第22話『聖女候補、白銀騎士団に来る』
白銀聖騎士団の面談室は、その朝だけ妙に整えられていた。
磨かれた机。
柔らかめの椅子。
窓辺には香りの強すぎない花。
部屋の入口は二つとも開けられるようにしてあり、廊下側にはリーネが用意した白い札が置かれている。
札には、エルザの整った文字でこう書かれていた。
『中止』
それを見たミラが、朝から眉を寄せた。
「……字が強すぎない?」
エルザは無表情で首を傾げる。
「意味が明確です」
「明確だけど、何かこう、圧があるのよ。中止! って感じ」
「中止ですから」
「もう少し柔らかくできない?」
リーネが横から別の札を出した。
『今日はここまで』
「こっちの方がいいですね」
レオンは思わず頷いた。
「ノエルにはこっちの方が合ってそうだ」
「では、白い札はこちらに差し替えます」
リーネが微笑みながら札を置き換える。
エルザは少しだけ考え、元の『中止』札も机の隅に置いた。
「緊急用として残します」
「二段構えにするな」
ミラが突っ込む。
セリアは部屋全体を確認していた。
椅子の位置。
出口までの距離。
窓の外から見えないか。
廊下に余計な人がいないか。
その真剣さに、レオンは少しだけ笑ってしまった。
「何だ」
すぐ気づかれた。
「いや、逃げ道の配置まで確認してるのが、セリアらしいなと思って」
「必要なことだ」
「うん。分かってる」
「ならなぜ笑う」
「頼もしいと思ったから」
セリアは一瞬黙った。
そして、目を逸らす。
「……そうか」
耳が赤い。
ミラがすかさず指を差した。
「団長、今の褒められて照れましたよね」
「照れていない」
「いや、もう否定の声が弱いです」
「ミラ」
「はい、でも今日は言う価値ありました」
リーネがくすくす笑う。
エルザは記録板を構えたが、セリアに見られて静かに下ろした。
「記録を自制しました」
「言った時点で自制できていない」
レオンはそんなやり取りを見ながら、部屋の椅子に視線を向けた。
今日はノエルがここへ来る。
神殿の外へ。
白銀聖騎士団の詰所へ。
治療ではない。
診断でもない。
魔力を流す予定もない。
ただ会うだけ。
それでも、ノエルにとってはかなり大きな一歩のはずだった。
「レオン」
セリアが声をかけた。
「何だ?」
「今日も、治そうとするな」
「分かってる」
「聖歌集を持ってくると聞いている。だが、歌わせようとするな」
「しない」
「本人が話を止めたがったら、そこで止める」
「ああ」
「神殿側の付き添いはシスティナ殿のみ。ほかの神官が同行を求めても入れない」
「分かった」
「本当に?」
「本当に」
ここまで来ると、もう儀式のようだった。
ミラが腕を組む。
「団長、毎回確認するの大事だけど、そろそろレオンも覚えてると思いますよ」
「覚えていても確認する」
「まあ、そこが団長らしいけど」
セリアは真顔で頷いた。
「大事なことは、確認しすぎるくらいでいい」
「それは本当にそうですね」
リーネが柔らかく言う。
「特に、嫌だと言いにくい人を相手にする時は」
部屋の空気が少し落ち着いた。
ノエルは、きっと嫌だと言うのにも力を使う。
だから、嫌だと言う前に逃げ道を置いておく。
それが今日の面談室だった。
◇
ノエルが到着したのは、午前十刻の少し前だった。
門の前に止まった馬車は、神殿のものにしては控えめだった。
大きな紋章も、派手な装飾もない。
システィナが選んだのだろう。
馬車の扉が開き、まずシスティナが降りる。
その後ろから、ノエルがゆっくり姿を見せた。
白い療養服ではなく、淡い灰色の外出用の服。
肩に薄いショール。
腕の中には、古びた聖歌集。
神殿の外へ出るのに慣れていないのか、彼女は足元を見てから、恐る恐る顔を上げた。
白銀聖騎士団の門。
訓練場。
槍を担いで走る騎士たち。
朝の稽古の掛け声。
神殿とはまるで違う音と空気に、ノエルは少しだけ目を丸くした。
「……うるさい」
第一声がそれだった。
ミラが門前で思いきり反応した。
「来てすぐそれ!?」
「本当のことだから」
「まあ、否定はできないけど!」
ノエルはミラを見て、少しだけ肩の力を抜いたように見えた。
「あなたがいると、神殿じゃないって分かる」
「それ、褒めてる?」
「たぶん」
「たぶん!?」
ノエルの口元が、ほんの少しだけ上がる。
レオンはそのやり取りを見て、胸の奥が少し軽くなった。
ノエルは来られた。
それだけで、今日はもう半分以上進んでいる気がした。
セリアが前へ出る。
「ようこそ、白銀聖騎士団へ。ノエル殿」
「……こんにちは」
ノエルは小さく頭を下げた。
「今日は会話のみ。治療も診断も接触もしない。嫌になったら、いつでも帰っていい」
「本当に?」
「ああ」
「途中で帰ったら、失礼じゃない?」
「失礼ではない」
セリアはきっぱり言った。
「ここは、お前が無理をする場所ではない」
ノエルはしばらくセリアを見ていた。
それから、小さく呟く。
「やっぱり変な騎士団」
「よく言われる」
セリアが真面目に返したので、ミラが吹き出した。
「団長まで認めた!」
「事実だからな」
「そういうところです!」
ノエルが少し笑う。
システィナはその笑顔を見て、泣きそうになっていた。
ノエルがすぐ気づく。
「泣かないで」
「はい、すみません」
「まだ門に入っただけ」
「それでも、私には大きいことです」
システィナの声は震えていた。
ノエルは困ったように視線を逸らした。
「大げさ」
でも、その声は少し優しかった。
◇
面談室に入ると、ノエルはまず二つの扉を見た。
片方は廊下へ。
もう片方は中庭へ出られる小さな扉。
それから、机の上の白い札へ目を向ける。
『今日はここまで』
ノエルはしばらくその札を見ていた。
「これ、私用?」
レオンは頷いた。
「はい。言いにくかったら、それを倒せば終わりにします」
「話の途中でも?」
「途中でも」
「あなたが話していても?」
「俺が話していても」
「ミラがうるさくても?」
「ちょっと待って。私限定?」
ミラが即座に突っ込んだ。
ノエルは真顔で言う。
「たぶん一番うるさいから」
「否定できないけど!」
リーネが笑いをこらえている。
エルザは記録板に書き込んだ。
「ノエル様、白い札の使用条件を理解。ミラの騒音リスクを認識」
「エルザまで!」
「事実です」
ノエルは椅子に座った。
場所は出口に一番近い席。
彼女はそのことにも気づいているようだった。
「逃げやすい席」
「はい」
リーネが答える。
「逃げていいという意味です」
「普通、逃げないでって言うのに」
「逃げられると思うと、少し座っていられることがありますから」
ノエルは聖歌集を膝に置いた。
「……そうかも」
レオンは彼女の正面ではなく、少し斜めの席に座った。
真正面から見られるのは負担になるかもしれないと、リーネが事前に提案していた位置だ。
セリアはレオンの少し後ろ。
ミラはノエルの斜め向かい。
リーネはシスティナの隣。
エルザは記録係として壁際。
ノエルは全員を一度見渡した。
「多い」
「減らすこともできます」
セリアが言う。
「誰か出てほしければ言ってくれ」
ノエルは少し考えた。
そして、ミラを見る。
「ミラはいて」
「えっ」
ミラが驚く。
「私?」
「うるさいけど、神殿っぽくないから」
「褒めてる?」
「たぶん」
「またたぶん!」
ノエルは次にリーネを見る。
「リーネもいて」
「はい」
「優しいけど、無理に励まさないから」
「ありがとうございます」
それから、エルザを見る。
「記録の人もいていい」
「記録の人」
エルザが小さく呟いた。
「不満?」
「いいえ。分かりやすい呼称です」
「じゃあ記録の人」
「承知しました」
最後にセリアを見る。
「団長もいて。怖い人が来たら止めそうだから」
「止める」
即答だった。
ノエルは少しだけ頷いた。
「じゃあ、全員いていい」
レオンは小さく息を吐いた。
それだけで、部屋の空気が整った気がした。
「今日は何を話しますか?」
レオンが聞くと、ノエルは膝の上の聖歌集に指を置いた。
「これ」
「聖歌集?」
「うん。持ってきた」
「開きますか?」
「……開くだけ」
「はい」
「歌わない」
「はい」
「歌えって言わないで」
「言いません」
ノエルは少しだけ安心したように、表紙を撫でた。
「神殿だと、これを開くと皆が期待する」
「歌うかもって?」
「うん。歌えるかも。魔力が戻るかも。聖女候補に戻るかも」
彼女は小さく笑った。
「ただ読むだけなのに」
「ここでは、読むだけでいいです」
ノエルはレオンを見た。
「本当に、あなたは変なことを言う」
「そうですか?」
「神殿では、読むなら祈りましょうって言われる。祈るなら声を出しましょうって。声を出せたら、次は聖歌として響かせましょうって。いつも次がある」
その言葉は、静かだったが重かった。
「ここでは、次を求めない?」
ノエルが聞く。
レオンは頷いた。
「求めません」
「一行だけ読んで閉じても?」
「それでいいです」
「読まなくても?」
「それでもいいです」
「来ただけで帰っても?」
「来られたので、もう十分です」
ノエルは黙った。
ミラが横から小声で言う。
「レオン、そういうところ本当にずるい」
「何が?」
「無自覚に安心させるところ」
ノエルがミラを見る。
「ずるい?」
「ずるいのよ。急にまっすぐ言うから、反応に困る」
「分かる」
「分かるの!?」
ノエルはほんの少し笑った。
その笑みのまま、聖歌集を開く。
古い紙の匂いが、ふわりと部屋に広がった。
ノエルの指が、ページの文字をなぞる。
誰も何も言わない。
レオンも、セリアも、ミラも、リーネも、エルザも、システィナも。
ただ待った。
ノエルはしばらく文字を見ていた。
唇がわずかに動く。
声は出ていない。
歌でもない。
ただ、音のない聖歌。
それでも、システィナの目には涙が浮かんでいた。
ノエルがちらりと見る。
「泣かないで」
「はい……すみません」
「また」
「はい」
ノエルは少し困った顔をした。
それから、ページを閉じた。
白い札には触れなかった。
「今日はここまで」
「はい」
レオンは頷いた。
「読めたんですか?」
「一行だけ」
「すごいですね」
ノエルは眉を寄せた。
「すごくない」
「俺にはすごいと思いました」
「……そういうの、ずるい」
ミラがすぐに反応する。
「ほら! 言ったでしょ!」
「ミラと同じにしないで」
「辛口!」
ノエルは聖歌集を胸に抱いた。
その表情は、泣きそうでもあり、少しだけ笑いそうでもあった。
「一行だけ読んで、誰も次を求めなかった」
「はい」
「変な場所」
「よく言われます」
レオンが答えると、ノエルは小さく笑った。
「でも、嫌じゃない」
◇
面談はそこで一度休憩になった。
リーネが香草茶を出す。
ノエルは最初、少し警戒したが、ミラが先に飲んで「あ、普通においしい」と言ったので、少しだけ口をつけた。
「熱い」
「ゆっくり飲んで」
ミラが言う。
「あなた、こういう時は普通に優しい」
「こういう時はって何よ」
「普段はうるさい」
「それはもう分かったから!」
ノエルはカップを両手で持ったまま、少しだけ肩の力を抜いた。
システィナが静かに言う。
「ノエル、疲れていませんか」
「疲れた」
「帰りますか?」
システィナがそう言うと、ノエルは少し驚いた顔をした。
「帰るか聞くんだ」
「はい」
「いつもなら、もう少し頑張れって言うのに」
「今日は、帰るかどうかもあなたが決めていい日です」
ノエルはカップを見つめた。
「……もう少しだけいる」
「分かりました」
リーネが微笑む。
「では、もう少しだけですね」
もう少し。
クラウディアの治療では危うい言葉だった。
でも、今日のノエルにとっては違う。
自分で決めた「もう少し」。
それは、彼女の意思だった。
レオンは慎重に聞いた。
「次の話をしてもいいですか?」
「何?」
「前回、俺の追放された話の続きを聞きたいって言ってましたよね」
「うん」
「今日は、少しだけ話します」
「うん」
ノエルはカップを置いた。
レオンは、あの日の酒場のことを話した。
仲間だと思っていた相手から、役立たずと言われたこと。
魔力譲渡の価値を誰も見ていなかったこと。
自分自身も、自分の力を信じきれていなかったこと。
追放された時、腹立たしさより先に、空っぽになったこと。
派手な言葉にはしなかった。
ざまぁのように痛快に語ることもしなかった。
ただ、痛かったことを痛かったと言った。
ノエルは黙って聞いていた。
途中で一度だけ、こう聞いた。
「その人たちを、見返したい?」
レオンは少し考えた。
「最初は、そう思っていたかもしれません」
「今は?」
「今は……見返すより、自分の力を嫌いになりたくない」
ノエルは目を伏せた。
「それ、少し分かる」
「ノエルも?」
「歌えない自分を嫌いになりたくない。でも、嫌いになりそうになる」
「嫌いになったら駄目だとは言いません」
レオンは静かに言った。
「駄目って言われると、余計に苦しいから」
「うん」
「でも、嫌いになりそうな時に、少しだけ止まれる場所があるといいと思います」
「ここ?」
「ここでもいいし、神殿の部屋でもいいし、聖歌集の一行でもいい」
ノエルは聖歌集を見た。
「一行だけでも?」
「一行だけでも」
ノエルは何も言わなかった。
でも、その指が聖歌集の表紙を軽く撫でた。
◇
面談は、予定より少し長く続いた。
ただし、治療はしていない。
魔力も流していない。
触れてもいない。
ノエルは白い札を倒さなかった。
最後まで、自分で椅子に座っていた。
帰る時、彼女は部屋の扉の前で振り返った。
「次も、ここで会いたい」
レオンは頷いた。
「分かりました」
「神殿じゃなくて、ここ」
「はい」
「でも、まだ治療はしない」
「はい」
「歌わない」
「はい」
「……一行だけ読むかもしれない」
システィナが口元を押さえる。
リーネも目元を柔らかくした。
ミラは何か言いかけて、ぐっと堪えた。
エルザが珍しく静かに記録している。
セリアは短く言った。
「それでいい」
ノエルはセリアを見た。
「団長は、短い」
「必要なことだけ言っている」
「でも、分かりやすい」
「そうか」
「うん。嫌じゃない」
セリアは少しだけ目を丸くした。
ミラが小声で言う。
「団長、ノエルにも懐かれてる」
「懐くって言わないで」
ノエルが即座に返す。
「辛口が戻ってきた!」
「あなたが変なこと言うから」
「もう、ほんと遠慮ないわね!」
ノエルは少し笑った。
そして、馬車へ向かう前に、もう一度レオンを見た。
「レオン」
「はい」
「今日は、触らないでいてくれてありがとう」
その言葉は、静かだった。
けれど、何より重かった。
「こちらこそ、来てくれてありがとうございます」
「……ずるい」
ノエルはそれだけ言って、システィナと共に馬車へ乗った。
扉が閉まり、馬車がゆっくり動き出す。
白銀聖騎士団の門を出ていくまで、ノエルは窓の向こうから外を見ていた。
神殿の外の景色を。
白銀騎士団の騒がしい庭を。
そして、逃げてもいい場所を。
◇
馬車が見えなくなったあと、ミラが大きく息を吐いた。
「疲れた……治療してないのに疲れた……」
「何もしないのは疲れるからな」
レオンが言うと、ミラは頷く。
「本当にそれ。黙って見守るの、こんなに大変なのね」
リーネが微笑む。
「ミラさん、今日はよく黙っていましたね」
「褒めてる?」
「褒めています」
「今日、私、褒められる日?」
エルザが記録板を見る。
「ミラ、発言回数は通常の六割。ただし重要な突っ込みは維持」
「それ褒めてるの?」
「褒めています」
「分かりにくい!」
セリアは門の方を見たまま言った。
「今日の面談は成功だ」
レオンは少し驚いた。
「成功って言っていいのか?」
「ああ」
「治療してないのに?」
「ノエル殿が自分で来て、自分で座り、自分で一行読み、自分で次を選んだ」
セリアはレオンを見る。
「十分だ」
その言葉で、レオンの胸に温かさが広がった。
そうか。
十分なのだ。
魔力を流さなくても。
劇的な変化がなくても。
誰かが自分で一歩を選んだなら、それは十分に大きい。
「ありがとう」
レオンが言うと、セリアは少しだけ視線を逸らした。
「礼を言うことではない」
「言いたかったから」
「……そうか」
ミラがじとっと見る。
「門前でいい空気にしないでくれる?」
「してない」
「してるのよ」
リーネが笑う。
エルザが記録板を開く。
「記録。面談後、団長とレオンさんの相互信頼反応――」
「消せ」
セリアが即座に言った。
「まだ書いていません」
「なら書くな」
「検討します」
「書く気だろう」
いつもの騒がしさが戻ってきた。
◇
その夜、神殿治癒院の部屋で、ノエルは聖歌集を開いていた。
今日読んだ一行。
そこに、指を置く。
白銀聖騎士団の面談室を思い出す。
出口に近い椅子。
白い札。
うるさいミラ。
優しいけれど押しつけないリーネ。
短い言葉で守るセリア。
静かに記録するエルザ。
そして、触らずに待ってくれたレオン。
「……触らないでいてくれてありがとう、か」
自分で言った言葉を思い出し、少しだけ頬が熱くなる。
変な言葉だ。
普通なら、治してくれてありがとうと言うべきなのに。
でも、今日のノエルには、それが一番大きかった。
誰も急かさなかった。
誰も祈れと言わなかった。
誰も歌えと言わなかった。
それだけで、一行読めた。
ノエルは小さく息を吸った。
声は出さない。
ただ、息だけで文字をなぞる。
前より少しだけ長く。
それはまだ聖歌ではない。
でも、彼女自身の中では、確かに音が戻り始めていた。
◇
一方、神殿上層部には、その日の面談報告が届いていた。
ノエル、白銀聖騎士団にて面談実施。
治療なし。
接触なし。
聖歌集を一行読む。
次回も白銀聖騎士団での面談を希望。
高位神官たちは、その文面を見て複雑な表情を浮かべた。
「前進ではある」
「しかし、神殿外でなければ進まぬというのは問題だ」
「白銀聖騎士団の影響が強まりすぎている」
神官長は黙って報告書を読んでいた。
やがて、静かに言った。
「急がぬと言ったはずだ」
「ですが」
「ノエルが聖歌集を開いた。今はそれでよい」
その言葉に、部屋の空気が少し緩む。
だが、神官長の目は冷静だった。
「ただし、聖魔力源を白銀聖騎士団だけに任せるわけにはいかん。神殿として、正式な保護協定を王宮へ提案する」
「保護協定……」
「名目は、聖女候補および聖属性保持者の治療支援体制整備」
白い言葉だった。
清らかで、正しい。
だがその奥には、また新しい鎖の気配があった。
◇
白銀聖騎士団の詰所。
夜の自室で、レオンは今日の報告書を読んでいた。
『ノエル、白銀聖騎士団面談室にて聖歌集一行読了。治療なし。接触なし。次回面談希望あり』
最後に、セリアの追記。
『今日はここまで、を守れた』
レオンはその一文を見て、小さく笑った。
簡潔すぎる。
でも、今日のすべてがそこにあった。
壁の向こうから声がした。
「まだ起きているのか」
「起きてる」
「寝ろ」
「今日は言われると思ってた」
「毎日言う」
「過保護だな」
「自覚はある」
いつものやり取り。
それが今夜は少しだけ心地よかった。
「ノエル、一行読めたな」
「ああ」
セリアの声は穏やかだった。
「大きな一歩だ」
「治療してないのに?」
「治療だけが前進ではない」
「今日、それが分かった気がする」
「ならいい」
少し沈黙。
それから、セリアが言った。
「レオン」
「何だ?」
「お前が触れなかったことに、ノエル殿は礼を言った」
「ああ」
「あれは、お前にしかできない支えだったと思う」
レオンは返事に困った。
胸の奥が熱くなる。
「……そうかな」
「そうだ」
「セリアは、いつもそうやって断言するな」
「必要なことは断言する」
「そっか」
「ああ」
レオンは報告書を閉じた。
今日は何もしなかった日ではない。
触れないことを選んだ日。
待つことを選んだ日。
ノエルが一行だけ読むのを、誰も急かさず見守った日。
聖魔力源の力は、魔力だけではないのかもしれない。
少なくとも今夜、レオンはそう思えた。
「おやすみ、セリア」
「ああ。おやすみ、レオン」
灯りを落とす。
王都の夜は静かだった。
だがその静けさの向こうで、神殿はまた動き出している。
白い鎖は、まだ完全には消えていない。
それでも、ノエルは今日、自分の意思で一行を読んだ。
それだけは、誰にも奪えない前進だった。




