第12話『槍を握れなくなった公爵令嬢と、白銀騎士団の条件』
翌朝、白銀聖騎士団の詰所には、いつもより早く朝日が差し込んでいた。
――ような気がした。
実際には、朝日が特別早かったわけではない。
ただ、レオンが普段より早く目を覚ましただけだ。
窓の外では、まだ訓練場に人影は少ない。
中庭の石畳には夜露が残り、馬房の方から馬の鼻を鳴らす音が聞こえてくる。
机の上には、昨日受け取ったエルンスト公爵家の診療記録の写し。
そして、その隣にはエルザがまとめた分析資料。
題名はこうだ。
『クラウディア・エルンスト令嬢に対する聖魔力源適用可能性について』
「……題名が重い」
レオンは椅子に座ったまま、ぼそりと呟いた。
元冒険者の自室に置く資料名ではない。
もっとこう、依頼書とか、討伐地図とか、薬草の買い物メモとか。
そういうものならまだ分かる。
だが、今机にあるのは公爵令嬢の極秘診療記録だ。
数日前まで「役立たず」と呼ばれて酒場で追放された男の朝としては、あまりにも話が大きすぎた。
壁の向こうから、かすかに物音がした。
隣室はセリアの私室だ。
最初は壁一枚の距離に緊張したものだが、一晩経つと不思議と慣れる。
いや、慣れたというより、安心する。
廊下の見回りの足音。
隣室にいるセリアの気配。
どこかで誰かが起きていると分かるだけで、胸の奥のざわつきが少し静まった。
「レオン」
壁越しではなく、今度は扉の向こうから声がした。
「起きているか」
「起きてる」
「入ってもいいか」
「ああ」
扉が開く。
そこに立っていたのは、軽装のセリアだった。
白いシャツに濃紺の上着。
腰にはいつもの剣。
鎧ではないが、彼女が立つだけで部屋の空気がきちんと整う。
レオンは思わず目を止めた。
「……何だ」
セリアが眉を寄せる。
「いや、朝から団長って感じだなと思って」
「それは褒めているのか?」
「褒めてる」
「なら、受け取っておく」
セリアはそう言ったものの、少しだけ視線を逸らした。
耳が赤い。
最近、レオンはそれを見分けられるようになってきた。
「診療記録を読んでいたのか」
「ああ。分からないところも多いけど」
レオンは机の資料を指さした。
「クラウディア令嬢、かなり悪いんだな」
「そうだな」
セリアの表情が少し硬くなる。
「公爵家の圧力とは別に、本人の状態は本物だ。エルザとリーネもそう見ている」
「槍を握れないって、ミラにはきつい話だったみたいだ」
「ミラは槍に誇りを持っている。だからこそ、他人事ではないのだろう」
セリアは資料に目を落とした。
その横顔は、昨夜よりも少し険しい。
「レオン」
「何だ?」
「今日、エルンスト公爵家へ正式な返答を出す。内容は、こちらが提示した条件を満たすなら、事前診断のみ受ける、だ」
「治療じゃなくて、診断?」
「ああ。まずはお前が触れていい相手かどうかを確認する。相手の魔力状態、お前への負荷、周辺の安全。すべて見た上で判断する」
「分かった」
「そして、診断場所は王立治癒院の中立診療室にする。公爵邸ではない」
「そこまで決まったのか」
「昨夜、リーネが手配した」
レオンは思わず苦笑した。
「リーネさん、仕事が早いな」
「穏やかな顔で逃げ道を塞ぐのが得意だからな」
「セリアもそう思ってたのか」
「白銀聖騎士団では常識だ」
その時、廊下から柔らかな声がした。
「お二人とも、聞こえていますよ」
セリアの肩がぴくりと跳ねた。
扉の隙間から、リーネがにこやかに顔を出す。
「朝から私の話ですか?」
「ちょうど、リーネは頼りになるという話をしていた」
セリアが真顔で言う。
リーネは微笑んだまま首を傾げた。
「その前に、逃げ道を塞ぐとか聞こえた気がしましたが」
「空耳だ」
「そういうことにしておきます」
怖い。
笑顔が怖い。
レオンがそう思っていると、リーネの後ろからミラも顔を出した。
「おはよ。……って、朝から団長がレオンの部屋にいる」
「隣室だから確認に来ただけだ」
「はいはい、確認確認」
「ミラ」
「まだ何も言ってません」
「言い方で言っている」
さらに、その後ろからエルザが無表情で現れた。
「記録。朝の時点で団長がレオンさんの私室に入室。滞在時間――」
「記録するな」
「では削除します」
「本当に削除しろ」
「努力します」
「それは削除しないやつだ」
朝からいつもの騒がしさだった。
レオンは資料を閉じ、立ち上がる。
「で、今日はどう動くんだ?」
リーネが手に持っていた紙を広げた。
「午前中に王立治癒院から使用許可の返事が来る予定です。許可が下りれば、午後にクラウディア様側へ条件を正式通達。受け入れられれば、明日か明後日に事前診断となります」
「意外と早いな」
「公爵家は早く動きたいでしょうから」
エルザが続ける。
「こちらも先延ばししすぎると、別方面から圧力をかけられる可能性があります。条件をこちら主導で固めるなら、早い方が有利です」
「政治っぽい話になってきたな」
「政治です」
エルザは即答した。
「レオンさんの魔力は、すでに戦力であり医療資源であり外交材料です」
「言い方が重い」
「軽く言うなら、大人気です」
「急に雑だな」
ミラが腕を組んで言った。
「でも、そこは本当に気をつけた方がいいわよ。公爵令嬢を一回助けたら、次は伯爵家、その次は侯爵家、その次は神殿の聖女候補、って絶対なるんだから」
「やっぱりそうなるか」
「なるわよ。人って、自分が苦しい時は順番なんか守らないもの」
ミラの声には、いつもの軽さがなかった。
彼女もまた、自分の右肩を一度失いかけた。
だからこそ分かるのだろう。
力を取り戻したい人間の必死さが。
「だから、順番を決める人が必要なんです」
リーネが穏やかに言った。
「レオンさんが全部背負わないように、私たちが間に入ります」
「間に入るというか、完全に囲まれてる気もするけど」
「守っているんです」
リーネはにこりと笑った。
「逃がしません、という意味ではありませんよ?」
「今、自分で言ったな」
「気のせいです」
セリアが小さく咳払いした。
「とにかく、今日の午前は通常通り訓練と治療枠を行う。午後、王立治癒院から返答が来次第、正式文書を作る」
「俺は?」
「午前は魔力状態の確認だ。昨日、ミラに深く流した分の反動がないか見る」
「俺は特に疲れてないけど」
「自覚が当てにならない」
セリアはきっぱり言った。
「お前は、誰かの痛みが見えると自分の限界を後ろへずらす」
「そこまでしてるか?」
四人が同時に黙った。
「……またその沈黙か」
ミラがため息をつく。
「してるのよ。たぶん本人が一番気づいてないけど」
リーネも頷く。
「昨日も、クラウディア様の記録を見た時点で顔が変わっていました」
「顔?」
「助けられるかもしれない、という顔です」
エルザが記録板を開く。
「分類するなら、自己犠牲予備反応」
「嫌な分類名だな」
「正確です」
セリアがレオンを見る。
「だから、今日は私たちが見る」
「分かった」
「本当に分かったか?」
「多分」
「多分では困る」
いつもの言葉。
レオンは笑った。
セリアも、少しだけ表情を緩めた。
◇
午前の訓練場では、普段よりも慎重な魔力検査が行われた。
レオンの前には、三つの結晶。
白銀、金、緑。
セリア、ミラ、リーネの魔力反応を見るためのものだ。
エルザが測定杖を構え、リーネが治癒記録を取り、ミラは槍を抱えて見守っている。
そしてセリアは、レオンのすぐ隣に立っていた。
「……近くないか?」
レオンが小声で言うと、セリアは平然と答えた。
「魔力変化を即時確認するためだ」
「そうか」
「そうだ」
「本当に?」
「今日は本当だ」
「今日は、なのか」
ミラが遠くから叫ぶ。
「団長、今の言い方、墓穴!」
「ミラ、集中しろ」
「集中してるから聞こえるんです!」
団員たちが少し笑った。
レオンは結晶へ手をかざし、ゆっくり魔力を流す。
白銀の結晶が淡く光る。
次に金。
そして緑。
どれも昨日より安定していた。
エルザが小さく頷く。
「異常な消耗は見られません。むしろ、昨日より総魔力量が増えています」
「増えてるのか?」
「はい。レオンさんは、魔力を渡すことで減るというより、共鳴によって源泉が刺激される傾向があります」
「便利すぎて逆に怖いな」
「便利な力ほど怖いものです」
エルザの言葉は淡々としていた。
だからこそ、軽く聞き流せなかった。
リーネがレオンの手首へ指を添える。
「脈も安定しています。身体的な疲労は少なそうですね」
その指先は冷たくはない。
だが、触れられた瞬間、後ろからミラの視線が飛んできた。
「ミラ」
レオンは振り返る。
「何よ」
「今のは医療行為だぞ」
「分かってるわよ!」
「先に言っておこうと思って」
「私を何だと思ってるの!」
リーネがくすくす笑う。
「ミラさん、最近ずっと見張り役みたいですね」
「誰かが見張らないと、団長もリーネもエルザも自然に距離詰めるじゃない!」
「私は記録のために必要な距離を取っています」
エルザが言う。
「私は治癒のためです」
リーネも言う。
「私は警護のためだ」
セリアも言う。
ミラが両手を広げた。
「ほら! 全員、必要って言う!」
訓練場に笑いが広がる。
レオンも笑いながら、手元の結晶を見る。
光は穏やかだった。
自分の魔力が、誰かの傷を癒やす。
その事実に慣れ始めている。
だが同時に、慣れすぎてはいけないとも思う。
人の傷に触れるということは、ただ便利な回復作業ではない。
相手の痛みや、失ったものや、諦めきれない願いに触れることでもある。
クラウディア・エルンスト。
槍を握れなくなった公爵令嬢。
彼女に会った時、自分はどう感じるのだろう。
「レオン」
セリアの声がした。
「何だ?」
「また、遠い顔をしている」
「そんな顔してたか?」
「していた」
セリアは静かに言った。
「今ここで考えても、答えは出ない。まずは会って、診て、それからだ」
「そうだな」
「その時も、私たちがいる」
「分かってる」
「本当に?」
「今度は分かってる」
セリアは少しだけ満足そうに頷いた。
その横で、ミラがぼそっと言う。
「こういう時だけ素直なのよね」
「聞こえているぞ」
「聞こえるように言いました」
訓練場にまた笑いが起きた。
◇
昼前、王立治癒院から返答が届いた。
中立診療室の使用許可。
立会人は白銀聖騎士団側から最大四名。
公爵家側から最大三名。
王立治癒院所属医師二名。
魔導院から観察官一名。
「観察官一名って、絶対イザベラさんだよな」
レオンが言うと、エルザは頷いた。
「ほぼ確実です」
ミラが露骨に嫌そうな顔をする。
「あの人、また目を光らせて記録するんでしょ」
「記録は重要です」
「エルザが言うと説得力あるけど、何か違う」
リーネは書類を確認しながら言った。
「条件としては悪くありません。公爵家側の人数も制限されていますし、治癒院の医師が立ち会うなら安全性も上がります」
「では、この条件で返答する」
セリアが言う。
事務官がすぐに文面を整え始める。
レオンはその様子を見ながら、ふと疑問を口にした。
「公爵令嬢本人は、この話を知ってるのかな」
部屋の空気が少し止まった。
ミラが眉を寄せる。
「……どういうこと?」
「いや、公爵家や家令は助けたいって言ってる。でも本人が望んでるかどうかは、まだ聞いてないだろ」
セリアの目がわずかに細くなる。
リーネも真剣な顔になった。
「大切な確認ですね」
「だって、魔力回路に触れるなら本人の意思が一番必要だと思う」
「その通りだ」
セリアは即座に頷いた。
「条件に追加する。診断前に、クラウディア令嬢本人の同意確認を必須とする」
エルザが記録板へ書き込む。
「重要項目。本人同意。これは見落としてはいけませんでした」
「エルザでも見落とすのか?」
「公爵家側からの要請という形式に引っ張られました。レオンさんの指摘は正しいです」
リーネが柔らかく微笑んだ。
「やっぱり、レオンさんは相手を人として見ますね」
「普通じゃないのか?」
「普通ですが、立場や肩書きが大きくなると忘れられがちです」
ミラが腕を組む。
「公爵令嬢って聞くと、それだけで話がでかくなるもんね。でも本人は、槍を握れなくて苦しんでる一人の人ってことか」
「そういうことだと思う」
ミラは少しだけ黙った。
それから、小さく言う。
「……私、会ったら変に突っかからないようにする」
「突っかかる予定だったのか?」
「公爵令嬢って聞くと、ちょっと構えるじゃない」
「正直だな」
「うるさい」
ミラは顔を逸らした。
だが、その横顔はいつもより優しかった。
セリアは事務官へ指示を出した。
「本人同意の確認。治療ではなく事前診断であること。白銀聖騎士団側の判断で中断可能であること。この三点を明記しろ」
「承知しました」
事務官が筆を走らせる。
その音を聞きながら、レオンは胸の奥の緊張が少しだけ形を変えるのを感じた。
怖さはある。
だが、自分たちの条件で進められるなら、向き合える。
◇
午後、エルンスト公爵家から返答が来た。
早すぎる。
誰もがそう思った。
そして内容は、こちらの条件をほぼ全面的に受け入れるというものだった。
診断場所は王立治癒院。
本人同意確認も可。
白銀聖騎士団の立会いも認める。
ただし、一つだけ追記があった。
『クラウディア本人の体調悪化につき、可能であれば明日午前の診断を希望する』
会議室に、重い沈黙が落ちた。
「急いでいるな」
セリアが言う。
リーネは診療記録を再確認していた。
「体調悪化が本当なら、長く待たせるのは危険かもしれません」
「罠の可能性は?」
ミラが聞く。
エルザは冷静に答えた。
「場所が王立治癒院で、人数制限あり。強引な拘束の可能性は低いです。ただし、情に訴える圧力は高まるでしょう」
「情に訴える圧力……」
レオンはその言葉を繰り返した。
苦しむ本人を見れば、助けたいと思う。
それはたぶん避けられない。
だが、それを利用されることもある。
難しい。
人を助けることが、こんなに難しいとは思わなかった。
「レオン」
セリアが呼ぶ。
「お前の意思を確認する。明日、事前診断を受けるか」
全員の視線が集まった。
レオンはすぐには答えなかった。
窓の外では、訓練場で団員たちが槍の型を繰り返している。
その中に、ミラと同じように槍を振るう少女騎士がいる。
槍を握れなくなる。
戦う者にとって、それがどれほど辛いことなのか。
レオンには完全には分からない。
でも、少しは想像できる。
「受ける」
レオンは言った。
セリアは表情を変えずに頷いた。
「理由は?」
「本人が望むなら、診たい。助けると決めるのは、その後でもいい。でも会いもしないで断るのは、違う気がする」
「分かった」
「反対しないのか?」
「しない。お前が考えて出した答えだ」
セリアは静かに言った。
「ただし、条件は守る。危険と判断すれば、私が止める」
「頼む」
「ああ」
ミラが大きく息を吐いた。
「じゃあ、私も行く。槍術系の損傷なら、絶対必要でしょ」
「もちろんです」
リーネが頷く。
「私も治癒担当として行きます」
エルザが続ける。
「私は記録と魔力解析を担当します」
セリアは当然のように言った。
「私は護衛兼責任者として同行する」
レオンは四人を見た。
「全員で来るのか」
「当たり前でしょ」
ミラが言う。
「レオン一人で行かせるわけないじゃない」
リーネが微笑む。
「皆で行けば、少しは安心でしょう?」
エルザが記録板を閉じる。
「白銀聖騎士団標準護衛体制です」
セリアが最後に言った。
「お前は一人ではない」
その言葉だけで、胸の奥の緊張が少し緩んだ。
「……ありがとう」
レオンが言うと、ミラがすぐ赤くなる。
「別に、何回も言わなくていいし」
「言いたかったから」
「そういうところ!」
リーネが笑い、エルザが記録し、セリアがほんの少しだけ口元を緩める。
大きな話が動き始めている。
公爵家。
王立治癒院。
槍を握れなくなった令嬢。
それでも、この部屋の空気は、まだ白銀聖騎士団のものだった。
◇
その夜。
レオンは明日の準備を終え、自室で資料を読み返していた。
クラウディア・エルンスト。
十八歳。
聖槍術の才に恵まれ、十五歳で王国聖槍隊候補に選ばれた。
二年前の北方魔獣討伐で右胸部から右腕にかけて魔力回路を損傷。
以後、槍を握ると激痛。
魔力を練るだけで発熱と呼吸困難。
文字だけでも、痛みが伝わってくるようだった。
「また読んでいるのか」
扉からセリアの声。
レオンが顔を上げると、彼女は茶の入った小さなポットを持っていた。
「リーネからだ。眠る前に飲めと」
「リーネさん、俺を子ども扱いしてないか?」
「大切に扱っているだけだ」
「それならいいか」
セリアは机の上にポットを置いた。
そのまま帰るかと思ったが、少し迷うように立ち止まる。
「座るか?」
レオンが聞くと、セリアは小さく頷いた。
「ああ」
向かいの椅子に座る。
夜の部屋に、香草茶の湯気が上がった。
「明日が不安か」
セリアが聞く。
「不安だな」
「正直でいい」
「セリアは?」
「不安だ」
これも即答だった。
レオンは少し笑う。
「最近、セリアも正直になってきたな」
「お前には隠しにくいからな」
「魔力に出る?」
「それだけではない」
セリアは視線を茶の湯気に落とした。
「お前には、言っても大丈夫だと思うようになった」
静かな声だった。
レオンは返事に詰まる。
胸の奥が温かくなる。
だが、そこへ踏み込みすぎるのは少し怖い。
「それは……光栄だな」
「茶化したか?」
「照れた」
「そうか」
セリアも少しだけ頬を赤くする。
それから、ゆっくり言った。
「明日、クラウディア令嬢を見て、お前はきっと助けたいと思う」
「たぶん」
「その時、お前が自分を削りすぎないように、私が止める」
「ああ」
「止められても、私を嫌うな」
意外な言葉だった。
レオンはセリアを見る。
セリアは真剣だった。
「私は、お前が望むことを止めなければならない時がある。お前を守るために。相手を守るために。白銀聖騎士団を守るために」
「嫌わないよ」
「簡単に言うな」
「簡単じゃない。でも、セリアが止める時は、ちゃんと理由があると思う」
セリアは黙った。
手元のカップに視線を落とす。
「……信頼されるのは、怖いな」
「そうなのか?」
「裏切れないからな」
「なら、お互い様だ」
レオンはカップを手に取った。
「俺も、皆に信頼されるのは怖い。でも、それ以上に嬉しい」
「そうか」
「ああ」
短い会話。
けれど、不思議と十分だった。
しばらく二人で茶を飲んだ。
壁一枚の隣室よりも近い距離。
だが、今はそれが自然だった。
やがてセリアが立ち上がる。
「早く休め。明日は長い」
「分かった」
「何かあれば呼べ」
「隣だしな」
「そうだ」
セリアは扉へ向かった。
しかし出る直前、振り返る。
「レオン」
「何だ?」
「明日も、私のそばにいろ」
その言葉に、レオンは少しだけ笑った。
「それ、俺が言われる側なんだな」
「警護対象だからな」
「分かった。そばにいる」
セリアは一瞬だけ目を伏せた。
それから、小さく頷く。
「おやすみ」
「おやすみ、セリア」
扉が閉まる。
レオンはしばらく、その扉を見つめていた。
明日、彼は公爵令嬢と会う。
槍を握れなくなった少女。
彼女を助けられるかもしれない力。
そして、その力を求める公爵家の思惑。
すべてが簡単ではない。
けれど、もう一人ではない。
レオンは机の上の診療記録を閉じ、灯りを落とした。
◇
同じ夜。
王立治癒院の特別病室で、一人の少女が窓の外を見ていた。
長い銀金の髪。
細い肩。
白い寝衣から覗く右腕には、薄い包帯が巻かれている。
ベッドの横には、一本の槍が立てかけられていた。
飾りではない。
かつて彼女が振るっていた聖槍。
だが、今の彼女の手は、その柄に触れることさえできない。
「聖魔力源……」
クラウディア・エルンストは、かすれた声で呟いた。
その瞳には、期待よりも怯えがあった。
「本当に、そんな人がいるの……?」
返事はない。
彼女は震える左手を伸ばし、槍の柄に触れようとした。
だが、触れる寸前で指が止まる。
恐怖。
痛みの記憶。
握ればまた、身体の奥が焼ける。
そう思うだけで、呼吸が浅くなる。
クラウディアは手を引っ込め、膝の上で握りしめた。
「もし治らなかったら……」
小さな声が夜に溶ける。
「もし、また期待して、駄目だったら……」
窓の外では、王都の灯りが揺れていた。
明日、彼女はレオン・アルヴァスと会う。
役立たずと追放され、今は王国の秘宝級スキルと呼ばれる青年。
その出会いが、彼女の止まった時間を動かすのか。
それとも、もう一度絶望を突きつけるのか。
まだ誰にも分からなかった。




