第二章 其の弐 復帰 学び舎の異変
無事退院した楠木巧はしばらくぶりに登校することとなった。
出迎えてくれる級友に幼馴染、そして、神ヶ丘千早。
さて、彼を教室で待ち受けるものは?
退院して、翌日。学生の身の上である以上、通学は義務である。
なかなか年季の入った公立高校は今日も今日とて日常を刻む。
夏服で涼しげな装いの生徒たちは、清潔感のあるワイシャツを陽光に輝かせながら、正門正面の階段を上り中央校舎へと吸い込まれていく。
本校は創立100年を超えるらしいが、さすがに建屋はそこまで気合は入っていない。
学校の歴史としては長くとも、ほどほどの年月に落ち着いていた。
俺は人の流れに乗りながら、4階にある自分の教室に向かって歩みを進めた。
教室では見なれたブラウス姿の幼馴染が待ち構えている。
「よっ」
俺は軽く手を上げた。
「お帰り、短い別荘暮らしだったわね」
神奈の軽口もなんとなく懐かしい。
「よぉ、タクじゃねぇかやっと退院したのか」
ドスッ
勢いよく叩かれた瞬間に意識に電撃が走るっ。
衝撃が肩の傷口に塩を塗り込んでいた。
「おごぉぉぉおおおぉぉぉ……っ」
思わず膝から崩れ落ちて悶絶していた。
「すっ、すまんっ」
そんな俺に頭を下げるのは、角刈りがトレードマークの悪友だった。
「ノリ……やっていいことと悪いことというのがだな……」
まともに脂汗にじませて抗議の声を上げるが……まぁ、こいつに悪気がないことはよくわかっている。
何というか親愛の情が体育会系なだけなんだ。
「いや、マヂごめん。すまんかった」
正木範義、部活仲間にして悪友の一人がペコペコ頭を下げ倒す。
「ま、次から気ぃ付けてくれりゃいぃよ」
「悪かった」
いいよな、この気安いやり取り、こいつとはあまり気を使わないで言い合えるのがいい。
ん?
俺とノリは違和感とともに立ち止まった。
何だこのプレッシャーは?
話に聞くシベリアの永久凍土というものはこれなのか?
俺とノリは、左右対称でいて油の切れた機械のような動きでプレッシャーの発生元らしき方向を振り返る。
「正木君? 今、巧になにしたのかな?」
振り返った先には目から若干ハイライトの消えた神ヶ丘千早が居た。
「ひ……っ」
驚いたノリが短く悲鳴を上げる。
「ちょ、千早」
思わず呼びかけていた。
「え? なぁに巧♪」
……あれ?
あまりに急激な声のトーン変化に俺の脳みそが空振り三振していた。
「あ、いや、大丈夫だから、ノリも気を付けるって言ってくれてるから」
「うん、巧がそう言うなら分かった♪」
満面の笑みで応える。
「あれ? これどういうこと?」
俺がフリーズしていると、別方向からまた一人。
「タクおかえり」
スラっと背の高いスポーツ刈りの悪友までやってきた。
「カズもお久」
「元気そうでよかったわぁ。でさ」
カズはあっけらかんとこう続けた。
「神ヶ丘さんのこと『千早』って呼ぶようになったんやね? 神ヶ丘さんも『巧』って呼んでるし」
「……」
「……」
教室は水を打ったように静まり返って。
「……ちょっぴり照れちゃうね」
恥ずかしそうに口元に手を当て、それでいて嬉しそうに頬を染めた千早が上目づかいで俺を見ていた。
「なんだとぉおぉぅっ!」
富田が吠え。
「っのやろう!! 楠木ぃ、抜け駆けしやがったなぁあぁぁっ!!」
林は轟き叫び。
「てめぇは俺を怒らせたっ!!」
西口はブチギレていた。
クラスのどこからともなく更なる男子連中の怒号が木霊した。
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「ふふっ♪ う〜ふ〜ふ〜ふ〜っ♪」
神ヶ丘千早は上機嫌だった。
「千早、緩みすぎ」
その幸せで溶けきった彼女を見ながら、神奈は事件が起こる少し前の情景に思いを馳せていた。
――――――――――
『楠木君、楽しそう』
遠目で遠慮がちに見守る千早。
近くて遠いその存在を愛おしげに眺めている。
『千早、何だったら連れてくるけど』
『え? えぇっ……!? でも、うぅん。いいよ。何話していいか分かんなくて』
えへへと小さく、そして少しだけ寂しそうに言う。
近づきたくても近づけない。
私のように遠慮なく巧に物を言える娘ではないことはよく知っている。
『……でも、そのうち、お願いしようかな』
遠慮がちな問いかけに私は苦笑いしながら「了解」と返してあげる。
この娘のペースで近づけるのが一番だと思う。
『それに、ね。今、楠木君と一緒に居たら迷惑かけちゃいそうだし』
伏し目がちに言う。
懸念事項は私も知っている。
千早に付きまとうクソ野郎だ。
巧もそいつの存在を知って怒っていた。
間に入って追い払ったこともあった。
そうだった。その時も千早は巧をヒーローのようにキラキラした目で見ていたことを思い出す。
『むしろ、力借りなよ。あいつは絶対に嫌とか言わないから』
『うん、だから……余計に言えないよ』
少し寂しそうに巧の後姿を見つめていた。
千早……あんた遠慮しすぎだよ。
――――――――――
「だって、だってぇ……神ヶ丘は楠木の嫁だぁって、そんなぁ……そんなことぉ……あっていいんだよぉ♡」
溶けそうな表情でふにゃぁっと幸せ丸出しに笑っている千早を見る神奈は瞑目する。
どーしてこーなったっ!
劇的ビフォーアフターどころじゃない。
――何という事でしょう。
いや、ホントそうだよっ!!
『だめだ、今のこの子は脳みそ常夏状態だ。しかもヘタレの巧はロクに否定も肯定もしないからなし崩しになってる。……いや、これでうまくいくならいいんだけど下手すると巧の奴が逆走しかねない』
頭が痛かった。現実を侵食しすぎて物理的にも痛くなってきそうだった。
流れが完全に悪いわけではないのだが、上手く捌かないと深淵が顔を覗かせるのは想像に難くない。
そして、奥手というかヘタレというか恋愛クソ雑魚ナメクジの巧がそれを捌くことは確実に不可能である。
『この間言ってたのと違う意味で手を下す必要があぁぁぁぁぁぁっ』
「うん、千早は巧のお嫁さんになるよ。一生傍に居て何でもしてあげちゃうね♡」
『ガイドラインが必要ぉぉぉぉっ!』
神奈がガタンっと椅子を蹴って立ち上がる。
「ちょっと、あんたはまだ高校生でしょうが……っ」
「えへへ♪ だから、最初はお弁当かなぁ手作りしてあげたいんだぁ……」
『そこかよっ』
発言テンションと内容の温度差で認知にバグが発生する。
奥手で純情娘を地で行く千早にあっちの知識はほとんどない……と思うのだが、いかんせん事件以降の彼女は何をどこまで振り切っているのか皆目見当がつかない。
もはや放置はできない。中枢までピンクに染まった千早の脳味噌は当てにできない。
ブレーキをどこかに投げ捨ててきている。
頼むから拾ってこい。
いや、本人に付いてないならもう外部で付けるしかないっ。
問題なのは「本人でさえ真の着地点を理解していない」ことだ。
口にしている内容を鵜呑みにするのも危険な気さえする。
「私、幸せだよぉ。巧が居てくれて、だからもっと傍に居てね♪」
蕩け切った千早の声が耳に届き、神奈の脳裏に未来予想図がよぎる。
見える。数ヶ月後、左腕を巧の右腕に絡め、右手で自らの下腹部を愛おしげにさすりながら、そのまま同じセリフを言いだす光景が。
ならば解決策は。
『必要なのは適度な盛り上がり、絶対に行き過ぎない範囲でとどめた段階的な進展っ!』
穏やかにしかならないシチュエーションでデートもどきをさせてみるのもいいかもしれない。
目的地の近くに『大人の施設』が絶対にない場所、絶対っ!!
あと、密室になるような場所厳禁!!
絶対に暴走娘がやりすぎる。
無防備な千早のアプローチに巧が踏み込み方を間違える恐れもある。
ひとしきり考えを巡らせて……頭を抱えて机に突っ伏した。
『私は何をどこまで懸念してるんだよっ』
彼氏いない歴十七年の女子高生がどこまで進捗想定して恋愛監督まがいのことをしなければならんのか。
親友の恋は成就してほしい。
高校に入ってからという、さほど長くはない期間ではある。
それでも、千早が抱いてきた純粋な恋慕の情を神奈はよく知っていた。
そんな中であの事件は起こった。
結果として、彼女の躊躇が跡形もなく木っ端微塵となったであろうことは想像に難くない。
躊躇がなくなった。いや、それはいい、それ自体は別にいい。
『とにかく一旦落ち着いてぇぇ、素直に応援してあげられないでしょぉがぁ』
天見神奈、魂の叫びだった。
千早が盛大にやってくれました。
こんな爆弾魔になる前の彼女は神奈の回想シーンからお楽しみください♪
いや、ホントに劇的ビフォーアフターだな。
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