8 クロのいた日々
別れは、ある日ふいにやってくる。
それがどんなに小さな命であっても、胸の中に残るものは、決して小さくはない。
泣くことも、怒ることも、どれもみな、その子なりのかたちなのだと思う。
――これは、ひとつの小さな「さよなら」の話。
翌日――。
寺子屋に朝一番にやってきたのは、るいだった。走ってきたのか、息を切らしている。
「み、水絵……姉ちゃん……」
息を切らしながら、それでも、その表情は明るい。
「……あのね、あのね……クロ……」
「るい……そんなに……慌てるな」
るいの後を追ってきた礼次も、息を切らしている。
「……だって、早く知らせたくて」
ようやく息が整ってきたるいが、満面の笑みを浮かべて言う。
「おとっつぁんとおっかさんが、クロ、飼ってもいいって!」
「本当に?」
水絵が礼次を見ると、礼次が頷いた。
「昨夜、るいがどうしても飼いたいって、猫の世話は全部自分がするし、家の手伝いもちゃんとするって約束したから」
「兄ちゃんも手伝ってくれるって、おとっつぁんたちに言ってくれたの。そしたら」
声を聞きつけて、鏡之介も奥から姿を見せた。
「おはようございます」
礼次が頭を下げ、猫に夢中のるいにも頭を下げさせる。
「おはよう。親御さんは、引き取ってもいいと言ってくれたんだな?」
「……るいは言い出したらきかないから」
ちょっと困り顔の礼次は、それでも優しい目でるいを見ている。たぶん、昨夜はるいと両親の間に入って、色々大変だったのだろう。
「今日、帰りに連れて帰るから」
「じゃあ、後で祐光先生にもそう言っておくね」
などと話しているうちに、るいは本堂をよろよろと歩いているクロを見つける。
「クロー!!」
るいは本堂に駆け上がり、クロを抱き上げる。
「るい! 下駄!」
礼次が声を掛けたが、るいの耳には入らない。仕方なく、るいが脱ぎ散らかした下駄を片付けている礼次に、鏡之介が声を掛けた。
「兄貴も大変だな」
「特にるいは、はねっ返りだから」
そう言いながらも、るいのそばに行き一緒にクロを撫でている礼次は、やっぱり優しいと思う。
ふたりを鏡之介も優しい目で見ていたが、その表情にどこか陰りがあるようにも感じられた。
それが何なのか……水絵が考えて始めた時、ほかの寺子たちが次々とやってきて、結局、答えにはたどり着けなかった。
その日の夕方。
クロは、るいに抱かれて寺を去って行った。
寺子たちは皆、クロの行き先が決まってほっとした様子だった。クロのことを思ってほっとした子と、猫又がいなくなって安心した子と、半々だったようだが……。
るいの姿が見えなくなると、鏡之介が言った。
「気の強い娘だと思っていたが、存外優しい所があるんだな」
「あら、るいちゃんは、優しいですよ。だって、るいちゃんが突っかかるのは、いつも年上の強い子なんです。年下の子や、おとなしい子には優しいし、突っかかるのも、弱い者虐めを見過ごせないからなんですよ」
すると、鏡之介はくすっと笑った。
「似たもの同士ってわけか」
水絵はちょっと考えて、そうとも言えるなと思ったので言った。
「確かに、礼次とるいちゃんは似てるかもしれませんね。優しいところは同じだし、礼次は喧嘩はしないけど、正しいと思ったことは曲げない強さがありますから」
鏡之介は苦笑し、「礼次のことを言ったんじゃないんだが」と、つぶやいたが、朱入れを始めた水絵の耳には、届かなかった。
眞性寺のしだれ桜がすっかり葉桜となった、ある雨の日――。
この日、一番先に姿を現したのは礼次だった。
「おはよう」
と声を掛けて、礼次の様子がおかしいことに水絵は気づいた。
礼次は風呂敷に包んだ小さな箱を抱えていたが、水絵の声に顔を上げる。
「水絵先生……」
その目は、泣きはらしたのか真っ赤だった。
「……なにがあったの?」
礼次が答えるより先に、
「それは……クロか?」
と、背後から問う鏡之介の声がした。
礼次がこくりと頷く。
事態を察した水絵は、少し震える声で尋ねた。
「るいちゃんは……大丈夫?」
「家で……泣いてる。クロのこと、なかなか離さなかったんだけど、供養してもらわなきゃって……」
ついに堪えきれなくなったのか、礼次の目からも涙があふれる。
鏡之介に目で促され、水絵は礼次の背中に手を当てた。
「祐光先生に、お願いしに行きましょう」
話を聞いた祐光師は、風呂敷包みをそっと撫でた。
「そうですか。残念ですが……礼次やるいにかわいがられて、クロは幸せだったと思いますよ」
再び涙をあふれさせた礼次に、祐光師は穏やかに言った。
「クロは預かります。お葬式は明日にしましょう」
言われた意味が分からず、顔を上げた礼次に、祐光師はきっぱりと言った。
「るいに伝えてください。クロのお葬式だから、明日は必ず来るようにと」
クロのことは、寺子たちの胸に影を落とし、その日一日、寺子屋は沈んだ空気に包まれた。
鏡之介も水絵も寺子に無理はさせず、簡単な手習いなどでその日を過ごした。
翌日。
泣きはらした目をしたるいが、礼次に付き添われて寺子屋に姿を現した。
祐光師のはからいで、この日は手習いはなし、お葬式のみの一日となった。
寺子たちは、鰹節や煮干し、摘んできた花や一膳飯などをクロに供えてやった。
るいは「これお気に入りだったよね」と、紙玉。礼次は狗尾草。
新吉は小茄子を入れて、千代は折り鶴を供えた。そして、遠慮がちにるいに差し出したのは、千代紙で折った猫……。それを見て、るいはまた泣いたけれど、千代に、
「ありがとう」
と言って、大事そうに懐にしまった。
水絵は、七宝のあまり布で作ったお守り袋を入れたが、鏡之介が細い木の枝を一本入れたのを見て、首をかしげた。
なんだろう? と思っていると、
「木天蓼の木だ」
という答えが返ってきた。
埋葬が終わり、小さな卒塔婆も立てられた後、祐光師は礼次とるいに位牌を渡した。そこには「蓮華猫」という戒名が書かれている。
「クロは蓮の花の上で、仏様にかわいがられていますよ」
ふたりは、位牌を大事そうに抱いて帰った。
そして、葬儀の翌日――。
るいが寺子屋に来るかどうか水絵は心配したが、それは杞憂だった。
まだ、浮かない顔をしていたが、それでも、ちゃんと手習いをし、裁縫にも精を出している。
ほかの寺子たちもまだ沈んだ顔をしていたが、それでも、穏やかに一日過ぎていった。
寺子たちが帰った後、こうやって少しずついつもと変わらない日に戻っていくんだろうな……と、水絵が考えていた時だった。
「馬鹿! 大っ嫌い!」
と言う甲高い声が聞こえた。……るいの声だった。
少し前まで当たり前にいたものが、急にいなくなることがある。
それは寂しいけれど、いつまでも同じままではいられない。
泣いたり、怒ったりしながら、それでも日々は続いていく。
そして気がつけば、またいつも通りの声が、寺子屋に戻ってくる。
――そんなふうにして、今日も一日が終わるのだ。




