ミラがすかさず振り返った。
「出た。朝から自然に褒めるやつ」
「今のもか?」
「今のも!」
エルザが記録板を開く。
「記録。レオンさんの自然評価発言により、リーネの照れ反応を確認」
「エルザさん?」
リーネがにこりと笑う。
エルザは静かに記録板を閉じた。
「削除を検討します」
「検討ではなく?」
「善処します」
「それ、残すやつですね」
面談室に小さく笑いが広がった。
セリアは部屋の隅で、窓の外と廊下を確認していた。
外出用軽鎧ではなく、今日は詰所内の執務服。
それでも腰には剣がある。
レオンがそちらを見ると、セリアもすぐ気づいた。
「何だ」
「いや、今日も守りが完璧だなと思って」
「当然だ」
「頼もしい」
セリアは一瞬だけ黙った。
「……今日は、面談の邪魔をする者が出る可能性がある」
照れ隠しのように、少し硬い声でそう言った。
ミラが小声で「今の誤魔化した」と言い、セリアに睨まれて背筋を伸ばす。
リーネが話を戻した。
「神殿側から、追加の同席希望はありませんでしたか?」
「朝の時点ではない」
セリアが答える。
「だが、門前で何か言ってくる可能性はある」
「神殿、しつこいわね」
ミラが眉を寄せる。
「ノエルは今日、二行目を読むかもしれないって言ってるんでしょう? それだけで十分大事なのに」
「神殿にとっては、その二行目が成果になる」
セリアの声は低かった。
「だからこそ、今日は慎重にする」
レオンは頷いた。
ノエルは今日、聖歌集の二行目を読むかもしれない。
ただ読むだけ。
声に出すとは言っていない。
歌うとも言っていない。
治療もしない。
けれど、その「かもしれない」は、彼女にとって大きい。
誰にも急かされず、自分で決めた一歩だからだ。
「レオン」
セリアが呼んだ。
「何だ?」
「今日も、治そうとするな」
「分かってる」
「歌わせようとするな」
「しない」
「声が出ても、出なくても、評価するな」
「評価?」
「上手い、綺麗、戻った、そういう言葉だ」
レオンは少し考えた。
たしかに、ノエルはそういう言葉に傷ついてきた。
褒め言葉でさえ、期待の形になることがある。
「じゃあ、何て言えばいい?」
セリアは静かに答えた。
「聞こえたものを、そのまま受け止めればいい。お前ならできる」
「また難しいことを簡単に言う」
「お前がいつもやっていることだ」
「そうかな」
「そうだ」
セリアは迷いなく言った。
レオンは少し照れくさくなった。
ミラがじとっと見る。
「団長まで、最近レオンを直球で褒めるようになってきましたね」
「必要な評価だ」
「便利な言葉」
「事実だ」
また少し笑いが起きる。
その時、廊下の向こうから見張りの騎士の声が聞こえた。
「神殿治癒院の馬車が到着しました!」
面談室の空気が、静かに引き締まった。
◇
ノエルは、前回と同じ控えめな馬車で来た。
扉が開くと、先にシスティナが降りる。
その後に、ノエルが聖歌集を抱えて姿を見せた。
今日の服は、前回と同じ淡い灰色の外出着。
ただ、首元には小さな白いリボンが結ばれていた。
ほんの少しだけ、外へ出るために自分で整えたように見える。
門前で待っていたミラが、ぱっと手を上げた。
「おはよう、ノエル」
「うるさい人、おはよう」
「名前で呼びなさいよ!」
「ミラ、おはよう」
「最初からそう言って!」
ノエルの口元が少しだけ動いた。
今日も、まずミラとのやり取りで神殿の空気が薄まる。
システィナはその様子を見て、ほっとしたように微笑んだ。
だが、その背後からもう一人、神殿の若い神官が降りようとした瞬間、セリアが前に出た。
「付き添いはシスティナ殿のみのはずだ」
若い神官は足を止める。
少し困った顔で頭を下げた。
「私は記録補助として――」
「認めていない」
セリアの声は静かだったが、冷たかった。
「本日の面談は、ノエル殿本人が選んだ面談だ。神殿側の同席者はシスティナ殿のみ。追加の同席は支援室を通して事前申請が必要だ」
「ですが、神官長より面談の正確な記録を――」
「記録なら、白銀聖騎士団の記録管理者が行う」
エルザが一歩前に出た。
無表情。
記録板を抱えた小柄な姿。
だが、なぜか圧がある。
「必要な共有は、本人同意範囲内で文書化します。無断同席は不要です」
若い神官は言葉に詰まった。
ノエルは、馬車の横で聖歌集をぎゅっと抱いている。
その指が、わずかに白くなっていた。
レオンはその変化に気づいた。
セリアも、たぶん気づいている。
「今日はここまでにするか?」
レオンはノエルに尋ねた。
若い神官が驚いた顔をした。
システィナも一瞬だけ目を見開いた。
ノエルは、レオンを見る。
「ここまで?」
「嫌なら、帰っていい」
「まだ、門にいるだけなのに?」
「門でも、嫌なら終わりです」
ノエルはしばらく黙った。
そして、若い神官をちらりと見た。
「……この人が入らないなら、行く」
「分かった」
レオンは頷いた。
セリアは若い神官へ視線を戻す。
「聞いた通りだ。ここで待機、あるいは帰還を」
若い神官は不満を隠しきれない顔をしたが、システィナが静かに言った。
「あなたは馬車で待っていてください。神官長には、私から説明します」
「……承知しました」
神官は深く礼をし、馬車の方へ下がった。
ノエルの指から、少しだけ力が抜ける。
ミラが小声で言った。
「門前で一戦終わったわね」
「槍を使わなかっただけ偉いです」
リーネが微笑む。
「使うつもりだったみたいに言わないで」
「少し考えました?」
「……少しだけ」
「正直ですね」
そのやり取りに、ノエルがほんの少し笑った。
面談は、門前からすでに始まっていた。
◇
面談室に入ると、ノエルは前回と同じ席に座った。
出口に近い椅子。
机の上の白い札を確認する。
『今日はここまで』
その隣で裏返しに置かれた緊急札にも気づいたらしい。
「それ、何?」
ノエルが指さす。
ミラが素早く答えた。
「予備」
「何の?」
「エルザの心配性」
「なるほど」
「納得するの!?」
エルザは真顔で言った。
「緊急時用です。必要なら使えます」
「今日はここまで、で足りる」
ノエルはそう言って、緊急札をそっと机の端へ押した。
エルザは少しだけ頷く。
「本人意思により緊急札は後退」
「記録しなくていい」
ノエルが即座に言った。
ミラが吹き出す。
「エルザへの対応、早くなってる!」
「慣れた」
「まだ二回目なのに!」
ノエルの表情が少しだけ柔らかくなる。
システィナは部屋の隅に座った。
今日は、前回よりも一歩引いている。
見守る位置だ。
レオンは、前回と同じ斜めの席に座った。
「今日は、二行目を読むかもしれないと聞きました」
「うん」
「読まなくても大丈夫です」
「知ってる」
「なら、よかった」
「……それでも言うんだ」
「確認したかったので」
ノエルは聖歌集を膝に置き、表紙を撫でた。
「今日は、神殿の門を出る前からちょっと嫌だった」
「なぜ?」
「神官長様が、応援しているって言ったから」
部屋が少し静かになる。
ノエルは続けた。
「悪い言葉じゃない。でも、応援って言われると、何かしなきゃいけない気がする」
リーネが静かに頷く。
「期待と似ているのかもしれませんね」
「うん。たぶん」
「今日ここに来ただけで十分ですよ」
リーネが言う。
ノエルは彼女を見る。
「リーネは、それ本気で言うから困る」
「困りますか?」
「少し。泣きそうになるから」
その言葉で、システィナが先に泣きそうになった。
ノエルがすぐに振り返る。
「システィナ様が泣かないで」
「はい、我慢しています」
「ずっと我慢してる」
「はい」
ミラがぼそっと言った。
「システィナ様も白い札いるんじゃない?」
ノエルが少し笑った。
「システィナ様用の札は『泣かない』?」
「それいいわね」
「よくありません」
システィナが困ったように言う。
面談室に小さな笑いが広がった。
その笑いが落ち着いたところで、ノエルは聖歌集を開いた。
前回読んだ一行目。
その下の、二行目。
彼女の指が、ゆっくりと文字をなぞる。
誰も急かさない。
誰も、頑張れと言わない。
レオンは、ただその手元を見ていた。
ノエルの唇が少し動く。
声は、まだ出ていない。
けれど、息はある。
文字をなぞる呼吸。
聖歌になる前の、もっと小さなもの。
ノエルは一行目を目で追い、二行目へ進んだ。
途中で指が止まる。
目が閉じられる。
肩が少し震える。
システィナが動きかけたが、リーネがそっと手で止めた。
ノエルは自分で呼吸を整えた。
そして、二行目の終わりまで指を動かした。
「……読めた」
声は小さかった。
歌ではない。
ただの呟き。
でも、確かに声だった。
本人も驚いたように口元を押さえる。
部屋の空気が止まった。
システィナの目から、とうとう涙がこぼれた。
しかし、声は出さない。
ミラも黙っている。
リーネも。
エルザも、筆を止めたまま。
セリアも、動かない。
レオンは、ノエルを見た。
ノエルは震える声で言う。
「今、声……出た?」
レオンは少しだけ考えた。
綺麗だった、とは言わない。
戻った、とも言わない。
歌えた、とも言わない。
ただ、そこにあったものを言う。
「ノエルの声でした」
ノエルの目が揺れた。
「聖歌じゃなくて?」
「聖歌かどうかは、俺には分かりません。でも、ノエルの声でした」
彼女は聖歌集を見下ろした。
唇が震える。
「……私の声」
「はい」
「神殿の声じゃなくて?」
「ノエルの声です」
ノエルはゆっくり息を吸った。
そして、白い札に手を伸ばした。
『今日はここまで』
札を倒す。
「今日は、ここまで」
レオンはすぐに頷いた。
「はい。ここまでです」
システィナが何か言いかけて、止めた。
リーネが優しく頷く。
ミラが大きく息を吐く。
「よく止めた」
その声は、いつもよりずっと静かだった。
ノエルは札を倒したまま、聖歌集を胸に抱いた。
「もっと読めるかもって思った」
「うん」
ミラが頷く。
「でも、今日はここまで」
「うん」
「偉い?」
ノエルが聞いた。
少しだけ、子どものような声だった。
ミラは真顔で答えた。
「偉い」
ノエルの目から、涙が落ちた。
「……そっか」
それだけだった。
でも、その一言が部屋に静かに広がった。
◇
休憩を挟んだあと、ノエルは帰ることを選んだ。
いつもなら、もう少し話すかどうか確認するところだが、今日は誰も引き止めなかった。
声が出た。
二行目を読めた。
そして、自分で札を倒した。
十分すぎるほどの前進だった。
面談室を出る前、ノエルはレオンの前で立ち止まった。
「レオン」
「はい」
「さっきの、覚えてて」
「さっきの?」
「私の声だったって言ったこと」
「はい。覚えています」
「私、忘れそうになると思うから」
「じゃあ、次に会った時も言います」
ノエルは少しだけ目を丸くした。
「何回も?」
「必要なら何回でも」
「……ずるい」
「よく言われます」
「うん。ずるい」
ノエルは少しだけ笑った。
次にミラを見る。
「ミラ」
「何?」
「偉いって言ってくれて、ありがとう」
ミラの顔が一気に赤くなった。
「べ、別に。本当のこと言っただけだし」
「ミラもずるい」
「私も!?」
「うん。うるさいけど」
「最後に余計なの足す!」
ノエルはまた少し笑った。
システィナが涙をこらえながら頭を下げる。
「本日も、ありがとうございました」
セリアは短く答えた。
「本人が札を倒した時点で、面談は終了だ。神殿側にもそのように記録する」
「はい」
エルザが記録板を閉じる。
「面談終了理由。本人の意思による区切り。成功と記録します」
「成功なの?」
ノエルが聞く。
エルザは頷いた。
「はい。本人が自分で終わりを選べました」
「……そっか」
ノエルはもう一度、札を見た。
倒れたままの白い札。
それは、逃げた印ではない。
自分で終わりを選んだ印だった。
◇
門まで見送る途中、問題が起きた。
待機していた若い神官が、馬車の横でそわそわしていたのだ。
ノエルが近づいた瞬間、彼は思わず声を出した。
「ノエル様、面談はいかがでしたか。声が出たと聞こえたような――」
ノエルの足が止まった。
システィナの表情が硬くなる。
ミラが前へ出ようとした。
だが、それより先にセリアが動いた。
「面談内容は、本人同意なく外部へ共有しない」
短く、鋭い声。
若い神官は慌てて頭を下げた。
「も、申し訳ございません。ただ、神官長より経過を――」
「正式記録は支援室から神殿治癒院担当者へ送る。門前で本人へ確認することは認めない」
「ですが」
「認めない」
二度目。
ノエルは聖歌集を抱えたまま、セリアの背中を見ていた。
セリアは振り返らずに言う。
「ノエル殿。馬車へ」
「……はい」
ノエルは小さく頷き、システィナと共に馬車へ向かった。
若い神官はそれ以上何も言えなかった。
馬車に乗る直前、ノエルは窓から顔を出した。
「団長」
「何だ」
「短いけど、助かる」
「そうか」
「うん」
馬車の扉が閉まる。
ミラが横で小声で言った。
「団長、ノエルにまで頼られてる」
「頼られているなら、応える」
「かっこいいことさらっと言う……」
レオンは少し笑った。
「セリアらしいな」
「何だ」
「頼もしい」
セリアはまた少しだけ目を逸らした。
「……戻るぞ」
ミラがにやりとする。
「団長、照れた」
「ミラ」
「はい、今日はノエルが頑張ったので私は黙ります」
「今言っただろう」
「最後の一回です」
そんなやり取りをしながら、一行は詰所へ戻った。
◇
面談後の報告書作成は、いつもより慎重に行われた。
問題は、ノエルの声についてどう記録するかだった。
エルザが筆を持ったまま、少し考えている。
「『発声あり』と書くと、神殿側が聖歌回復の兆候として扱う可能性があります」
リーネが頷く。
「ですが、事実として声が出たことは記録する必要があります」
「本人の言葉を中心にしたらどうだ?」
レオンが言った。
「ノエルは『私の声』って受け止めた。聖歌としてではなく」
セリアがすぐ頷く。
「それでいい」
エルザは筆を動かす。
『本人、聖歌集二行目を目で追い、小声で一部発声。発声後、レオンより「ノエル本人の声」と確認。本人は聖歌としての評価ではなく、自身の声として受け止めた。その後、本人意思により白札を倒し、面談終了』
ミラが覗き込む。
「硬いけど、ちゃんとノエルのこと守ってる感じする」
「記録は盾です」
エルザが言った。
「今回のような事例では特に」
「エルザ、たまにかっこいいこと言うわね」
「常に言っているつもりです」
「それはどうかな」
レオンは少し笑いながら、自分の欄に追記した。
『次回も、ノエルが望む範囲で会います。声が出ても、出なくても、急がせません』
書き終えると、セリアが見た。
「いい」
「短い?」
「必要なことが書いてある」
「ならいいか」
「ああ」
リーネが微笑む。
「ノエル様が聞いたら、安心すると思います」
ミラが腕を組む。
「あの子、次は三行目って言うかな」
「言うかもしれないし、言わないかもしれない」
レオンが答える。
「それでいいんだろ」
「うん」
ミラは珍しく素直に頷いた。
「それでいい」
◇
その夜、神殿治癒院では、システィナがノエルの部屋を訪れていた。
ノエルは聖歌集を開いていなかった。
今日は閉じたまま、膝の上に置いている。
「疲れましたか?」
「疲れた」
「当然です」
「でも、嫌な疲れじゃない」
ノエルは聖歌集の表紙を撫でた。
「声、出た」
「はい」
「システィナ様は、聖歌だと思った?」
システィナは少し考えた。
そして、首を横に振る。
「いいえ。あなたの声だと思いました」
ノエルは、少しだけ笑った。
「レオンと同じこと言う」
「正しいと思ったので」
「そっか」
しばらく沈黙。
それからノエルは、小さく言った。
「次も白銀で会う」
「はい」
「三行目は、まだ分からない」
「分からないままでいいと思います」
「……システィナ様も変になってきた」
「白銀聖騎士団の影響かもしれません」
ノエルは、今度ははっきり笑った。
声を出して。
ほんの小さな笑い声だった。
システィナは泣かなかった。
ただ、両手を膝の上で強く握った。
泣けば、ノエルが困るから。
でも、その笑い声を忘れないように、胸の奥にしまった。
◇
同じ夜、白銀聖騎士団の詰所。
レオンは自室で、今日の報告書を読み返していた。
ノエルの声。
白い札。
門前でのセリアの拒絶。
全部が、静かに文字になっている。
その最後に、セリアの追記があった。
『声は、本人のものとして守る』
レオンはその一文を見て、しばらく黙った。
短い。
けれど、今日のすべてがそこにあった。
壁の向こうから声がする。
「まだ起きているのか」
「起きてる」
「寝ろ」
「今日は言われるのを待ってた気がする」
「なら毎日言う」
「もう毎日言ってる」
「なら続ける」
レオンは笑った。
少しして、セリアが言った。
「今日は、よく言葉を選んだ」
「ノエルの声のこと?」
「ああ。聖歌と呼ばず、戻ったとも言わず、本人の声だと言った」
「セリアが朝に言ったからな。評価するなって」
「それを覚えて、使えたのはお前だ」
レオンは返事に少し困った。
「……ありがとう」
「受け取っておく」
最近、セリアは礼を受け取ってくれるようになった。
それが少し嬉しい。
「ノエル、次も来るかな」
「来るだろう」
「三行目、読むかな」
「分からない」
「そうだな」
「分からないままでいい」
セリアの声は穏やかだった。
「彼女が決める」
「ああ」
レオンは報告書を閉じた。
今日、ノエルは二行目を読んだ。
少し声が出た。
でも、それを聖歌の回復とは呼ばなかった。
ノエルの声として守った。
それは、魔力を流す治療ではない。
けれど、確かに大切な支援だった。
「おやすみ、セリア」
「ああ。おやすみ、レオン」
灯りを落とす。
白銀聖騎士団の夜は静かだった。
だが、静けさの向こうで、また神殿は動くだろう。
ノエルの声が出た。
その事実を、きっと誰かは成果にしたがる。
だからこそ、支援室は記録する。
ノエルの声は、神殿のものではない。
聖女候補の成果でもない。
彼女自身のものだと。




