第17話『期待しなくていい聖女候補と、触れない面談』
特別魔力支援室。
その名前は、設置された翌日にはもう白銀聖騎士団の中で妙な略され方をしていた。
「レオン窓口」
「レオン受付」
「魔力相談所」
「聖魔力源予約係」
「予約係はやめてくれ」
朝の会議室で、レオンは顔をしかめた。
壁には正式な掲示が貼られている。
『特別魔力支援室』
外部からの魔力供給要請、治療相談、面談希望、診療記録提出、本人同意確認、日程調整、すべてここを通す。
いかにも事務的な名前だ。
それなのに、団員たちは早くも勝手な呼び名をつけ始めていた。
ミラが腕を組んで言う。
「でも、レオン窓口が一番分かりやすいじゃない」
「俺が窓口に座ってるみたいだろ」
「座ってたら可愛いかも」
「可愛い?」
「ち、違う! 今のは言葉の勢い!」
ミラが一人で赤くなる。
リーネがにこにこしながら書類を整えていた。
「正式名称は特別魔力支援室です。けれど、内部で多少親しみやすい呼び方をするくらいなら、士気向上になるかもしれませんね」
「リーネさんまで」
「では、支援室で」
「それで頼む」
エルザは記録板を見ながら淡々と告げる。
「本日の予定です。午前、神殿治癒院より聖女候補ノエル様との面談要請。午後、クラウディア様の経過記録確認。夕方、団長の治療枠」
「エルザ」
セリアが低く言った。
「最後を当然のように入れるな」
「毎日必要な治療です」
「それはそうだが、予定表に堂々と書くな」
「医療予定です」
「医療予定なら仕方ないですね」
リーネがさらりと言う。
ミラがにやにやした。
「団長、最近もう否定が弱くなってますよ」
「ミラ」
「はい、訓練追加ですね。でもこれは言う価値ありました」
セリアは小さく息を吐いた。
レオンは少し笑いながら、手元の資料へ視線を落とす。
神殿治癒院。
聖女候補ノエル。
十七歳。
魔力枯渇症により長期療養中。
かつては聖歌治癒と浄化結界に高い適性を持っていたが、二年前の大規模浄化儀式の失敗以降、聖属性魔力の生成が不安定化。治療を受けても一時的にしか回復せず、現在は本人が新たな治療に消極的。
最後の一文が、レオンの目に残った。
『本人は、これ以上期待することを拒んでいる』
「……期待したくない、か」
レオンが呟くと、リーネが静かに頷いた。
「何度も治療を試して、思うように良くならなかった方には多い反応です。希望は、本来は支えになるものですが、繰り返し折れると痛みになります」
「痛みになる希望……」
「はい」
リーネの声は優しかった。
だが、そこには治癒騎士として見てきた現実の重みがあった。
「ノエル様は、治療ではなく面談だけを希望されています。正確には、会うだけならいい、という返事ですね」
「俺は何を話せばいい?」
「何かを説得しようとしなくていい」
セリアが言った。
レオンが顔を上げる。
「説得しなくていい?」
「ああ。治療を受けさせるために会うのではない。本人が、お前という存在を見て、自分で判断するために会う」
「……分かった」
「本当に?」
「今回は本当に分かってる」
ミラがじとっと見る。
「怪しい」
「なぜだ」
「レオン、苦しんでる子を見るとすぐ助けたい顔するから」
「そんなに分かりやすいか?」
四人が黙った。
「……もうその沈黙、慣れてきたな」
エルザが記録板を閉じる。
「本日の面談において、レオンさんが言うべきことは三つです。一、治療を受ける義務はない。二、期待しなくていい。三、嫌なら拒否していい」
「治療する側の言葉に聞こえないな」
「だからこそ必要です」
リーネが言った。
「ノエル様は、きっと『期待しなさい』と何度も言われてきた方ですから」
レオンは資料を閉じた。
「分かった。会うだけ。触れない。説得しない」
「よし」
セリアは頷く。
「そして私は同席する」
「分かってる」
「ミラとリーネも同席。エルザは記録」
「いつもの体制だな」
「いつもの体制だ」
それが、少し心強かった。
◇
神殿治癒院は、王立治癒院とはまた違う空気の場所だった。
王立治癒院が実務と医療の場だとすれば、神殿治癒院は祈りと沈黙の場だった。
白い柱。
淡い金色の光。
廊下の隅には小さな祭壇。
どこからか、低い聖歌の響きが聞こえてくる。
薬草の匂いよりも、香油と乾いた花の香りが強い。
レオンは廊下を歩きながら、小さく息を吐いた。
「落ち着かないか?」
セリアが隣で聞く。
「少し。神殿って、何か見られてる感じがする」
「神像が多いからな」
「そういう意味なのか?」
「たぶん違う」
セリアが真顔で返すので、レオンは少し笑った。
後ろでミラが腕を組んでいる。
「私も神殿苦手。静かすぎるのよ。槍を落としたら響きそう」
「落とさないでくださいね」
リーネが小声で言う。
「落とさないわよ!」
「声も響きます」
「うっ」
ミラは慌てて口を押さえた。
エルザは周囲の魔法陣を観察していた。
「神殿治癒院の結界は、鎮静と浄化に特化しています。魔力暴走抑制には有効ですが、過度に作用すると感情も鈍ります」
「感情も?」
レオンが聞き返す。
「はい。痛みを抑えるために、心の起伏も抑える場合があります」
リーネの表情が少し曇った。
「長期療養者には必要なこともありますが……ずっと続くと、自分の気持ちまで分からなくなる方もいます」
「ノエル様も?」
「可能性はあります」
その時、廊下の奥からシスティナが現れた。
神殿治癒院の白衣姿。
昨日と同じ穏やかな顔だが、目元には少し疲れがある。
「お待ちしておりました」
彼女は丁寧に頭を下げた。
「本日は面談のみ、ということで間違いありませんね」
セリアが確認する。
「はい。ノエルにもそう伝えてあります。レオン様が触れることはありません。治療の約束もしません」
「本人の意思は?」
「会うだけなら、と」
「それで十分だ」
セリアは短く言った。
システィナはほっとしたように微笑んだ。
「ありがとうございます。正直に言えば、ここまで本人の意思を重視してくださるとは思っていませんでした」
「それが前提だ」
「神殿では、その前提が時々見えにくくなります」
その言葉に、ミラが少し眉を寄せた。
「それ、神殿の人が言っていいの?」
「言わなければ変わりませんので」
システィナの声は静かだった。
この人もまた、神殿の中でいろいろ抱えているのだろう。
レオンはそう感じた。
「こちらです」
システィナが案内したのは、庭に面した小さな部屋だった。
大部屋ではない。
病室というより、祈りの間に近い。
窓辺に椅子があり、薄い白いカーテンが風に揺れている。
その椅子に、一人の少女が座っていた。
ノエル。
年齢は十七と聞いている。
淡い亜麻色の髪を肩で切りそろえ、白い療養服を着ている。
細い首元には、神殿の小さな銀の聖印。
肌は白いが、クラウディアのような貴族的な美しさとは違う。
もっと静かで、薄い。
そこにいるのに、今にも空気に溶けてしまいそうな印象だった。
ノエルは一行を見ても、表情を変えなかった。
「……あなたが、聖魔力源?」
第一声は、それだった。
レオンは少しだけ間を置いて答えた。
「そう呼ばれてます。レオン・アルヴァスです」
「呼ばれてます、なんだ」
「自分ではまだ慣れてなくて」
「変なの」
ノエルは窓の外へ視線を戻した。
「聖魔力源なんて、もっと偉そうな人かと思った」
「昨日まで普通に困ってたので」
「何に?」
「書類と、呼び名と、窓口名に」
ノエルが少しだけ目を動かした。
ミラが後ろで小声で言う。
「窓口名はまだ解決してないけどね」
「ミラ」
セリアが低く呼ぶ。
「はい、静かにします」
ノエルはそのやり取りを見て、ほんの少しだけ眉を動かした。
「にぎやか」
「よく言われます」
リーネが微笑む。
「白銀聖騎士団のリーネです。今日は面談の付き添いとして来ました」
「治癒騎士?」
「はい」
「治癒騎士は嫌い」
ノエルはさらりと言った。
リーネの表情は変わらない。
「そうですか」
「怒らないの?」
「怒りません。嫌いになる理由があったのでしょう?」
ノエルは少し黙った。
「……優しいふりをして、期待させるから」
部屋の空気が少し重くなった。
システィナが目を伏せる。
リーネは静かに頷いた。
「そうですね。私たち治癒に関わる者は、時々『良くなります』と言いすぎるのかもしれません」
「言われる方は疲れる」
「はい」
「前向きにって言われるのも嫌い」
「はい」
「祈りましょうって言われるのも嫌い」
「はい」
「……何で言い返さないの?」
ノエルの声に、少し苛立ちが混じる。
リーネは柔らかく答えた。
「言い返すために来たのではありませんから」
ノエルは言葉を失ったように見えた。
レオンは、リーネの横顔を見た。
穏やかだが、強い。
こういう時のリーネは、本当に逃げない。
セリアが静かに口を開いた。
「ノエル殿。今日は治療の勧誘ではない。レオンと会うだけだ。嫌ならここで終わりにしていい」
「本当に?」
「ああ」
「神殿が会えって言ったのに?」
「本人が嫌なら終わりだ」
「……変なの」
ノエルはまたその言葉を使った。
だが、さっきより少しだけ声が揺れていた。
レオンは椅子に座る許可をもらい、ノエルから少し距離を取って腰かけた。
近すぎないように。
手が届かない距離で。
「俺から話してもいいですか?」
「触らないなら」
「触りません」
「治るって言わないなら」
「言いません」
「期待しろって言わないなら」
「言いません」
ノエルはレオンを見た。
「じゃあ、いい」
レオンは頷いた。
「俺は、あなたを治せるとは言えません」
最初にそう言った。
部屋が静かになる。
システィナが少し息を呑んだ。
ノエルの表情は変わらない。
レオンは続ける。
「クラウディア様には少し効果がありました。でも、あなたに同じように効くかは分かりません。聖女候補の魔力枯渇症に俺の魔力がどう反応するかも、まだ分かっていません」
「うん」
「だから、期待しなくていいです」
その言葉で、ノエルの目が揺れた。
「……期待しなくて、いい?」
「はい」
「期待しないと、治らないって言われた」
「俺はそうは思いません」
「信じる心が奇跡を呼ぶって」
「信じられないくらい傷ついた人に、それを言うのは重いと思います」
ノエルの唇が、わずかに震えた。
レオンはゆっくり言った。
「期待しなくていいです。信じなくてもいい。嫌なら断っていい。会ってみて、やっぱり嫌だと思ったらそれで終わりです」
ノエルは、膝の上の手を握った。
細い指。
ほとんど血の気がない。
「……そんなこと言われたの、初めて」
「俺も、そういうことを言う側になったのは最近です」
「あなた、前は何だったの?」
「冒険者です。役立たずって言われて追放されました」
システィナが驚いた顔をした。
ノエルも、初めてはっきりレオンを見る。
「役立たず?」
「はい」
「聖魔力源なのに?」
「その時は、ただの魔力譲渡だと思われていたので」
「馬鹿みたい」
「俺も今はそう思います」
「怒ってないの?」
「怒ってます。でも、少しずつ別のものになってきたというか」
「別のもの?」
「今は、俺の力をちゃんと見てくれる人たちがいるので」
レオンは少しだけ後ろを見た。
セリアが立っている。
ミラが腕を組んでいる。
リーネが静かに微笑んでいる。
エルザが記録板を抱えている。
「役立たずじゃないって言ってくれる人たちがいると、少しずつ自分でもそう思えるようになります」
ノエルは四人を見た。
「……いいね」
小さな声だった。
羨望に近かった。
ミラが珍しく何も言わない。
リーネも静かにしている。
ノエルは膝の上の聖印を握った。
「私は、聖女候補だった」
「はい」
「皆、私に優しかった。すごいねって。きっと聖女になれるって。あなたの歌は人を救うって」
彼女の声は淡々としていた。
だが、淡々としすぎている。
そこに、痛みを出さないようにする癖があった。
「でも、儀式に失敗して、魔力が枯れて、歌えなくなったら、皆もっと優しくなった」
ノエルは笑った。
笑顔ではなかった。
「大丈夫。治る。祈りましょう。期待しましょう。前を向きましょう。神は見捨てません。……そう言われるたび、私は自分がどんどん駄目になっていく気がした」
システィナが唇を噛む。
「ノエル……」
「システィナ様は悪くない。分かってる。でも、優しさも痛い時がある」
その言葉に、リーネが静かに頷いた。
「あります」
ノエルがリーネを見る。
「治癒騎士なのに認めるんだ」
「認めます。私も、誰かを傷つける優しさを持ってしまうことがありますから」
「……変な人が多い」
ノエルは少しだけ困ったように言った。
その声は、最初より柔らかかった。
レオンは尋ねた。
「今日は、俺に会ってどう思いましたか?」
「変な人」
「それは聞きました」
「聖魔力源っぽくない」
「自分でもそう思います」
「でも、嫌ではない」
システィナが小さく息を吐いた。
セリアも、ほんの少し表情を緩める。
ノエルは続けた。
「治療は、まだ嫌」
「分かりました」
「怖いから」
「はい」
「でも……もう一回くらいなら、会ってもいい」
その言葉に、部屋の空気が変わった。
治療ではない。
面談をもう一回。
ただそれだけ。
だが、閉ざされた扉が確かに少し開いた。
「分かりました」
レオンは頷いた。
「次も、会うだけでいいです。話して、嫌なら終わりで」
「触らない?」
「触りません。あなたが望まない限り」
「……分かった」
ノエルは窓の外を見た。
白い花が揺れている。
「次は、あなたが役立たずって言われた話を聞きたい」
「面白い話じゃないですよ」
「面白くなくていい」
「分かりました」
その時、ミラが小さく言った。
「じゃあ次は私もいる。レオンが暗い話だけすると空気重くなるし」
「ミラ」
セリアが呼ぶ。
「何ですか」
「次も同席する気か」
「駄目ですか?」
「駄目ではない」
「ならいます」
ノエルがミラを見る。
「あなた、うるさそう」
「初対面でひどくない!?」
「でも、少し安心する」
ミラが言葉に詰まった。
顔が赤くなる。
「……そ、そう。なら、いてあげる」
「偉そう」
「何で急に辛口なのよ!」
ノエルの口元が、ほんの少しだけ上がった。
本当に、ほんの少し。
でも、それは笑みだった。
システィナが目元を押さえた。
「システィナ様、泣くほど?」
ノエルが少し困ったように言う。
「泣いていません」
「泣いてる」
「少しだけです」
部屋の空気が、さっきよりずっと柔らかくなっていた。
◇
面談は治療なしで終わった。
レオンは最後までノエルに触れなかった。
魔力を流すこともなかった。
ただ話しただけ。
それでも、神殿治癒院を出る時、システィナは深く頭を下げた。
「ありがとうございました」
「何もしていません」
レオンが言うと、システィナは首を横に振る。
「何もしないでいてくださったことが、大きかったのです」
その言葉は、静かに胸に残った。
何もしないこと。
触れないこと。
治そうとしないこと。
期待させないこと。
それもまた、必要な支えなのかもしれない。
帰りの馬車の中で、ミラが腕を組んで言った。
「ノエル、結構言う子だったわね」
「ミラと合いそうだな」
「どこが?」
「すぐ突っ込むところ」
「私はあそこまで辛口じゃない!」
エルザが即座に記録板を開く。
「比較。ミラとノエル様、率直発言傾向あり」
「比較しないで!」
リーネが微笑む。
「でも、ノエル様が少し笑ってくれてよかったです」
「笑ったというより、ミラが突っ込まれていたな」
セリアが言う。
「私、役に立ったってことですか?」
「そうだな」
セリアが真面目に頷く。
「ミラの騒がしさが、今日は良い方向に働いた」
「褒められてるのに、言い方!」
レオンは笑った。
笑いながら、窓の外を見る。
神殿の白い建物が遠ざかる。
ノエルはまだ治療を拒んでいる。
でも、もう一度会うことは受け入れた。
それは小さな一歩だ。
クラウディアの指先が動いた時とは違う。
目に見える変化ではない。
でも、確かに何かが動いた。
「レオン」
セリアが声をかける。
「何だ?」
「今日、お前はよく何もしなかった」
「褒め方が不思議だな」
「本気で褒めている」
「分かってる」
「何かをするより、何もしない方が難しい時がある」
「そうだな」
レオンは自分の手を見る。
触れなかった手。
魔力を流さなかった手。
けれど、それでよかったのだと思える。
「次も、会うだけでいいんだよな」
「ああ」
セリアは頷いた。
「本人が望むまでは、それ以上しない」
「分かった」
「本当に?」
「本当に」
ミラが横から言う。
「怪しかったら私が止めるから」
「頼りにしてる」
「だから急に素直に頼るな!」
「頼れって言っただろ」
「言ったけど!」
リーネが笑い、エルザが記録し、セリアが少しだけ口元を緩める。
馬車の中は、いつもの白銀聖騎士団の空気だった。
◇
その夜、神殿治癒院。
ノエルは窓辺の椅子に座り、庭を見ていた。
白い花が夜風に揺れている。
机の上には、開かれていない聖歌集。
ずっと避けていた本だった。
歌えない自分に、聖歌集を見る資格はないと思っていた。
でも今夜は、なぜか目をそらさずにいられた。
「役立たず、か」
ノエルは小さく呟いた。
聖魔力源と呼ばれる青年が、かつてそう呼ばれていた。
そして、今は自分の力を見てくれる人たちの中にいる。
「私も……」
言いかけて、やめた。
まだ期待はしない。
期待は痛い。
でも、次に会う約束だけはした。
それくらいなら、まだ大丈夫かもしれない。
扉が静かに開き、システィナが入ってくる。
「眠れそうですか?」
「分からない」
「そうですか」
「システィナ様」
「はい」
「次、本当に会うだけでいいの?」
「はい」
「治療しろって言わない?」
「言いません」
「期待しろって」
「言いません」
ノエルは少しだけ息を吐いた。
「なら、次も会う」
「はい」
システィナは微笑んだ。
ノエルは聖歌集へ手を伸ばした。
開きはしない。
ただ、指先で表紙に触れるだけ。
それだけだった。
けれど、それもまた、小さな一歩だった。
◇
同じ頃、白銀聖騎士団の詰所では、レオンが自室で今日の報告書を読んでいた。
神殿治癒院ノエル面談。
治療なし。
接触なし。
本人、次回面談に同意。
備考欄には、エルザの字でこう書かれていた。
『期待しないことを許可された結果、本人の拒絶反応が低下した可能性あり』
レオンはその一文を見て、小さく笑った。
「期待しないことを許可、か」
不思議な言葉だ。
でも、今日のノエルには必要だった。
壁の向こうから、セリアの声がした。
「まだ起きているのか」
「起きてる」
「寝ろ」
「毎晩それだな」
「毎晩言う必要があるからだ」
「過保護だ」
「自覚はある」
レオンは笑った。
「今日は、何もしなかったのに疲れた」
「何もしないことは疲れる」
「セリアもそう思う?」
「ああ」
少し間が空いた。
そしてセリアが言った。
「だが、お前は今日も誰かを助けた」
「治してない」
「治すだけが助けることではない」
壁越しの声は、静かだった。
「ノエル殿は、お前が触れなかったことで少し息ができたのだと思う」
レオンは返事を探した。
結局、短く言った。
「……ありがとう」
「礼はいらない」
「言いたかった」
「そうか」
壁一枚向こうで、セリアが少し照れている気がした。
レオンは報告書を閉じる。
今日は魔力を使っていない。
それでも、確かに大事な日だった。
特別魔力支援室の仕事は、魔力を渡すことだけではない。
渡さないことを決めること。
待つこと。
断ること。
そして、相手が自分で選ぶまで、隣にいること。
役立たずと呼ばれた力は、ただ強い魔力を持っているだけでは足りない場所へ来ていた。
誰に、いつ、どう渡すのか。
その判断こそが、今のレオンには必要だった。
窓の外では、王都の灯りが静かに揺れている。
神殿、近衛、公爵家、貴族たち。
彼の力を求める声は、これからさらに増えていくだろう。
だが今夜、レオンの胸に残っているのは、ノエルの小さな言葉だった。
――もう一回くらいなら、会ってもいい。
それは治療ではない。
けれど、確かに始まりだった。




