第5話 崩壊する王宮
リーリアは、教えたことを一度で覚える子だった。
文字の練習を始めて三日目。もう二十文字を読み書きできるようになっている。飲み込みが早いだけではない。一度教えた文字を翌日にもう一度見せると、昨日より綺麗に書けている。寝ている間に頭の中で反復しているのだろう。
「ソフィ、これなんてよむの」
「『くすり』。薬草の『くすり』」
「くすり! カモミールのくすり!」
「そうね。よく覚えてるわ」
教材は全部手作りだ。
前世では法令書しか書かなかった手が、今は文字カードを切り出している。厚紙を小さく切って、表に文字、裏に絵を描く。絵は壊滅的に下手だが、リーリアは気にしていない。
木陰で素振りをしていたアレクセイが、手を止めてこちらを見た。
「……帝国の学院にもその水準の教材はない」
「大袈裟ですわ。文字カードですよ」
「いや。教える順番と、組み合わせの設計が違う。子どもが混乱しない配列になっている」
制度設計の癖が教材にも出ているらしい。我ながら業が深い。
◇
夜。
リーリアが寝ついた後、書斎で修道院の行政記録を整理していた。前世で一度整備した記録庫だが、八年分の未整理書類が溜まっている。頼まれてもいないのに手をつけてしまうのは、もう性分だ。
ペンを置いて、窓の外を見た。
月が出ている。
「……三十二年、か」
声に出していた。
「前世の私は、三十二歳で死んだ。地下書庫の机で。法令の草稿を握ったまま」
誰にも聞かれていないと思った。
「誰にも看取られなかった。死んだことにすら、三日間気づかれなかった。——書類の提出が遅れて、ようやく様子を見に来たんですって」
笑おうとして、笑えなかった。
三日間。
三日間、私は机に突っ伏したまま放置されていた。仕事が遅れなければ、もっと長かったかもしれない。
窓の外の月が滲んだ。
泣いてはいない。目が乾いただけだ。
——もう寝よう。
ペンを片付けて、部屋に戻った。
廊下の暗がりに人影があったような気がしたが、振り返った時にはもう誰もいなかった。
◇
同じ頃、王都。
ライゼンハルト王宮の会議室は、怒号で満ちていた。
「——三割減だと?」
エドヴァルトは机を叩いた。
目の前に広げられた報告書の数字が信じられなかった。国庫収入の年間見込みが、前年比で三割の減少。
「殿下、落ち着いてください」
宰相レオンハルトが疲れた声で言った。白髪交じりの髪がここ数週間で目に見えて増えている。
「落ち着けるか! 通商条約の更新をしたばかりだろう。なぜ関税の優遇が失効している」
「更新手続きに問題がありました」
外務卿が額の汗を拭きながら説明した。
「通商条約の更新には、三段階の手続きを所定の順序で処理する必要がございます。第一に関税品目リストの再承認、第二に輸出入量の上限再設定、第三に相互最恵国条項の確認。この順序を誤ると、関税優遇条件が自動的に失効する仕組みになっておりまして——」
「それで?」
「我が国は第二段階から着手してしまいました。結果、優遇条件が失効いたしました」
エドヴァルトは報告書を机に叩きつけた。
「なぜ順序を間違える!」
「……この手続きを設計した者以外に、順序の意味を理解している者がおりませんでした」
沈黙が落ちた。
「ちなみに帝国側は正しく処理しております。先方には設計者からの説明文書が残っていたようで——」
「設計者。誰だ」
外務卿と宰相が顔を見合わせた。
宰相が目を伏せた。
「……調査中です」
「調査中? 宰相府の管轄だろう。お前が把握していないはずがない」
レオンハルトは答えなかった。
ただ、老いた手が微かに震えているのを、エドヴァルトは見逃した。
「徴税制度に続いてこれか。一体この国の行政は、誰が回していたんだ」
誰も答えない。
会議室の重い空気の中、エドヴァルトは苛立ちを拳に込めた。
——ソフィーアが出ていってから、何もかもがおかしい。
それは偶然のはずだ。あの女はただの書記官だった。不敬罪で断罪された——いや、断罪の前に出ていった。「お好きになさってくださいませ」と言い残して。
まさか。
いや、まさか。
「この手続きを設計した人間を洗い出せ。宰相府の記録を全部調べろ」
宰相が深く頭を下げた。
その背中が、妙に小さく見えた。
◇
修道院。
共同生活を始めて二週間。前世のことは、断片的にだがアレクセイにも話していた。「死に戻り」の詳細は伏せているが、前世で王宮の書記官だったこと、制度を設計していたことは伝えてある。
「——王国側が手続きを誤り、関税優遇が失効したそうです」
アレクセイが帝国側の連絡係から受け取った報告書を、書斎の机に広げた。
「こちらは正しく処理したので影響はない。だが王国側の損害は相当だろう」
「そうでしょうね」
薬草茶を一口飲んだ。
「あの手続きは、両国に公正な仕組みとして設計しました。不正な更新を防ぐための安全装置です。手続きの意味を理解していれば、誤ることはないはずでしたが」
「理解していた人間がいなかった、ということか」
「ええ。帝国側には説明文書をお送りしていたので問題なかったようですね。王国側は——」
言いかけて、止めた。
王国側は、宰相閣下が私に丸投げしていた。手続きの意味も、順序の理由も、あの方は一度も確認しなかった。
「……読み解ける方がいなかったのでしょう」
それ以上は言わなかった。
紅茶の湯気を見つめる。
復讐ではない。恨みでもない。
ただ、私がいなくなったことで仕組みが回らなくなった。それだけの話だ。
それだけの話が、ほんの少しだけ——胸に刺さる。
◇
翌朝。
食堂のテーブルに着いて、首を傾げた。
パンが一つ多い。
チーズの量も明らかに増えている。昨日までなかった干し果物の小皿まで添えてある。
「院長先生、食事が豪華になっていませんか?」
「あら、そうかしら。季節の恵みですよ」
マルタ院長はにこにこと笑うだけだ。
まあ、修道院も春になって食材が増えたのかもしれない。深く考えないことにした。
リーリアが私の皿を覗き込んだ。
「ソフィ、いっぱいたべて」
「ありがとう。リーリアも食べなさい」
「ソフィ、きのう夜おそかった。おめめ赤い」
ぎくり、とした。昨夜の書斎作業、見られていたのか。
「大丈夫よ。少し本を読んでいただけ」
「だめ」
リーリアが私の袖を掴んだ。銀色の目が真剣だった。
「ソフィ、むりしちゃだめ」
四歳の子どもに心配されている。
前世では三十二年間、こんなことを言ってくれる人は一人もいなかった。三日間倒れていても気づかれなかった私に、この子は目の赤さだけで気づいた。
「……ええ。無理はしないわ」
声が少し震えた。
誤魔化すようにパンを千切る。
テーブルの向かいで、アレクセイが黙って薬草茶を飲んでいた。
いつもと同じ無表情。何も言わない。
干し果物を一粒つまんで口に入れた。甘かった。
修道院の食事が急に良くなったのは、きっと春のおかげだ。
きっと、そうだ。




