表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『役立たずと追放された「魔力譲渡」スキルの俺、実は美少女騎士団の「聖魔力源」だった件』  作者: 常陸之介寛浩 本能寺から始める信長との天下統一


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
22/46

第22話『聖女候補、白銀騎士団に来る』

白銀聖騎士団の面談室は、その朝だけ妙に整えられていた。


 磨かれた机。

 柔らかめの椅子。

 窓辺には香りの強すぎない花。

 部屋の入口は二つとも開けられるようにしてあり、廊下側にはリーネが用意した白い札が置かれている。


 札には、エルザの整った文字でこう書かれていた。


『中止』


 それを見たミラが、朝から眉を寄せた。


「……字が強すぎない?」


 エルザは無表情で首を傾げる。


「意味が明確です」


「明確だけど、何かこう、圧があるのよ。中止! って感じ」


「中止ですから」


「もう少し柔らかくできない?」


 リーネが横から別の札を出した。


『今日はここまで』


「こっちの方がいいですね」


 レオンは思わず頷いた。


「ノエルにはこっちの方が合ってそうだ」


「では、白い札はこちらに差し替えます」


 リーネが微笑みながら札を置き換える。


 エルザは少しだけ考え、元の『中止』札も机の隅に置いた。


「緊急用として残します」


「二段構えにするな」


 ミラが突っ込む。


 セリアは部屋全体を確認していた。


 椅子の位置。

 出口までの距離。

 窓の外から見えないか。

 廊下に余計な人がいないか。


 その真剣さに、レオンは少しだけ笑ってしまった。


「何だ」


 すぐ気づかれた。


「いや、逃げ道の配置まで確認してるのが、セリアらしいなと思って」


「必要なことだ」


「うん。分かってる」


「ならなぜ笑う」


「頼もしいと思ったから」


 セリアは一瞬黙った。


 そして、目を逸らす。


「……そうか」


 耳が赤い。


 ミラがすかさず指を差した。


「団長、今の褒められて照れましたよね」


「照れていない」


「いや、もう否定の声が弱いです」


「ミラ」


「はい、でも今日は言う価値ありました」


 リーネがくすくす笑う。


 エルザは記録板を構えたが、セリアに見られて静かに下ろした。


「記録を自制しました」


「言った時点で自制できていない」


 レオンはそんなやり取りを見ながら、部屋の椅子に視線を向けた。


 今日はノエルがここへ来る。


 神殿の外へ。


 白銀聖騎士団の詰所へ。


 治療ではない。

 診断でもない。

 魔力を流す予定もない。


 ただ会うだけ。


 それでも、ノエルにとってはかなり大きな一歩のはずだった。


「レオン」


 セリアが声をかけた。


「何だ?」


「今日も、治そうとするな」


「分かってる」


「聖歌集を持ってくると聞いている。だが、歌わせようとするな」


「しない」


「本人が話を止めたがったら、そこで止める」


「ああ」


「神殿側の付き添いはシスティナ殿のみ。ほかの神官が同行を求めても入れない」


「分かった」


「本当に?」


「本当に」


 ここまで来ると、もう儀式のようだった。


 ミラが腕を組む。


「団長、毎回確認するの大事だけど、そろそろレオンも覚えてると思いますよ」


「覚えていても確認する」


「まあ、そこが団長らしいけど」


 セリアは真顔で頷いた。


「大事なことは、確認しすぎるくらいでいい」


「それは本当にそうですね」


 リーネが柔らかく言う。


「特に、嫌だと言いにくい人を相手にする時は」


 部屋の空気が少し落ち着いた。


 ノエルは、きっと嫌だと言うのにも力を使う。

 だから、嫌だと言う前に逃げ道を置いておく。


 それが今日の面談室だった。


    ◇


 ノエルが到着したのは、午前十刻の少し前だった。


 門の前に止まった馬車は、神殿のものにしては控えめだった。

 大きな紋章も、派手な装飾もない。

 システィナが選んだのだろう。


 馬車の扉が開き、まずシスティナが降りる。


 その後ろから、ノエルがゆっくり姿を見せた。


 白い療養服ではなく、淡い灰色の外出用の服。

 肩に薄いショール。

 腕の中には、古びた聖歌集。


 神殿の外へ出るのに慣れていないのか、彼女は足元を見てから、恐る恐る顔を上げた。


 白銀聖騎士団の門。

 訓練場。

 槍を担いで走る騎士たち。

 朝の稽古の掛け声。


 神殿とはまるで違う音と空気に、ノエルは少しだけ目を丸くした。


「……うるさい」


 第一声がそれだった。


 ミラが門前で思いきり反応した。


「来てすぐそれ!?」


「本当のことだから」


「まあ、否定はできないけど!」


 ノエルはミラを見て、少しだけ肩の力を抜いたように見えた。


「あなたがいると、神殿じゃないって分かる」


「それ、褒めてる?」


「たぶん」


「たぶん!?」


 ノエルの口元が、ほんの少しだけ上がる。


 レオンはそのやり取りを見て、胸の奥が少し軽くなった。


 ノエルは来られた。


 それだけで、今日はもう半分以上進んでいる気がした。


 セリアが前へ出る。


「ようこそ、白銀聖騎士団へ。ノエル殿」


「……こんにちは」


 ノエルは小さく頭を下げた。


「今日は会話のみ。治療も診断も接触もしない。嫌になったら、いつでも帰っていい」


「本当に?」


「ああ」


「途中で帰ったら、失礼じゃない?」


「失礼ではない」


 セリアはきっぱり言った。


「ここは、お前が無理をする場所ではない」


 ノエルはしばらくセリアを見ていた。


 それから、小さく呟く。


「やっぱり変な騎士団」


「よく言われる」


 セリアが真面目に返したので、ミラが吹き出した。


「団長まで認めた!」


「事実だからな」


「そういうところです!」


 ノエルが少し笑う。


 システィナはその笑顔を見て、泣きそうになっていた。


 ノエルがすぐ気づく。


「泣かないで」


「はい、すみません」


「まだ門に入っただけ」


「それでも、私には大きいことです」


 システィナの声は震えていた。


 ノエルは困ったように視線を逸らした。


「大げさ」


 でも、その声は少し優しかった。


    ◇


 面談室に入ると、ノエルはまず二つの扉を見た。


 片方は廊下へ。

 もう片方は中庭へ出られる小さな扉。


 それから、机の上の白い札へ目を向ける。


『今日はここまで』


 ノエルはしばらくその札を見ていた。


「これ、私用?」


 レオンは頷いた。


「はい。言いにくかったら、それを倒せば終わりにします」


「話の途中でも?」


「途中でも」


「あなたが話していても?」


「俺が話していても」


「ミラがうるさくても?」


「ちょっと待って。私限定?」


 ミラが即座に突っ込んだ。


 ノエルは真顔で言う。


「たぶん一番うるさいから」


「否定できないけど!」


 リーネが笑いをこらえている。


 エルザは記録板に書き込んだ。


「ノエル様、白い札の使用条件を理解。ミラの騒音リスクを認識」


「エルザまで!」


「事実です」


 ノエルは椅子に座った。


 場所は出口に一番近い席。


 彼女はそのことにも気づいているようだった。


「逃げやすい席」


「はい」


 リーネが答える。


「逃げていいという意味です」


「普通、逃げないでって言うのに」


「逃げられると思うと、少し座っていられることがありますから」


 ノエルは聖歌集を膝に置いた。


「……そうかも」


 レオンは彼女の正面ではなく、少し斜めの席に座った。


 真正面から見られるのは負担になるかもしれないと、リーネが事前に提案していた位置だ。


 セリアはレオンの少し後ろ。

 ミラはノエルの斜め向かい。

 リーネはシスティナの隣。

 エルザは記録係として壁際。


 ノエルは全員を一度見渡した。


「多い」


「減らすこともできます」


 セリアが言う。


「誰か出てほしければ言ってくれ」


 ノエルは少し考えた。


 そして、ミラを見る。


「ミラはいて」


「えっ」


 ミラが驚く。


「私?」


「うるさいけど、神殿っぽくないから」


「褒めてる?」


「たぶん」


「またたぶん!」


 ノエルは次にリーネを見る。


「リーネもいて」


「はい」


「優しいけど、無理に励まさないから」


「ありがとうございます」


 それから、エルザを見る。


「記録の人もいていい」


「記録の人」


 エルザが小さく呟いた。


「不満?」


「いいえ。分かりやすい呼称です」


「じゃあ記録の人」


「承知しました」


 最後にセリアを見る。


「団長もいて。怖い人が来たら止めそうだから」


「止める」


 即答だった。


 ノエルは少しだけ頷いた。


「じゃあ、全員いていい」


 レオンは小さく息を吐いた。


 それだけで、部屋の空気が整った気がした。


「今日は何を話しますか?」


 レオンが聞くと、ノエルは膝の上の聖歌集に指を置いた。


「これ」


「聖歌集?」


「うん。持ってきた」


「開きますか?」


「……開くだけ」


「はい」


「歌わない」


「はい」


「歌えって言わないで」


「言いません」


 ノエルは少しだけ安心したように、表紙を撫でた。


「神殿だと、これを開くと皆が期待する」


「歌うかもって?」


「うん。歌えるかも。魔力が戻るかも。聖女候補に戻るかも」


 彼女は小さく笑った。


「ただ読むだけなのに」


「ここでは、読むだけでいいです」


 ノエルはレオンを見た。


「本当に、あなたは変なことを言う」


「そうですか?」


「神殿では、読むなら祈りましょうって言われる。祈るなら声を出しましょうって。声を出せたら、次は聖歌として響かせましょうって。いつも次がある」


 その言葉は、静かだったが重かった。


「ここでは、次を求めない?」


 ノエルが聞く。


 レオンは頷いた。


「求めません」


「一行だけ読んで閉じても?」


「それでいいです」


「読まなくても?」


「それでもいいです」


「来ただけで帰っても?」


「来られたので、もう十分です」


 ノエルは黙った。


 ミラが横から小声で言う。


「レオン、そういうところ本当にずるい」


「何が?」


「無自覚に安心させるところ」


 ノエルがミラを見る。


「ずるい?」


「ずるいのよ。急にまっすぐ言うから、反応に困る」


「分かる」


「分かるの!?」


 ノエルはほんの少し笑った。


 その笑みのまま、聖歌集を開く。


 古い紙の匂いが、ふわりと部屋に広がった。


 ノエルの指が、ページの文字をなぞる。


 誰も何も言わない。


 レオンも、セリアも、ミラも、リーネも、エルザも、システィナも。


 ただ待った。


 ノエルはしばらく文字を見ていた。


 唇がわずかに動く。


 声は出ていない。


 歌でもない。


 ただ、音のない聖歌。


 それでも、システィナの目には涙が浮かんでいた。


 ノエルがちらりと見る。


「泣かないで」


「はい……すみません」


「また」


「はい」


 ノエルは少し困った顔をした。


 それから、ページを閉じた。


 白い札には触れなかった。


「今日はここまで」


「はい」


 レオンは頷いた。


「読めたんですか?」


「一行だけ」


「すごいですね」


 ノエルは眉を寄せた。


「すごくない」


「俺にはすごいと思いました」


「……そういうの、ずるい」


 ミラがすぐに反応する。


「ほら! 言ったでしょ!」


「ミラと同じにしないで」


「辛口!」


 ノエルは聖歌集を胸に抱いた。


 その表情は、泣きそうでもあり、少しだけ笑いそうでもあった。


「一行だけ読んで、誰も次を求めなかった」


「はい」


「変な場所」


「よく言われます」


 レオンが答えると、ノエルは小さく笑った。


「でも、嫌じゃない」


    ◇


 面談はそこで一度休憩になった。


 リーネが香草茶を出す。

 ノエルは最初、少し警戒したが、ミラが先に飲んで「あ、普通においしい」と言ったので、少しだけ口をつけた。


「熱い」


「ゆっくり飲んで」


 ミラが言う。


「あなた、こういう時は普通に優しい」


「こういう時はって何よ」


「普段はうるさい」


「それはもう分かったから!」


 ノエルはカップを両手で持ったまま、少しだけ肩の力を抜いた。


 システィナが静かに言う。


「ノエル、疲れていませんか」


「疲れた」


「帰りますか?」


 システィナがそう言うと、ノエルは少し驚いた顔をした。


「帰るか聞くんだ」


「はい」


「いつもなら、もう少し頑張れって言うのに」


「今日は、帰るかどうかもあなたが決めていい日です」


 ノエルはカップを見つめた。


「……もう少しだけいる」


「分かりました」


 リーネが微笑む。


「では、もう少しだけですね」


 もう少し。


 クラウディアの治療では危うい言葉だった。


 でも、今日のノエルにとっては違う。


 自分で決めた「もう少し」。


 それは、彼女の意思だった。


 レオンは慎重に聞いた。


「次の話をしてもいいですか?」


「何?」


「前回、俺の追放された話の続きを聞きたいって言ってましたよね」


「うん」


「今日は、少しだけ話します」


「うん」


 ノエルはカップを置いた。


 レオンは、あの日の酒場のことを話した。


 仲間だと思っていた相手から、役立たずと言われたこと。

 魔力譲渡の価値を誰も見ていなかったこと。

 自分自身も、自分の力を信じきれていなかったこと。

 追放された時、腹立たしさより先に、空っぽになったこと。


 派手な言葉にはしなかった。


 ざまぁのように痛快に語ることもしなかった。


 ただ、痛かったことを痛かったと言った。


 ノエルは黙って聞いていた。


 途中で一度だけ、こう聞いた。


「その人たちを、見返したい?」


 レオンは少し考えた。


「最初は、そう思っていたかもしれません」


「今は?」


「今は……見返すより、自分の力を嫌いになりたくない」


 ノエルは目を伏せた。


「それ、少し分かる」


「ノエルも?」


「歌えない自分を嫌いになりたくない。でも、嫌いになりそうになる」


「嫌いになったら駄目だとは言いません」


 レオンは静かに言った。


「駄目って言われると、余計に苦しいから」


「うん」


「でも、嫌いになりそうな時に、少しだけ止まれる場所があるといいと思います」


「ここ?」


「ここでもいいし、神殿の部屋でもいいし、聖歌集の一行でもいい」


 ノエルは聖歌集を見た。


「一行だけでも?」


「一行だけでも」


 ノエルは何も言わなかった。


 でも、その指が聖歌集の表紙を軽く撫でた。


    ◇


 面談は、予定より少し長く続いた。


 ただし、治療はしていない。

 魔力も流していない。

 触れてもいない。


 ノエルは白い札を倒さなかった。


 最後まで、自分で椅子に座っていた。


 帰る時、彼女は部屋の扉の前で振り返った。


「次も、ここで会いたい」


 レオンは頷いた。


「分かりました」


「神殿じゃなくて、ここ」


「はい」


「でも、まだ治療はしない」


「はい」


「歌わない」


「はい」


「……一行だけ読むかもしれない」


 システィナが口元を押さえる。


 リーネも目元を柔らかくした。


 ミラは何か言いかけて、ぐっと堪えた。


 エルザが珍しく静かに記録している。


 セリアは短く言った。


「それでいい」


 ノエルはセリアを見た。


「団長は、短い」


「必要なことだけ言っている」


「でも、分かりやすい」


「そうか」


「うん。嫌じゃない」


 セリアは少しだけ目を丸くした。


 ミラが小声で言う。


「団長、ノエルにも懐かれてる」


「懐くって言わないで」


 ノエルが即座に返す。


「辛口が戻ってきた!」


「あなたが変なこと言うから」


「もう、ほんと遠慮ないわね!」


 ノエルは少し笑った。


 そして、馬車へ向かう前に、もう一度レオンを見た。


「レオン」


「はい」


「今日は、触らないでいてくれてありがとう」


 その言葉は、静かだった。


 けれど、何より重かった。


「こちらこそ、来てくれてありがとうございます」


「……ずるい」


 ノエルはそれだけ言って、システィナと共に馬車へ乗った。


 扉が閉まり、馬車がゆっくり動き出す。


 白銀聖騎士団の門を出ていくまで、ノエルは窓の向こうから外を見ていた。


 神殿の外の景色を。


 白銀騎士団の騒がしい庭を。


 そして、逃げてもいい場所を。


    ◇


 馬車が見えなくなったあと、ミラが大きく息を吐いた。


「疲れた……治療してないのに疲れた……」


「何もしないのは疲れるからな」


 レオンが言うと、ミラは頷く。


「本当にそれ。黙って見守るの、こんなに大変なのね」


 リーネが微笑む。


「ミラさん、今日はよく黙っていましたね」


「褒めてる?」


「褒めています」


「今日、私、褒められる日?」


 エルザが記録板を見る。


「ミラ、発言回数は通常の六割。ただし重要な突っ込みは維持」


「それ褒めてるの?」


「褒めています」


「分かりにくい!」


 セリアは門の方を見たまま言った。


「今日の面談は成功だ」


 レオンは少し驚いた。


「成功って言っていいのか?」


「ああ」


「治療してないのに?」


「ノエル殿が自分で来て、自分で座り、自分で一行読み、自分で次を選んだ」


 セリアはレオンを見る。


「十分だ」


 その言葉で、レオンの胸に温かさが広がった。


 そうか。


 十分なのだ。


 魔力を流さなくても。

 劇的な変化がなくても。

 誰かが自分で一歩を選んだなら、それは十分に大きい。


「ありがとう」


 レオンが言うと、セリアは少しだけ視線を逸らした。


「礼を言うことではない」


「言いたかったから」


「……そうか」


 ミラがじとっと見る。


「門前でいい空気にしないでくれる?」


「してない」


「してるのよ」


 リーネが笑う。


 エルザが記録板を開く。


「記録。面談後、団長とレオンさんの相互信頼反応――」


「消せ」


 セリアが即座に言った。


「まだ書いていません」


「なら書くな」


「検討します」


「書く気だろう」


 いつもの騒がしさが戻ってきた。


    ◇


 その夜、神殿治癒院の部屋で、ノエルは聖歌集を開いていた。


 今日読んだ一行。


 そこに、指を置く。


 白銀聖騎士団の面談室を思い出す。


 出口に近い椅子。

 白い札。

 うるさいミラ。

 優しいけれど押しつけないリーネ。

 短い言葉で守るセリア。

 静かに記録するエルザ。

 そして、触らずに待ってくれたレオン。


「……触らないでいてくれてありがとう、か」


 自分で言った言葉を思い出し、少しだけ頬が熱くなる。


 変な言葉だ。


 普通なら、治してくれてありがとうと言うべきなのに。


 でも、今日のノエルには、それが一番大きかった。


 誰も急かさなかった。

 誰も祈れと言わなかった。

 誰も歌えと言わなかった。


 それだけで、一行読めた。


 ノエルは小さく息を吸った。


 声は出さない。


 ただ、息だけで文字をなぞる。


 前より少しだけ長く。


 それはまだ聖歌ではない。


 でも、彼女自身の中では、確かに音が戻り始めていた。


    ◇


 一方、神殿上層部には、その日の面談報告が届いていた。


 ノエル、白銀聖騎士団にて面談実施。

 治療なし。

 接触なし。

 聖歌集を一行読む。

 次回も白銀聖騎士団での面談を希望。


 高位神官たちは、その文面を見て複雑な表情を浮かべた。


「前進ではある」


「しかし、神殿外でなければ進まぬというのは問題だ」


「白銀聖騎士団の影響が強まりすぎている」


 神官長は黙って報告書を読んでいた。


 やがて、静かに言った。


「急がぬと言ったはずだ」


「ですが」


「ノエルが聖歌集を開いた。今はそれでよい」


 その言葉に、部屋の空気が少し緩む。


 だが、神官長の目は冷静だった。


「ただし、聖魔力源を白銀聖騎士団だけに任せるわけにはいかん。神殿として、正式な保護協定を王宮へ提案する」


「保護協定……」


「名目は、聖女候補および聖属性保持者の治療支援体制整備」


 白い言葉だった。


 清らかで、正しい。


 だがその奥には、また新しい鎖の気配があった。


    ◇


 白銀聖騎士団の詰所。


 夜の自室で、レオンは今日の報告書を読んでいた。


『ノエル、白銀聖騎士団面談室にて聖歌集一行読了。治療なし。接触なし。次回面談希望あり』


 最後に、セリアの追記。


『今日はここまで、を守れた』


 レオンはその一文を見て、小さく笑った。


 簡潔すぎる。

 でも、今日のすべてがそこにあった。


 壁の向こうから声がした。


「まだ起きているのか」


「起きてる」


「寝ろ」


「今日は言われると思ってた」


「毎日言う」


「過保護だな」


「自覚はある」


 いつものやり取り。


 それが今夜は少しだけ心地よかった。


「ノエル、一行読めたな」


「ああ」


 セリアの声は穏やかだった。


「大きな一歩だ」


「治療してないのに?」


「治療だけが前進ではない」


「今日、それが分かった気がする」


「ならいい」


 少し沈黙。


 それから、セリアが言った。


「レオン」


「何だ?」


「お前が触れなかったことに、ノエル殿は礼を言った」


「ああ」


「あれは、お前にしかできない支えだったと思う」


 レオンは返事に困った。


 胸の奥が熱くなる。


「……そうかな」


「そうだ」


「セリアは、いつもそうやって断言するな」


「必要なことは断言する」


「そっか」


「ああ」


 レオンは報告書を閉じた。


 今日は何もしなかった日ではない。


 触れないことを選んだ日。

 待つことを選んだ日。

 ノエルが一行だけ読むのを、誰も急かさず見守った日。


 聖魔力源の力は、魔力だけではないのかもしれない。


 少なくとも今夜、レオンはそう思えた。


「おやすみ、セリア」


「ああ。おやすみ、レオン」


 灯りを落とす。


 王都の夜は静かだった。


 だがその静けさの向こうで、神殿はまた動き出している。


 白い鎖は、まだ完全には消えていない。


 それでも、ノエルは今日、自分の意思で一行を読んだ。


 それだけは、誰にも奪えない前進だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ