第19話『二度目の面談、聖女候補は歌わない』
ノエルとの二度目の面談は、治療ではなかった。
触れない。
魔力を流さない。
診断もしない。
ただ会って、話す。
それだけの予定だった。
それだけなのに、レオンは朝から妙に落ち着かなかった。
「……治療じゃない方が緊張するな」
白銀聖騎士団の会議室で、レオンは資料を閉じながら呟いた。
机の上には、神殿治癒院から届いたノエルの追加記録が置かれている。
前回の面談後、ノエルは少しだけ食事量が増えた。
眠りも、以前より浅くない。
ただし、治療への意思はまだない。
そして本人からの希望として、こう記されていた。
『次回も、会話のみ。魔力接触は希望しない。聖歌の話は、聞かれれば答える』
ミラが椅子の背にもたれ、腕を組んだ。
「いいじゃない。会話だけなら、レオンが余計な魔力使わずに済むし」
「でも、何を話せばいいか分からない」
「役立たずって言われた話を聞きたいって言ってたじゃない」
「明るい話じゃないぞ」
「ノエルも、たぶん明るい話を聞きたいわけじゃないでしょ」
ミラにしては鋭い言葉だった。
レオンが少し驚いて見ると、ミラはすぐ赤くなった。
「な、何よ」
「いや、そうかもなと思って」
「そうよ。あの子、励まされたくないんだと思う。たぶん、ちゃんと落ち込んだ話を聞きたいんじゃない?」
リーネが静かに頷く。
「傷ついた人は、眩しすぎる希望を見ると疲れてしまうことがあります。同じ暗さを知っている人の言葉の方が、届くこともありますね」
「俺、そんな立派なこと言えるかな」
「立派でなくていいと思います」
リーネは穏やかに微笑んだ。
「ノエル様が求めているのは、きっと綺麗な答えではありませんから」
エルザが記録板を見ながら言う。
「本日の面談目的を確認します。一、ノエル様の拒否権を再確認。二、レオンさんの過去経験について、本人が話せる範囲で共有。三、治療勧誘はしない。四、接触なし。五、ミラの過剰反応に注意」
「五番!」
ミラが机を叩いた。
「何で私だけ注意事項なのよ!」
「前回、ノエル様との会話で反応が大きかったためです」
「でも、あの子ちょっと辛口だったじゃない!」
「ミラさんと相性が良さそうでしたね」
リーネが楽しそうに言う。
「よくない! いや、悪くもないけど!」
セリアが短く咳払いした。
「ミラが同席するのは、前回ノエル殿が少し安心したからだ。必要な役割だ」
ミラの動きが止まった。
「……団長、それ褒めてます?」
「褒めている」
「え、あ、そうですか」
ミラは急に落ち着かなくなり、視線を泳がせた。
レオンは思わず笑った。
「頼りにしてる」
「レオンまで乗っからないで!」
「本当のことだ」
「そういうところ!」
ミラは顔を赤くしてそっぽを向く。
エルザがすかさず記録板に手を伸ばす。
「記録。ミラ、団長とレオンさんから連続で信頼表明を受け、処理能力低下」
「やめなさい!」
「事実です」
「事実でもやめて!」
会議室に笑いが起きた。
その笑いの中で、セリアがレオンへ視線を向ける。
「レオン」
「何だ?」
「今日も、無理に答えを出す必要はない。ノエル殿が何も進まなくても、それでいい」
「分かってる」
「本当に?」
「今日は本当に分かってる」
「ならいい」
そう言いながらも、セリアの目はまだ心配そうだった。
レオンは、その視線に少しだけ安心していた。
◇
神殿治癒院は、前回と同じように静かだった。
白い廊下。
柔らかな金色の灯。
遠くから聞こえる聖歌。
ただ、今日は前回よりも廊下の人影が多い気がした。
神官たちが、こちらをちらちらと見ている。
好奇心。
期待。
警戒。
そして、値踏み。
レオンはその視線を感じて、肩に力が入った。
すぐ隣のセリアが低く言う。
「見るな。正面だけ見ていればいい」
「見られてる側なのに?」
「そうだ」
「慣れてるのか?」
「慣れたくはなかったが、慣れた」
その声には、少しだけ苦いものがあった。
白銀聖騎士団長として、彼女もずっとこういう視線の中にいたのだろう。
ミラが小声で呟く。
「神殿の人たち、前より多くない?」
リーネが頷く。
「ノエル様との面談が、内部でも注目されているのでしょう」
「面談だけなのに?」
「治療を拒み続けていたノエル様が、もう一度会うことを望んだ。それだけでも神殿にとっては大きいはずです」
エルザが淡々と続ける。
「また、神殿側には聖女候補回復への期待があります。本人同意を尊重するシスティナ様の方針に、神殿上層部が全員同意しているとは限りません」
「嫌な話だな」
レオンが言うと、セリアが頷いた。
「だから今日は私が前に立つ」
「いつも立ってるだろ」
「今日は特にだ」
その言い方があまりに真面目で、レオンは少しだけ笑った。
「頼りにしてる」
「……ああ」
セリアは短く答えたが、耳が少し赤くなった。
ミラが横目で見てくる。
「治癒院の廊下でそういう空気出すの、やめてくれる?」
「出してない」
「出てるのよ」
リーネが笑いをこらえ、エルザが記録しようとしてミラに止められた。
その時、廊下の奥からシスティナが現れた。
白衣姿の彼女は、前回より少し緊張しているように見えた。
「お待ちしておりました」
「何かあったのか」
セリアがすぐに聞く。
システィナは一瞬、迷った。
それから小さく頷く。
「神殿上層部から、面談後にレオン様と少し話をしたいという申し出がありました」
空気が変わった。
ミラが眉を吊り上げる。
「何それ。先に言いなさいよ」
「申し訳ありません。先ほど急に」
「内容は?」
セリアの声は低い。
「聖女候補たちへの今後の支援について、と」
「面談後にする話ではない。正式文書を特別魔力支援室へ提出するよう伝えてくれ」
「はい。私もそのように返答するつもりでした」
システィナは深く頭を下げた。
「ただ、万が一、帰り際に声をかけられる可能性があります」
「その場合は私が断る」
セリアは迷わなかった。
レオンは静かに息を吐く。
神殿も一枚岩ではない。
それが少し見えてきた。
「ノエル様は?」
リーネが尋ねる。
「お待ちです。今日は少し……落ち着かない様子です」
「会いたくないなら帰るぞ」
レオンが言うと、システィナは少し驚いた顔をした。
それから、柔らかく笑う。
「それを聞いたら、ノエルは少し安心すると思います」
◇
ノエルは前回と同じ窓辺の椅子に座っていた。
白い療養服。
肩で切りそろえられた亜麻色の髪。
膝の上に置かれた手。
ただ、前回と一つ違うものがあった。
机の上に、聖歌集が置かれていた。
開かれてはいない。
でも、そこにある。
レオンはそれを見てから、ノエルへ視線を戻した。
「こんにちは、ノエル様」
「様はいらない」
第一声がそれだった。
ミラが小さく吹き出す。
ノエルがじろっと見る。
「何?」
「いや、初手からそれなんだって」
「嫌なものは先に言う」
「いい性格してるわね」
「あなたほどうるさくない」
「もう辛口!」
ミラが声を上げたが、ノエルの口元がほんの少し動いた。
笑いかけたのだ。
レオンは椅子に座る。
前回と同じ、手の届かない距離。
セリアは斜め後ろ。
ミラは反対側。
リーネは少し離れて、システィナの隣。
エルザは記録板を開きつつも、今日は少し控えめな位置に立っていた。
「今日は、本当に話すだけ?」
ノエルが聞いた。
「はい」
「触らない?」
「触りません」
「魔力も流さない?」
「流しません」
「期待しろって言わない?」
「言いません」
「……じゃあ、いい」
ノエルは少しだけ肩の力を抜いた。
それだけで、今日ここへ来た意味がある気がした。
「前回、俺が役立たずって言われた話を聞きたいと言っていましたね」
「うん」
「どこから話せばいいか分からないけど……元のパーティーでは、俺のスキルは外れ扱いでした」
「魔力譲渡?」
「そう。魔力を渡すだけ。攻撃できない。派手な回復もできない。強化魔法みたいに見た目で分かる効果もない」
「でも、本当は支えてたんでしょう」
「今思えば、そうだったんだと思う。でも、その時は俺自身もよく分かってなかった」
ノエルはレオンをじっと見ている。
感情の薄い目。
けれど、前回よりこちらを見ている。
「何で言わなかったの?」
「言っても信じてもらえないと思っていたから」
「言われたの?」
「何度か。お前は後ろで立ってるだけだって。楽でいいなって。魔力を渡していると言っても、実感がないから流された」
「痛かった?」
不意に聞かれた。
レオンは少しだけ言葉に詰まる。
「痛かった、と思う」
「思う?」
「その時は慣れてるつもりだった。そういうものだと思っていたから。でも追放された時に、思っていたより痛かったんだと分かった」
ノエルは視線を落とした。
「分かる」
小さな声だった。
「私も、聖女候補じゃなくなってから、前に言われた言葉が痛かったって分かった」
「どんな言葉?」
「あなたならできる。選ばれた子だから。神に愛されているから。皆の希望だから」
部屋の空気が静かになる。
「いい言葉なんでしょう。たぶん。でも、できなくなったら全部痛かった。できない私は何なのって思った」
リーネが目を伏せる。
システィナは唇を噛んでいた。
ノエルは聖歌集に視線を向けた。
「歌もそう。皆、ノエルの歌は人を癒やすって言ってくれた。嬉しかった。でも今は、歌えないなら私は何なのって思う」
「歌えないと、ノエルじゃない?」
レオンが聞くと、ノエルは少しだけ眉を寄せた。
「……嫌な聞き方」
「すみません」
「でも、そう思ってる」
ノエルは膝の上の指を握る。
「歌えない聖女候補なんて、何の意味があるの?」
レオンはすぐには答えなかった。
綺麗なことを言うのは簡単だ。
歌えなくても価値がある。
あなたはあなたです。
生きているだけで意味がある。
たぶん、どれも間違っていない。
でも今のノエルには、そういう言葉が痛い。
だから、レオンは別の言葉を選んだ。
「俺も、魔力譲渡できないなら何なんだろうと思う時があります」
セリアがわずかにこちらを見る。
レオンは続けた。
「最近は、みんなに必要だって言われます。でももし、明日この力がなくなったら、俺はここにいていいのかなって、考えることがあります」
ミラが驚いた顔をした。
「レオン……」
ノエルはレオンを見る。
「聖魔力源なのに?」
「聖魔力源だから、です」
「……そっか」
ノエルは少しだけ納得したように目を伏せた。
「力があるから怖いんだ」
「はい」
「なくなったら、皆いなくなるかもって?」
「少し」
そこでセリアが静かに口を開いた。
「いなくならない」
短く、強い言葉だった。
レオンが振り返る。
セリアは真剣な顔で言った。
「お前の力が失われても、白銀聖騎士団はお前を追い出さない」
部屋が静かになった。
レオンは、何も言えなかった。
セリアは続ける。
「そもそも、お前を力だけで置いているのではない。そうでなければ、毎晩隣室から寝ろとは言わない」
「そこ?」
ミラが思わず突っ込んだ。
セリアの耳が少し赤くなる。
「……例えだ」
「例えが近距離すぎるんです」
「ミラ」
「はい、でも今のは必要な突っ込みでした」
ノエルが目を瞬かせた。
それから、小さく笑った。
今度は前よりはっきりと。
「変な騎士団」
「よく言われる」
ミラが胸を張る。
「そこ誇るところ?」
ノエルが言う。
「誇るわよ。暗い空気を吹っ飛ばすには、少しくらい変な方がいいの」
「うるさいだけじゃなくて?」
「半分くらいはそう!」
「認めるんだ」
ノエルの笑いが、もう少しだけ柔らかくなる。
リーネが静かに目元を押さえた。
システィナも、泣きそうな顔をしている。
「何でみんな泣きそうなの」
ノエルが不満そうに言う。
「私、まだ治ってないのに」
「治るより前に、笑ってくださったので」
リーネが答える。
「大げさ」
「治癒に関わる者は、こういう小さな変化が嬉しいんです」
「……ふうん」
ノエルはまた窓の外を見た。
庭の白い花が揺れている。
しばらく沈黙があった。
だが、前回のような重い沈黙ではない。
その中で、ノエルはぽつりと言った。
「歌の話、聞きたい?」
レオンは少しだけ姿勢を正した。
「ノエルが話したいなら」
「歌えって言わない?」
「言いません」
「なら、話す」
ノエルは机の上の聖歌集を見た。
「私、昔は歌うのが好きだった。神殿のためとか、聖女候補だからとかじゃなくて、声を出すと胸の中が軽くなるから」
「今は?」
「怖い」
「声を出すのが?」
「声を出して、魔力が出なかったら怖い。昔みたいに響かなかったら怖い。誰かに『大丈夫、綺麗ですよ』って気を遣われるのも怖い」
「それは怖いですね」
「うん」
ノエルは聖歌集の表紙に指を触れた。
「でも昨日、少しだけ開いた」
システィナが小さく息を呑む。
「ノエル、それは」
「読んだだけ。歌ってない」
「それでも……」
「泣かないで」
「はい」
システィナは慌てて目元を拭った。
ノエルは少し照れくさそうに視線を逸らす。
「次も、会っていい」
突然の言葉だった。
レオンは驚いて聞き返す。
「次も?」
「うん。でも、まだ治療はしない」
「分かりました」
「次は、少しだけ聖歌の話をする。歌わないけど」
「はい」
「あと、あなたの追放された話の続きも聞く」
「暗くなりませんか?」
「変な騎士団がいるから大丈夫」
ミラが即座に反応した。
「変な騎士団担当みたいに言わないで!」
「違うの?」
「……違わない気もしてきたけど!」
ノエルがまた小さく笑った。
その笑顔を見て、レオンは思った。
今日は、本当に何も治していない。
触れてもいない。
魔力も使っていない。
でも、ノエルの中の何かが、ほんの少し動いた。
それで十分だった。
◇
面談が終わり、部屋を出ようとした時だった。
廊下の向こうから、神官服の男が二人歩いてきた。
システィナの表情が一瞬で硬くなる。
セリアがそれに気づき、レオンの前へ半歩出た。
先頭の男は、中年の神官だった。
整った白い法衣。
胸元には高位神官を示す金の聖印。
彼は穏やかな笑みを浮かべていた。
「これは、白銀聖騎士団の皆様。お帰りの前に、少しだけお時間をいただけますかな」
「正式文書を特別魔力支援室へ」
セリアが即答した。
男は笑みを崩さない。
「いえいえ、ほんの挨拶です。レオン・アルヴァス殿にも、神殿として感謝を――」
「正式文書を特別魔力支援室へ」
二度目。
声が冷える。
男の目が一瞬だけ細くなった。
「セリア団長。神殿としても、聖女候補たちのために一刻も早く」
「本人の意思が最優先だ」
「もちろんです。しかし、彼女たちは時に自分の救いを拒むものです。導く者も必要でしょう」
その言葉で、レオンの胸に嫌なものが走った。
ノエルは、やっと「次も会う」と言ったばかりだ。
治療ではなく、会話だけ。
それを、拒む者を導くという言葉で押されるのは違う。
レオンが口を開きかけた瞬間、セリアが左手をわずかに上げた。
待て、という合図。
「導きが必要かどうかも、本人と主治療担当が判断することだ」
セリアは冷静だった。
「少なくとも、廊下で立ち話として決めることではない」
「しかし」
「正式文書を特別魔力支援室へ」
三度目。
今度は、完全な拒絶だった。
神官の笑みが少し硬くなる。
だが、すぐに礼をした。
「……承知しました。後ほど正式に」
「そうしてくれ」
セリアはそれ以上相手を見ず、レオンたちを促した。
廊下を抜け、外へ出るまで、誰も余計なことを言わなかった。
神殿の門を出たところで、ミラが大きく息を吐く。
「うわ、嫌な感じ」
リーネも表情が硬い。
「ノエル様が聞いていなくてよかったです」
「聞いていたかもしれません」
エルザが言った。
全員が振り返る。
神殿の二階の窓。
白いカーテンの隙間に、小さな影があった。
ノエルかもしれない。
レオンは胸が痛くなった。
「戻るか?」
そう言いかけて、セリアが首を横に振った。
「今日は戻らない」
「でも」
「今戻れば、神殿上層部との話になる。ノエル殿を巻き込む可能性がある」
「……そうか」
「システィナ殿に後で確認を入れる。支援室を通してだ」
セリアは冷静だった。
今日、レオンが学んだこと。
何もしないことも、時に守ることになる。
今ここで戻りたい気持ちを抑えることも、たぶん必要なのだ。
「分かった」
レオンは頷いた。
セリアは少しだけ表情を緩める。
「よく止まった」
「最近、そればかり言われてる気がする」
「大事だからな」
ミラが横から言う。
「うん。突っ込む私も今日は我慢した」
「それは偉い」
レオンが言うと、ミラはすぐ赤くなった。
「だから急に褒めるな!」
リーネが微笑み、エルザが記録し、セリアが少しだけ口元を緩める。
神殿の重い空気を背に、白銀聖騎士団は馬車へ向かった。
◇
帰りの馬車の中で、レオンはしばらく黙っていた。
ノエルの笑い。
聖歌集に触れた指。
神官の言葉。
セリアの三度の拒絶。
全部が頭の中で混ざっていた。
「考え込んでる」
ミラが言った。
「顔に出てる?」
「出てる。魔力にも出てるんじゃない?」
セリアが頷いた。
「出ている」
「隠せないな」
「隠さなくていい」
その言葉は、前にも聞いた。
レオンは少しだけ息を吐く。
「ノエルは、治療を受ける前に守らないといけないんだな」
「そうだ」
セリアが答える。
「魔力回路ではなく、まず意思を守る必要がある」
「神殿は治したがってる」
「神殿全体が悪いわけではない。システィナ殿のような者もいる。だが、組織は時に本人より役割を優先する」
「聖女候補だから?」
「ああ」
レオンは窓の外を見る。
王都の街並みが流れていく。
「役割って、重いな」
「重い」
「聖魔力源も?」
「重い」
「だよな」
少し沈黙。
その沈黙を破ったのは、リーネだった。
「でも、役割を全部捨てなくてもいいと思います」
レオンが見ると、リーネは静かに微笑んでいた。
「大切なのは、役割より先に本人がいることを忘れないことです。レオンさんは聖魔力源です。でも、その前にレオンさんです。ノエル様は聖女候補です。でも、その前にノエル様です」
「リーネさん、たまにすごく大事なことをさらっと言うな」
「あら、たまにですか?」
「いつも」
「訂正が早くてよろしいです」
リーネは満足そうに笑った。
ミラが小声で言う。
「リーネ、強い」
エルザが記録板を閉じる。
「本日の面談結果。ノエル様、三回目面談に同意。治療同意はなし。聖歌に関する会話許可。神殿上層部からの接触あり、支援室経由へ誘導」
「まとめると?」
レオンが聞くと、エルザは少し考えた。
「小さな前進と、大きな火種です」
「分かりやすい」
「表現改善を学習中です」
ミラが笑う。
「エルザが成長してる」
「ミラも本日、過剰発言を三度抑制しました。成長しています」
「何で数えてるのよ!」
馬車の中に笑いが戻る。
レオンは、その笑いを聞きながら思った。
ノエルの面談は成功した。
だが、神殿上層部は明らかに動き始めている。
クラウディアの治療。
ノエルの面談。
近衛の順番待ち。
貴族家からの申請。
レオンの周囲には、救いを求める人と、彼を利用しようとする人が同時に集まり始めていた。
◇
その夜、神殿治癒院の窓辺で、ノエルは聖歌集を開いていた。
歌わない。
声は出さない。
ただ、目で文字を追う。
それだけ。
でも、昨日までは開けなかった本だ。
ページには、幼い頃に何度も歌った聖歌が載っている。
最初の一行だけで、胸が詰まりそうになる。
ノエルは本を閉じかけた。
その時、昼間の会話を思い出す。
期待しなくていい。
信じなくてもいい。
嫌なら断っていい。
そして、レオンが言ったこと。
自分も、この力がなくなったら怖い。
「……聖魔力源なのに」
ノエルは小さく呟いた。
すごい力を持っている人も、怖いのだ。
役割を失うことが。
なら、自分が怖いのも、少しは普通なのかもしれない。
ノエルはもう一度、本を開いた。
歌わない。
ただ、文字を読む。
それだけ。
でも、今日はそこで終わらなかった。
ほんの小さく、息だけで音をなぞった。
声にならない音。
聖歌とは呼べないほどのもの。
けれど、ノエル自身には分かった。
今、自分は逃げなかった。
「……次も、会う」
そう呟いて、彼女は聖歌集を閉じた。
◇
同じ夜、白銀聖騎士団の詰所。
レオンは自室で、今日の報告書を読んでいた。
最後に、セリアの追記がある。
『ノエル殿への接触禁止継続。神殿上層部からの要請はすべて支援室経由。本人意思の保護を最優先』
相変わらず短い。
だが、力強い。
壁の向こうから声がした。
「まだ起きているか」
「起きてる」
「寝ろ」
「それを聞くために起きてる気がしてきた」
「なら、毎晩言う」
「過保護だな」
「自覚はある」
レオンは笑った。
少しして、セリアが言った。
「今日は、よく戻らなかった」
「神殿で?」
「ああ」
「戻りたかった」
「分かっている」
「ノエルが窓から見てたかもしれないと思ったら、放っておくみたいで嫌だった」
「それでも戻らなかった」
「セリアが止めたから」
「お前が自分で止まったからだ」
その言葉に、レオンは報告書を閉じた。
「最近、止まることばかり覚えてるな」
「大切なことだ」
「でも、いつか進む時もあるんだろ?」
「ああ」
壁の向こうの声は、静かだった。
「止まるべき時に止まれる者だけが、進むべき時に進める」
「団長っぽい」
「団長だからな」
「それだけ?」
少し間が空いた。
「……それだけではない」
前にも聞いた言葉。
けれど、そのたびに少しずつ意味が変わっている気がした。
レオンは小さく笑う。
「おやすみ、セリア」
「ああ。おやすみ、レオン」
灯りを落とす。
今日、レオンはノエルに触れなかった。
魔力も流さなかった。
それでも、彼女は聖歌集を開いたかもしれない。
なら、それは小さな治療だったのだろう。
目に見えない、けれど確かな一歩。
聖魔力源の仕事は、魔力を渡すことだけではない。
誰かが自分の意思で立ち上がるまで、手を出さずに待つこともまた、必要な仕事なのだ。




