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二度目の人生では王宮を救いませんので、お好きに滅んでくださいませ  作者: 秋月 もみじ


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第6話 手袋と前妻の影


 この村には、井戸が三つあるのに管理者が一人もいなかった。


 修道院から歩いて半刻ほどの小さな村。二十世帯ほどが暮らしている。井戸の縄は擦り切れ、滑車は錆びつき、水を汲むたびにぎいぎいと不吉な音を立てている。


「この井戸、いつから修理されていないんですか」


「さあ……五年は経つかねえ。誰がやるか決まっとらんから、みんな知らん顔さ」


 村長が困った顔で頭を掻いた。


 典型的な管理不在だ。前世で嫌というほど見た。誰の仕事でもないから、誰もやらない。仕組みが存在しないことが、問題の根本にある。


「村長さん。提案があるのですが」


 三つの井戸にそれぞれ管理当番を決め、月ごとに持ち回りにする。修理費用は利用世帯で按分し、修道院が工具を貸し出す。当番表と費用分担表を作って、村の集会所に掲示する。


 大きなことをする必要はない。小さな仕組みを一つ整えるだけでいい。


「こ、こんなに簡単なことだったのか……?」


「簡単ですよ。決めて、書いて、貼るだけです」


 翌日、井戸の滑車が直った。

 三日後、村の共有地の利用ルールも整えてほしいと頼まれた。一週間後には、隣の村からも相談が来た。


「お嬢様のおかげで暮らしやすくなりました」


 村の女性がそう言って、焼きたてのパンを持ってきてくれた。


 お嬢様。

 王宮では「書記官」としか呼ばれなかった。名前すら覚えられていなかった。

 ここでは「お嬢様」だ。書類を書いただけなのに。


 パンを受け取る手が、少しだけ温かかった。


    ◇


 修道院に戻ると、日が傾き始めていた。


 廊下で、アレクセイとすれ違う。今日は一日中リーリアと庭で過ごしていたらしい。木の枝で何やら地面に描いている娘を見守るのが日課になりつつある。


「——ソフィーア」


「はい?」


「これ。リーリアが忘れていた」


 差し出されたのは、革の手袋だった。

 使い込まれた焦げ茶色の革。指先がすこし擦れている。


 受け取って、首を傾げた。


「子供用にしては大きいですね?」


「……リーリアは手が大きい方だ」


「四歳児としてはかなり大きいですわね。私の手にちょうどですもの」


 アレクセイが何か言いかけて、口を閉じた。

 碧い目がほんの一瞬だけ横を向いて、すぐに廊下の奥へ歩いていった。


 妙な人。


 手袋をはめてみた。

 革が手に馴染む。温かい。使い込まれた誰かの体温が、まだ残っているような気がした。


 ——まあ、せっかくだから使おう。最近、夜は冷えるし。


    ◇


 夜。


 庭に出た。

 石のベンチに座って、夜空を見上げる。春の終わりの空は、星が近い。地下書庫には空がなかった。この空だけで、ここに来た価値がある。


「眠れないのか」


 振り返ると、アレクセイが立っていた。外套を羽織っている。


「少し、風に当たりたくて」


「隣、いいか」


「どうぞ」


 並んで座った。

 石のベンチは二人分の幅しかない。肩は触れないが、外套の裾が重なる距離だった。


 しばらく、どちらも黙っていた。

 虫の声が遠くで鳴っている。薬草園のラベンダーの香りが、夜風に混じって流れてくる。


「——妻の話を、してもいいか」


 アレクセイの声が低い。


「ええ」


「政略結婚だった。俺は帝位を継いだばかりで、後ろ盾が必要だった。彼女は有力貴族の娘で、賢くて、気の強い女だった」


 月明かりの中、アレクセイの横顔が見える。頬の傷痕が影を作っている。


「最初は互いに計算だった。打算で結ばれた関係だ。だが——三年暮らすうちに、俺は彼女を愛していた」


 声が変わった。

 それまで低く平坦だったのが、かすかに軋んでいる。


「反皇帝派は帝国の旧貴族勢力だ。俺が進めた改革——爵位の世襲制限や税制の見直しが、彼らの既得権を脅かした。報復として狙われたのは俺ではなく、妻だった」


「……」


「護衛を増やしていた。毒見役もつけていた。それでも——あの日、宮殿の回廊で、背後から刺された。俺が会議に出ている間に」


 拳が膝の上で握られている。

 月明かりの下、指の関節が白くなるほど力が入っていた。


「守れなかった。俺がそばにいれば防げた。リーリアから母親を奪ったのは反皇帝派だが、守れなかったのは俺だ」


 虫の声が止んだ。

 夜風だけが、薬草園の花を揺らしている。


 何を言うべきか、正直わからなかった。

 気の利いた慰めの言葉を私は持っていない。三十二年間、書類しか書いてこなかった人間だ。


 でも——一つだけ、確かなことがある。


「陛下」


「……なんだ」


「あなたのせいではありません」


 アレクセイの目がこちらを向いた。


「改革は間違っていない。奥方を守ろうとしたことも間違っていない。あなたは最善を尽くした。それでも防げなかったことを、自分を責める理由にしないでください」


 言ってから、少し迷って、もう一言だけ足した。


「それと——もう一度守ると決めたなら、今度は一人で抱えないでください」


 アレクセイが黙った。

 長い沈黙だった。


 やがて、夜空を見上げた。月明かりが銀髪を照らしている。


「——お前は、不思議な女だな」


「よく言われます。たいてい褒め言葉ではありませんが」


 小さく息を吐く音が聞こえた。

 笑ったのかもしれない。よくわからない。この人の笑い方を、まだ知らない。


    ◇


 翌日の夕方。書斎で向かい合った時、アレクセイの顔は昨夜とは別人のように引き締まっていた。


「帝国側の連絡係から報告が入った」


「何かありましたか」


「反皇帝派の動きが活発化している。先月の偵察——裏庭に現れた刺客を覚えているか。あれは単独の行動ではなかった可能性が高い」


 三週間ほど前の夜。アレクセイが一振りで制圧した、あの刺客だ。


「偵察が本隊に情報を送る前に仕留めたと言ったが、そもそも偵察が派遣された事実自体が問題だ。反皇帝派がこの修道院の存在を嗅ぎつけ始めている」


 胃の奥が冷たくなる。


「リーリアの後見制度は整えた。法的な盾はある。だが——」


「法律は短剣を止められない」


 アレクセイが頷いた。


「当分は俺がここにいる。だが、長期的な安全策を考える必要がある」


 窓の外で、リーリアが花を摘んでいる。

 小さな手で茎を折って、花束を作っている。修道女に教わったのだろう。下手くそな花束を、にこにこと抱えている。


 あの笑顔を守りたい。

 法律でも、制度でも、足りないなら——


「考えましょう。二人で」


 アレクセイがこちらを見た。


「……ああ。二人で、考える」


 少しだけ間があった。

 その間の意味がわからなくて、私は手袋を——昨日もらった、リーリアのものだという大きすぎる手袋を無意識に触っていた。


 窓の外で、リーリアが振り返った。


「ソフィー! パパー! おはなできたよー!」


 花束を高く掲げるリーリアに、アレクセイが片手を上げて応えた。


 不器用に。でも、確かに。

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