第20話 壊さず連れて帰ろうとしたら、聖女の手がまた震えた
谷から二十七号を運び出すかどうか。
答えは、まだ宙に浮いたままだった。
だから俺は、その問いを足元に転がしたまま動かないことにした。
そうしたところで、二十七号は目の前で止まっている。
赤と青の間で揺れる核を抱えたまま。
選ばないという選択肢は、現場ではだいたい役に立たない。
「撤収するぞ」
アルダが低く言った。
谷の奥では、中央装置が赤く鈍く光っている。
さっきより少し強い。
光るだけで急かしてくるな。
急かされると、労働になる。
「撤収は賛成だ」
俺は二十七号の腕を押さえたまま言った。
「ただし、問題がある」
「分かっている」
アルダは二十七号を見た。
「旧式二十七号をどうするか、だな」
リリアの顔が、少しだけ痛そうに動いた。
二十七号。
番号だ。
名前ではない。
だが、谷に置かれた残骸よりは近い。
近くなってしまう。
それが困る。
「置いていけば、またあの装置に引っ張られる」
俺は言った。
「連れていけば、砦まで赤い命令を持ち帰ることになる」
「どちらも危険だ」
アルダが言う。
「そうだ。だから俺は帰って寝たい」
「今その選択肢はない」
「作れ」
「無理だ」
真面目に即答するな。
逃げ道が崖より少ない。
二十七号は動かない。
さっきリリアが浅くほどいたせいで、一時的に停止している。
胸の核は、青と赤の間で揺れていた。
青くなりきらない。
赤に戻りきらない。
中途半端な光だ。
見ていると、気分が悪くなる。
「バルグ」
俺は崖の上を見た。
「降りずに聞け」
「支援準備」
「降りるなと言っている」
「降下せず、支援」
「よし。お前にしては賢い」
「記録」
「そこは賢くなくていい」
バルグの声が、上から響く。
「搬送支援、可能。岩縄、使用推奨」
アルダが騎士に指示すると、太い縄が降ろされた。
普通の縄ではない。
魔獣用の拘束縄らしい。
太い。
重い。
見た目がすでに労働だ。
「これで二十七号を固定し、崖上へ引き上げる」
アルダが言った。
「拘束じゃないな」
「固定だ」
「ならいい」
いいわけではない。
だが、今はその言葉の差にすがるしかない。
リリアが二十七号に近づいた。
俺は腕を伸ばして止める。
「深くはやるな」
「分かっています」
「その返事を信じるには、俺は昨日からいろいろ見すぎた」
リリアは何も言わなかった。
代わりに、二十七号の核を見た。
「少しだけ、赤い命令を弱めます。搬送中に暴れないように」
「少しで止めろ」
「止めます」
言い方が強い。
こういう時のリリアは、止まらない。
止めても、たぶん別の方向から行く。
白い光が、二十七号の核に触れた。
今度は浅い。
表面だけ。
赤い術式の端を、そっとほどくような光。
それでも、リリアの返事が一拍遅れた。
白い光の端が、細く乱れる。
俺は見ていた。
見ない方が楽なのに、見ていた。
リリアの白い手が、赤い光に触れる。
赤い光の奥で、何かがざらりと動く。
二十七号の核が、かすかに鳴った。
声ではない。
言葉でもない。
だが、何かが拒んでいる。
命令を拒んでいるのか。
浄化を拒んでいるのか。
自分でも分からないまま、全部を拒んでいるのか。
二十七号の腕が、俺の押さえをすり抜けかけた。
狙いはリリアではない。
その後ろにいた若い騎士だ。
騎士が固まる。
リリアの顔色が変わった。
白い外套の奥で、指が止まる。
その目が、ここではないどこかを見た。
雨。
血。
倒れる鎧。
誰かが、自分の前に立っていた影。
一瞬だけだ。
だが、その一瞬で、リリアは前に出ようとした。
「出るな」
俺は二十七号の腕を受け止めた。
「今のお前が前に出るな」
リリアは息を飲んだ。
返事が遅れた。
遅れた理由は、聞かなかった。
聞くと、たぶんまだ早い話になる。
二十七号の腕が俺の肩を打つ。
重い。
痛くはない。
だが、気分は悪い。
「リリア」
「はい」
「お前は鍵だ。赤い命令をほどける」
リリアが俺を見る。
「鍵……」
「俺は壁でいい。殴られるのは慣れてる」
「でも」
「鍵が折れたら、扉どころじゃない。だから深く入るな」
リリアの手が、ほんの少し止まった。
「……はい」
「いい返事だが、信用はしない」
「そこは信用してください」
「実績を積め」
リリアは、ほんの少しだけ笑った。
笑ったが、顔色は悪い。
白い光がまた細くなる。
深く入らない。
奥を無理にこじ開けない。
赤い術式の表面だけを、最低限ほどく。
リリアの白い光が、さらに奥へ伸びかけた。
俺は二十七号の腕を押さえたまま言った。
「そこから先は駄目だ」
「でも、届きます」
「届くから駄目なんだ」
リリアの指が止まった。
届く。
届いてしまう。
だから、余計に危ない。
今のリリアは、届くところまで手を伸ばす。
それが分かるから、止めなければならない。
止める側になるのは、ひどく面倒だ。
二十七号の動きが弱まった。
完全ではない。
でも搬送できる程度には落ち着いた。
リリアが手を離した瞬間、膝が落ちかける。
ドルムが、医療鞄を置いた。
誰にも言われていない。
その手が、リリアの袖を支えた。
「ドルム」
俺が呼ぶと、ドルムは少しだけ核を揺らした。
「支える」
それだけだった。
リリアが目を見開く。
「ありがとうございます」
ドルムの核が小さく青くなる。
確認の言葉はなかった。
命令ではない、と言い直しもしなかった。
ただ、支えた。
それで十分だった。
むしろ十分すぎた。
処理に困る。
「リリア」
俺は言った。
「次に返事が遅れたら、言え」
「……はい」
「今、間があったな」
「ありました」
「認めるな」
「隠すよりはいいと思いました」
そういう成長はいらない。
だが、隠されるよりはましだ。
たぶん。
アルダが縄を二十七号にかける。
「固定する。外殻の割れ目を避けろ。核には触れるな」
騎士たちが動く。
二十七号の腕。
脚。
胴。
壊れた外殻を傷つけないように。
アルダの指示は的確だった。
騎士たちも、いつもの魔物討伐とは違う手つきになっている。
倒す相手ではなく、運ぶ相手。
それだけで現場の空気が変わる。
少しだけ。
「引き上げろ」
アルダの声で、崖上の騎士たちとバルグが縄を引く。
二十七号が少し浮く。
岩と装甲片が崩れる。
赤い光がまた脈打つ。
中央装置が反応している。
「急げ」
アルダが言った。
「急ぐと壊れる」
俺は二十七号の下に入る。
落ちた時の受け止め役だ。
なぜ俺が下なのか。
考えるまでもない。
一番硬いからだ。
「ガルムさん」
リリアが上を見ながら言った。
「下敷きにならないでください」
「保証はしない。重そうだからな」
二十七号が引き上げられていく。
その核が一瞬だけ、俺の方を向いた。
向いた気がした。
赤と青の間で揺れる光。
命令。
抵抗。
痛み。
何かがまだ残っている。
それだけは分かる。
「残ってるなら」
俺は小さく言った。
「勝手に消えるなよ」
誰にも聞こえないくらいの声だった。
聞こえないはずだった。
リリアがこちらを見た。
聞こえていたらしい。
聖女の耳は余計なところでいい。
「何も言っていない」
リリアは小さくうなずいた。
うなずくだけで済ませた。
それが一番、こちらには都合が悪かった。
二十七号が崖上へ引き上げられる。
バルグが受け止める。
今度は、力を入れすぎずに。
珍しくうまい。
「搬送、成功」
「まだ成功と言うな。砦まで帰ってからだ」
「成功、保留」
「保留はするのか」
「保留は安全」
「変な学習をしたな」
谷底に残った俺たちは、急いで崖を上がる準備をする。
その時、中央装置の奥で人影が動いた。
昨日見た、黒い外套だ。
胸元の部品飾りが、赤い光を受けて鈍く揺れる。
それだけで十分だった。
あいつは、二十七号を見ていた。
人を見る目ではない。
棚の在庫を数える目だ。
アルダが剣に手をかける。
リリアが息をのむ。
黒い外套の人物は、ゆっくりと杖を上げた。
中央装置の赤い光が、一度だけ強くなる。
残骸の山のいくつかが、かすかに動いた。
「撤収!」
アルダが叫ぶ。
その判断は早かった。
正しい。
ここで戦う場所ではない。
リリアはまだ消耗している。
ドルムは震えている。
二十七号は搬送中。
俺は硬い。
硬いが、全部は抱えられない。
「行くぞ」
俺はリリアとドルムの前に立つ。
「壁ですか」
リリアが言った。
「今は退路だ」
「はい」
「壁は勤務外だ」
リリアは少しだけ笑った。
その笑いが弱い。
俺は見なかったことにできなかった。
俺たちは崖を上がった。
背後で、赤い光がまた一度脈打つ。
黒い外套の人物は追ってこない。
ただ見ていた。
その視線が、一番気持ち悪かった。
崖の上に戻ると、二十七号は縄で固定されたまま横たえられていた。
バルグがそばに立っている。
ドルムがリリアの医療鞄を抱え直す。
リリアは二十七号の核を見ている。
アルダは退路を確認している。
俺は谷底を見下ろした。
名もなき一体の消えた場所。
二十七号が立ち上がった場所。
黒い外套がいた場所。
全部、同じ谷の中だ。
「帰るぞ」
アルダが言った。
今度は誰も反対しなかった。
二十七号を縛る縄が、荷台の上できしんだ。
拘束ではない。
固定だ。
そう言い聞かせるには、縄の音は少し重すぎた。
リリアはその音を聞いていないふりをしていた。
俺も、そうした。
できているかは知らない。




