第1話 お好きになさってくださいませ
——ああ、私、死んだんでした。
天蓋の刺繍が目に入った瞬間、そう思った。
薄紫の布地に銀糸で縫い取られた百合の花。これは侯爵家の寝室の天蓋だ。見間違えるはずがない。十九年間、毎朝この天井を見て起きていたのだから。
でも、おかしい。
私が最後に見た天井は、王宮地下書庫の黴びた石天井だったはず。
体を起こす。両手を見る。
若い。しわがない。インクの染みもない。三十二歳まで毎日毎日、法令書を書き続けた手ではなかった。
——十九歳の手だ。
断罪の日の朝。
前世で、この日から全てが始まった。エドヴァルト殿下に不敬罪を宣告され、婚約を破棄され、地下書庫に押し込められ、十三年間ただ書類を書き続けて、最後は誰にも看取られずに倒れた。
過労死。
死因が過労死というのは、あまりにも地味な死に方だと思う。
剣で刺されたわけでもなく、毒を盛られたわけでもない。ただ、心臓が止まった。法令の草稿を握ったまま、机に突っ伏して、それきり。
笑えない。本当に、笑えない。
十三年分の法令を書いた。徴税制度を作った。通商条約の更新手続きを設計した。地方行政の記録様式を統一した。
全部、宰相閣下の名前で提出された。
書類には私の魔法印が刻まれていたはずだけれど、あの方は鑑定士による確認を一度も許可しなかった。善意だったのかもしれない。政争に巻き込みたくなかったのかもしれない。
結果は同じだ。
私の三十二年間は、存在しなかったことになった。
「ソフィーア様、お支度のお時間でございます」
扉の向こうから侍女の声がする。
そうだった。今日は断罪の日だ。あの大広間で、エドヴァルト殿下がもっともらしい顔をして、不敬罪の証拠とやらを読み上げる。マリアンヌが作った偽物の証拠を。
前世の私は、あの場で必死に弁明した。無実を訴えた。涙まで流した。
何の意味もなかった。
——今度は、違う。
鏡の前に立って、髪を整える。
侍女が差し出すドレスに袖を通しながら、頭の中では別のことを考えていた。
手持ちの貯金。
三万レン。前世で十三年間働いた給金のほとんどを使わなかった——使う暇がなかったというのが正しい。今世の私の口座にも同額があるはず。
荷物。
最低限の着替えと、書きかけの個人日誌。それだけでいい。
行き先。
前世で一度だけ、地方行政記録の整備のために訪れた辺境の修道院。国境近くの、小さな修道院だった。あの庭で飲んだ薬草茶の味を、十三年間ずっと覚えている。
三十二年の人生で唯一、穏やかだった半日。
——あそこに行こう。
◇
王宮大広間。
燭台の炎が揺れている。左右に並ぶ貴族たちの視線が、入場した私に集中した。
広間の奥に、エドヴァルト殿下が立っている。隣にマリアンヌ。金色の髪を揺らして、心配そうな顔を作っている。上手いものだ、と思った。前世では騙された顔だ。
殿下が口を開く。
「ソフィーア。今日、この場に集まっていただいたのは——」
「もう結構です」
殿下の言葉が止まった。
広間が静まり返る。
「殿下がおっしゃりたいことは存じております。不敬罪の嫌疑、婚約の解消、そして私への処分。そういったことでしょう?」
「……なぜそれを」
「どちらでも構いませんわ」
左手の薬指から、婚約指輪を外す。
小さな音を立てて、テーブルに置いた。
「婚約破棄でも追放でも、お好きになさってくださいませ。書類が必要でしたら、こちらで用意いたしましょうか? ——ああ、それとも宰相閣下にお願いした方がよろしいかしら。書類関係はあちらがご担当でいらっしゃいますものね」
皮肉が口をついて出た。
前世の私には言えなかった台詞だ。でも今の私には、十三年間地下書庫で書類を書き続けた記憶がある。あの生活にもう一度戻る気はない。一秒たりとも。
エドヴァルト殿下が何か言おうとしている。
マリアンヌの顔が強張っている。
貴族たちがざわめいている。
全部、どうでもいい。
「それでは、失礼いたします」
背を向けた。
一度も振り返らなかった。
広間の扉が閉まる音が、やけに大きく響いた。
◇
馬車に揺られて七日。
王都を出る時、不思議と涙は出なかった。
十九年間暮らした屋敷にも、四年間通った学院にも、未練がない。前世の記憶が上書きしてしまったからかもしれない。あの屋敷で過ごした十九年より、地下書庫で過ごした十三年の方がずっと長く感じる。
窓の外に、麦畑が広がっている。
春の陽射しが眩しい。地下書庫には窓がなかったから、この明るさだけで少し目が痛くなる。
——二度目の人生は、自分のために使う。
誰かのために書類を書かない。誰かのために制度を整えない。誰かのために徹夜しない。
もう二度と。
聖ベルタ修道院は、記憶の通りの場所にあった。
石造りの小さな建物。手入れの行き届いた薬草園。白い壁に蔦が絡まっている。前世で訪れた時と変わらない景色に、胸の奥がほんの少しだけ緩んだ。
「まあ。お客様ですか?」
門を開けてくれたのは、白髪の修道院長だった。穏やかな目元に見覚えがある。
「院長先生。突然の訪問をお許しください。しばらくの間、こちらに身を置かせていただけないかと——」
「ソフィーアさん、でしたね。以前、記録庫の整理にいらした」
覚えていてくれた。
前世で一度会っただけの私を。
「お入りなさい。ちょうど薬草茶を淹れたところですよ」
あの味だ、と思った。
たった半日の記憶を頼りに、七日間馬車に揺られてきた。馬鹿みたいだ。でも、他に行く場所がなかった。
修道院の中は静かだった。
夕暮れの光が回廊に差し込んで、石の床を橙色に染めている。マルタ院長に案内されて中庭を横切り、客室へ向かう途中——
礼拝堂の片隅に、小さな影が見えた。
四つか、五つくらいの女の子。
栗色の髪を揺らして、古びた木の椅子に座っている。膝を抱えて、じっとこちらを見ていた。
目が合った。
銀の瞳。
この世界で、銀の瞳を持つ血筋はひとつしかない。
「……おねえちゃん、だぁれ?」
小さな声だった。
少女が身じろぎした拍子に、袖がずれた。細い腕に、淡く光る紋様が一瞬だけ見えた。
王家の、紋章。
足が止まる。
心臓が一回、強く鳴った。
——なぜ、こんなところに。
修道院長が振り返る。
少女が私を見上げている。銀色の目に、夕陽の光が映り込んでいた。
二度目の人生は、自分のために生きると決めたばかりだった。
なのに。
この子の瞳から、目が離せない。




