第2話 子守唄
修道院での生活は、想像していたよりずっと静かだった。
朝は鐘の音で起きる。顔を洗って、食堂でパンとスープをいただいて、午前中は薬草園の手入れ。土を触るのは初めてだった。前世では紙とインクしか触っていない。
指先の土を払いながら、ふと笑ってしまう。
三十年以上かけて身につけた能力が「法令の起草」と「行政記録の整理」だけというのも、なかなかに偏った人生だ。
——まあ、だからこそ二度目は違うことをする。
薬草園の隅に、小さな影がしゃがんでいた。
リーリア。
あの日、礼拝堂で出会った銀の瞳の少女。四歳だとマルタ院長に聞いた。それ以外のことは何も教えてもらえなかった。名前と歳だけ。素性については、院長の穏やかな目が一瞬だけ翳ったのを覚えている。
リーリアは人見知りだった。
初日は私の三歩後ろからじっとこちらを見ていて、二日目は二歩になって、今日は——
「……おねえちゃん、なにしてるの」
一歩。
しゃがんだまま、私の手元を覗き込んでいる。
「薬草を植えているの。この子はカモミール。こっちはラベンダー」
「かもみーる」
「そう。乾かしてお茶にすると、よく眠れるようになるの」
「リーリア、ねむれない」
小さな声だった。
振り向くと、銀色の瞳がまっすぐに私を見ていた。四歳の子どもの目が、こんなに静かなのは普通じゃない。
——何があったの、この子。
聞けなかった。
代わりに、土のついた手を差し出した。
「一緒に植える?」
リーリアは三秒ほど私の手を見つめてから、おずおずと指を伸ばした。
小さな手が、私の指を握った。
冷たかった。
◇
その日の夕方。
リーリアをお風呂に入れることになった。修道女たちの手が足りないらしい。正直に言えば、四歳児の入浴介助は前世でも今世でも経験がない。法令は書けるが子どもの髪は洗えない。人生の能力の偏りが酷い。
「リーリア、目つぶって。泡が入るから」
「……やだ」
「入らないようにするから」
「やだ」
結局、泡が目に入って大泣きされた。
——私に子育ては無理では?
そう思いながらタオルで拭いていた時、リーリアが両手を上げた。袖のない肌着だった。
細い右腕の内側に、淡い光が走った。
一瞬。
でも、見間違いではない。
紋章だ。
六芒星と双頭の鷲を組み合わせた意匠。前世で何度も書類に押された印——ヴァイゼン帝国皇家の紋章。
呼吸を整える。
リーリアに悟られないよう、何でもない顔で肌着を着せた。
銀の瞳。帝国皇家の紋章。
この子は、皇帝陛下の血縁者だ。
——なぜ、こんな辺境の修道院に。
前世の知識が勝手に動き出す。帝国の庶子認知には皇帝の署名と元老院の承認が必要。認知されていない庶子の法的身分は、国際法上どの国にも属さないグレーゾーンに置かれる。
つまりこの子は今、誰にも守られていない。
リーリアが私の手を引っ張った。
「ソフィ、かみ、かわかして」
ソフィ。
おねえちゃん、じゃなくて。
「……ええ。乾かしましょうね」
あたたかいタオルでリーリアの髪を拭きながら、私の頭は全く別のことを考えていた。紋章のこと。法的身分のこと。この子を守るために必要な書類のこと。
書類。
また書類か。
二度目の人生では誰のためにも書類を書かないと決めたのに、もう指が動き始めている。職業病だ。
◇
その夜。
隣の部屋から、泣き声が聞こえた。
飛び起きた。リーリアの部屋だ。
扉を開けると、リーリアが毛布にくるまって震えていた。月明かりが窓から差し込んで、涙に濡れた頬を照らしている。
「リーリア」
「——ママ、もういない」
しゃくりあげながら、リーリアが言った。
「みんな、いなくなる。リーリアのこと、きらいになって、いなくなる」
四歳だ。
たった四歳で、こんな夜を何度過ごしたのだろう。
私は何も言わずにベッドに腰かけて、リーリアを抱き上げた。
こういう時に気の利いたことを言える性格ではない。慰めの言葉を知らない。三十二年間、書類としか向き合ってこなかったのだから。
でも。
子守唄なら、一つだけ知っている。
母が死ぬ前に歌ってくれた歌。侯爵家の寝室で、幼い私に。歌詞もうろ覚えだし、音程も怪しい。
それでも歌った。
リーリアの栗色の髪を撫でながら、小さな声で。
しばらくして、震えが止まった。
リーリアの体が重くなる。眠ったのだ。
腕の中の小さな体温。
前世では知らなかったあたたかさだった。
* * *
翌朝。
目を開けると、リーリアの顔が目の前にあった。
いつの間にか私のベッドに潜り込んでいたらしい。銀の瞳がぱちぱちと瞬いている。
「ソフィ、またうたって」
笑っていた。
この子が笑うのを、初めて見た。
「……ええ。今夜も歌うわ」
声が少し揺れた。
誰のためにも生きないと決めたはずなのに。もう、ヒビが入り始めている。
◇
午後。
マルタ院長と応接室でお茶を飲んでいた時、王都からの行商人が持ち込んだ噂話を聞いた。
「王宮の徴税制度が混乱しているとか。改定の時期なのに、やり方を知っている者がいないそうですよ」
紅茶のカップを口元で止めた。
徴税制度。
ああ、あれか。前世の私が作ったやつだ。五年ごとに税率を地域別に見直す仕組みで、見直しの計算式と手順書は全部私の頭の中にしかなかった。宰相閣下の名前で運用されていたから、あの方が理解しているものだと思われていたのだろう。
実際は丸投げだったのだけれど。
一口、紅茶を飲んだ。
「あら。大変ですこと」
マルタ院長が小さく笑った。
私もつい口元が緩んだ。
——大変なのは私ではない。もう、私の知るところではない。
薬草茶の香りを吸い込んで、目を閉じた。窓の外では、リーリアが修道女と一緒に花を摘んでいる。小さな笑い声が聞こえる。今朝からよく笑うようになった。
この静かな日々が、ずっと続けばいい。
そう思った矢先だった。
「院長先生。お客様です」
修道女が慌てた様子で駆け込んできた。
「門の前に、騎士の方が。仮面をつけておられます」
マルタ院長の顔が一瞬、変わった。
穏やかな目に、初めて緊張が走ったのを私は見逃さなかった。
「——この修道院に、銀の瞳の子どもがいると聞いた」
門の向こうから、低い声が響いた。
風が吹いて、薬草園の花が揺れる。
リーリアが花束を抱えたまま、こちらを振り返った。
静かな日々は、三日で終わった。




