第7話 皇帝の盾
「国家の命により、ソフィーア・フォン・ハイデンリヒの身柄を引き渡されたい」
使者の声は、修道院の静寂を引き裂いた。
門の前に、王家の紋章入りの馬車が停まっている。護衛の騎士が四名。使者は中年の文官で、勅令書を片手に掲げていた。
「エドヴァルト殿下の御名により、ソフィーア・フォン・ハイデンリヒの爵位停止を解除し、国家の要職への復帰を命ずる」
マルタ院長が私の隣で息を呑んだ。
修道女たちが不安そうに廊下の奥からこちらを見ている。リーリアがマルタ院長の足にしがみついていた。
勅令書の文面を読む。
三行で要旨を把握した。爵位停止の解除、書記官への復職命令、修道院からの即時出発の要請。
——そうですか。ようやく私の仕事に気づきましたか。遅い。
「お断りいたします」
使者が目を見開いた。
「な——断る? これは殿下の勅令だ!」
「爵位停止中の者は、王宮への出仕義務を負いません。殿下がお出しになった断罪の結果として、私は現在いかなる義務からも解放されております。この勅令に法的拘束力はございません」
使者が言葉に詰まった。
法の話をされるとは思っていなかったのだろう。この手の文官は「勅令」と言えば平伏すると思い込んでいる。
「そ、それでも殿下の御意向——」
「御意向と法的拘束力は別のものです。王国法をお読みになれば、すぐにお分かりになりますわ」
前世で書いたのは私だから。
とは言わなかった。
使者の顔が赤くなった。
「ならば力ずくでも——」
使者が騎士たちに目配せした。鎧の擦れる音がした。騎士の一人が一歩踏み出した、その瞬間——
背中に、影が差した。
「その女性に触れることは、ヴァイゼン帝国への敵対行為と見なす」
低い声が、中庭に響いた。
アレクセイだった。
フードも仮面もない。銀髪が風に靡いている。頬の傷痕、碧い瞳、そして——纏う空気が、昨日までの「ヴァル」とはまるで違っていた。
皇帝の気配だ。
「ヴァイゼン帝国皇帝、アレクセイ・ヴォルフ・ヴァイゼンだ」
使者の顔から血の気が引いた。護衛の騎士たちが凍りついている。
「この女性は帝国法上、皇族血縁者の後見人であり、帝国の客人でもある。身柄の拘束は両国の外交問題になる」
アレクセイが外套の内から封書を取り出した。後見人指定書の写しだ。あの書斎で私が書いて、アレクセイが署名し、マルタ院長が証人になった書類。
「法的根拠はこれだ。確認するなら、帝国元老院に問い合わせるがいい」
使者の手が震えている。勅令書を持つ指先が白い。
使者が一歩引きながら、こちらを見た。助けを求める目だった。
助けるつもりはないが。
「……し、失礼いたしました。殿下にお伝えいたします」
使者と騎士たちが馬車に乗り込み、砂埃を上げて去っていった。
門が閉まる。
張り詰めていた空気が緩んだ。マルタ院長が長い息を吐いた。リーリアが院長の足元から顔を出して、きょとんとしている。
「パパ、かっこよかった」
アレクセイの肩から力が抜けた。
私は、自分が立っている位置に気づいた。
アレクセイの背中の真後ろだ。いつの間にか庇われていた。リーリアはマルタ院長のそばにいた。つまりアレクセイは、リーリアではなく——
……いや、たまたまだろう。私が使者の正面にいたから、位置的にそうなっただけだ。
「陛下」
「なんだ」
「……ありがとうございます」
声が小さくなった。
感謝を口にするのが下手だ。三十二年間、感謝される側にも、する側にも立ったことがなかった。
アレクセイが振り返った。碧い目が少しだけ柔らかくなったように見えたのは、たぶん西日のせいだ。
◇
同日。王都。
エドヴァルトは、宰相レオンハルトの辞意を受け取った。
執務室の机に置かれた辞表。白い封筒に黒いインクで「辞表」とだけ書かれている。
「……本気か」
「本気です、殿下」
レオンハルトは立ったまま、背筋を伸ばしていた。普段より痩せて見える。この数週間で十は老けた顔だった。
「辞める前に、一つだけ申し上げなければならないことがございます」
「なんだ」
「この国の行政制度は——徴税制度、通商条約の手続き設計、地方行政記録の様式統一、法令の起草。すべて、ソフィーア嬢が一人で構築したものです」
エドヴァルトの思考が止まった。
「……なんだと?」
「私は名前を貸していただけだ。宰相府の成果として提出された法令は、一本の例外もなく、あの子が地下書庫で書いたものです」
血の気が引いていく。
徴税制度の崩壊。通商条約の更新失敗。領主たちの陳情処理の破綻。全部——全部、一人の書記官がいなくなっただけで起きたことだというのか。
「なぜ——なぜ黙っていた」
「書類の魔法印の鑑定を許可しなかったのも、私です」
エドヴァルトが立ち上がった。椅子が倒れる音がした。
「鑑定すれば、すべての書類にソフィーア嬢の魔法印が刻まれていることがわかる。それを知られれば——あの子が政争に巻き込まれると思いました。善意のつもりでした」
レオンハルトの声が、かすかに震えた。
「ですが結果として、私は彼女の功績を奪っていた。十三年間、地下書庫に閉じ込めて、名前すら世に出さず、使い潰した。——殿下。殿下が断罪なさった相手は、この国を動かしていた唯一の人間です」
静寂が落ちた。
エドヴァルトは何も言えなかった。
断罪した日の記憶が蘇る。「お好きになさってくださいませ」と言い残して、婚約指輪をテーブルに置いて去った女。あの時、何も感じなかった。清々した、とすら思った。
今、その言葉の重さが喉元にせり上がってくる。
「——ソフィーアの居場所は」
「不明です。王都を出たという報告の後、足取りが途絶えています」
「探せ。俺が直接——」
言いかけて、止まった。
使者を送ればいい。いや、もう送った。先週、修道院に使者を出した。
だが——
椅子を起こし、座り直した。拳を握った。
「俺が行く」
レオンハルトが目を見開いた。
「殿下ご自身が?」
「使者では駄目だ。あいつは法を盾にする。勅令程度では動かない。俺が頭を下げるしかない」
あの女の前に立って、頭を下げる。
自分がどれほど愚かだったか——認める覚悟が、あるのか。
拳が震えた。
「明朝、出発する。馬車を用意しろ」
◇
修道院。夜。
アレクセイが書斎に持ち込んだのは、帝国経由で届いた王国からの公式文書だった。
「王国外務省からの正式な引き渡し要請だ。『帝国が王国臣民を庇護することは同盟条約の趣旨に反する。速やかにソフィーア・フォン・ハイデンリヒの身柄を引き渡されたい』」
文面を読んで、ため息が出た。
法的には反論できる。私の爵位は停止中であり、「王国臣民」としての義務は凍結されている。庇護が同盟条約に反するという主張にも根拠が薄い。
だが外交問題は法律だけでは片づかない。国と国の力学がある。アレクセイが私を庇うことで、帝国と王国の同盟関係に亀裂が入る可能性がある。
「陛下。この件で帝国に不利益が生じるようなことは——」
「俺が決める。お前が気にすることじゃない」
「ですが——」
「ソフィーア」
名前を呼ばれて、口が閉じた。
アレクセイの碧い目がまっすぐにこちらを向いている。
「お前は帝国の客人だ。客人の安全を守るのは、皇帝の務めだ」
務め。
義務として言っている。——それはわかっている。
わかっているのに、胸の奥がざわついた。
「……ありがとうございます」
また小さな声になった。
部屋に戻って、ベッドに座った。
手袋を外す。焦げ茶の革が、使い込まれた分だけ柔らかくなっている。
——迷惑をかけている。
この人の国に。この人の立場に。
私がここにいるだけで、帝国と王国の間に余計な摩擦が生まれる。
リーリアの寝室から、寝息が聞こえる。
穏やかな寝息。夜泣きをしなくなった。
守りたいものが増えた分だけ、ここにいる理由と、ここを去る理由が、同じ重さで胸に積もっていく。
窓の外、月が薄い雲に隠れた。




