第14話『初回治療計画と、贈られた黄金の鎖』
王立治癒院での事前診断から戻ったその日の午後、白銀聖騎士団の会議室には、いつもより多い紙束が積まれていた。
診断記録。
魔力反応測定表。
クラウディア・エルンスト令嬢の治療履歴。
白銀聖騎士団側の立会い条件案。
王立治癒院の使用申請書。
そして、エルンスト公爵家から届いた追加文書。
レオンは長机の端に座り、紙束を見てため息をついた。
「……魔獣の群れより手強そうだな」
正面で資料を整理していたエルザが、無表情のまま頷いた。
「紙は斬っても減りませんから」
「名言みたいに言うな」
「実務上の真理です」
その隣で、ミラが椅子の背にもたれながら天井を見上げていた。
「私、書類仕事って嫌い。槍で突いたら終わる問題だけにしてほしい」
「ミラさん、世の中の問題はだいたい槍で突くと悪化しますよ」
リーネが柔らかく言う。
「だいたいってことは、少しは解決するの?」
「魔獣相手なら」
「ほら、やっぱり槍は正義」
「王宮文書には使わないでくださいね」
いつものやり取りに、会議室の空気が少しだけ緩む。
だが、セリアだけは硬い顔のままだった。
彼女はエルンスト公爵家から届いた封書を読み終えると、静かに机へ置いた。
「公爵家は、次回を正式な初回治療として扱いたいようだ」
その一言で、空気が引き締まる。
レオンは顔を上げた。
「事前診断じゃなくて?」
「そうだ。昨日の反応を見て、治療可能と判断したいのだろう。文面上は丁寧だが、焦りが見える」
ミラが眉をひそめる。
「そりゃ、指先が動いたら期待するのは分かるけどさ。いきなり踏み込みすぎじゃない?」
「同感です」
リーネが診断記録に視線を落とした。
「クラウディア様の右側魔力回路は、まだ触れるには危険です。昨日は左手から浅く流しただけ。それで指先に反応が出たのは確かに大きいですが、深部へ流せば痛みが戻る可能性があります」
エルザが補足する。
「むしろ昨日の反応が良かったからこそ、危険です。公爵家側は期待値を上げています。次回、劇的な改善を求められる可能性が高い」
「劇的な改善か……」
レオンは自分の手を見た。
昨日の感覚は、まだ残っている。
クラウディアの冷えた左手。
右側に固まった傷。
指先に少しだけ戻った温かさ。
そして、涙を浮かべながら「今日はここまでですね」と言った彼女の声。
助けたい。
その気持ちは、昨日より強くなっている。
けれど、その気持ちだけで進むと危ない。
それも分かる。
「レオン」
セリアの声で、意識が戻った。
「また一人で考え込んでいたな」
「顔に出てたか?」
「出ていた」
「魔力にも?」
「もちろん」
「本当に隠しごとできないな」
「隠さなくていい」
セリアはそう言った。
何気ない一言だった。
だが、その響きがやけに胸に残る。
隠さなくていい。
数日前まで、レオンは自分の力のことさえ、うまく言えなかった。
言ってもどうせ軽く扱われると思っていた。
それが今は、考え込んでいるだけで周りが気づいてくる。
面倒だと思うこともある。
けれど、悪くはなかった。
「じゃあ、隠さず言う」
レオンは机の上の診断記録を見た。
「クラウディア様は助けたい。でも、公爵家の期待に引っ張られるのは怖い。昨日の反応を見たら、次はもっとって言いたくなるのも分かる。でも、俺がそれに流されたら駄目なんだろ?」
「その通りだ」
セリアは即答した。
ミラも頷く。
「うん。レオン、そういうところで押されると弱そうだもん」
「分かりやすく言うな」
「でも事実でしょ」
「否定はしづらい」
リーネが優しく微笑んだ。
「だから治療計画を作ります。レオンさんの優しさに頼るのではなく、手順で守るんです」
「手順で守る……」
「はい。人の善意は、その場の空気に流されやすいです。でも、決めた手順は守る盾になります」
リーネらしい言葉だった。
柔らかいが、芯がある。
エルザが紙を一枚広げた。
「初回治療計画案です」
そこには、細かい項目が整然と並んでいた。
一、治療前にクラウディア本人へ説明し、同意を確認する。
二、初回治療は左手接触のみ。右肩、右腕、胸部付近への直接接触は禁止。
三、治療時間は三分から開始し、最大五分。
四、痛み、発熱、呼吸異常、魔力暴走反応が出た時点で即時中断。
五、レオン本人の魔力負荷を同時測定。
六、公爵家側からの治療延長要請はその場で受け付けない。
七、次回可否は白銀聖騎士団、王立治癒院、本人の三者確認後に決定。
「六番、かなり大事だな」
レオンが言うと、エルザは頷いた。
「最重要です。治療直後に『あと少しだけ』と言われる可能性が高いです」
ミラが腕を組んだ。
「絶対言うわよ。指先が動いたんだから、次は手首、次は肘、次は槍を握るところまでって、期待しちゃうもん」
その声は、どこか苦かった。
リーネがそっとミラを見る。
「ミラさん」
「分かってる。クラウディア本人が悪いって話じゃないよ」
ミラは少しだけ視線を落とした。
「でも私も、あの日レオンに肩を整えてもらった時、もっとやってほしいって思った。もうちょっとで完全に戻るかもって。だから、あの子は絶対そう思う」
「それを止められるか?」
セリアが聞く。
ミラは顔を上げた。
「止める。槍使い同士だから言えることもあると思う」
「頼む」
「うん」
その短いやり取りだけで、ミラの役割は決まった。
ただの護衛ではない。
ただの立会人でもない。
クラウディアの焦りを、一番近いところで理解できる者。
レオンは、ミラに向かって言った。
「ありがとう」
「またすぐそういうこと言う」
「駄目か?」
「駄目じゃないけど、心臓に悪い」
ミラがぷいっと顔を逸らす。
セリアがちらりとそちらを見る。
「ミラ」
「何ですか?」
「今のは、治療計画に必要な役割への礼だ。照れる場面ではない」
「団長に言われたくないです!」
「なぜだ」
「自覚ないんですか!?」
会議室に笑いが広がった。
レオンも笑った。
笑いながら、胸の奥の重さが少しだけ形を変えた。
自分一人で助けるわけではない。
全員で手順を作り、全員で止める。
全員で、進む。
それなら、向き合える気がした。
◇
治療計画案を正式文書にする作業は、思った以上に時間がかかった。
王立治癒院へ提出するもの。
エルンスト公爵家へ渡すもの。
白銀聖騎士団内部で保管するもの。
王宮への報告用。
同じような内容なのに、書き方が少しずつ違う。
レオンは途中で完全に追いつけなくなり、会議室の端で香草茶を飲む係になった。
「俺、役に立ってるか?」
ぽつりと言うと、近くにいたリーネが笑った。
「座っていてくださるだけで十分です」
「それ、役に立ってると言えるのか?」
「逃げずに座っているのは大切です」
「逃げる前提?」
「少しだけ」
穏やかな顔で刺してくる。
リーネは本当に侮れない。
ミラは文書の写しを読みながら、眉間に皺を寄せていた。
「ねえ、この『供給対象者』って表現、嫌じゃない?」
エルザが顔を上げる。
「事務用語です」
「分かるけど、クラウディアが物みたいに見える」
その一言に、レオンは少し驚いた。
エルザも、わずかに目を動かした。
「では『患者本人』に変更します」
「そっちの方がいい」
ミラは素直に頷いた。
セリアが静かに言った。
「よく気づいたな」
「……別に」
ミラは照れたように資料で顔を隠す。
「昨日、レオンが言ってたじゃない。本人の身体のことだって。だから、文書でもそうした方がいいかなって」
レオンは黙ってミラを見た。
ミラは視線に気づいて顔を赤くする。
「何よ」
「いや、いいなと思って」
「何が」
「ミラがそこに気づくところ」
「ほ、褒めるな!」
「褒めたら駄目なのか」
「駄目じゃないけど、急に来るから!」
ミラが資料でさらに顔を隠す。
セリアがレオンを横目で見る。
「お前は本当に、自然に褒めるな」
「褒めるところだったから」
「そういうところだ」
「どこだ?」
「……分からないならいい」
セリアまで少し顔を赤くした。
リーネがにこにこしている。
エルザは記録板へ手を伸ばしたが、セリアとミラの両方から視線を向けられて、静かに手を止めた。
「記録を自制しました」
「言った時点で自制できてない」
ミラが突っ込む。
また笑いが起きた。
その時、会議室の扉が叩かれた。
「団長、失礼します。エルンスト公爵家より、追加の荷が届いております」
事務官の声だった。
セリアの表情が変わる。
「荷?」
「はい。礼品とのことですが……かなり大きな箱が三つほど」
ミラが露骨に嫌そうな顔をした。
「うわ、来た」
レオンは首を傾げる。
「礼品って?」
「貴族の常套手段よ」
ミラが言う。
「先に高価なものを渡して、断りづらくするの」
セリアは静かに立ち上がった。
「開ける。全員立ち会え」
◇
中庭に運び込まれた箱は、確かに大きかった。
黒檀の箱。
金具は銀。
封にはエルンスト家の紋章。
中を開けると、まず出てきたのは上質な布地だった。
白銀聖騎士団の制服にも使えるほどの、軽く丈夫な魔法織布。
二箱目には、高価な魔力回復薬。
三箱目には、小さな金貨袋と、一通の手紙。
手紙を読んだセリアの顔が冷たくなる。
「何て?」
レオンが聞くと、セリアは手紙を渡した。
そこには丁寧な文字で、こう書かれていた。
昨日の診断への深い感謝。
白銀聖騎士団への敬意。
レオンの負担を軽くするための支援物資。
今後の治療にかかる費用は公爵家がすべて負担するという申し出。
一見、礼儀正しい。
だが、読み進めるほど妙な重さがあった。
「……これ、受け取ったらまずいのか?」
レオンが聞くと、セリアは即答した。
「全部は受け取らない」
「全部は?」
「治療に必要な薬品や備品として妥当なものは、王立治癒院経由なら受け取れる。だが金貨袋は返す。布地も過剰だ」
「でも、レオンの制服に使えるんじゃない?」
ミラが布地を触りながら言った。
「手触りは最高だけど」
「だからこそ返す」
セリアはきっぱり言った。
「これでレオンの服を作れば、公爵家から贈られた装いを身につけることになる。外から見れば、エルンスト家の庇護を受けたように見える」
「うわ、面倒くさい」
「貴族社会とはそういうものだ」
リーネが頷く。
「善意の贈り物でも、意味を持ちますからね」
エルザが金貨袋を見ながら言う。
「金貨袋の額は相当です。治療費としては多すぎる。実質的な拘束金と見られてもおかしくありません」
「黄金の鎖、というやつだな」
セリアが低く言った。
その言葉が、中庭に落ちた。
黄金の鎖。
きらびやかで、美しくて、善意の形をしている。
だが、受け取れば少しずつ動けなくなる。
レオンは箱の中の布地を見た。
美しい布だった。
金貨も、薬も、確かに役には立つ。
だが、セリアたちが警戒する理由も分かる。
「返そう」
レオンは言った。
セリアがこちらを見る。
「いいのか」
「いい。治療に必要なものなら、ちゃんとした形で受け取ればいい。でも、俺を縛るために見えるものは要らない」
「そうか」
セリアの表情が少しだけ和らいだ。
「いい判断だ」
「セリアたちが教えてくれたからな」
「……そうか」
セリアは視線を逸らした。
耳が赤い。
ミラが当然のように口を開く。
「団長、今ちょっと嬉しそう」
「ミラ」
「はい、分かってます。でも今日は言う価値ありました」
「またそれか」
リーネは笑いながらも、贈り物の仕分けを始めた。
「薬品類は一度王立治癒院へ回しましょう。正式な治療備品として管理してもらうのが安全です」
「布地と金貨は返送」
エルザが記録する。
「返送理由は『過分な礼品は治療の中立性を損なうため』でよいでしょう」
「それでいい」
セリアが頷いた。
ミラは布地を名残惜しそうに見ていた。
「でもこれ、本当にいい布なんだけどな」
「未練があるのか?」
レオンが聞くと、ミラはふいっと顔を逸らした。
「レオンに似合いそうだっただけ」
「え?」
「何でもない!」
レオンが聞き返すより早く、ミラは布地から手を離した。
リーネが口元を押さえて笑う。
エルザが記録しようとして、ミラに睨まれて止めた。
セリアだけは、ほんの少し複雑そうに布地を見ていた。
「セリア?」
「何だ」
「どうかした?」
「いや」
セリアは短く答える。
「お前の服は、白銀聖騎士団で用意する」
「そこに戻るのか」
「当然だ」
ミラが小声で言う。
「団長、対抗心?」
「違う」
「まだ何も言い切ってません」
「分かる」
「団長もだいぶ先読みして否定するようになったわね」
そのやり取りに、レオンは笑った。
贈り物が持ち込んだ重い空気は、少しずつ薄れていった。
だが、忘れてはいけない。
これが公爵家のやり方だ。
いきなり奪いに来るのではない。
感謝と支援の形で近づいてくる。
そして、受け取った分だけ、断りづらくなる。
黄金の鎖。
その言葉を、レオンは胸の中で繰り返した。
◇
その日の夕方、返送文書は完成した。
高価な布地と金貨は辞退。
魔力回復薬は治療備品として王立治癒院に寄託する場合のみ受領。
今後の費用については、治療計画ごとに明細を作成し、白銀聖騎士団、王立治癒院、公爵家の三者で確認する。
完全に実務の文書だった。
エルンスト公爵家が読めば、不快に思うかもしれない。
だが、セリアは迷わなかった。
「これでいい」
彼女は署名を入れた。
レオンも、確認者として名前を書くことになった。
慣れない字で、少し不格好だった。
それを見たミラが覗き込む。
「レオン、字、意外と素朴ね」
「下手って言ってるか?」
「味があるって言ってるの」
「それ下手な時の言い方だろ」
リーネが微笑んだ。
「でも、読みやすいですよ」
「慰めが優しい」
エルザが真面目に言う。
「署名としては問題ありません。今後、外部文書に署名する機会が増えるため、練習を推奨します」
「またやることが増えた」
「王国最重要人物ですから」
「それ、まだ慣れない」
「慣れてください」
「皆、簡単に言うな」
そんな会話をしていると、事務官が新たな封書を持ってきた。
「団長。王立治癒院より、明日の初回治療枠が正式確定しました」
「時間は?」
「午前十刻。場所は昨日と同じ中立診療室です」
セリアは頷いた。
「同行者は予定通り、私、ミラ、リーネ、エルザ。レオンは朝一で魔力状態確認を行う」
「はい」
レオンは答えた。
いよいよ明日、初回治療。
事前診断ではない。
実際に治療として、クラウディアの魔力回路へ触れる。
手順は決まっている。
条件も整えた。
それでも緊張は消えない。
「レオン」
セリアが呼ぶ。
「何だ?」
「今日は早く休め」
「またそれか」
「何度でも言う」
「隣室から監視する?」
「必要なら」
「冗談だったんだけど」
「私は本気だ」
セリアの声があまりに真面目で、レオンは少し笑ってしまった。
ミラがすかさず言う。
「団長、本当に距離が近い」
「警護上必要だ」
「もう誰も驚かなくなってきましたね」
リーネがにこやかに言う。
エルザが頷く。
「団長の過保護は通常運転として記録更新中です」
「更新するな」
セリアが低く言う。
だが、会議室には穏やかな笑いが広がった。
◇
夜。
レオンは自室で、明日の手順をもう一度確認していた。
初回治療は左手接触のみ。
浅い魔力循環。
三分から五分。
右側へ直接流さない。
痛みがあれば即中断。
延長しない。
何度も読んだ。
それでも、落ち着かない。
机の上には、リーネが置いていった香草茶。
ミラが「緊張したら握れ」と言って置いていった小さな訓練用槍の飾り。
エルザが渡してきた測定手順表。
そして、セリアが最後に置いていった短いメモ。
『一人で背負うな』
たったそれだけ。
でも、セリアらしい。
レオンはそのメモを見て、小さく笑った。
その時、扉が叩かれた。
「起きているか」
セリアの声だった。
「起きてる」
扉が開く。
セリアは軽装のまま、廊下の明かりを背に立っていた。
「眠れないのか?」
「少し」
「私もだ」
セリアは短く言った。
そして、少し迷ってから部屋に入る。
「明日のことを考えていた」
「クラウディア様の?」
「ああ。そして、お前のことも」
「俺?」
「お前は明日、きっと彼女の涙を見る」
セリアは静かに言った。
「その時、心が揺れる」
「……たぶん」
「揺れていい。だが、流されるな」
レオンは黙って頷いた。
セリアは机の上の手順表を見る。
「手順は、冷たく見えるかもしれない」
「そうかな」
「苦しむ相手を前にして、三分で止める。もっとと言われても断る。それは、時に残酷に見える」
「でも、必要なんだろ」
「ああ」
「なら、守る」
レオンは言った。
「俺一人だと揺れるかもしれない。でも、セリアが止めてくれるなら守れる」
セリアの目が少しだけ揺れた。
「私を信じすぎではないか」
「信じてるからな」
「……そういうことを、簡単に言うな」
「簡単じゃない」
レオンはセリアを見た。
「この数日で、ちゃんと信じる理由ができた」
部屋が静かになる。
セリアはしばらく何も言わなかった。
やがて、視線を逸らして小さく言う。
「……なら、私も応えなければな」
「もう十分応えてくれてる」
「まだだ」
セリアの声は静かだが、強かった。
「明日も、その次も、お前が自分の力を嫌いにならないように守る」
その言葉は、レオンの胸に深く沈んだ。
自分の力を嫌いにならないように。
レオンは、少しだけ息を止めた。
魔力譲渡を役立たずと呼ばれていた頃、彼は自分の力を好きではなかった。
誰にも認められず、役に立っている実感もなく、ただ消耗しているだけの力だと思っていた。
今は違う。
でも、これからもし誰かに求められすぎれば、また嫌いになるかもしれない。
セリアは、それを見ている。
「ありがとう」
レオンは静かに言った。
「明日、よろしく頼む」
「ああ」
セリアは頷いた。
そして、部屋を出る直前に振り返る。
「レオン」
「何だ?」
「明日の朝、私が起こしに来る」
「そこまでしなくても起きる」
「念のためだ」
「また必要?」
「必要だ」
セリアは真顔だった。
だが、耳が赤い。
レオンは笑った。
「分かった。待ってる」
「待つな。寝ろ」
「はいはい」
「はいは一回でいい」
そんなやり取りをして、セリアは部屋を出ていった。
壁一枚向こうに、彼女の気配が戻る。
レオンは手順表を閉じ、灯りを落とした。
明日、クラウディアの初回治療が始まる。
彼女の希望。
公爵家の焦り。
王国の思惑。
白銀聖騎士団の条件。
そのすべてが、レオンの手のひらに集まろうとしている。
けれど、もう一人ではない。
◇
同じ頃、エルンスト公爵邸では、返送された布地と金貨を前に、公爵が静かに目を細めていた。
「受け取らなかったか」
怒りではない。
むしろ、面白がるような声だった。
バルナードは深く頭を下げる。
「白銀聖騎士団は、治療の中立性を損なうとして辞退しました。薬品類については王立治癒院への寄託なら受け入れるとのことです」
「隙がないな」
「セリア団長らしい対応かと」
「そして、レオン・アルヴァス本人も同意したのだろう」
「そのようです」
公爵は金貨袋を指で軽く弾いた。
澄んだ音が、執務室に響く。
「黄金の鎖は嫌いか。ますます面白い」
「閣下」
「分かっている。無理に縛れば逃げる。ならば、縛らずに必要とさせる方がよい」
バルナードは何も言わなかった。
公爵は窓の外を見る。
「明日の治療で、クラウディアにさらなる改善が見られれば、王宮も神殿も黙ってはいまい」
「はい」
「だが、まずは娘だ」
その声だけは、父親のものだった。
「クラウディアがもう一度槍を握れるなら、私は悪役でも何でも構わん」
夜の執務室に、その言葉が落ちた。
誰もが誰かを思っている。
だが、その思いが必ずしも同じ方向を向くとは限らない。
翌朝、レオンの初回治療は、王国中の思惑が静かに見守る中で始まろうとしていた。




