第25話『言葉だけの礼状と、王宮からの再招集』
翌朝、白銀聖騎士団の詰所に届いたのは、箱ではなかった。
金貨袋でもない。
魔力回復薬でもない。
高価な魔法織布でもない。
ただ、封書が二通。
一通は、エルンスト公爵家の正式な礼状。
もう一通は、クラウディア・エルンスト本人からレオンへ宛てられた私信だった。
「……本当に手紙だけね」
ミラが封書を見て、少しだけ意外そうに言った。
特別魔力支援室の机の上で、二通の封書は静かに置かれている。
セリアは公爵家の礼状を先に確認した。
「過分な礼品は送らない、と明記してある」
「おお」
ミラが感心した声を出す。
「公爵様、ちゃんと学習したんだ」
「言い方」
レオンが苦笑する。
リーネが柔らかく微笑んだ。
「クラウディア様が止めてくださったのかもしれませんね」
「あり得る」
エルザが記録板を見ながら頷く。
「前回、クラウディア様は治療手順への理解を深めています。公爵家内でも、過度な贈答が逆効果になると共有された可能性があります」
「エルザが言うと急に分析になるな」
「仕事ですので」
セリアは礼状を読み終え、静かに机へ置いた。
「公爵家からは、正式な謝意と、今後も白銀聖騎士団の治療方針に従う旨が記されている。文面上、問題はない」
「じゃあ、受け取っていいんだな?」
レオンが聞くと、セリアは頷いた。
「言葉だけの礼ならな」
その言い方が少しだけ優しかった。
黄金の鎖ではなく、言葉。
それなら受け取れる。
レオンはもう一通の封書へ視線を落とした。
クラウディア本人からの手紙。
封筒には、細く整った文字でレオンの名前が書かれていた。
「読んでもいいのか?」
レオンが尋ねると、リーネが微笑む。
「レオンさん宛てですから」
「でも、何か緊張するな」
「公爵令嬢からの手紙ですものね」
リーネの声が少し楽しそうだった。
ミラがぴくりと反応する。
「リーネ、何か含みある言い方してない?」
「気のせいです」
「絶対気のせいじゃない」
セリアは腕を組んだまま、静かに言った。
「私信なら無理にここで読む必要はない」
「いや、治療に関係あるかもしれないし」
「そうか」
「読む」
レオンは封を切った。
中の便箋は一枚だけ。
香水のような強い香りはない。
ただ、紙の匂いと、わずかなインクの香り。
そこに、丁寧な文字が並んでいた。
『レオン様。
昨日は、三度目の治療をありがとうございました。
右手の指だけでなく、手のひらにも温かさが戻ったことを、今でも信じられない思いで確かめています。
けれど、それ以上に大きかったのは、槍に触れずに終われたことでした。
触れたいと口に出しても、誰も私を責めませんでした。
ミラ様は止めてくださいました。
リーネ様は呼吸を見てくださいました。
エルザ様は記録してくださいました。
セリア様は終わりを決めてくださいました。
そしてレオン様は、私が触れたいと言ったことそのものを、否定しませんでした。
私は、治りたいです。
今でも、今すぐ槍を握りたいです。
ですが、焦って壊すのではなく、いつか本当に握れるようになるために、今日は触れなかったことを大切にします。
次回も、私は約束を守ります。
黄金ではなく、言葉だけでお礼を申し上げます。
ありがとうございました。
クラウディア・エルンスト』
読み終えた時、会議室は静かだった。
レオンはしばらく便箋から顔を上げられなかった。
胸の奥が、じんと熱い。
魔力を流した時とは違う温かさだった。
「……いい手紙ね」
ミラがぽつりと言った。
いつもの勢いはない。
心からそう思っている声だった。
リーネは目元を少し柔らかくしている。
「クラウディア様は、きちんとご自分の歩幅で進もうとしていらっしゃいますね」
エルザが静かに記録板を閉じた。
「この手紙は、治療経過記録とは別に保管する価値があります」
「記録するのか?」
レオンが聞くと、エルザは真面目に答える。
「はい。ただし全文ではなく、本人の意思変化として要約記録します。私信は私信ですので」
「そのへん、ちゃんとしてるんだな」
「記録係ですから」
セリアは、手紙を見ていた。
いつもより少しだけ穏やかな表情だった。
「クラウディア令嬢は強いな」
「強い?」
「ああ。触れたいと言える強さと、触れないと決める強さがある」
レオンは頷いた。
「俺もそう思う」
ミラが少しだけ鼻をすすった。
「ミラ?」
「何でもない」
「泣いてる?」
「泣いてない!」
ミラは勢いよく顔を逸らした。
「ただ、槍使いとしてちょっと来ただけ!」
「どこに?」
「胸に!」
リーネがくすくす笑う。
「ミラさんらしいですね」
「笑わないでよ!」
それでも、ミラの顔は少し嬉しそうだった。
クラウディアから名前を挙げられたことが、きっと響いている。
セリアはレオンへ視線を向けた。
「返事を書くか?」
「書いた方がいいよな」
「義務ではない」
「でも、書きたい」
「なら書け」
「また字が素朴って言われそうだ」
ミラがすぐに言う。
「だから、力強い字って言ってあげるってば」
「上手いとは言わないんだな」
「味がある!」
「戻った」
会議室に笑いが戻る。
レオンは便箋を丁寧にたたみ直した。
黄金の礼より、ずっと重い。
そう思った。
◇
クラウディアへの返事は、思った以上に難航した。
公爵令嬢への返信。
形式を気にし始めると、何も書けなくなる。
レオンは筆を持ったまま、白紙を見つめていた。
「……拝啓から始めるのか?」
そう呟くと、ミラが笑った。
「急に商会の手紙みたい」
「じゃあ何から始めればいいんだ」
「普通に、クラウディア様へ、でいいんじゃない?」
「軽すぎないか?」
「本人への手紙なんだから、変に飾らない方がいいと思うけど」
ミラにしては、やけにまともだった。
レオンが見つめると、ミラはすぐ赤くなる。
「何よ」
「いや、助かる」
「だから急に素直に言わないで!」
リーネが微笑む。
「では、レオンさんの言葉で書いて、それを少しだけ整えましょう」
「頼む」
「はい」
エルザも横から言う。
「内容案としては、本人の努力への敬意、次回も手順を守ること、焦らなくてよいこと、以上が重要です」
「完全に事務文書になりそうだな」
「では感情表現を追加してください」
「急に丸投げ」
セリアは少し離れた場所で見ていたが、やがて短く言った。
「レオンらしく書けばいい」
「それが難しい」
「難しく考えるな。お前がクラウディア令嬢に伝えたいことを書け」
「伝えたいこと……」
レオンはしばらく考えた。
そして、少しずつ書き始めた。
『クラウディア様へ。
手紙をありがとうございました。
昨日、槍に触れたいと言えたことも、触れずに終われたことも、どちらも大きな前進だったと思います。
俺は、治療で魔力を流すことはできます。
でも、触れたい気持ちを言葉にして、そこで止まったのはクラウディア様自身です。
次も焦らずに進みましょう。
槍は逃げないとミラも言っていました。
俺たちも、逃げません。
レオン・アルヴァス』
書き終えると、全員が黙った。
妙な沈黙だった。
レオンは不安になる。
「……変か?」
「変じゃない」
最初に言ったのはミラだった。
顔を少し赤くして、そっぽを向いている。
「むしろ、いいと思う」
リーネも頷いた。
「とてもレオンさんらしいです」
エルザが記録板に視線を落とす。
「形式上は若干修正が必要ですが、内容は良好です。特に『俺たちも、逃げません』は有効です」
「そこ、ちょっと恥ずかしいな」
「消しますか?」
「いや、残す」
セリアは手紙を見ていた。
静かに。
そして、短く言った。
「いい言葉だ」
それだけだった。
けれど、レオンには十分だった。
「ありがとう」
「礼を言うことではない」
「言いたかったから」
セリアは少しだけ目を逸らした。
「……そうか」
ミラがじっと見る。
「団長、また照れてる」
「ミラ」
「はい、でも今日は空気的に見逃してください」
「見逃さない」
「厳しい!」
笑いが起きる。
その時、支援室の扉が叩かれた。
「団長、王宮より急ぎの文書です」
空気が一瞬で変わった。
◇
届いた文書は、王宮法務部からのものだった。
神殿保護協定案の再調整に関する通知。
昨日の協議を受け、王宮法務部が白銀案を基礎に新たな草案を作成することになった。
その草案確認のため、白銀聖騎士団、神殿、近衛、魔導院の担当者による再協議を行う。
ここまでは想定内だった。
問題は、最後の一文だった。
『なお、本人意思保護の具体的運用確認のため、神殿治癒院所属聖女候補ノエルの面談事例、およびエルンスト公爵令嬢クラウディアの治療事例について、関係者からの聴取を行う可能性がある』
ミラが眉を吊り上げた。
「は? ノエルとクラウディアを王宮に呼ぶってこと?」
エルザが文書を読み直す。
「可能性がある、という表現です。現時点では確定ではありません」
「でも、呼ぶ気があるってことでしょ」
リーネの表情も硬い。
「本人意思保護を確認するために、本人へ負担をかけるのは本末転倒です」
セリアは文書を机に置いた。
「王宮法務部としては、実例が欲しいのだろう。制度を作るには、具体的な事例確認が必要だ」
「理屈は分かる」
レオンは言った。
「でも、ノエルを王宮に呼ぶのは危ない気がする」
「同感だ」
セリアは即答した。
「クラウディア令嬢も、王宮の場で治療経過を話すのは負担が大きい。ノエル殿はなおさらだ」
「じゃあ断る?」
ミラが聞く。
「全面的に断るのではなく、代替案を出す」
セリアはすぐに判断した。
「本人の直接出席は不要。記録と担当者証言で足りる。どうしても本人確認が必要なら、本人が望む場所へ王宮法務官が出向くべきだ」
「また扉と鍵ですね」
リーネが言う。
「そうだ」
セリアはレオンを見る。
「お前の意見は?」
「俺も同じ。ノエルやクラウディア様を、制度のために連れ出すのは違うと思う」
「では、その方向で返答する」
エルザがすぐに筆を取った。
「支援室として、本人負担軽減を原則にした聴取手順案を作成します」
「頼む」
レオンは窓の外を見た。
クラウディアは今、槍から少し離れている。
ノエルは聖歌集を一行ずつ読もうとしている。
その小さな歩みを、王宮の立派な会議室へ引きずり出したくはなかった。
制度は必要だ。
でも、制度のために人を削ってはいけない。
最近、そういうことばかり考えている気がした。
◇
午後、支援室は王宮への返答作成で慌ただしくなった。
レオンは直接の文書作成にはあまり役に立たなかったが、意見だけは求められた。
「本人が話したくないことを話さなくていい、って入れられるか?」
「入れられます」
エルザが即答する。
「では『聴取範囲は本人が事前に同意した内容に限定する』と」
「あと、途中でやめられることも」
「『本人の申し出、または担当者判断により即時中断可能』ですね」
リーネが頷く。
「面談時と同じく、合図札を使ってもよいかもしれません」
ミラが腕を組む。
「王宮の会議室に白い札を置くの?」
「必要なら置く」
セリアは真顔だった。
「本人が言葉にできない場合の中止手段は必要だ」
「団長、本当にやる気だ」
「当然だ」
ミラは少し笑った。
「でも、それいいと思う。王宮の偉い人たちの前で『今日はここまで』って札が出るの、ちょっと痛快だし」
「痛快さを目的にするな」
「副産物よ」
リーネが笑う。
レオンも少し笑った。
張り詰めた空気の中でも、ミラはこうして軽さを入れてくれる。
それは本当に助かる。
「ミラ」
「何?」
「今日も頼りになるな」
「だから急に!」
ミラは耳まで赤くなった。
「ほんと、何なのよレオンは!」
「褒めただけだろ」
「褒め方が直球すぎるの!」
エルザが記録板に書く。
「ミラ、直球評価への耐性低」
「書かないで!」
「重要です」
「何に!?」
セリアが少しだけ口元を緩める。
その表情を見て、レオンは思った。
支援室は、ずいぶん不思議な場所になった。
王宮、神殿、近衛、貴族家。
いろいろな思惑が持ち込まれる。
でも、この部屋では、それを全部いったん人の話に戻す。
肩書きではなく、本人。
制度ではなく、意思。
力ではなく、どう使うか。
そういう場所になってきている。
◇
夕方、王宮への返答文が完成した頃、もう一通の連絡が届いた。
差出人は、アリア・グランフィール。
近衛騎士団からの非公式な情報共有だった。
内容は短い。
『王宮法務部内で、神殿側が本人聴取の必要性を強く主張中。特にノエル様の事例を「神殿管理下での回復過程」として扱いたがっている様子。白銀側の反論準備を推奨します』
読み上げたエルザが、少しだけ眉を動かした。
「アリア様、かなり有用な情報をくれましたね」
ミラが複雑な顔をする。
「あの金髪きらきら、ちゃんと味方っぽいのが腹立つ」
「そこは素直に感謝しろ」
セリアが言う。
「分かってますよ。でも腹立つものは腹立つんです」
「なぜだ」
「ライバルだから!」
ミラは胸を張った。
レオンは少し笑う。
「ライバルって認めてるんだな」
「うっ」
ミラが固まる。
「今のなし」
「もう遅いです」
リーネが微笑む。
エルザが記録板へ手を伸ばす。
「ミラ、アリア様をライバルと明確に認定――」
「それ消して!」
「拒否します」
いつもの騒ぎ。
だが、アリアの情報は重かった。
ノエルの変化を、神殿が「神殿管理下での回復」として扱う。
白銀聖騎士団が用意した逃げ道。
レオンが触れずに待った時間。
ミラが作った騒がしい安心感。
リーネやシスティナが守った距離。
それらを全部、神殿の成果としてまとめるつもりなのかもしれない。
「違うだろ」
レオンは思わず言った。
全員が見る。
「ノエルが進んだのは、神殿の管理だからじゃない。嫌だって言える場所があったからだ」
リーネが静かに頷く。
「はい」
「そこを間違えたら、またノエルが苦しくなる」
「その通りだ」
セリアは短く言った。
「なら、次の協議ではそこを明確にする。ノエル殿の事例は神殿管理下の回復例ではない。本人意思を守った結果だと」
「俺も言っていいか」
「もちろんだ」
セリアは迷わなかった。
「それは、お前が言うべきことだ」
レオンは頷いた。
自分の言葉は、きれいではない。
でも、必要なら言う。
それを最近、少しずつ覚えてきた。
◇
その夜。
エルンスト公爵邸では、クラウディアがレオンからの返事を読んでいた。
読み終えたあと、彼女はしばらく便箋を胸に当てていた。
「俺たちも、逃げません……」
小さく呟く。
その言葉が、妙に胸に残った。
槍は逃げない。
自分も、焦らず進む。
そして、白銀聖騎士団も逃げない。
それがどれほど心強いか、彼女は昨日よりも分かっていた。
部屋の端には槍がある。
今日も少し遠い場所。
でも、以前ほど怖くはない。
クラウディアは右手の指をゆっくり動かした。
指先から手のひらへ。
温かさは、まだ少し残っている。
「次も、約束を守ります」
誰に聞かせるでもなく、彼女はそう言った。
◇
神殿治癒院では、ノエルが聖歌集を開いていた。
一行目。
二行目。
今日は、二行目まで目で追った。
声は出していない。
それでも、昨日より少しだけ長く本を開いていられた。
その時、システィナが部屋に入ってきた。
「ノエル、明日の面談についてですが」
「白銀騎士団?」
「はい。予定通りです」
「神官長様は?」
「同席しません」
「本当に?」
「本当です」
ノエルは少しだけ息を吐いた。
それから、聖歌集を閉じる。
「じゃあ、明日も行く」
「はい」
「次は、二行目まで読むかもしれない」
システィナは泣きそうになったが、必死に堪えた。
「はい」
「泣かないの?」
「我慢しています」
「変なの」
「白銀聖騎士団に少し影響されたかもしれません」
ノエルは、ほんの少し笑った。
◇
白銀聖騎士団詰所の夜。
レオンは自室で、王宮への返答文の写しを読んでいた。
読み終える頃には、かなり疲れていた。
文書は難しい。
でも、そこに書かれていることは単純だった。
ノエルを、クラウディアを、レオンを、制度の材料として扱わないこと。
それだけだ。
壁の向こうから、声がした。
「まだ起きているのか」
「起きてる」
「寝ろ」
「今日は文書が多くて目が疲れた」
「ならなおさら寝ろ」
「正論だ」
「私はだいたい正論を言う」
「だいたい?」
「時々、感情も混じる」
レオンは少し笑った。
「珍しく自分で言うな」
「お前の影響だ」
「俺の?」
「正直に言う癖が移った」
壁越しの声は、少しだけ柔らかい。
レオンは報告書を机に置いた。
「明日も忙しくなるな」
「ああ」
「王宮に、ノエルに、クラウディア様に」
「それだけではない。アリア殿からの情報も増えるだろう」
「本当に騒がしくなってきた」
「最初から言っている。もっと騒がしくなると」
「嫌な予言、当たったな」
「だが、悪いことばかりではない」
「そうだな」
レオンは、クラウディアの手紙を思い出した。
ノエルの二行目を読むかもしれないという話を思い出した。
アリアが送ってくれた情報を思い出した。
たしかに、騒がしい。
でも、少しずつ繋がっている。
「セリア」
「何だ?」
「支援室って、変な場所になってきたな」
「そうか?」
「うん。王宮文書とか神殿協定とか難しい話をしてるのに、結局みんなで『この人は嫌って言えるか』って話に戻ってくる」
「それでいい」
セリアは即答した。
「支援室は、そのための場所だ」
「そうか」
「ああ」
少し沈黙。
それからセリアが言った。
「レオン」
「何だ?」
「今日も、よく考えたな」
「褒めてる?」
「褒めている」
「珍しいな」
「必要なら言う」
「ありがとう」
「受け取っておく」
以前なら、礼はいらないと言っていたかもしれない。
少しずつ、セリアも変わっている。
レオンはそう思った。
「おやすみ、セリア」
「ああ。おやすみ、レオン」
灯りを落とす。
クラウディアへの返事は届いた。
ノエルは明日、また白銀騎士団へ来る。
王宮では、神殿協定を巡る新しい議論が始まる。
役立たずと呼ばれた力は、いつの間にか多くの人の選択に関わるものになっていた。
それは重い。
けれど、もう一人で背負うものではない。
白銀聖騎士団がいる。
支援室がある。
そして、隣室には今日も、寝ろと言ってくる不器用な団長がいる。
そう思うと、レオンは少しだけ安心して眠りにつけた。




