第18話『二回目の治療と、握れなかった槍の重さ』
クラウディア・エルンストの二回目の治療は、初回から二日後に決まった。
本当なら、もう少し間を空けた方がいい。
リーネはそう言ったし、エルザも記録上は三日以上の経過観察が望ましいと判断した。
だが、クラウディア本人の状態が思ったより安定していたこと。
右手指先の温感が翌日も残っていたこと。
発熱や魔力暴走の兆候がなかったこと。
そして何より、クラウディア本人が「次も、約束を守ります」と文書で意思表示したこと。
それらを踏まえ、白銀聖騎士団、王立治癒院、エルンスト公爵家の三者合意で、二回目の治療が行われることになった。
ただし、条件は前回とほぼ同じ。
左手接触のみ。
右肩、右腕、胸部付近への直接接触は禁止。
時間は最大五分。
痛みが出た時点で即時中断。
治療延長は認めない。
会議室でその確認を終えたあと、ミラがぽつりと言った。
「……あの子、ちゃんと約束守れるかな」
朝の白銀聖騎士団詰所。
窓から差し込む光は明るいのに、部屋の空気は少し重かった。
レオンは手元の資料を閉じる。
「前回は守った」
「うん。だから偉いと思う。でもさ」
ミラは指先で机を軽く叩いた。
「一回動いたら、次はもっとって思うでしょ。右手の指が動いたなら、手首も、肘も、肩も。最後には槍もって」
「ミラさんなら、そう思いますか?」
リーネが尋ねる。
ミラは少し黙った。
それから、素直に頷く。
「思う。絶対思う。私なら、たぶん我慢できない」
その声に軽さはなかった。
レオンはミラを見る。
いつもの強気な槍騎士ではなく、同じ槍を持つ者として、クラウディアの焦りを想像している顔だった。
「だから今日は、私もちゃんと言う。焦るなって」
「言えるか?」
セリアが聞いた。
ミラは少しだけ唇を尖らせる。
「言うわよ。言いにくくても」
「なら頼む」
「……うん」
その短いやり取りに、今の白銀聖騎士団らしさがあった。
誰かが命じるだけではない。
それぞれが、自分にできることを考える。
レオンも、自分の手を見下ろした。
この手で、クラウディアの指先に温度を戻した。
そのことは嬉しい。
けれど、同時に怖い。
人に希望を渡すということは、その人の焦りも背負うということなのだと、少しずつ分かってきた。
「レオン」
セリアの声がした。
「何だ?」
「今日も、私を見るのを忘れるな」
「またそれか」
「何度でも言う」
「分かってる。困ったら見る」
「困らなくても見ろ」
ミラが即座に反応した。
「団長、それ普通に距離近い発言です」
「警護上必要な確認だ」
「最近、警護って言葉も便利に使ってますよね」
「事実だ」
セリアは真顔で返す。
リーネが微笑み、エルザが記録板に目を落とした。
「記録。団長の『見ろ』発言により、レオンさんの心拍微増」
「エルザ」
セリアが低く呼ぶ。
「医療記録です」
「消せ」
「治療前の基礎状態確認として必要です」
「もっともらしく言うな」
レオンは苦笑した。
笑えるだけ、昨日よりは落ち着いているのだろう。
だが、心の奥にはやはり緊張があった。
◇
王立治癒院の中立診療室は、前回と同じ部屋だった。
白い壁。
淡い緑の魔法陣。
窓辺から差し込む明るい光。
そして、中央の椅子に座るクラウディア。
彼女は前回より少しだけ血色がよかった。
右手は包帯に包まれたままだが、膝の上に置かれている。
前回は身体の横に隠すようにしていたので、それだけでも変化だった。
隣には、やはり槍が立てかけられている。
クラウディアは今日は、その槍から目を逸らしていなかった。
「おはようございます、レオン様」
「おはようございます、クラウディア様」
挨拶を交わす。
声は落ち着いているように聞こえた。
けれど、左手の指先が小さく震えている。
期待と恐怖。
両方だ。
セリアが一歩前に出る。
「本日も、治療前の確認を行います」
「はい」
クラウディアは背筋を伸ばした。
貴族令嬢としての姿勢だ。
だが、レオンには少し無理をしているように見えた。
「本日の治療も、左手からの浅い魔力循環のみ。右肩、右腕、胸部付近への直接接触は行わない。時間は最大五分。痛み、発熱、呼吸異常、魔力暴走反応が出た場合は即時中断。治療延長は認めない」
「承知しています」
「本人の意思を確認します。本日、治療を受けますか」
クラウディアは、少しだけ息を吸った。
「受けます」
声は震えていない。
しかし、次の瞬間、彼女は自分から言葉を続けた。
「そして、今日は五分で終わります。もっと続けたくなっても、終わります」
バルナードが驚いたように彼女を見た。
レオンも少し目を見開く。
クラウディアは小さく笑った。
「昨日、一日考えました。私はきっと、またもっとと言いたくなります。だから先に言っておきます。止めてください」
ミラの表情が変わった。
セリアは静かに頷く。
「分かった。必ず止める」
「ありがとうございます」
クラウディアはそう言ってから、ミラを見た。
「ミラ様」
「え、私?」
「はい。もし私が焦ったら、叱ってください」
ミラは一瞬、言葉に詰まった。
それから、ふっと息を吐いて笑った。
「分かった。容赦なく言うから」
「お願いします」
「でも、頑張ったらちゃんと褒める」
「……はい」
クラウディアの目元が少し和らいだ。
リーネがその様子を見て、優しく微笑む。
「では、治療後の経過観察も前回通り行いますね」
「はい」
エルザは結晶を並べながら言う。
「魔力反応の基準値を測定します。前回より緊張反応は低めですが、期待値は高めです」
「期待値まで分かるのですか?」
クラウディアが少し驚く。
「表情、指先、魔力の揺れから推測しています」
「……少し恥ずかしいですね」
「レオンさんと団長は毎日記録されています」
「エルザ」
セリアが低く言う。
「余計な情報だ」
「比較対象として有用かと」
「不要だ」
クラウディアが小さく笑った。
前より自然な笑みだった。
その笑いで、診療室の空気が少しだけ柔らかくなる。
◇
治療が始まった。
レオンは前回と同じように、クラウディアの左手に触れる。
「触れます」
「はい」
許可を確認してから、指先をそっと包む。
冷たい。
だが前回ほどではない。
左手の魔力は、細いながらも受け入れる準備をしていた。
レオンは静かに魔力を整える。
押し込まない。
急がない。
右側へ直接向かわない。
クラウディアの身体の外側に沿って、温かな流れを置いていく。
「……前より、分かります」
クラウディアが小さく言った。
「魔力が、どこを通っているのか」
「痛みは?」
「ありません。左腕が温かいです」
リーネが状態を確認する。
「呼吸安定。体温上昇は軽微」
エルザが結晶を見る。
「右手指先に反応開始。前回より三十秒早いです」
イザベラがまた身を乗り出しかけ、セリアの視線を受けて止まった。
「……本日は静かにします」
「そうしてくれ」
セリアの声は静かだが、圧がある。
レオンは魔力の流れに集中した。
右手の指先へ、前回より少し早く温度が届く。
人差し指。
中指。
薬指。
今回は小指にも、ほんのわずかな反応があった。
「小指が……」
クラウディアの声が震える。
「小指も、少し……」
「呼吸」
ミラがすぐに言った。
クラウディアははっとして、ゆっくり息を吸う。
「はい……」
「喜ぶのはあと」
「はい」
「今は指先だけ。槍のことは考えない」
その瞬間、クラウディアの魔力が微かに跳ねた。
レオンにも分かった。
考えてしまったのだ。
槍を。
右手で握る感覚を。
突き出す瞬間を。
その期待が、傷のある右側へ流れを引っ張った。
「クラウディア様」
レオンはすぐに魔力を細めた。
「槍のこと、考えましたね」
クラウディアの目が揺れる。
「……はい」
「悪いことじゃありません。でも今は危ない」
「ごめんなさい」
「謝らなくていいです。止めればいいだけです」
レオンはセリアを見る。
セリアが頷く。
まだ中断ではない。
だが、これ以上深くは流さない。
レオンは流れをさらに浅く戻した。
リーネが静かに言う。
「反応は落ち着いています。痛みは?」
「ありません」
クラウディアは目を閉じて、呼吸を整える。
ミラが少し近づいた。
「クラウディア」
「はい」
「槍は逃げないから」
その言葉に、クラウディアがゆっくり目を開いた。
「逃げない……」
「うん。そこにある。今日握れなくても、明日もそこにある。だから今日は、指だけでいい」
ミラの声は、不思議なくらい落ち着いていた。
いつもの勢いはない。
同じ槍使いとして、彼女が選んだ言葉だった。
クラウディアは、槍を見た。
怖がるようにではなく、確かめるように。
「……はい」
魔力の揺れが落ち着いた。
レオンは慎重に流れを保つ。
右手の指先に、温かさが戻る。
そして、前回は微かに動くだけだった指が、今日は少しだけ曲がった。
ほんの少し。
だが、明らかに曲がった。
「……動いた」
クラウディアの声が震える。
バルナードが口元を押さえた。
侍女の目に涙が浮かぶ。
リーネがすぐに確認する。
「痛みは?」
「ありません……痛くないです」
エルザが淡々と告げる。
「三分四十秒。魔力反応安定」
まだ時間はある。
だが、レオンは自分の中で線を引いた。
これ以上強めない。
曲がった。
それで十分だ。
今日は、ここまで届けばいい。
クラウディアは右手を見つめている。
その目には、明らかにもっと先を見たいという光があった。
レオンにも分かる。
今、彼女は思っている。
もしかしたら、もう少しで手を開けるかもしれない。
もう少しで、槍に触れられるかもしれない。
だからこそ、危ない。
「四分三十秒」
エルザが言った。
セリアがレオンを見る。
止める準備。
レオンは頷く。
クラウディアの手が、わずかにレオンの指を握り返した。
無意識だろう。
離れたくないという反応。
「クラウディア様」
レオンは静かに言った。
「あと少しで終わります」
クラウディアの顔が揺れた。
「……はい」
返事はした。
しかし、声の奥に迷いがある。
五分。
エルザが告げる。
「終了時間です」
レオンは魔力を引こうとした。
その瞬間、クラウディアが小さく言った。
「もう少しだけ……」
診療室の空気が止まった。
バルナードが何か言いかける。
侍女が息を呑む。
レオンの胸も揺れた。
もう少し。
その言葉の重さ。
痛みなく指が曲がった。
あと少しで、もっと動くかもしれない。
そう思ってしまう。
「クラウディア」
ミラの声が響いた。
低く、まっすぐ。
「約束」
クラウディアの肩が震えた。
セリアも静かに言う。
「終了だ」
レオンは、魔力を引いた。
ゆっくりと。
途切れないように。
でも、確実に。
クラウディアの左手から、そっと手を離す。
彼女の指が一瞬だけ追いかけるように動いた。
けれど、すぐに止まった。
クラウディアは唇を噛み、目を伏せる。
「……ごめんなさい」
「謝らなくていい」
ミラが言った。
「でも、今のは駄目」
「はい」
「約束したでしょ」
「はい」
「でも、ちゃんと止まった」
ミラは少しだけ声を柔らかくした。
「だから、偉い」
その一言で、クラウディアの目から涙がこぼれた。
「……悔しいです」
「うん」
「もっと動きそうだったのに」
「うん」
「槍に……触れるかもって、思ってしまいました」
「うん」
「でも、今日は駄目なんですね」
「駄目」
ミラははっきり言った。
「槍は逃げない。身体を壊したら、それこそ遠くなる」
クラウディアは泣きながら頷いた。
「はい……」
レオンは何も言わなかった。
言えなかった。
もしミラがいなければ、自分は揺れていたかもしれない。
もう少しだけ。
それに応じてしまったかもしれない。
セリアが隣に来た。
小さく、レオンにだけ聞こえる声で言う。
「よく止めた」
「ミラが止めてくれた」
「お前も止めた」
「……そうかな」
「そうだ」
セリアの声は強かった。
レオンは、少しだけ息を吐いた。
◇
二回目の治療後、クラウディアの右手指先の可動は前回より明らかに改善していた。
人差し指、中指、薬指、小指。
すべてがわずかに曲がる。
手首にはまだ届いていない。
右肩の奥には重い損傷がある。
だが、前進は確かだった。
同時に、焦りも確かだった。
リーネは治療後の記録をまとめながら、静かに言った。
「次回は間隔を空けた方がいいです」
バルナードが顔を上げる。
「どれほどでしょうか」
「最低三日。できれば四日」
「四日……」
バルナードの表情に焦りが浮かぶ。
しかし、クラウディア本人が先に口を開いた。
「四日でお願いします」
「お嬢様」
「私は今日、約束を破りかけました」
クラウディアは涙の跡を残した顔で言った。
「次に同じことをしないために、少し落ち着く時間が必要です」
バルナードは言葉を失った。
ミラが小さく笑う。
「いい判断」
「ありがとうございます」
クラウディアはミラに頭を下げた。
ミラは慌てる。
「ちょ、頭下げなくていいから!」
「いいえ。止めてくださって、ありがとうございました」
「……うん」
ミラは困ったように頬をかいた。
「次も止めるから」
「お願いします」
そのやり取りを見て、レオンは少し安心した。
クラウディアは治ることだけを望んでいるのではない。
自分で止まることも、少しずつ覚え始めている。
それは、治療と同じくらい大切なのかもしれない。
セリアが正式に次回方針を告げる。
「次回は四日後を目安とする。それまでに本日の反応を精査する。右側への直接接触は、まだ認めない」
「承知しました」
バルナードが今度は素直に頭を下げた。
公爵家側にも、今日の危うさは伝わったのだろう。
イザベラが記録をまとめながら言う。
「今日の反応は極めて有益でした。聖魔力源による段階治療の可能性が――」
「イザベラ殿」
セリアが低く呼ぶ。
「はい」
「研究成果より患者の状態だ」
「承知しています」
イザベラは少しだけ肩をすくめた。
「ですが、患者を守るためにも記録は必要です。そこはご理解を」
「理解はしている。距離を保て」
「はい」
ミラが小声で言う。
「この人もだいぶ団長に扱われ慣れてきたわね」
「聞こえていますよ、ミラ様」
「聞こえるように言ったの」
診療室に、少しだけ笑いが戻った。
◇
帰りの馬車の中で、レオンはしばらく無言だった。
手のひらに、クラウディアの左手の感触が残っている。
そして、「もう少しだけ」という声も。
ミラが向かい側からじっと見ていた。
「レオン」
「何だ?」
「あの時、揺れたでしょ」
「……揺れた」
「正直」
「嘘ついても仕方ない」
ミラは少しだけ目を伏せる。
「私も揺れた。もっと動くかもって思った。でも、あそこで続けたら絶対危なかった」
「分かってる」
「分かってるけど、きついよね」
「ああ」
短い会話だった。
だが、レオンには十分だった。
リーネが静かに言う。
「止める側も痛いんです」
「リーネさんも?」
「はい。患者さんが『もう少し』と願う時、それを止めるのはいつも痛いです。でも、そこで止めるのも治療です」
「止めるのも治療……」
レオンはその言葉を繰り返した。
セリアが頷く。
「覚えておけ。お前の魔力は、流すことだけが役目ではない。流さない判断も同じくらい重要だ」
「今日、それが少し分かった」
「ならいい」
エルザが記録板を見ながら言った。
「本日の結果。クラウディア様の右手指可動域、前回比で改善。精神的焦燥、増加。ミラの制止、有効。レオンさんの自己制御、課題あり。ただし成功」
「課題ありか」
「はい」
「厳しいな」
「必要です」
エルザはそこで少しだけ目を上げた。
「でも、成功です」
その言葉は、彼女なりの励ましだったのだろう。
レオンは小さく笑った。
「ありがとう」
「どういたしまして」
ミラがにやりとする。
「エルザが素直」
「記録拒否します」
「自分のことになると拒否する!」
馬車の中に笑いが起きた。
セリアも少しだけ口元を緩めている。
レオンは窓の外を見た。
王都の街並みが流れていく。
クラウディアの治療は、確かに進んでいる。
けれど、その分だけ危うさも増している。
希望は、支えにもなる。
だが、焦りにもなる。
それをどう扱うか。
レオンは、ようやくその難しさの入り口に立った気がした。
◇
その夜、エルンスト公爵邸。
クラウディアは自室で、右手の指を動かしていた。
ゆっくりと。
ほんの少しだけ。
人差し指。
中指。
薬指。
小指。
動く。
痛くない。
その事実が、胸を震わせる。
だが、今日は前回と違い、すぐには槍へ手を伸ばさなかった。
槍は、部屋の隅に立てかけてある。
そこにある。
逃げない。
ミラの言葉を、何度も繰り返した。
「槍は逃げない……」
クラウディアは小さく呟く。
そして、右手を胸元に寄せた。
今日は触れない。
触れたい。
すぐにでも握りたい。
あの柄の感触を確かめたい。
でも、今日は触れない。
それが、自分で決めるということなのだと、少し分かった。
扉が静かに叩かれる。
「クラウディア」
父の声だった。
「入ってもいいか」
「はい」
入ってきたエルンスト公爵は、いつもの威厳ある貴族の顔ではなかった。
少し疲れた、父親の顔だった。
「指が動いたと聞いた」
「はい」
クラウディアは右手を見せた。
ほんの少しだけ指を曲げる。
公爵の目が揺れた。
「……そうか」
その声は震えていた。
「よかった」
「お父様」
「何だ」
「焦らないでください」
公爵は目を見開いた。
クラウディアは真っすぐに父を見る。
「私は治りたいです。とても。でも、レオン様たちの決めた手順で進みたい。無理に急がせないでください」
「……クラウディア」
「お願いです。私の身体のことだから」
その言葉に、公爵は長く沈黙した。
やがて、深く息を吐く。
「そうだな」
公爵は椅子に腰を下ろした。
「私は、お前を助けたいあまり、お前の声を聞くことを忘れかけていたかもしれない」
「お父様は、私を心配してくださっただけです」
「それでもだ」
公爵は娘の右手を見つめる。
「分かった。白銀聖騎士団の手順に従う。無理に急がせない」
「ありがとうございます」
クラウディアは微笑んだ。
それはまだ弱い笑顔だった。
けれど、公爵にとっては何より重いものだった。
◇
同じ夜。
白銀聖騎士団詰所の自室で、レオンは机に向かっていた。
今日の報告書が開かれている。
『治療成功。ただし患者本人の焦燥増加。次回は四日後。制止体制を強化』
その下に、リーネの追記。
『希望を支えるには、止める勇気も必要』
さらにエルザの追記。
『レオンさん自身の精神負荷確認を次回前に実施』
ミラの走り書きもあった。
『槍は逃げない』
最後に、セリアの短い文字。
『一人で決めるな』
レオンはその四つの言葉を見て、小さく笑った。
本当に、見事に四人らしい。
壁の向こうから声がした。
「まだ起きているのか」
「起きてる」
「今日は早く寝ろと言ったはずだ」
「報告書を読んでた」
「読みすぎるな」
「分かった」
「本当に?」
「本当に」
少し沈黙。
そして、セリアが言った。
「今日は、きつかったな」
「……ああ」
「止めるのは、きつい」
「セリアもそういう経験あるのか?」
「ある。何度も」
壁越しの声は静かだった。
「戦場では、助けたい者を全員助けられるわけではない。進むために置いていくこともある。撤退を命じることもある。部下に無理をさせないために、本人の願いを折ることもある」
「団長って、大変だな」
「大変だ」
即答だった。
レオンは少し笑う。
「そこは否定しないのか」
「する意味がない」
「正直だ」
「お前の影響かもしれない」
壁の向こうで、セリアが小さく息を吐いた気配がした。
「レオン」
「何だ?」
「今日、お前はちゃんと止まった。だから次も止まれる」
「そうかな」
「そうだ」
「セリアがそう言うなら、そうかもな」
少し間が空く。
「……私を信じすぎだ」
「信じたいんだよ」
言ってから、レオンは少し照れた。
壁の向こうも、しばらく静かだった。
やがてセリアが、いつもより小さな声で言う。
「なら、裏切らないようにする」
「重く考えすぎなくていい」
「無理だ」
「無理なのか」
「私は、そういう性格だからな」
レオンは笑った。
「知ってる」
「知っているなら寝ろ」
「はいはい」
「はいは一回でいい」
いつものやり取り。
それがあるだけで、今日の重さが少し薄れる。
レオンは灯りを落とした。
クラウディアの指は、確かに動いた。
だが、槍はまだ遠い。
その距離を急がず、一歩ずつ進む。
それが、今のレオンにできる治療なのだろう。




