第10話 自分のために選ぶ朝
修道院の朝は、パンの焼ける匂いで始まる。
窓を開けた。
朝の空気が頬を撫でる。薬草園のラベンダーが朝露に濡れて、紫の色が深い。
庭に目をやって、動きが止まった。
アレクセイが、パンを切っていた。
庭の小さなテーブルに木の板を置いて、丸いパンにナイフを入れている。皇帝が。あの剣で刺客を一瞬で制圧した手が、パンを——かなり不格好に切っている。厚さが均一ではない。
その隣で、リーリアが踏み台に乗って覗き込んでいた。
「パパ、へたくそだよ」
「……うるさい」
「こっちふとい。こっちほそい。ソフィはもっとじょうずにきれるよ」
「…………」
アレクセイの耳が赤い。
月明かりの中で「いてほしい」と震えた声で言った人が、朝日の中でパンと格闘している。
笑いが込み上げた。
口元を押さえたが、間に合わなかった。
「ソフィー! おはよー! パパがパンきってるよ! へたくそだよ!」
リーリアが手を振っている。人形を片腕に抱えたまま。薄紫の、耳が片方だけ大きい人形。
「おはよう、リーリア」
窓から身を乗り出して手を振り返してから、身支度を整えた。
鏡の前で髪を結う。手が震えている。
——大丈夫。答えは出ている。
昨夜、ベッドの中で何度も繰り返した言葉を、もう一度だけ唇の中で転がした。
◇
庭に降りた。
アレクセイが振り返った。ナイフを持ったまま。不均一に切られたパンが板の上に並んでいる。
「陛下」
「ああ」
「昨夜の——お返事を」
アレクセイの手が止まった。
リーリアがきょとんとこちらを見ている。朝日が銀髪を透かしている。
「陛下、ではなく」
息を吸った。
六週間ずっと「陛下」と呼んでいた人の名前を、初めて口にする。
「——アレクセイ様」
碧い目が見開かれた。
「昨夜の返事ですが」
間。
ラベンダーの香りが風に乗った。リーリアが首を傾げている。パンのナイフが朝日を反射している。
「はい。私は、あなたとリーリアのそばにいたいです」
声が震えなかった。不思議だ。昨夜はあんなに怖かったのに。
「国のためではなく——私のために」
前世では一度もなかった。自分の意志で、自分のために、何かを選ぶということ。侯爵家の義務でもなく、宰相の命令でもなく、誰かの都合に流されるのでもなく。
私が、私のために、ここにいると決めた。
アレクセイの表情が変わった。
見たことのない顔だった。
碧い目が揺れて、強張っていた口元がほどけて、それから——
笑った。
初めて見た。
この人の笑い方を、六週間ずっと知らなかった。あの夜の庭で「笑ったのかもしれない。よくわからない」と思ってから、ずっと。
柔らかい笑顔だった。
頬の傷痕が皺になって、目尻が細くなって、皇帝の顔ではなく——父親の、いや、一人の男の顔。
「——ありがとう」
その一言だけだった。
それで、充分だった。
◇
後日。
アレクセイが改まった顔で私の前に立った。リーリアが横で目をきらきらさせている。何かを企んでいる顔だ。四歳児は秘密を隠せない。
「ソフィーア」
「はい」
「皇妃としてではなく——俺とリーリアの家族として。俺たちの家に来てくれ」
求婚。
皇帝の求婚にしては、飾り気のない言葉だった。指輪もない。花束もない。あるのは不均一に切られたパンと、薬草茶と、興奮で踊り出しそうなリーリアだけ。
「ええ」
頷いた。
「ただし、条件がございます」
「……条件?」
「徹夜は禁止です」
アレクセイが目を瞬いた。
「それは俺に言っているのか?」
「ご自身の胸にお聞きくださいませ。——あと、私にも適用していただきます。前世の二の舞は御免ですので」
リーリアが爆発した。
「ソフィがママ! ソフィがママになる!」
飛びついてきた。小さな腕が首に巻きつく。人形が私の頬にぶつかった。耳が片方大きい人形の、ずれたボタンの目が至近距離にある。
「ママ! ママ! パパ、ソフィがママだよ!」
「ああ」
「パパもだっこして!」
「……ここでか?」
「ここで!」
アレクセイが、ぎこちなく腕を伸ばした。リーリアを抱えた私ごと、不器用に腕の中に収めようとしている。皇帝が。あの剣技の持ち主が。人を抱きしめるのはこんなにぎこちないのか。
笑いながら泣いている自分に気づいた。
「——ソフィーア」
「はい」
「手袋」
アレクセイの目が、私のポケットから覗いている焦げ茶の革に向けられている。
「ああ、これ。お返ししなければと——」
「返さなくていい」
「でも、リーリアのもので——」
「リーリアのじゃない」
碧い目がまっすぐにこちらを見ている。
「最初から、君のだ」
知っていた。
昨夜、やっと認めた。
手袋を握りしめた。使い込まれた革が、手に馴染んでいる。もう何週間も使っているから。
「……ずるいですよ、陛下——アレクセイ様」
「何がだ」
「全部、気づかないうちにもらっていました。薪も、食事も、これも」
アレクセイが目を逸らした。耳が赤い。
パンを切っていた時と同じ赤さだ。
「……言うな」
◇
王都。王宮地下書庫。
エドヴァルトは、鑑定士を連れて地下への階段を降りた。
宰相レオンハルトが辞任した今、書類の管理責任者は国王——実質的には王太子の自分だ。鑑定の許可を出せる。
地下書庫は薄暗かった。
燭台に火を灯すと、壁一面の棚が浮かび上がった。羊皮紙の束が、天井まで積み上げられている。
「この書庫の法令書すべて、魔法印を鑑定してくれ」
鑑定士が頷いて、最初の書類に手を触れた。
淡い光が浮かんだ。魔法印だ。
次の書類。同じ光。
その次も。同じ。
またその次も。
すべて同じ魔法印だった。
「殿下。この棚の書類はすべて——同一人物の魔法印です」
「次の棚もやれ」
鑑定士が隣の棚に移った。同じ光。
その隣。同じ光。
反対側の壁。同じ光。
棚という棚に、書類がぎっしり詰まっている。
法令の草稿、制度設計書、手続き規定、行政記録の様式、通商条約の条文——地下書庫に収められたすべての書類に、同じ魔法印が刻まれていた。
一人の人間が、十三年間。
この地下で、たった一人で、これだけの量を書き続けた。
窓のない部屋で。
名前も出されず。
誰にも顧みられず。
エドヴァルトは棚の前に立ち尽くしていた。
手元の燭台の炎が揺れている。
ポケットの中に、あの日広間に置いていかれた婚約指輪がある。修道院に行く前から、ずっと持ち歩いていた。返すつもりだった。頭を下げて、返すつもりだった。
返せなかった。
あの女はもう、別の男の隣にいる。別の男の手袋を身につけている。
指輪を握った。小さな宝石の角が掌に食い込んだ。
「——俺は、何を追放したんだ」
誰にも聞こえない声だった。
地下書庫の薄暗がりに、魔法印の残光だけが淡く灯っていた。
◇
修道院の食堂。朝。
テーブルに、三人分の朝食が並んでいる。
パン。チーズ。薬草茶。干し果物。
パンの厚さは不均一だ。アレクセイが切ったから。リーリアが「こっちふとい」と指さすたびに、アレクセイが黙って自分の皿に厚い方を取る。
「ソフィ、はちみつ」
「自分でかけなさい」
「やだ。ソフィがやって」
「もう一人でできるでしょう」
「やだー」
はちみつを垂らしてやった。もう甘やかしている。
アレクセイが薬草茶を飲んでいる。
その横顔を見る。頬の傷痕。銀の髪。碧い目。
この人が笑うところを、もっと見たいと思った。
「——ソフィ」
「なに?」
「あしたもいっしょにたべようね」
リーリアが、はちみつだらけの口で笑っている。人形を椅子の上に座らせて、人形の分のパンまで取り分けている。
「ええ」
声が震えそうになった。
こらえた。朝ごはんで泣くのは格好悪い。
「明日も。明後日も」
前世では知らなかったもの。
三十二年間、一度も手に入らなかったもの。
法令でもない。制度でもない。評価でもない。
誰かと一緒に食べる、朝ごはん。
窓から差し込む朝日が、三人分の食器を照らしている。
パンの匂い。薬草茶の湯気。はちみつの甘い香り。
テーブルの下で、リーリアの足が私の足に触れている。反対側では、アレクセイの長靴の爪先が、たぶん無意識に、私の足のそばにある。
この日常が、明日も続く。
それだけで、二度目の人生を生きる理由には充分だった。




