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『役立たずと追放された「魔力譲渡」スキルの俺、実は美少女騎士団の「聖魔力源」だった件』  作者: 常陸之介寛浩 本能寺から始める信長との天下統一


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第15話『初回治療、冷えた指先に戻る温度』

 翌朝、レオンは予定通りセリアに起こされた。


 いや、正確には、起こされる前に目は覚めていた。


 ただ、寝台の上で天井を見たまま、起き上がるきっかけを失っていた。


 窓の外はまだ薄明るい。

 訓練場からは、早朝稽古の掛け声がかすかに聞こえる。


 今日は、クラウディア・エルンストへの初回正式治療の日だった。


 診断ではない。

 治療。


 そう思うだけで、手のひらに妙な重さが宿る。


 扉が軽く叩かれた。


「レオン。起きているか」


 セリアの声だった。


「起きてる」


「入るぞ」


「ああ」


 扉が開く。


 入ってきたセリアは、すでに外出用軽鎧を身につけていた。

 白銀の胸当て、濃紺の外套、腰には剣。


 朝の光の中に立つ姿は、昨日よりも少し硬い。


「眠れたか」


「少し」


「正直でいい」


「正直に言った」


「ならいい」


 セリアは部屋に入り、机の上を見た。


 そこには、昨日の治療計画書と、エルザの測定手順表と、リーネの香草茶の空き瓶が置かれている。


 そして、セリアのメモ。


『一人で背負うな』


 セリアはそれを見て、少しだけ目を逸らした。


「……残していたのか」


「大事そうだったから」


「大事だ」


 短い返答。


 それから、セリアはレオンの前に立った。


「出発前に確認する。今日、お前がするのは治療だが、完治ではない」


「ああ」


「初回は左手から浅く流す。最大五分。痛み、発熱、呼吸異常、魔力暴走が出たら即中断」


「分かってる」


「公爵家側が延長を求めても、その場では応じない」


「分かってる」


「クラウディア令嬢本人が望んでも、中断判断は守る」


 そこだけ、レオンは少し返事が遅れた。


 セリアの目が鋭くなる。


「レオン」


「……分かってる」


「本当に?」


「本当に」


 セリアはしばらくレオンを見つめた。


 そして、少しだけ声を柔らかくする。


「怖いか」


「怖い」


「私もだ」


 その即答に、レオンは少し笑った。


「団長なのに?」


「団長でも怖いものは怖い」


「そういうの、部下には言うのか?」


「言わない」


「俺には?」


「言ってしまう」


 セリアはそこで、ほんの少し困った顔をした。


「お前には、どうも隠しづらい」


「魔力のせい?」


「それだけではない」


 その言葉に、レオンの胸が静かに鳴った。


 だが、今日の朝にそこを掘る余裕はない。


 レオンは立ち上がった。


「行こう」


「ああ」


 セリアは頷き、扉へ向かった。


 その直前、振り返る。


「レオン」


「何だ?」


「今日は、私を見るのを忘れるな」


「困ったら?」


「困らなくてもだ」


「それはまた過保護だな」


「自覚はある」


 セリアは真面目な顔で言った。


「だが、やめるつもりはない」


 その言葉に、レオンは苦笑した。


「頼りにしてる」


「任せろ」


 短い返事。


 それだけで、胸の奥の緊張が少し軽くなった。


    ◇


 王立治癒院へ向かう馬車の中では、ミラが妙に落ち着かなかった。


 いつものように騒がしいのではない。

 膝の上で手を握ったり開いたりしながら、窓の外を見たり、レオンを見たり、また外を見たりしている。


「ミラ」


 レオンが声をかける。


「何よ」


「緊張してる?」


「してない」


 返答が早い。


 エルザが即座に記録板を開いた。


「記録。ミラ、緊張否定速度が通常の一・七倍」


「測らないで!」


 リーネがくすりと笑う。


「ミラさんは、クラウディア様のことが気になっているんですよね」


「……まあ、少しは」


 ミラは窓の外に視線を向けた。


「昨日、あの子の槍を見てたらさ。何か、嫌だったのよ。槍がそこにあるのに、触れないって」


「ミラさんも、肩を痛めていた時はそうでしたか?」


「私は、触れた。痛いけど触れた。でも、あの子は触る前から怖がってた」


 ミラの声が少し低くなる。


「あれは、きついと思う」


 誰も茶化さなかった。


 ミラはいつも強気だ。

 すぐ怒るし、すぐ赤くなるし、槍を握れば誰よりも前に出る。


 だが、だからこそ分かる痛みがある。


 レオンは静かに言った。


「今日は、ミラがいてくれると助かる」


 ミラの肩が跳ねた。


「な、何よ急に」


「クラウディア様に近いところで分かるのは、俺よりミラだと思うから」


「……そういう言い方、ほんとずるい」


「ずるい?」


「頼られたら、断れないじゃない」


「断るつもりだったのか?」


「ないけど!」


 ミラは顔を赤くして、ぷいっと横を向いた。


 リーネが楽しそうに微笑む。


「ミラさん、今日は頼もしいですね」


「今日はって何ですか!」


「いつもでした」


「訂正が早い!」


 エルザが淡々と言う。


「レオンさんからの信頼発言により、ミラの士気が上昇」


「エルザ!」


「事実です」


「消して!」


「戦闘記録ではなく心理記録なので、消せません」


「余計に嫌!」


 馬車の中に、少し笑いが生まれた。


 その笑いで、緊張が和らぐ。


 セリアは静かに外を見ていたが、やがて口を開いた。


「全員、確認しておく。今日、公爵家側が何を言っても、治療計画を変えない」


「はい」


 リーネが頷く。


「患者本人の状態を優先します」


「無理に延長しようとしたら、私が止める」


 ミラが言う。


「言葉で止めます。槍は最後の最後にします」


「最初から槍を選択肢に入れるな」


 セリアが淡々と返す。


 エルザも頷いた。


「私は記録と測定を担当します。外部からの発言も残します」


「俺は?」


 レオンが聞くと、セリアはこちらを見た。


「お前は、クラウディア令嬢を見る」


「見る?」


「公爵家でも、治癒院でも、私たちでもない。本人を見る。それだけでいい」


 その言葉は、不思議と腑に落ちた。


 レオンは頷いた。


「分かった」


 馬車は王立治癒院へ向かって進んでいく。


 王都の朝の喧騒が、窓の向こうを流れていった。


    ◇


 王立治癒院の中立診療室には、昨日よりも人が多かった。


 王立治癒院の医師二名。

 王立魔導院からイザベラ。

 エルンスト公爵家から家令バルナードと侍女。

 そして、白銀聖騎士団側からレオン、セリア、ミラ、リーネ、エルザ。


 人数だけ見れば厳重だ。


 だが、その中心に座るクラウディアは、昨日よりさらに小さく見えた。


 銀金の髪は丁寧に整えられている。

 療養服も昨日より格式あるものだ。

 公爵令嬢としての礼儀を保とうとしているのが分かる。


 けれど、膝の上の左手は強く握られていた。


 右手は包帯に包まれ、身体の横で動かない。


 隣には、昨日と同じ槍。


 彼女は、それを見ないようにしていた。


「おはようございます、レオン様」


 クラウディアは声を整えて言った。


「おはようございます、クラウディア様」


「昨日は……ありがとうございました」


「こちらこそ」


 そこで会話が止まる。


 レオンは、彼女の目を見た。


 昨日より期待がある。


 だが、その分だけ怖さも濃くなっている。


 昨日、指先が動いた。

 だから今日も何かが起きるかもしれない。

 でも、起きなかったら。


 そういう怖さだ。


「クラウディア様」


 セリアが一歩前へ出た。


「本日の治療前に、改めて確認します。今日は初回治療ですが、完治を目指すものではありません。左手から浅く魔力を流し、右側の反応を見るだけです。治療時間は最大五分。異常があれば即時中断します」


「はい」


 クラウディアは頷く。


 だが、その声は少し震えていた。


「また、延長は行いません。治療後、状態を見て次回可否を判断します」


「……はい」


 バルナードが少し口を開きかけたが、セリアの視線を受けて黙った。


 セリアは続ける。


「最後に、あなた本人の意思を確認します。本日、治療を受けますか」


 クラウディアは膝の上の左手を見つめた。


 診療室が静かになる。


 少し長い沈黙だった。


 やがて、彼女は顔を上げる。


「受けます」


 声は震えていた。

 けれど、はっきりしていた。


「怖いです。期待するのも怖い。昨日、指が少し動いてから、夜ずっと眠れませんでした。今度こそと思ってしまって、でも駄目だったらと思うと……」


 彼女はそこで、一度息を吸った。


「それでも、受けます。私が、受けたいです」


 セリアは静かに頷いた。


「確認した」


 レオンはクラウディアの前へ進んだ。


「触れます。左手だけです」


「はい」


「痛かったらすぐ言ってください。少しでも苦しくなったら止めます」


「はい」


「もっと続けたいと思っても、今日は止めます」


 クラウディアの瞳が揺れた。


 それでも彼女は頷いた。


「……約束します」


「俺も約束します。無理はしません」


 レオンは手を差し出した。


 クラウディアが左手を乗せる。


 冷たい。


 昨日より冷たい気がした。


 緊張で指先まで血が通っていないのだろう。


「始めます」


 レオンは目を閉じた。


 自分の魔力を細く、細く整える。


 押し込まない。

 急がない。

 相手の傷へ向かって走らない。


 冷えた水路の入り口に、温かな水を一滴ずつ落とすように。


「……っ」


 クラウディアの肩が小さく震えた。


「痛いですか?」


「いいえ……温かいです」


 レオンはそのまま魔力を保つ。


 左手から左腕。

 肩。

 胸の中心。


 昨日より少しだけ流れが通りやすい。


 クラウディア自身が、魔力を受け入れようとしている。


 だが、右側はやはり固い。


 胸の奥で、傷を覆うように閉じた蓋がある。


 そこへ直接触れてはいけない。


 レオンはその周囲だけを温めた。


 リーネが横で状態を確認する。


「呼吸、安定しています。体温上昇は軽微」


 エルザが結晶を見る。


「レオンさんの魔力消耗、正常範囲。クラウディア様の右手末端部に微弱反応」


 イザベラが小さく息を呑む。


「昨日より反応が早いですね」


「静かに」


 セリアが低く言った。


 イザベラは素直に口を閉じる。


 ミラはクラウディアを見ていた。


 槍使いの目で。

 同じ痛みを少しだけ知る者の目で。


「クラウディア」


 ミラが静かに呼んだ。


 令嬢が目を向ける。


「右手、無理に動かそうとしないで。動くかもって思うと、力入るから」


「……はい」


「槍を握る時のことも、今は考えないで」


 クラウディアの唇が震える。


「考えてしまいます」


「分かる。でも今は、槍じゃなくて指先だけ」


 ミラの声は、いつになく優しかった。


「一本ずつ戻せばいい。いきなり突くところまで行かなくていい」


 クラウディアは目を閉じた。


 涙が一筋、頬を伝う。


「はい……」


 その瞬間、レオンは魔力の流れが少し緩むのを感じた。


 恐怖で固まっていた部分が、ほんの少しだけ解けた。


 ミラの言葉が届いたのだ。


 レオンはその隙間に、さらに細く魔力を流す。


 右手の指先へ。

 無理なく。

 届くところまで。


「……あ」


 クラウディアが声を漏らした。


 右手の人差し指が、ほんのわずかに動いた。


 昨日より、はっきりと。


 バルナードが息を呑む。


 侍女が口元を押さえる。


 リーネがすぐに言う。


「痛みは?」


「ありません……ありません」


 クラウディアの声が震える。


「今、動きました。昨日より、ちゃんと……」


「呼吸を乱さないで」


 ミラがすぐに言った。


「喜ぶのはあと。今は息」


 クラウディアは涙をこぼしながらも、必死に頷いた。


 レオンは魔力を保つ。


 ここで強めたくなる。

 もっと届くかもしれないと思ってしまう。


 だが、それが危ない。


 手順表が頭に浮かぶ。


 三分から五分。

 延長しない。

 右側へ深く流さない。


「三分経過」


 エルザが言った。


 まだ余裕はある。


 クラウディアの反応も悪くない。


 レオンは慎重に続けた。


 今度は中指の先に、淡い反応。


 続いて薬指。


 小指はまだ冷たい。


 右手全体が治ったわけではない。


 だが、確実に昨日より届いている。


「……温かい」


 クラウディアが小さく呟く。


「私の手なのに、ずっと他人の手みたいだったんです。でも今、少しだけ……戻ってきた気がします」


 その言葉に、リーネの目元が柔らかくなる。


 ミラは唇を噛んでいた。


 バルナードは、下を向いている。


 泣いているのかもしれない。


「四分三十秒」


 エルザの声。


 セリアがレオンを見る。


 止める準備をしている目だった。


 レオンは頷いた。


 あと少し。


 けれど、ここまで。


「五分」


 エルザが告げた。


 レオンはすぐに魔力を細めた。


 急に切らない。

 静かに引いていく。


 温かな水路の流れを、少しずつ閉じるように。


 クラウディアの左手から、自分の手を離した。


「終わりです」


 静かな声で言った。


 クラウディアは、ぼんやりと自分の右手を見つめていた。


 包帯の上から、人差し指と中指が微かに動く。


 何度も。


 小さく。


 確かめるように。


「……動く」


 声にならない声。


「痛くない」


 涙が、今度は止まらなかった。


 侍女がそっと布を差し出す。


 クラウディアはそれを受け取らず、右手を見つめ続けた。


 まるで、目を離したらまた動かなくなると恐れているようだった。


「レオン様」


 バルナードが前に出た。


「もう少しだけ――」


「バルナード」


 クラウディアが言った。


 細い声だった。


 だが、はっきりしていた。


 バルナードが止まる。


「今日は、ここまでです」


「お嬢様……」


「約束しました」


 クラウディアは涙を拭いながら、レオンを見た。


「レオン様も、約束を守ってくれました。だから、私も守ります」


 診療室の空気が変わった。


 セリアが、ほんのわずかに目を細める。


 ミラが小さく息を吐いた。


 リーネは優しく微笑んでいる。


 エルザは記録板に何かを書きながら、珍しく少しだけ柔らかい目をしていた。


 バルナードは深く頭を下げた。


「……失礼いたしました」


 レオンは首を横に振る。


「気持ちは分かります」


「だからこそ、止めるのが大切なのです」


 リーネが静かに言った。


「希望が見えた時ほど、身体は追いつかないものですから」


 クラウディアは小さく頷いた。


「次は……ありますか」


 その問いに、レオンはすぐ答えなかった。


 代わりにリーネを見る。

 エルザを見る。

 セリアを見る。


 セリアが頷く。


「今日の反応を分析してからだ。だが、現時点では次回を検討できる」


「……よかった」


 クラウディアは、初めて肩の力を抜いた。


 その笑顔は、昨日より少しだけ自然だった。


    ◇


 治療後の確認では、クラウディアに大きな異常は出なかった。


 軽い疲労。

 右手指先の温感。

 痛みはなし。

 発熱なし。


 レオン側の魔力消耗も、予想より少ない。


 ただし、エルザは慎重だった。


「次回、同じ方法で反応が安定するか確認する必要があります。右肩への接触は、まだ早いです」


「ええ」


 リーネも同意する。


「クラウディア様の心が焦り始める頃ですから、二回目の方が難しいかもしれません」


「一回目より?」


 レオンが聞くと、リーネは頷いた。


「はい。一度希望が見えると、人は次を求めます。今日はクラウディア様ご本人が踏みとどまりました。でも次は、もっと難しいかもしれません」


 ミラが小さく言った。


「分かる」


 その一言には重みがあった。


 セリアは腕を組んだ。


「次回も同じ条件で行う。右側への直接接触は禁止。治療時間も最大五分のまま。公爵家側にはそう伝える」


「はい」


 バルナードは今度は何も異論を挟まなかった。


 ただ、レオンへ深く礼をした。


「本日も、ありがとうございました」


「クラウディア様が約束を守ってくれたからです」


「……お嬢様は、お強くなられました」


 バルナードの声には、深い安堵があった。


 その時、クラウディアが椅子からこちらを見た。


「レオン様」


「はい」


「次も、私に最初に聞いてください」


「何を?」


「受けたいかどうか」


 彼女は涙の跡が残る顔で、しかし真っすぐに言った。


「私の身体のことだから」


 その言葉に、レオンは静かに頷いた。


「必ず聞きます」


「ありがとうございます」


 クラウディアは、少し笑った。


 その笑みはまだ弱い。


 けれど、昨日までの絶望だけのものではなかった。


    ◇


 王立治癒院を出る頃には、レオンはどっと疲れていた。


 魔力の消耗ではない。


 精神的な疲れだった。


 馬車に乗り込むと、ミラが隣にどさっと座った。


「疲れた?」


「ああ」


「私も」


「ミラは何もしてないだろ」


「したわよ。めちゃくちゃ緊張した。クラウディアが『もう少し』って言ったら、止める準備してたんだから」


「言わなかったな」


「うん」


 ミラは少しだけ笑った。


「あの子、偉かった」


「そうだな」


 リーネが向かい側で頷く。


「自分で止められたのは、とても大きいです」


 エルザも記録板を見ながら言った。


「本人同意と本人制御能力、良好。次回治療継続の条件を満たしています」


「その言い方は硬いけど、まあ良かったってことだな」


「はい。良かったです」


 エルザが素直に言ったので、レオンは少し驚いた。


「珍しいな」


「何がですか」


「エルザが普通に感想を言った」


「私にも感想はあります」


「そうだった」


 エルザは記録板で口元を隠した。


「……クラウディア様の指が動いた時、少し安心しました」


 ミラがにやっとする。


「エルザも素直になってきた?」


「記録拒否します」


「自分のことは記録しないんだ」


「不利なので」


「正直!」


 馬車の中に笑いが起きる。


 セリアはレオンの隣に座っていた。


 静かにこちらを見る。


「レオン」


「何だ?」


「今日はよく守った」


「守った?」


「手順をだ。約束をだ。クラウディア令嬢の意思をだ」


 セリアの声は穏やかだった。


「そして、自分自身も」


 レオンは返事に困った。


 褒められるのには、まだ慣れない。


「……セリアが見てたからな」


「私が?」


「止めてくれると思ったから、できた」


 セリアは一瞬、言葉を失った。


 その頬が少し赤くなる。


「そうか」


「ああ」


「なら、これからも見る」


 ミラが小さく呻いた。


「また二人の空気……」


「何か言ったか」


 セリアが聞く。


「言いました」


「正直だな」


「影響されました」


 リーネが笑い、エルザが「ミラ、正直化」と記録した。


「その記録、消して!」


「拒否します」


 いつもの騒がしさが戻ってきた。


 レオンは馬車の窓から、王立治癒院を振り返った。


 あの中で、クラウディアは今、自分の右手を見つめているだろう。


 指先に戻った温度を、何度も確かめているだろう。


 まだ槍は握れない。


 まだ歩き出したばかりだ。


 でも、確かに一歩進んだ。


    ◇


 同じ頃。


 王立治癒院の特別診療室で、クラウディアは右手の指を見つめていた。


 人差し指。

 中指。

 薬指。


 ほんの少しだけ動く。


 痛みはない。


 それが信じられなくて、何度も何度も小さく動かした。


「お嬢様、あまり動かされますと」


 侍女が心配そうに声をかける。


「分かっているわ」


 クラウディアは微笑んだ。


「でも、少しだけ。少しだけ確かめたいの」


 バルナードが静かに立っている。


 その目は赤かった。


「バルナード」


「はい」


「今日は、約束を守れたわ」


「はい。ご立派でした」


「違うの」


 クラウディアは首を横に振った。


「私、今まで治りたいばかりで、自分の身体のことなのに、自分で止まれなかった。誰かに何とかしてほしいって思っていた。でも今日、初めて自分でここまでって言えた」


 彼女は右手を胸元に寄せる。


「レオン様は、私に選ばせてくれた」


「……はい」


「次も、私が選ぶわ」


 声は細い。


 けれど、昨日より確かだった。


 クラウディアは横に立てかけられた槍を見た。


 まだ怖い。


 触れようとすれば、痛みの記憶が蘇る。


 だが、今日は目を逸らさなかった。


「いつか」


 クラウディアは小さく呟いた。


「もう一度、握るわ」


 槍は答えない。


 けれど、右手の指先にはまだ、レオンの魔力が残した温度があった。


    ◇


 その夜、エルンスト公爵邸には治療結果の報告が届いた。


 右手指先の可動反応あり。

 痛みなし。

 治療継続可能。


 公爵は報告書を読み、長く沈黙した。


 やがて、窓の外を見ながら低く呟く。


「本物だな」


 その声に、バルナードは何も答えなかった。


 公爵は机の上に置かれた返送済みの金貨袋を見た。


 白銀聖騎士団は黄金の鎖を拒んだ。

 レオンもまた、安易に縛られる男ではない。


 ならば、別の手を考える必要がある。


 だが今、父親としての感情がそれを上回っていた。


「クラウディアの指が動いたか」


「はい」


「……そうか」


 公爵は目を閉じた。


 その表情には、政治家の計算と、父の安堵が同時に浮かんでいた。


「ならば、あの青年を敵にしてはならんな」


 バルナードが静かに頭を下げる。


「その通りかと」


「だが、味方にする方法は考える」


 公爵は目を開いた。


「白銀聖騎士団ごと、な」


 夜の執務室に、その言葉が落ちた。


 レオンの初回治療は成功した。


 だがそれは、クラウディアに希望を与えただけではない。


 王国の貴族たちに、聖魔力源の価値をさらに知らしめる合図にもなった。


 役立たずと呼ばれた青年の手は、今や一人の令嬢の未来だけでなく、王国の権力者たちの視線までも動かし始めていた。

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