表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
二度目の人生では王宮を救いませんので、お好きに滅んでくださいませ  作者: 秋月 もみじ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

8/10

第8話 さよならの朝


 人形を編むのに、一晩かかった。


 毛糸はマルタ院長に分けてもらった。薄紫と白。ラベンダーの色だ。リーリアが好きな花。修道院の庭で一番最初に名前を覚えた花。


 編み物は得意ではない。

 前世で法令書を何千枚と書いた指は、毛糸を扱うには硬すぎた。何度もほどいて、編み直して、目を数え間違えて、また最初から。


 窓の外が白み始めた頃、ようやく形になった。

 不格好な人形。耳が片方だけ大きくて、手足の長さが左右で違う。目はボタンを縫いつけたが、微妙に位置がずれている。


 ——ひどい出来だ。


 でも、もう時間がない。


 蝋燭の灯を消して、暗い部屋で人形を膝の上に置いた。

 明日の朝——いや、もう今朝だ。今朝、ここを出る。


 外交問題。

 あの言葉が、三日間ずっと頭から離れなかった。


 私がここにいるだけで、アレクセイの国と私の国の間に亀裂が入る。アレクセイは「俺が決める」と言った。「お前が気にすることじゃない」と。


 でも、それはおかしい。

 私のせいで他国の皇帝が不利益を被るなど、あってはならない。リーリアの後見制度は整えた。法的な盾は作った。ここから先は、アレクセイがリーリアを守ればいい。私が必要な仕事は終わっている。


 ——終わっている、はずなのに。


 毛糸の人形を握る手に、力が入った。


    ◇


 荷物は少なかった。


 着替えが二組。個人日誌。残った貯金。マルタ院長にお借りした薬草の図鑑は、お返ししなければ。


 小さな革鞄に詰め込みながら、部屋の中を見回した。

 六週間。たった六週間の暮らしだったのに、この部屋には私の匂いが染みついている気がする。机の上のインク壺の位置。窓際に干した薬草の束。枕元に置いた——


 手袋。


 焦げ茶の革の手袋。リーリアのものだと言われた、四歳児にしては大きすぎる手袋。


 鞄に入れるか、返すか。

 三秒迷って、鞄に入れた。リーリアのものなら、持っていっても構わないだろう。あの子にはパパが買い直してくれる。


 廊下に出た。


 足音がした。

 向こうから歩いてくるのはアレクセイだった。素振り用の木剣を肩に担いでいる。朝の素振りを終えたところらしい。


 目が合った。


 アレクセイの視線が、私の手の革鞄に落ちた。

 一瞬、碧い目が動いた。何か——口を開きかけた。


 けれど、言葉は出なかった。


 唇が閉じられた。視線が逸れた。

 木剣を担ぎ直して、私の横を通り過ぎていく。


 すれ違いざま、外套の裾が触れた。

 それだけだった。


 足音が遠ざかっていく。

 振り返らなかった。振り返ったら、行けなくなる。


 ——行かなければ。


    ◇


 リーリアの部屋の扉を、音を立てずに開けた。


 夜明け前の薄い光が、小さなベッドを照らしている。リーリアは毛布にくるまって眠っていた。栗色の髪が枕の上に広がっている。寝息が穏やかだ。


 あの夜泣きの夜を思い出す。

 「みんな、いなくなる」と泣いていた子が、今はこんなに安らかに眠っている。


 枕元に、人形を置いた。

 薄紫と白の、不格好な人形。耳が片方だけ大きい。目のボタンがずれている。


「……ごめんね」


 声に出した。


「ソフィは遠くに行くの。でも大丈夫。リーリアにはパパがいるでしょう? マルタおばあちゃまも、修道女のみんなもいる。もう一人じゃないよ」


 リーリアは眠っている。聞こえていない。

 それでいい。起こしたら、行けなくなる。


 頬に手を伸ばした。

 柔らかい。温かい。四歳の体温。


 ——ああ。


 視界が滲んだ。


 泣いている。

 私が。


 前世では泣かなかった。十三年間地下書庫に閉じ込められても、過労で倒れても、誰にも看取られず死んでいく瞬間でさえ、涙は出なかった。


 なのに今、四歳の子どもの寝顔を見て泣いている。


 指先で涙を拭った。

 こんなところを見られたら格好がつかない。——誰に? 誰に見られることを気にしているのか。


 もう一度だけ、リーリアの髪を撫でた。


「さようなら」


 扉を閉めた。

 音を立てないように。


    ◇


 朝靄の中、修道院の門に手をかけた。


 石の門は冷たかった。革鞄を肩にかけ直す。足元の砂利が踏むたびに鳴る。この音で誰かが起きてしまわないか、心臓が早鐘を打つ。


 門の錠を外した。

 蝶番が軋んだ。


「ソフィ」


 背後から、小さな声がした。


 振り返った。


 リーリアが立っていた。

 裸足で。寝間着のまま。栗色の髪がぼさぼさに乱れている。


 両腕に、薄紫の人形を抱きしめていた。


「ソフィ、どこいくの」


 胸が詰まった。


「……遠くに行くの。大丈夫、リーリアにはパパがいるでしょう?」


「やだ」


 銀の瞳が、涙で光っていた。


「やだ! ソフィがいないとやだ!」


 走ってきた。裸足の足が砂利を蹴って、小さな体が私の脚にぶつかった。人形を片腕に抱えたまま、もう片方の手で私のスカートを掴んでいる。


「いかないで。ソフィ、いかないで。リーリアいい子にするから。おべんきょうもするから。やさいもたべるから。いかないで」


 ——やめて。

 やめてほしい。そんなことを言わないでほしい。


 こんな言葉を、前世では一度も聞いたことがなかった。

 私がいなくなっても、誰も引き止めなかった。三日間、気づきもしなかった。


 なのにこの子は。

 裸足で走ってきて、人形を抱いて、「いかないで」と言っている。


 膝が震えた。

 革鞄が肩から滑り落ちそうになる。


 ——行かなければ。

 ——行けない。


 庭の奥、木の影に人影があった。


 アレクセイだ。

 外套を羽織っただけの姿で、木に背を預けて立っている。こちらを見ている。


 口は、開かない。

 手も、伸ばさない。

 ただ立っている。


 あの人は——引き止めないのだ。

 引き止めたいのかどうかすら、わからない。あの人は、人に頼ることができない人だから。


 リーリアが私のスカートを引っ張った。


「ソフィ……」


 しゃくりあげる声が、朝靄に溶けていく。


 革鞄を、地面に置いた。

 膝をついて、リーリアを抱きしめた。


 今日は行けない。

 この子が泣き止むまで。この子が落ち着くまで。それだけだ。


 ——それだけ、のはず。


 木の影のアレクセイが、目を伏せるのが見えた。

 拳を握っているのが見えた。


 朝日が、薬草園の花を照らし始めていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ