第19話 旧式ゴーレムの廃棄場に来たら、番号だけが山ほど残っていた
谷は、遠くからでも嫌な場所だと分かった。
まず、風が悪い。
乾いている。
砂っぽい。
金属の匂いが混じっている。
それから、音が少ない。
鳥の声もない。
虫の声もない。
あるのは、谷底を抜ける風の音だけだ。
こういう場所は、だいたいろくでもないものを隠している。
隠しているくせに、捨てたものだけは残す。
魔王軍らしい。
「ガルム殿、あそこだ」
アルダが崖の上から谷底を指した。
騎士たちは岩陰に身を伏せている。
偵察隊だ。
正式には周辺確認だけ。
踏み込まない。
交戦しない。
救出作戦ではない。
そういう名目で来た。
名目というものは便利だ。
現実から目をそらすために使える。
ただし、現実の方が遠慮なく近づいてくる。
「……廃棄場、か」
俺は谷を見下ろした。
岩場の底に、黒い山がいくつもあった。
最初は岩かと思った。
違った。
腕だ。
脚だ。
割れた外殻。
欠けた肩。
砕かれた頭部。
古いゴーレムの残骸が、山のように積まれている。
旧式ゴーレムの廃棄場。
言葉として聞くのと、実際に見るのは違う。
かなり違う。
できれば一生、実際には見たくなかった。
「……ひどい」
リリアが小さく言った。
その声は、風に流されかけた。
医療鞄はドルムが持っている。
ドルムはリリアの少し後ろに立ち、鞄を両手で抱えていた。
誰にも命令されずに。
だが、核の光は弱く揺れている。
バルグは崖の少し後ろにいた。
目立ちすぎるからだ。
隠れているつもりらしいが、岩山が一つ増えたようにしか見えない。
「バルグ、もう少し低くなれ」
「低姿勢、実行中」
「膝をついているだけだ。山だぞ」
「地形、擬態」
「谷を見る前から谷を壊すな」
アルダが低く言った。
「魔王軍の見張りは少ない。谷の入口に二人、奥の小屋に三人。術式装置らしきものが、中央に一基」
「少ないのが逆に嫌だな」
「なぜだ」
「見張る価値がないと思っているか、見張らなくても逃げられないと思っているかのどちらかだ」
アルダは黙った。
黙るな。
俺の嫌な推測に沈黙で同意するな。
リリアが、谷底の残骸を見つめている。
その顔は静かだった。
静かすぎる。
「リリア」
「はい」
「見るな、とは言わない」
リリアがこちらを見る。
「ですが?」
「見すぎるな」
「……はい」
返事はした。
たぶん、守らない。
この聖女は、優しいくせに頑固だ。
名前のことになると、特に。
「旧式二十七号の反応は?」
アルダが小声で聞いた。
「分からん。俺に聞くな」
「ガルム殿は主機では」
「まだ認めていない」
バルグの胸が淡く光る。
「主機反応、否認継続」
「報告するな」
「報告ではない。状態共有」
「言い方を変えるな」
ドルムが、谷底を見たまま動かない。
「核……弱い……」
俺はドルムを見た。
「分かるのか」
ドルムの青い核光が小さく揺れる。
「弱い……多い……」
「補助機系統だからか」
アルダが言った。
「バルグ殿のような強い核光では拾いにくい、弱い反応を感じているのかもしれん」
「弱いものに弱い反応を拾わせるな」
「そういう意味ではない」
「分かってる。分かってるが、言いたくなった」
この谷の中には、まだ光っている核がある。
動けないだけで。
捨てられただけで。
完全には消えていない。
嫌な確認だった。
「降りるぞ」
アルダが言った。
「誰が」
「私たちだ」
「確認だけのはずだ」
「確認するには近づく必要がある」
「言葉の運用が強引だ」
「承知している」
承知してやるな。
俺は崖の道を見た。
岩肌を削った細い下り道。
騎士たちなら足場を選ぶ必要がある。
俺なら落ちてもたぶん壊れない。
問題は、落ちた後の地面の修理費だ。
俺たちは谷へ降りた。
近づくほど、匂いが強くなる。
錆。
油。
乾いた土。
古い魔力。
それから、命令術式の残り香。
赤い光は見えないのに、肌の表面を引っかかれるような感覚がある。
嫌な空気だ。
谷底に着いた時、ドルムの足が止まった。
医療鞄を抱えたまま、核の光が細く揺れる。
「命令……」
「違う」
俺は言った。
「今は命令じゃない」
ドルムは黙った。
「鞄を持つのも、歩くのも、お前が決めたことだろ」
ドルムの核が、少しだけ青く戻る。
「……持つ」
「そうだ。持っている」
「命令では……ない」
「いちいち確認するな。俺が変な顔になる」
リリアがこちらを見た。
「変な顔、ですか」
「石の表情に触れるな」
「はい」
笑うな。
いや、少しなら笑っていい。
谷底の残骸の山を抜ける。
一つ一つに、番号札がついていた。
錆びた鉄片。
赤い印。
黒い印。
白く削れた文字。
旧式十二号。
旧式十九号。
旧式三十一号。
俺は文字を読まないように歩いた。
だが、鉄札は風に揺れて、かすかに鳴る。
かち。
かち。
かち。
名前の代わりに、番号が鳴っているみたいだった。
「ガルムさん」
リリアの声がした。
俺は振り向いた。
リリアが、一つの残骸の前で立ち止まっている。
半分埋もれた肩部装甲。
そこに古い刻印があった。
第七城門の補給印。
俺は動きを止めた。
見覚えがある。
あった。
三百年のどこかで、隣に立っていた気がする。
同じ城門のどこか。
雨の日。
魔王軍兵が苛立って、古いゴーレムの肩を蹴っていた。
そいつは反応しなかった。
反応しないように命令されていたのかもしれない。
ある日、いなくなった。
俺は何も聞かなかった。
聞く理由がなかった。
名前も知らなかった。
今も知らない。
「ガルムさん?」
リリアの声が、少し遠く聞こえた。
俺は肩部装甲を見下ろした。
第七城門の印。
古いひび。
剥がれた外殻。
「……記録にない」
俺は言った。
記録にないなら、知らないことにできる。
そう思いたかった。
リリアは何も言わなかった。
アルダも黙っていた。
黙られると困る。
ツッコまれた方が楽な時もある。
「行くぞ」
俺は歩き出した。
足元の石が砕ける。
いや、石ではない。
古い装甲片だった。
俺は足を止めた。
少しだけ。
それから、もう一度歩いた。
奥へ進むほど、赤い術式の残りが濃くなる。
中央の装置が見えた。
朽ちかけた柱のような魔導装置。
周囲には細い術式杭がいくつも打ち込まれている。
昨日の杭と同じ系統だ。
ただ、今は完全には動いていない。
赤い光が、時々だけ脈を打つ。
「まだ生きているな」
アルダが言った。
「装置の話だと分かっていても、嫌な言い方だ」
「……すまない」
アルダの声は低かった。
いつもの進行役の声ではない。
この谷を見て、何も感じていないわけではなかったらしい。
そういうのは、少し困る。
俺だけが逃げているみたいになる。
その時、残骸の山の一つが動いた。
小さな音。
石がこすれる音。
リリアが息をのむ。
ドルムの核が揺れる。
残骸の隙間から、細い腕が出ていた。
旧式ゴーレム。
外殻はほとんど剥がれ、片腕はない。
胸の核は、灰色に近い青で、かろうじて光っている。
番号札は割れていた。
読めない。
「生きているのか」
アルダが低く言った。
「ゴーレムにその言い方が合うかは知らん」
俺は近づいた。
「だが、消えてはいない」
リリアも膝をつく。
「待ってください。浄化を」
「リリア」
俺は止めようとした。
止めきれなかった。
リリアの白い光が、旧式の核に触れる。
その瞬間、リリアの肩が強く震えた。
昨日の比ではない。
白い光が、核の表面で弾かれる。
弾かれたというより、届く場所がない。
そんな感じだった。
「……っ」
リリアが息を詰める。
俺は反射的に手を伸ばした。
今度は止めなかった。
石の手で、リリアの肩を支える。
軽い。
軽すぎる。
「何が来た」
俺は聞いた。
「痛み……だけです」
リリアの声はかすれていた。
「声が、ありません」
「声?」
「呼べる場所が……もう、ほとんど残っていません」
旧式の核が、弱く一度だけ光った。
赤い命令術式の跡が、黒く焼きついている。
自我の残響。
リリアが前に言っていたもの。
それが、ない。
ほとんど残っていない。
資源化された核。
使える部品だけを残され、呼ぶ相手がいなくなった核。
白い光は、行き場を失ったみたいにリリアの指先に残っていた。
核の光が消えた。
ただ暗くなっただけではない。
そこにあったはずの何かが、もう呼べない場所へ落ちた。
そんな感じがした。
谷底の風が吹いた。
誰も何も言わない。
番号も読めない。
名前も分からない。
たぶん、ずっと分からない。
リリアは俯いている。
肩が震えている。
泣いてはいない。
泣いていないから大丈夫、というわけではない。
それくらいは、さすがに俺にも分かる。
「リリア」
「はい」
「今のは、お前のせいじゃない」
リリアは返事をしなかった。
「聞け。お前のせいじゃない」
「……はい」
その返事は弱かった。
信じていない返事だ。
俺はそれ以上言えなかった。
慰める言葉が、どこにも引っかからない。
魔王軍にいた頃、そんなものは必要なかった。
必要なかったことにしていた。
ドルムが、医療鞄を持ったまま、消えた核を見ている。
青い核光が細く震えていた。
「命令……嫌」
「そうだな」
俺は言った。
「俺も嫌だ」
自分で言って、少し驚いた。
嫌だ。
そんな簡単な言葉で済むなら、どれだけ楽か。
だが、今はそれくらいしか出なかった。
そのまま、少しの間、誰も動かなかった。
風だけが谷底を抜けた。
錆びた番号札が、どこかで小さく鳴った。
かち。
それで終わりだった。
終わりにするしかなかった。
その時、奥の方で赤い光が跳ねた。
中央装置の近く。
積まれた残骸の山の陰。
そこから、一体の旧式ゴーレムが立ち上がった。
ほかの残骸より、少し大きい。
片脚が歪んでいる。
右腕は欠けている。
胸には、割れた外殻の奥で青と赤が混じった核が光っている。
首のあたりに、鉄の番号札が残っていた。
旧式二十七号。
リリアが息をのんだ。
俺も、たぶん少し遅れて同じことをした。
二十七号は、こちらを見た。
見た、と思った。
目はない。
だが、核の光がこちらを向いた。
「命令……」
二十七号の声は、ひどく古かった。
「排除……」
赤い光が強くなる。
ドルムが一歩下がる。
リリアは立ち上がろうとした。
俺は手で制した。
「今のお前に深く浄化はさせない」
「ガルムさん」
「立つな。まず俺が止める」
言い切ってしまった。
まずい。
こういう言い方は、後で自分に返ってくる。
俺は二十七号の前に出た。
番号で呼ぶな。
名前はまだない。
そう頭のどこかで誰かが言った。
知るか。
今は止めるのが先だ。
「旧式二十七号」
俺は言った。
リリアの顔が、少しだけ痛そうに歪んだ。
ドルムの核も、小さく沈んだ。
番号で呼ぶな。
そう言われた気がした。
だが、名前はまだない。
「前に出るな」
二十七号の核が赤く光る。
「命令……排除……」
歪んだ脚で、二十七号が踏み出す。
速くはない。
だが重い。
その拳が、俺の胸を叩いた。
衝撃が来る。
痛くはない。
だが、気分が悪い。
拳の奥から、命令術式の苦しさが伝わってくるようだった。
「……痛くはない」
俺は言った。
「だが、気分が悪い」
二十七号がもう一度腕を上げる。
俺は受け止めた。
壊さないように。
砕かないように。
それが思ったより難しい。
敵を壊す方が楽だ。
止める方がずっと面倒だ。
ドルムの核が、青く細く光った。
「抵抗……」
「分かるのか」
ドルムは医療鞄を抱えたまま、二十七号を見ている。
「命令……嫌……でも……残る」
それだけだった。
だが、二十七号の核が一瞬だけ青く揺れた。
さっきの核には、呼べる場所がなかった。
だが二十七号の核には、赤い命令の奥で、何かが引っかかっている。
抵抗痕。
報告書のその言葉が、今さら嫌な形で意味を持った。
「リリア」
「はい」
「浅くでいい。赤いのだけほどけるか」
リリアは、消えた核の方を一度見た。
それから二十七号を見た。
顔色は悪い。
でも、目は逃げていない。
「やります」
「深くは入るな。さっきみたいなのは、もう受けるな」
「分かっています」
「その分かっていますは、かなり怪しい」
リリアは返事をしなかった。
返事をしない時の方が怪しい。
リリアが二十七号の横へ回る。
ドルムが、医療鞄を抱えたまま動いた。
リリアの後ろへ。
誰にも命令されていない。
崖の上から、バルグが低く声を出した。
「支援、降下準備」
「降りるな!」
俺は叫んだ。
「谷が終わる!」
「待機」
「よし!」
二十七号の腕がまた動く。
俺は受け止める。
リリアの白い光が、二十七号の核に触れた。
赤い光が暴れる。
リリアの指が震える。
だが、今度は完全には弾かれない。
何かが残っている。
呼べる場所が、まだ少しだけある。
二十七号の核が、赤と青の間で揺れた。
「命令……」
「二十七号さん」
リリアが呼んだ。
「聞こえますか」
二十七号の動きが、ほんの一瞬だけ止まる。
ほんの一瞬。
だが、止まった。
「今だ」
俺は二十七号の腕を押さえ込む。
壊さない。
倒さない。
ただ、止める。
こんな力の使い方、魔王軍では教わっていない。
リリアの白い光が強くなる。
赤い術式が、少しだけほどける。
二十七号の核が青く揺れた。
そして、動きが止まった。
完全に救えたわけではない。
ただの一時停止。
それでも、拳は下がった。
リリアが膝をつきかける。
ドルムが、鞄を置き、リリアの袖を支えた。
自分で。
俺はそれを見て、何も言わなかった。
言うと何かが増える。
感情とか。
余計なものが。
二十七号は沈黙している。
胸の核は、青と赤の間でかすかに揺れていた。
谷の奥で、中央装置が鈍く赤く光った。
今の騒ぎに反応したのか。
それとも、誰かが見ているのか。
アルダが剣に手を置いた。
「長居は危険だ」
「最初から危険だ」
俺は二十七号を見た。
まだ消えていない核。
まだ呼べる場所が残っている核。
そして、さっき消えた名もなき一体。
呼べなかった核。
二つが、同じ谷にある。
最悪だ。
本当に、最悪だ。
「撤収するぞ」
アルダが言う。
俺は頷きかけて、止まった。
二十七号をここに置いていくのか。
連れていくのか。
連れていけるのか。
壊さずに。
命令術式を引きずったまま。
リリアはまだ二十七号を見ている。
ドルムはその横で、医療鞄を抱え直している。
崖の上では、バルグが降りずに待っている。
珍しく、役に立っている。
二十七号は動かない。
赤と青の間で、核だけがかすかに揺れている。
置いていけば、また命令に引っ張られる。
連れていけば、面倒が増える。
どちらも嫌だった。
俺は、嫌な方を二つ並べて見比べた。
たいていの場合、俺の足はそのうち面倒な方へ動く。
だから今回は、足元を見ないことにした。




