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第22話 聖女が名前にこだわる理由を聞いたら、俺の核が少し重くなった

夜の倉庫は、静かだった。


いや、静かすぎた。


二十七号の核が、ときどき赤く鳴る。


かすかに。


壁に映る赤い光が、薄く揺れる。


それ以外は、ほとんど音がない。


騎士たちは交代で見張りに立っている。


アルダは術式対策の準備に走っている。


バルグは倉庫の外で防衛配置をしている。


防衛配置という名の通行妨害だ。


ただ、今夜だけは文句を言いにくい。


でかい影が扉の外にあると、赤い光が少しだけ遠く見える。


腹立たしいことに、安心感がある。


ドルムは倉庫の隅に座っている。


座っている、というより、小さく待機している。


ただ、前より少しだけ違う。


医療鞄を、自分の横に置いている。


誰かに持てと言われたわけではない。


置けと言われたわけでもない。


自分で持って、自分で置いた。


それだけのことが、最近やけに目につく。


目につくな。


俺の観察力は、もっと仕事を避ける方向に使われるべきだ。


「ガルムさん」


リリアが倉庫の入口に立っていた。


白い外套は脱いでいる。


代わりに、薄い肩掛けを羽織っていた。


顔色は、昼よりはましだ。


まし、というだけで、良いわけではない。


「寝ろ」


俺は言った。


「まだ見張りの時間ではない」


「ガルムさんも、休んでいません」


「俺は石だ。休んだふりができる」


「ふりだけですか」


「ふりだけでも労働者には重要だ」


リリアは少しだけ笑った。


だが、倉庫の奥を見た瞬間、その笑いは消えた。


二十七号の核が、赤く小さく鳴る。


縄は動いていない。


外殻も動いていない。


それでも、赤い光だけが生き物みたいに壁をなぞる。


ゼルギオはいない。


いないのに、まだ触っている。


それが一番気味が悪い。


「浄化はするなよ」


俺は先に言った。


リリアは二十七号のそばまで歩き、そこで止まった。


「しません」


「今のは本当か」


「はい」


「……ならいい」


言ってから、俺は少しだけ困った。


疑う言葉を続ける癖が出そうになった。


やめておく。


同じ型を使いすぎると、リリアが慣れる。


慣れられると困る。


リリアは二十七号の胸のあたりを見ていた。


「赤い命令が、まだ残っています」


「見れば分かる」


「見えない人もいます」


「見えなくても、嫌な感じはする」


リリアはうなずいた。


「はい」


それから、少し黙った。


沈黙が倉庫に落ちる。


二十七号の核が、赤と青の間で揺れる。


ドルムの核も、それにつられるように小さく揺れた。


「ガルムさん」


「なんだ」


「昨日、私が変な顔をしたの、気づきましたか」


「どれだ」


「たくさんありましたか」


「選択肢が多い」


リリアは困ったように笑った。


今度は、少しだけ本当に笑えていた。


「二十七号さんの腕が、騎士の方に向いた時です」


「ああ」


俺は短く答えた。


あの時。


リリアの目が、ここではないどこかを見た。


雨。


血。


倒れる鎧。


誰かが、リリアの前に立っていた影。


俺はそれを見た。


見たが、聞かなかった。


聞くには、まだ早いと思った。


今も早いのかもしれない。


だが、リリアの方から来た。


こういう時、逃げ道は少ない。


「昔、同じことがありました」


リリアは言った。


声は静かだった。


「私が、まだ聖女と呼ばれ始めたばかりの頃です」


聖女。


リリアはその言葉を、少しだけ遠く置くように言った。


自分の名前ではないものを、机の端に置くみたいに。


雨の音がしていた。


リリアの声に混じって、俺の頭の中にもその景色が浮かぶ。


泥の上で、白い外套が重くなっている。


赤い命令術式に縛られた旧式ゴーレム。


震える白い手。


その前に立つ、鎧の背中。


「下がってください、聖女様」


リリアは、小さくその言葉をなぞった。


「セイルさんという騎士でした」


名前が出た。


セイル。


初めて聞く名前だった。


「いつも、そう呼ばれていました。聖女様。無理をしないでください、聖女様。あなたが倒れたら、皆が困ります、聖女様」


リリアは少しだけ目を伏せた。


「優しい人でした」


俺は黙っていた。


「でも、最後まで、私のことを名前では呼びませんでした」


その言葉は、思ったより静かに落ちた。


怒りではない。


恨みでもない。


ただ、ずっと持っていた小さな石を、ようやく床に置いたような声だった。


「私は浄化すれば助けられると思っていました。光を当てれば、赤い命令は消えると」


雨の中。


リリアが手を伸ばす。


けれど、その手は途中で止まる。


命令術式の痛みが流れ込んで、膝が泥に沈む。


旧式ゴーレムの腕が上がる。


その腕の前に、セイルという騎士が出る。


「セイルさんは、私を庇って死にました」


倉庫の空気が重くなる。


ドルムの核が、かすかに揺れた。


バルグの影も、扉の外で動かない。


「その旧式ゴーレムも、助けられませんでした」


リリアの声は震えていなかった。


震えないように、している声だった。


「第19話の、名もなき一体とは違うのか」


俺は言った。


呼べる場所が残っていなかった核。


リリアはゆっくり首を振った。


「少し違います」


「違うのか」


「はい。あの時の旧式には、自我がまだあったと思います。私は届く前に止まってしまった。間に合わなかったんです」


間に合わなかった。


その言葉で、リリアの手が少し強く袖を握った。


「昨日の名もなき一体は、もう呼べる場所がほとんどありませんでした。届かなかった。でも、あの時は……届くかもしれなかった」


「だから、自分のせいだと思ってるのか」


リリアは答えなかった。


答えないのが答えだった。


俺は、二十七号を見た。


赤と青の間で揺れる核。


抵抗痕。


まだ呼べる場所が残っている核。


ゼルギオの赤い糸が、そこに絡んでいる。


「面倒だな」


俺は言った。


リリアが顔を上げる。


「え?」


「過去というやつは、報告書より厄介だ。燃やしても消えない」


リリアは瞬きをした。


「燃やすつもりだったんですか」


「報告書ならな」


「過去は?」


「燃やすと、たぶん煙がひどい」


リリアは少しだけ笑った。


本当に少しだけ。


それでも、笑った。


「ガルムさんらしいです」


「今のは褒めているのか」


「はい」


「なら、その辺に置いておけ。あとで拾うか考える」


「拾ってください」


「善処する」


「便利な返事ですね」


「便利な返事ほど逃げやすい」


リリアは、今度は黙ったまま笑った。


それから、二十七号の核を見た。


「私は、名前で呼びたいんです」


「二十七号をか」


「二十七号さんだけではありません」


リリアは自分の胸に手を当てた。


「私も、です」


俺はリリアを見た。


「私は、ずっと聖女様でした。教会でも、砦でも、戦場でも。大事にされました。守られました。感謝もされました」


「いいことじゃないのか」


「はい。いいことです」


リリアはすぐにうなずいた。


「だから、苦しいと言いにくかったんです」


その言葉は、静かだった。


かなり静かだった。


「聖女様と呼ばれると、私は倒れてはいけない人になります。失敗してはいけない人になります。助けられて当然で、助けるのも当然の人になります」


リリアの指が、二十七号の縄に触れそうになって、止まった。


触れない。


ちゃんと止まった。


「でも、ガルムさんは最初から私をリリアと呼びました」


「呼んだな」


「なぜですか」


「なぜって」


俺は考えた。


深い理由はない。


本当にない。


聖女様と呼ぶのが面倒だったからかもしれない。


様をつけると距離ができるからかもしれない。


いや、そんな綺麗な理由ではない。


たぶん、単純だ。


「お前はリリアだろ」


リリアがこちらを見た。


「聖女でもあるかもしれないが、俺に浄化をかけた時、そこにいたのはリリアだった」


「……はい」


「肩書きで呼ぶと、あとで契約書が増えそうだった」


「そこも理由ですか」


「重要だ」


リリアは小さく笑った。


目の端に、少しだけ光があった。


涙かどうかは分からない。


分からないものとして扱う。


俺は石なので、そういう水分の分類が苦手だ。


「だから、番号だけで呼ばれている旧式を見ると、放っておけないのだと思います」


「名前をつけたいのか」


「いいえ」


リリアは首を振った。


「名前を勝手につけたいわけではありません」


少しだけ間が空く。


二十七号の核が、赤く弱く鳴った。


「名前を、探したいんです」


リリアは言った。


「番号の奥に誰かがいるかもしれないなら、番号だけで終わらせたくないんです」


それは、前より少しだけ違う言い方だった。


二十七号に名前を与える話ではない。


二十七号の奥に、誰かがまだいるかもしれないという話。


それを確かめる話。


面倒だ。


本当に面倒だ。


だが、少しだけ分かる。


分かるのが腹立たしい。


「勝手に背負うな」


俺は言った。


リリアがこちらを見る。


「全部を背負う必要はない。セイルとかいう騎士も、たぶんそう言う」


リリアの顔が止まった。


「知った風なことを言った。今のは撤回したい」


「撤回しないでください」


「扱いが難しい」


「そのまま置いておいてください」


リリアは目を伏せた。


「セイルさんも、そう言いました」


「何を」


「全部を背負わなくていい、と」


倉庫の奥で、二十七号の核が青く一度だけ揺れた。


今夜、初めて赤より青が強く見えた。


誰も、すぐには喋らなかった。


ドルムが、医療鞄の横で二十七号を見ていた。


小さな手が、ほんの少しだけ二十七号の方へ向く。


それだけだった。


「探す、か」


俺は言った。


「名前をつけるんじゃなくて、探す」


「はい」


「余計に手間がかかるな」


「そうですね」


「そこは否定しろ」


リリアは笑った。


今度は、ちゃんと笑った。


二十七号の赤い光が、少しだけ弱まる。


完全に消えたわけではない。


ゼルギオの再接続術式は、まだ残っている。


だが、リリアが泣き出さずに話し終えた。


ドルムが何も言わず、二十七号の方へ手を向けた。


俺は名前を勝手につけるなと言わなかった。


かなりの異常事態だ。


「リリア」


「はい」


「今日はもう寝ろ」


「はい」


今度は素直だった。


変に疑うのはやめておく。


さっきまで、十分重い話をした。


ここで俺が余計なことを言うと、また荷物が増える。


リリアは入口へ向かう。


その途中で、一度だけ二十七号を振り返った。


「おやすみなさい、二十七号さん」


番号で呼んだ。


だが、さっきまでと少し違った。


番号の後ろに、さんがついている。


名前ではない。


でも、部品でもない。


俺はその違いを、聞き流せなかった。


リリアが倉庫を出る。


外のバルグが少しだけ体をずらした。


通れるように。


本当に少しだけだが、ちゃんとずらした。


ドルムは医療鞄の横に戻る。


二十七号の核は、赤と青の間で揺れている。


リリアが倉庫を出たあと、二十七号の核が一度だけ青くまたたいた。


俺は、入口に立ったまま動かなかった。


扉を閉めれば、少しは休める。


閉めなければ、赤い光が見える。


俺は結局、扉を半分だけ開けておいた。


休憩室としては失格だ。


だが、見張り場所としては、たぶんそれでよかった。


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