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二度目の人生では王宮を救いませんので、お好きに滅んでくださいませ  作者: 秋月 もみじ


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第9話 帰ってきてほしいのは


「頼む」


 ——その言葉を、私は二度聞いた。

 同じ言葉のはずなのに、まるで別の意味だった。


 一度目は、私を追放した男から。


    ◇


 修道院の門前に、王家の馬車が停まっていた。


 先日の使者のものとは格が違う。金の装飾。王家の紋章。護衛は八名。そして馬車から降り立ったのは、使者ではなかった。


 エドヴァルト王太子。

 その隣に、マリアンヌ。


 六週間ぶりに見る顔だった。あの広間で「お好きになさってくださいませ」と言い残してから、もう二ヶ月近くが経っている。


 エドヴァルトは、やつれていた。

 頬がこけている。目の下に隈がある。あの演説だけは上手かった口元が、今は強張っていた。


「ソフィーア」


 名前を呼ばれた。


「王宮はお前なしでは回らない。頼む。戻ってきてくれ」


 頭を下げた。

 王太子が、門前で、頭を下げている。


 ——ああ。


 前世の私が聞いたら、泣いて喜んだかもしれない。十三年間、地下書庫で待ち続けた言葉だ。「お前が必要だ」。「お前の仕事がなければ困る」。


 でも今の私には、三十二年分の記憶がある。


「殿下」


「なんだ」


「顔をお上げください。門前で王太子殿下に頭を下げられては、修道院の評判に関わりますので」


 エドヴァルトが顔を上げた。碧い目が揺れている——この人の目は、アレクセイと同じ碧なのに、全く違う光をしている。


「私がいなくても回る仕組みを作ったはずです」


「……何?」


「徴税制度。通商条約の更新手続き。地方行政の記録様式。陳情処理の手順書。すべて、制度として設計しました。正しく運用すれば、私がいなくても機能するように」


 エドヴァルトの顔が歪んだ。


「——ああ、あれを壊したのは皆さまでしたね」


 声は穏やかだった。怒りも、恨みも、皮肉すらも込めなかった。

 ただ事実を述べただけだ。それが一番、痛い。


「お困りでしょうけれど、もう私の知るところではありません」


 マリアンヌが一歩前に出た。


「ソフィーア様。私たちが間違っていました。あなたの功績を——」


「お気持ちだけで結構です」


 微笑んだ。

 嘘のない微笑みだった。恨んでいないのは本当だ。ただ、戻る理由がない。


「聖女様。あなたは治癒の力をお持ちです。その力で、人々を癒してさしあげてください。行政の書類は——どなたか別の方をお探しになるとよろしいかと」


 マリアンヌの目に涙が溜まった。

 エドヴァルトが拳を握りしめている。


「ソフィーア。俺は——」


「殿下。お気をつけてお帰りください。道中、長うございますから」


 門を閉めた。

 蝶番が軋んだ。六日前にも聞いた音だ。


 あの時は出ていく側だった。

 今は、閉じる側にいる。


    ◇


 馬車の中は、沈黙で満ちていた。


 エドヴァルトは座席に深く沈み込んで、拳を膝の上に置いていた。マリアンヌが向かいの席で、声もなく泣いている。


 ——あれを壊したのは皆さまでしたね。


 声は穏やかだった。怒鳴られた方がましだった。泣かれた方がましだった。あの静かな声で事実を突きつけられると、反論する言葉が一つも出てこない。


 反論できないのは、正しいからだ。


 宰相が言っていた。十三年間、地下書庫で一人。名前も出さず、功績も認めず、使い潰した。断罪した理由は不敬罪——マリアンヌが仕組んだ偽の証拠。それすら精査しなかった。正義感を振りかざして、気持ちよく断罪して、あとは忘れた。


 忘れていた。


 あの女が何をしてくれていたか。何一つ知らなかった。知ろうともしなかった。


「殿下……」


 マリアンヌの声が震えている。


「殿下、私が——私があの時、証拠を——」


「今さらだ」


 言い捨てた。

 マリアンヌが口を閉じた。


 今さらだ。全部、今さらだ。


 馬車の窓から、修道院の白い壁が遠ざかっていく。あの壁の中に、あいつはいる。あいつの横に、帝国の皇帝が立っている。


 俺ではなく。


 取り返しがつかない。

 その言葉の意味を、エドヴァルトは初めて皮膚で理解した。


    ◇


 夕方が過ぎた。

 夜が来た。


 リーリアを寝かしつけた。今夜は子守唄を二回歌った。二回目の途中で眠った。人形を抱きしめたまま。


 エドヴァルトたちが去ってから、修道院は元の静けさを取り戻していた。マルタ院長が淹れてくれた薬草茶を飲んで、書斎で少し本を読んで、それから——


 庭に出た。

 月が出ている。六日前にも、同じ月を見ていた。あの朝、リーリアに引き止められた日の前の夜。


 石のベンチに座ろうとした時、足音が聞こえた。


 アレクセイだった。


 外套を羽織っている。月明かりの中、銀髪が白く光っている。頬の傷痕が影を落としている。


「——ソフィーア」


「陛下。まだ起きていらしたんですか」


「少し、話がある」


 隣に座った。六日前もこの配置だった。肩は触れないが、外套の裾が重なる距離。


 虫の声が遠い。ラベンダーの香りが、夜風に乗っている。


 アレクセイが黙っている。

 長い沈黙だった。この人の沈黙には種類がある。考えている沈黙と、迷っている沈黙と、言葉を探している沈黙。


 今のは、三番目だ。


「今朝。あの男が来た時」


「ええ」


「お前が断ったのを見ていた」


「はい」


「……正直に言う」


 アレクセイの声が変わった。低く、硬く、それでいて——かすかに震えている。この人の声が震えるのを、初めて聞いた。


「あの男がお前を連れて帰ったら、と思った時——」


 拳が膝の上で握られている。六日前の庭で見たのと同じ。でも今は、開こうとしている。力を入れて閉じていた指を、一本ずつ、引き剥がすように。


「俺は、引き止められなかった。六日前も、今朝も。お前が鞄を持って廊下を歩いていた時も、門の前でリーリアに泣きつかれていた時も、俺は何も言えなかった」


「……」


「人に頼るのが下手だ。妻を失ってから、全部一人で背負うと決めた。誰かを巻き込めば、また失う。だから一人でいい。一人の方が——」


 言葉が途切れた。


 月明かりの中、碧い目がこちらを向いた。


「頼む」


 一言だった。


「俺たちのそばに、いてくれ」


 呼吸が止まった。


「リーリアのためだけじゃない。お前がいないと、俺は——」


 声が軋んだ。

 この人が、弱さを見せている。あの夜、「一人で抱えないで」と言った時には見せなかった顔。あの時はまだ壁があった。今、その壁を——自分で壊そうとしている。


「お前が必要だ、とは言わない」


 息を吸う音が聞こえた。


「いてほしいんだ」


 ——必要だ、ではなく。

 いてほしい。


 その違いが、胸の奥を貫いた。


 前世で三十二年間、一度も言われなかった言葉。「必要だ」なら、書類を書いていれば言われたかもしれない。でもそれは道具への言葉だ。「お前の機能が必要だ」という意味でしかない。


 いてほしい。


 存在を求められている。

 機能ではなく、私という人間を。


「……陛下」


 声が震えた。自分でもわかるほど。


「考えさせてください」


 それしか言えなかった。


 アレクセイは何も言わなかった。

 頷いて、立ち上がって、去っていった。足音が回廊に消えていく。


 石のベンチに一人残された。

 月が明るい。ラベンダーの香りが強い。


 手が震えている。

 膝の上に置いた手を、もう片方の手で押さえた。


    ◇


 部屋に戻った。


 リーリアの寝室の前を通った時、細く開いた扉の隙間から寝息が聞こえた。人形を抱いたまま眠っている。薄紫の、耳が片方だけ大きい、目のボタンがずれた人形。


 自分の部屋のベッドに座って、天井を見上げた。


 いてほしい。


 あの声が、まだ耳に残っている。

 震えていた。あの人の声が、震えていた。


 私は——自分のために選んでいいのだろうか。


 前世では、選ばなかった。選べなかった。侯爵家の義務。宰相の命令。王宮の都合。全部、他人の理由で動いて、自分の意志で何一つ選ばないまま死んだ。


 二度目の人生は自分のために生きると決めた。

 でも「自分のために」とは何だ。


 王宮に戻ること? ——違う。

 一人で生きること? ——それも、もう違う。


 あの三人の食卓が浮かんだ。はちみつだらけのリーリアの口元。ぎこちなくパンを千切るアレクセイの手。不格好な花束。大きすぎる手袋。暖炉の薪。増えた食事。


 ——全部、もらっていたのだ。

 気づかないふりをしていただけで。


 鞄の中から手袋を取り出した。

 焦げ茶の革。使い込まれた柔らかさ。四歳児にしては大きすぎる手袋。


 これは、リーリアのものではない。


 知っていた。たぶん、最初から知っていた。


 手袋を胸に押し当てて、目を閉じた。


 答えは、もう出ている。

 ただ——声に出すのが、怖い。


 窓の外で、夜が白み始めていた。

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