第4話 法と制度の鎧
『帝国法第七十二条に基づく後見人指定申請書』
——この書類が、四歳の少女の運命を変える。
五日かかった。
前世の記憶から帝国法の条文を引き出し、一条ずつ要件を確認し、この修道院の状況に合わせた書式に落とし込む作業。インクの染みが指に戻ってきた。懐かしいような、苦いような。
「陛下。書類が完成しました」
書斎の机に三枚の羊皮紙を広げた。アレクセイが対面の椅子から身を乗り出す。
「三枚もあるのか」
「はい。一枚目が後見人指定申請書の本体。二枚目がリーリアの血統を証明する宣誓書——こちらは陛下のご署名が血統鑑定の代替として機能します。三枚目が証人の署名欄です。マルタ院長にお願いします」
「……帝国の法務官でもここまで整理できんぞ」
「前世で私が書いた法律ですので、当然です」
さらりと言ったつもりだったが、アレクセイの碧い目が妙な顔をしている。三日前にも同じ反応をされた。「前世」という言葉に、まだ慣れていないのだろう。
「要点だけ申し上げます。この書類が帝国元老院に届けば、リーリアは帝国法上の保護対象になります。具体的には——」
一、何者もリーリアの身柄を後見人の同意なく拘束できない。
二、後見人の指定は皇帝の署名がある限り元老院の事後承認で足りる。
三、機密扱いの申請が可能なため、元老院の中でも限られた人間しかリーリアの存在を知らない。
「三つ目が重要です。反皇帝派が元老院に内通者を持っていても、機密申請なら閲覧できる人数を三名に制限できます」
アレクセイが書類を手に取った。
一行ずつ目で追っている。法律用語に馴染みがないのか、眉間に皺が寄っている。そのくせ読み飛ばさない。この人は、わからないことをわからないまま通す性格ではないらしい。
「——この、第四項。『後見人は被後見人の居所を任意に定めることができる』。これは」
「リーリアの居場所を私が決められるということです。万が一の時、陛下の許可を待たずにリーリアを連れて移動できます」
「俺を飛ばして動けるようにしてある、ということか」
「はい。陛下に連絡が取れない状況を想定しています」
アレクセイが私を見た。
三秒ほど黙って、それから机の上のペンを取った。
「——お前に預ける」
署名。
流れるような筆跡が、羊皮紙の上に刻まれた。
マルタ院長を呼んで証人署名をいただき、写しを帝国元老院宛の封書にまとめる。帝国側の連絡経路はアレクセイが手配するという。
リーリアの法的な盾が、ようやく形になった。
◇
午後。薬草園のベンチで、リーリアに文字を教えていた。
「これが『り』。リーリアの『り』」
「り!」
「そう。上手。じゃあこれは?」
「えっと……『そ』?」
「惜しい。『さ』」
「さ! さ、さ、さ!」
覚えが早い。教えた文字を木の枝で地面に書き始めるリーリアの横で、ぼんやりと思う。
前世で教材を作ったことはない。
法令と行政記録しか書いてこなかった私が、四歳児に文字を教えている。人生は不思議だ。二度目になってようやく、書類以外のものを書いている。
「ソフィ、みて! リーリアの『り』、じょうずにかけた!」
地面に大きく書かれた『り』。お世辞にも上手とは言えないが、ちゃんと形になっている。
「上手ね」
リーリアが笑った。
この笑顔のために文字を教えているのだと思うと、前世の十三年間が余計に虚しくなる。あの頃の私は、誰のための書類を書いていたのだろう。
木陰から、アレクセイがこちらを見ていた。
腕を組んで木に寄りかかっている。何か言いたそうな顔をしているが、声はかけてこない。
変な人だ。
◇
その夜。
目が覚めたのは、気配を感じたからだった。
修道院の裏庭。窓から見える月明かりの中に、あるはずのない影が動いていた。一つ。木立の間を低く移動している。
修道女ではない。あの動きは——
部屋を出ようとした時、廊下の暗がりからアレクセイが現れた。
仮面はつけていない。代わりに、抜き身の剣を右手に提げていた。
「下がっていろ」
それだけ言って、裏庭に出た。
窓際に張りつく。
月明かりの中、アレクセイの銀髪が光った。影が——刺客が、短剣を構えて飛びかかる。
一瞬だった。
アレクセイの剣が弧を描いた。金属がぶつかる甲高い音が一度だけ響いて、刺客の短剣が地面に転がった。次の瞬間には刺客は地に伏せられ、アレクセイの剣先が首元に突きつけられている。
呼吸二つ分。それで終わった。
駆けつけた時には、アレクセイが刺客の襟元を掴んで引きずり起こしていた。仮面を引き剥がされた刺客の内衣に、見覚えのない紋章が縫い取られている。
「反皇帝派か」
アレクセイの声が低い。
刺客は何も答えず、舌を噛もうとした。アレクセイが素早く顎を押さえる。手慣れている。修羅場を何度もくぐった人間の動きだ。
「偵察だな。一人で来ている。本隊への報告前に仕留められたのは幸運だが——嗅ぎつけられ始めている」
「なぜこの場所が……帝国の外に隠したはずでは?」
「俺がこの国に入った時点で、足取りを追われていた可能性がある。皇帝の不在が長引けば、行き先を探る者は出る。——俺自身が痕跡を残したんだ」
アレクセイの声に、苦い響きがあった。
私はアレクセイの横に立って、刺客の紋章を見下ろしていた。
心臓は早鐘を打っている。けれど、頭は妙に冷静だった。
「陛下」
「なんだ」
「やはり本物の皇帝でいらっしゃいますね。呼吸二つで制圧とは」
アレクセイが振り返った。月明かりの中、碧い目がわずかに見開かれている。
「……お前、怖くないのか」
「怖いですよ。手が震えています。でも、怖がっても刺客は減りませんので」
後見制度の書類は今朝仕上げたばかりだ。法的な盾は作った。
でも法律は短剣を止められない。リーリアを守るには、この人の剣が要る。
「陛下。しばらくこちらにいてくださると仰っていましたね」
「ああ。当分、ここを動く気はない」
「——助かります」
素直にそう言えた自分に少し驚いた。
◇
翌朝。
食堂の小さなテーブルに、三人分の朝食が並んでいた。
パンと、チーズと、薬草茶。修道院の食事は質素だが、温かい。
リーリアが私の隣の椅子に座って、反対側にアレクセイが座る。自然とこの配置が定まりつつあった。
「ソフィ、パンにはちみつかけて」
「もう自分でかけられるでしょう」
「やだ。ソフィがやって」
甘えるようになった。
三日前まで人見知りで、誰の手にも触れようとしなかった子が。パンにはちみつを垂らしてやると、小さな口が大きく開いた。
「パパもたべて」
アレクセイが黙ってパンを千切った。この人は食事中ほとんど喋らない。黙々と食べて、時々リーリアの皿を見て、足りなそうなら自分の分を移す。そういう不器用な優しさだけは、三日間で知った。
リーリアが、はちみつのついた口で言った。
「ソフィとパパと、ずっといっしょがいい」
パンを千切るアレクセイの手が止まった。
一瞬だけ、碧い目が私の方を見た。
——と思った時には、もう視線が逸れていた。薬草茶のカップに目を落として、何事もなかったように飲んでいる。
気のせいだろう。
「リーリア、口のまわりがはちみつだらけよ」
「えー」
ナプキンでリーリアの口元を拭きながら、さっきの視線のことはもう忘れた。
窓の外は快晴だった。
昨夜の刺客のことが嘘のように、薬草園の花が朝日を浴びて揺れている。
反皇帝派は嗅ぎつけ始めている。昨夜のは偵察だ。本隊が来るかもしれない。
書類だけでは、この子を守りきれない。
でも今は——今だけは。
はちみつだらけの笑顔を見ながら、三人でパンを食べる朝が、悪くないと思った。




