7 寝た子を起こして、さらに泣かせる
世の中には、余計なことを言わなければ、何事もなく済むという場面がある。
そしてたいていの場合、そういう時に限って、誰かが口を開く。
止めようとして、さらに話を広げてしまうのも、よくあることだ。
――その日、寺子屋で起きたことは、まさにそれだった。
「鏡之介さん!」
水絵は、思わず叫んでいた。喧嘩を止めようとして言ったことかもしれないが、「猫又」なんて、小さい子は怖がってしまう。
だが、鏡之介は水絵の思いに気づかないのか、気づかないふりをしているのか、話を続けている。
「猫は十年飼うと猫又になるって言うからな」
「ミケは九歳だって言ってた!」
新吉が大声を出す。
「だから、寺に残ることになったんだろ。寺にいれば、仏様のご加護で猫又にならずに済むって言われてる」
水絵は頭を抱えた。そのくらい、水絵も知っている。だが、あえて寺子たちには言わずにいたことを……。
「千代の兄さんが祖父ちゃんがいるから駄目って言ったのも、多分、そのせいだ。猫は、ネズミを捕ってくれるありがたい生き物だが、猫又になると、年寄りの寿命を縮めちまうからな」
千代が、花吉が書いた猫の絵をぎゅっと握りしめる。
「絵の猫なら、猫又にならねえし、ネズミよけにもなる。千代の兄ちゃんは、賢いな」
鏡之介の言葉に、千代は笑顔になったが、るいの表情はますます暗くなる。
「じゃあ、クロは猫又になるかもしれないから、誰ももらってくれないの?」
「ああ。だから、寺にいるのが、一番……」
いい……と続くはずだった鏡之介の言葉が途切れた。るいが、
「そんなの、かわいそうっ」
と、声を上げて泣き出してしまったからだ。
つられて、小さな子たちも泣き始める。そっちは、猫又が怖くて泣いているのだろう。
鏡之介が、助けを求めるように水絵を見たが、水絵はつんっと横を向いた。
忠告したのに、猫又の話を続けて大騒ぎにしたのは鏡之介だ。自分が蒔いた種は、自分で刈り取ってもらわないと。
鏡之介は恨みがましそうに水絵を見ていたが、諦めて、大声を出した。
「猫又なんぞ、たいしたことはない! せいぜい、手ぬぐいかぶって踊るか、行灯の油を舐めるくらいだ。榛名山の山猫は、もっと恐ろしいぞ」
なんでその話に? と、水絵は思ったが、あえて止めはしなかった。すると、鏡之介は調子に乗った。
「山猫は、犬よりもでかいんだ。赤かがちみたいな目で、背中の毛は銀色に光る。山から下りて来て、人を食らう。一晩に、三人も四人も……」
そこまで言って、鏡之介は言葉を切った。水絵が凄い目で睨んでいるのに気づいたからだ。見ると、小さい子は大泣きしているし、ある程度大きな子たちも怯えた目で鏡之介を見ている。
「あ、いや、その……」
途方に暮れた顔で助けを求められて、水絵は深くため息を吐いた。
「案ずることはないわ。榛名山なんて遠いんだから。いくら山猫でも、お江戸にまでは来られないもの」
泣いている小さい子の頭を次々に撫でたが、すぐに泣き止むわけではない。
「遠いって、どのくらい?」
怯えの残る顔で、新吉が聞いてくる。
「ここからなら……」
答えかけた鏡之介を一睨みで黙らせると、水絵は、
「ずっとずっと向こうの遠い所だから、絶対に来られないわ。ミケはお寺にいるから猫又にはならないし、クロだって、生まれたばかりなんだから、大丈夫。だから、もう泣かないの」
まだ泣いている子の頭を撫でたり、小さい子は抱き上げたりして、寺子全部が落ち着いて、水絵が、
「じゃあ、今日はこれで、おしまい。暗くならないうちに、帰りなさい」
と言ったのは、四半刻も後のことだった。
寺子の姿が見えなくなると、鏡之介は真面目な顔で水絵に頭を下げた。
「世話を掛けてすまなかった。助かった」
「らしくないですね」
と返すと、鏡之介は少しむっとした顔で、
「俺だって、悪いと思ったら謝るさ」
と言った。
けれど、水絵が「らしくない」と思ったのは、そのことではない。
小さな子に、化け物や幽霊の話をして怖がらせ、面白がる大人はいる。でも、鏡之介はそんな気性ではないはずだ。
「なんでいきなり、猫又の話なんかしたんですか?」
「いや、別に」
と、水絵から目を逸らす。つまり、理由はあるが言いたくないということだろう。それなら、問い詰めても無駄だ。水絵は、話題を転じた。
「猫又だけならともかく、山猫まで出すのは余計だったんじゃないですか?」
「猫又なんて怖くねえと言おうとしたんだが……とんだ藪蛇だったな」
「寝た子を起こす……のほうじゃないですか?」
すると、鏡之介はようやく笑顔を見せた。
「確かに、起こしちまったな」
「そう言えば、榛名山って、ここから何日くらいで行けるんですか?」
上州ならさほど遠くないだろうと思ったから、鏡之介の言葉を遮ったのだが、詳しくは知らない。
「ああ……四日か五日か、急げば三日でもなんとかなる道程だ」
「その近さだと、火に油を注ぐことになったかもしれませんね」
「……すまん」
もう一度頭を下げた鏡之介に、潜めた声で聞いてみる。別に、寺子はいないのだから、その必要はないのだけれど……。
「それで……本当にいるんですか、榛名山に、山猫?」
鏡之介は、一瞬きょとんとして、それから大笑いした。
「子どもの頃に、何度も『榛名の山猫に食われるぞ』なんて脅されたんだが……俺は、見たことはねえな」
そう言いながら笑っている鏡之介に、少し腹が立ったが、それよりも大事なことに気づいた。榛名山の山猫で脅されるなら、鏡之介の出身地は……。
「それなら……」
鏡之介さんは上州の人なんですか? と訊こうとした言葉を飲み込んだ。初対面の時「藩の名前は言えない」と言っていた。鏡之介を困らせるかもしれないし、出身地など、今の鏡之介には関係のないことだ。
「うん?」
言いかけたことは言えと、鏡之介の目が言っている。だから、水絵は違うことを言った。
「どうせなら、もっと遠くの山を言えばよかったんですよ。大坂とか、いっそ長崎とか?」
すると、鏡之介は苦笑した。
「大坂に山はねえよ。長崎は、やたら山が近い町らしいが、榛名ほど高い山はないと聞いたことがある」
妙に生真面目な答えに、水絵は、「鏡之介さんらしい」と思う。
「……奥州あたりにすればよかったか? いっそ、蝦夷ヶ島か……」
などと、まだぶつぶつ言っている鏡之介は、水絵の知っている鏡之介だ。だとすると、やはりさっきの「らしくない」のは、何故なんだろう? そんな疑問は、水絵の頭から消えることはなかった。
怖い話は、ほどほどがいい。
それを分かっていながら、つい話を盛ってしまう人もいる。
おかげで泣く子は増え、なだめる手間も増えるのだから、たまったものではない。
……とはいえ、悪気があったわけではないのも、よく分かっている。
だから結局、呆れながらも、放ってはおけないのだと思う。
まったく、困った人である。




