9 泣いて、怒って、それから
――その日、寺子屋では、少しばかり手に余る「悲しみ」が顔を出していた。
水絵が本堂を出て、声の方に行くと、焔魔堂の前にるいがいた。
るいは、両手でミケの前足をつかまえている。
「なんで、ミケは平気なの? クロは死んじゃったんだよ? 悲しくないの? 自分の子どもが死んじゃったのに、なんとも思わないなんて、ひどいよ。ミケは、おっかさんなのに! クロがかわいそうじゃない!」
ミケは逃げ出したくて、シャーシャー騒いでいるが、るいは動じない。
やめさせようと水絵がるいに近づこうとした時、後ろから肩を引いて止める者があった。――鏡之介だ。
「言いたいことは、全部吐き出させた方がいい」
「でも……」
「まあ、しばらく見ていろ」
るいはそれからも、散々ミケを怒鳴りつけていたが、ふっと黙り、それから前足を掴んでいた手を離した。
ミケはほうほうの体で逃げていき、るいはしゃがみ込んで泣き始めた。
慰めに行くべきか、黙って見守るべきか……水絵が悩んでいると、鏡之介が言った。
「さすが、るいだ。水絵の言うとおり、優しい」
「え?」
あんなに怒鳴りつけていたのに? と思ったら、鏡之介は淋しげな顔で言った。
「散々説教はしていたが、ぶったり蹴ったりはしなかった。自分より弱い者には手を上げねえ」
るいはしばらく泣いていたが、やがて立ち上がり袂で涙を拭うと、そのまま、走り去った。水絵は、黙って見守るのが正しかったのだと悟った。
鏡之介を見上げると、るいの後ろ姿を見送りながら、小さく唇をかんでいる。
その表情を見て、水絵は腑に落ちた。
「もしかして、鏡之介さんが猫又の話なんかしたのは、クロが長くないって気付いていたからですか?」
尋ねると、鏡之介の顔がわずかに赤くなった。そして、
「さあな」
と言うと、くるりと背を向け、本堂に向かう。
……そういうことか、と水絵は思った。
兄弟の中でクロは一番小さかった。乳を十分にもらえずにいたのに、乳離れ前にミケの乳が出なくなってしまった。
子猫をもらいに来た人たちが、クロを見るとやめてしまったのも、長生きできないと思ったからだろう。
寺子の誰かが引き取れば、早晩悲しむ事態になる。だから、クロは寺で育てるのが一番いい……そんな風に考えたのだろう。
そんなことを考えていたら、本堂に向かっていた鏡之介が振り返った。
「何をぼんやりしている。片付けがまだだ」
「はあい」
駆け寄って、追いついた鏡之介に言った。
「だとしても、山猫の話は余計だったと思いますけどね」
「うるせぇ」
鏡之介は水絵の頭を小突く……真似だけして、そのまま本堂に向かった。
次の日からるいは、少しだけ明るい顔で寺子屋に来るようになった。以前のはねっ返りのるいが戻ってきたわけではないが、千代や新吉と遊んでいる時は、笑顔も見せるようになったので、水絵はほっとした。
とはいえ、ミケに対してのわだかまりが消えたわけではない。
ミケは手習い中でも本堂をうろつくことがあるが、寺子たちがミケをかまっていても、そっちを見ようともしない。この前のように怒鳴りつけることこそしないが、時々睨みつけている姿も見かけた。
それでも、きっと時がるいを癒やしてくれる――水絵はそんなふうに考えていたのだが。
クロの葬儀から五日ほど過ぎた頃、るいは寺子屋を休んだ。
「朝、お腹が痛いって言って……」
礼次はそう言ったが、水絵はなにか嫌な予感がするのを止められなかった。
そして――。
水絵の嫌な予感は当たった。
その日から、るいは寺子屋を休み続けることになる。
礼次は毎朝、「お腹が痛い」「頭が痛い」「風邪気味だ」などと言ってきたが、それが言い訳に過ぎないことを、礼次自身も知っている顔つきだった。
るいの休みが十日を超えた時、ついに鏡之介が、礼次に、
「手習いが終わった後、ちょっと残ってくれ。話がある」
と言った。礼次は、覚悟を決めたように、
「はい」
と答えた。
寺子が全員帰った後、鏡之介は前置きなしに礼次に訊いた。
「るいに何があった?」
礼次はうつむいて、首を横に振った。
「分からないんだ。毎朝、お腹が痛いとか、頭が痛いとか言って、布団から出てこない。おっかさんが心配して、お医者様に見せたけど、どこも悪くないって」
水絵は、ふっと息を吐いた。
「悪い病じゃなくて、よかったわ」
「心配かけて、ごめんなさい」
礼次が頭を下げる。
「礼次が謝ることじゃねえよ。るいは、ちゃんと飯は食ってるのか?」
鏡之介が尋ねると、礼次は辛そうな顔をした。
「ちょっとしか食べない。おっかさんはるいの好物を色々作ってるけど、全然食べないから、おっかさんまで病人みたいな顔してる」
礼次の目から、涙がぽとりと落ちた。
水絵はなにを言っていいか分からず、ただ礼次の肩を抱きしめた。
それが合図になったように、礼次は泣きながら訴える。
「おれ、どうしていいかわかんない。おとっつぁんは、はじめのうちは『怠け病だ』って、るいを叱ってたけど、今じゃ、一日中黙りこくって、不機嫌で。この前なんか、お客さんと喧嘩しそうになって。ねえ、おれ、どうしたらいい?」
訊かれても、水絵にもどうしていいか分からない。すがるように、鏡之介を見てしまう。
鏡之介は、珍しく深刻な顔で何か考えていた。
「るいは、家でどうしている? 朝は布団から出ないようだが、昼間は?」
「一日中、自分の布団にもぐってる。夜は、おっかさんの布団に潜り込んでいるみたいだけど」
ようやく泣きやんだ礼次は、水絵の差し出した手ぬぐいで顔を拭った。
「クロが死んじゃったからかなぁ……」
と、礼次がつぶやいた。思い当たることは、それくらいしかないのだろう。
「いや、クロじゃねえな。クロの葬式のすぐ後は、ちゃんと寺子屋にも来て、千代たちと遊んでたんだ。何か、ほかに変わったことはないか?」
鏡之介に問われて、礼次が「そういえば……」と、顔を上げた。
「るいは、とにかく猫が好きで、うちにいる三匹もかわいがっていたんだ。けど、今はさわりもしない。猫の鳴き声を聞いただけで、なんかびくびくしてる」
「なるほど……」
頷いた鏡之介を、礼次は期待を込めた目で見上げた。
「何か、分かったの?」
「絶対そうだとは言いきれねえが……おそらく、猫又の仕業だ」
時間が経てば、たいていのことは少しずつ薄れていく。
けれど中には、うまく消えてくれないものもある。
理由が分かっていれば、それでもどうにかなるのかもしれない。
だが、もしそれが――
見えない何かのせいだとしたら。
さて、どうしたものだろうか。




