第8話 さよならの朝
人形を編むのに、一晩かかった。
毛糸はマルタ院長に分けてもらった。薄紫と白。ラベンダーの色だ。リーリアが好きな花。修道院の庭で一番最初に名前を覚えた花。
編み物は得意ではない。
前世で法令書を何千枚と書いた指は、毛糸を扱うには硬すぎた。何度もほどいて、編み直して、目を数え間違えて、また最初から。
窓の外が白み始めた頃、ようやく形になった。
不格好な人形。耳が片方だけ大きくて、手足の長さが左右で違う。目はボタンを縫いつけたが、微妙に位置がずれている。
——ひどい出来だ。
でも、もう時間がない。
蝋燭の灯を消して、暗い部屋で人形を膝の上に置いた。
明日の朝——いや、もう今朝だ。今朝、ここを出る。
外交問題。
あの言葉が、三日間ずっと頭から離れなかった。
私がここにいるだけで、アレクセイの国と私の国の間に亀裂が入る。アレクセイは「俺が決める」と言った。「お前が気にすることじゃない」と。
でも、それはおかしい。
私のせいで他国の皇帝が不利益を被るなど、あってはならない。リーリアの後見制度は整えた。法的な盾は作った。ここから先は、アレクセイがリーリアを守ればいい。私が必要な仕事は終わっている。
——終わっている、はずなのに。
毛糸の人形を握る手に、力が入った。
◇
荷物は少なかった。
着替えが二組。個人日誌。残った貯金。マルタ院長にお借りした薬草の図鑑は、お返ししなければ。
小さな革鞄に詰め込みながら、部屋の中を見回した。
六週間。たった六週間の暮らしだったのに、この部屋には私の匂いが染みついている気がする。机の上のインク壺の位置。窓際に干した薬草の束。枕元に置いた——
手袋。
焦げ茶の革の手袋。リーリアのものだと言われた、四歳児にしては大きすぎる手袋。
鞄に入れるか、返すか。
三秒迷って、鞄に入れた。リーリアのものなら、持っていっても構わないだろう。あの子にはパパが買い直してくれる。
廊下に出た。
足音がした。
向こうから歩いてくるのはアレクセイだった。素振り用の木剣を肩に担いでいる。朝の素振りを終えたところらしい。
目が合った。
アレクセイの視線が、私の手の革鞄に落ちた。
一瞬、碧い目が動いた。何か——口を開きかけた。
けれど、言葉は出なかった。
唇が閉じられた。視線が逸れた。
木剣を担ぎ直して、私の横を通り過ぎていく。
すれ違いざま、外套の裾が触れた。
それだけだった。
足音が遠ざかっていく。
振り返らなかった。振り返ったら、行けなくなる。
——行かなければ。
◇
リーリアの部屋の扉を、音を立てずに開けた。
夜明け前の薄い光が、小さなベッドを照らしている。リーリアは毛布にくるまって眠っていた。栗色の髪が枕の上に広がっている。寝息が穏やかだ。
あの夜泣きの夜を思い出す。
「みんな、いなくなる」と泣いていた子が、今はこんなに安らかに眠っている。
枕元に、人形を置いた。
薄紫と白の、不格好な人形。耳が片方だけ大きい。目のボタンがずれている。
「……ごめんね」
声に出した。
「ソフィは遠くに行くの。でも大丈夫。リーリアにはパパがいるでしょう? マルタおばあちゃまも、修道女のみんなもいる。もう一人じゃないよ」
リーリアは眠っている。聞こえていない。
それでいい。起こしたら、行けなくなる。
頬に手を伸ばした。
柔らかい。温かい。四歳の体温。
——ああ。
視界が滲んだ。
泣いている。
私が。
前世では泣かなかった。十三年間地下書庫に閉じ込められても、過労で倒れても、誰にも看取られず死んでいく瞬間でさえ、涙は出なかった。
なのに今、四歳の子どもの寝顔を見て泣いている。
指先で涙を拭った。
こんなところを見られたら格好がつかない。——誰に? 誰に見られることを気にしているのか。
もう一度だけ、リーリアの髪を撫でた。
「さようなら」
扉を閉めた。
音を立てないように。
◇
朝靄の中、修道院の門に手をかけた。
石の門は冷たかった。革鞄を肩にかけ直す。足元の砂利が踏むたびに鳴る。この音で誰かが起きてしまわないか、心臓が早鐘を打つ。
門の錠を外した。
蝶番が軋んだ。
「ソフィ」
背後から、小さな声がした。
振り返った。
リーリアが立っていた。
裸足で。寝間着のまま。栗色の髪がぼさぼさに乱れている。
両腕に、薄紫の人形を抱きしめていた。
「ソフィ、どこいくの」
胸が詰まった。
「……遠くに行くの。大丈夫、リーリアにはパパがいるでしょう?」
「やだ」
銀の瞳が、涙で光っていた。
「やだ! ソフィがいないとやだ!」
走ってきた。裸足の足が砂利を蹴って、小さな体が私の脚にぶつかった。人形を片腕に抱えたまま、もう片方の手で私のスカートを掴んでいる。
「いかないで。ソフィ、いかないで。リーリアいい子にするから。おべんきょうもするから。やさいもたべるから。いかないで」
——やめて。
やめてほしい。そんなことを言わないでほしい。
こんな言葉を、前世では一度も聞いたことがなかった。
私がいなくなっても、誰も引き止めなかった。三日間、気づきもしなかった。
なのにこの子は。
裸足で走ってきて、人形を抱いて、「いかないで」と言っている。
膝が震えた。
革鞄が肩から滑り落ちそうになる。
——行かなければ。
——行けない。
庭の奥、木の影に人影があった。
アレクセイだ。
外套を羽織っただけの姿で、木に背を預けて立っている。こちらを見ている。
口は、開かない。
手も、伸ばさない。
ただ立っている。
あの人は——引き止めないのだ。
引き止めたいのかどうかすら、わからない。あの人は、人に頼ることができない人だから。
リーリアが私のスカートを引っ張った。
「ソフィ……」
しゃくりあげる声が、朝靄に溶けていく。
革鞄を、地面に置いた。
膝をついて、リーリアを抱きしめた。
今日は行けない。
この子が泣き止むまで。この子が落ち着くまで。それだけだ。
——それだけ、のはず。
木の影のアレクセイが、目を伏せるのが見えた。
拳を握っているのが見えた。
朝日が、薬草園の花を照らし始めていた。




