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第六章 其の肆 回帰 月下に鬼影……

鬼と化した千早が巧の前に現れる。

巧への愛情が、妄執へ歪み、巧への強い捕食衝動を生み出し、千早を突き動かしていた。

だが、巧を前に千早は……。

 堤頂から落とされ、元の場所に戻るまで失った時間は1分も無いはず。

 だが、これほど強度が上がった鬼の肉体にそれは致命的な猶予を与えることになる。

 不幸中の幸いだったのは、相手の鬼気の凄まじさだ。揺らぎこそある。

 覚醒直後で鎮めることもできないのだろう。

 落ち着いて探ればおおよその方向を探ることはできた。

『まさかあの場所に戻っているとはな……』

 逃亡を想定したというのに、元の場所に戻るなどさすがに予想外だった。

『逆方向まで視野に入れたのは完全に失策だった。今更何があるというのだ』

 誠司郎は知らない。楠木巧が生きていることを。

 神ヶ丘千早が最も求める存在が、そこに居ることを。

 疑問を抱えたまま誠司郎はひたすらに山を駆け抜けていた。


 ☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆


 ほんの十メートルほど向こうに彼女は立っている。

「ワタシノ……」

「楠木君っ、逃げてっ!!」

 萱島さんが叫ぶ。

「巧ぃっ!! いいから逃げてぇっあんたまで、あんたまでなんかあったら……」

 神奈が必死に声を上げる。

「UaアァaaaAAaaaaッ!!」

 そして、目の前の千早は俺を前にして頭を抱えて吠えていた。

「……違う。あれは千早だ、千早が泣いてんだ」

 俺は首元から滲み出る血の痕跡を確かめた後、正面を見て、千早に向かって歩き出す。

「え?」

 神奈が信じられないものを見る目で俺を見ていた。

「俺だ。俺が、行かなきゃ」

「待って、待ってください」

 焦りを含む声が聞こえる。

 構いやしなかった。

「ちょ、何バカなこと言ってんのよっ!!」

「バカでいいし、バカで十分だ。だから、バカでなきゃできないことをやってくる」

 神奈相手にニカッと笑い返してやる。

「フラれたときは慰めてくれ」

 俺は再び千早に向き直った。

 居る。ほんの少し前、想いを伝えあった少女。

 俺が欲しいと訴えていた少女。

 そして、誰より俺が。

 千早は俺を前にしてとろんと陶酔したような表情を浮かべていた。

「アァ……」

 感極まったという言葉がそのまま体現したかのような吐息。

「ホシィ……」

 満月に照らされる中、少女そのものの姿を持ちながら、匂い立つような色気を伴っていた。

「オイシソゥ、ハヤク……ハヤク、タベタィヨォ」

 表情や言葉と裏腹に動きが鈍い。

 俺に向かって進もうとしている。だが、その足取りはあちらこちらへと彷徨っていた。

 彼女の中で残ってる何かが最後の抵抗を試みているようだった。

 紅い双眸には涙が滲み出していた。

 俺は、ゆっくりと千早に向かって歩いていく。

「だメ……」

 千早が立ち止まる。

「タべたィ、ヤだ……ホしィ、ホしイョ」

 千早が頭を抱える。

「ヤだ、キチャだメ……オィシソ……ニげて、ニゲテよぉ……アァあアァァホシィヨォ」

 いやいやと首を振る。

 視界の端で、萱島さんが歯を食いしばっていた。千早を見つめるその目は潤んでいた。

「千早」

 俺は千早を見ながら改めて呼びかける。

 ビクリッとその体を震わせる。

「千早、俺さ。お前にだったら喰われて良いよ」

 千早が止まる。

 その場の全員が硬直していた。

「楠木君っ、なんてことを言うのっ!!」

 萱島さんの悲鳴のような叫びが聞こえるが、今の俺には関係ない。そんな事を言われるなど分かりきっている。

 俺だって、都合よく奇跡が起こるなんて思っちゃいない。

 だから、思ったままを言いたかっただけだ。

「アァァアァァアァァア、ホシぃ、タベタイッ、タクミヲタベタイんダヨォォォォぉっ!! ソンナの、ソンナコトイッタラ ガマン……ガマンデキナイ……ダメ…ニげ……っ」

 口元からダラダラとヨダレを垂らし、俺との距離を一瞬で詰めると、鮮血跡が残る首に口を寄せる。

 ガッ、ブツッ

「ぐっ」

 違う位置、新たに一口噛みつかれていた。

「アァ……オイシぃ……モット、モットォ……」

 咀嚼し、ゴクリと嚥下した瞬間にその瞳が恍惚に彩られる。

 荒々しく、艶めかしい息遣いが耳元で聞こえる。一呼吸するたびに悦びが漏れ出していた。

「アァッ……ァァア、ステき……シアワせぇ……だメっ、チがウ……ホシィ、ホシィよぉ、ホシィけド、ヤダぁ……やダよぉ」

 蕩けるような表情と、全てに絶望する表情が目まぐるしく入れ替わり、ついに千早は頭を抱えて震えだす。

「ホしィの、セツなイの……モット、もットたクミがホシくナッて、ホシクなッテ、イナクナラらラいデ……ぇ」

「なぁ、千早……」

 俺は千早を肩から抱きしめる。

 脂汗がにじむ中で、僅かに視線が揺れる。

「死ぬのが怖くないかって云ったら嘘だ。めちゃくちゃ怖い。でもさ、それ以上に」

 改めて千早を見る。

 絞り出すように、確認するかのように問われる。

「千早は……俺を、俺だから欲しいって思ってくれたんだよな」

 鬼の凶相を残しながら身を悶えさせている。

「ドウシテ……」

 呆然とした表情からこぼれる。

「ダめ……だメ……キタいサせナイで、コワれチャう……ダめダってシッタとキ……ワタし、コわレチャぅ、コンどコソ……こワれル」

 紅い双眸から涙をポロポロと零し、懇願するように俺を見上げる。

「何かさ千早の一途、ここまで来ちまったんだなって、そんな風にも思えちまった。だから、俺で最後にできるんなら、それでもいい。けどさ、俺は……お前と一緒に生きたいよ」

 自己犠牲なんて格好つけたもんじゃない。

 そこまで惚れてくれた相手に、応えたいと思えた相手に、俺はやりたいことを伝えただけだ。

 内面から染み出す何かに抗うように千早は激しくかぶりを振る。

 紅く輝く双眸が、不安の色を浮かべてこちらの様子を伺っていた。

「ドウシて……っ、ワタし、オニだヨ。バケもノなンダヨ」

 重ねる問い。

 関係ない。

 だってさ……今、頑張ってくれてる千早だから。

「きタイ……させナイデよぉ……」

 弱々しい動きで、絶対的な力で俺を引き放していく。

「でも、もし我慢できずに喰いたいっていうなら俺以外を喰うのは無しだぜ? お前にとってたった一人の俺で居たいから、さ」

 たった一人の男として求められることは『悪くない』とも思えてしまったんだ。

 目の前の千早の瞳から赤い輝きが少しだけ薄まり、ポロポロと涙が流れ落ちていく。

「……アぁ……ァあ」

 千早の意思があるとハッキリとわかる。俺は千早から目を離していないからだ。

 衝動に支配された鬼じゃなくて、俺のために必死に衝動に耐え。

 必死に耐えざるを得ないほど、耐えてくれるほどに「俺が欲しい」と言う。

 最愛の相手がそこにいる。

「ワたシ……わタ、シ、タクみを……タベタぃノに、たベタクテ、タベタくなくテ」

 双眸の輝きは赤から紫に変わる。

「俺は、千早なら良い」

 千早が力なく膝からくず折れる。

「コんナ、コンなバけモノオんナ……ナのニ」

 俺は千早に寄り添う。

「俺はお前が良い」

 抱き寄せる。

「……ウ…そ」

 信じられないと言いたげな頼りない表情。

「言っただろ。俺は、お前が良いんだ。神ヶ丘千早」

 逆立っていた髪が一房、また一房と重力を思い出したように落下していく。

「タく……み……?」

「覚悟しろよ千早、お前は一生俺だけの千早だっ」

 まっすぐに千早の目を見据えて、俺は精一杯の想いを叩きつける。

 これでもし俺が喰われたとしても……千早が抗いきれなかったというなら、やむ無しだ。


 でもさ、俺はやっぱり生きて千早と一緒に……。


 双眸が紫から蒼となって薄まり、やがて元の千早の瞳に戻っていく。

「タく、み……」

 力なくへたり込んだ千早に寄り添って、俺は手にしていた麦わら帽子をかぶせてやる。

「たくみ……」

「おかえり……千早」

「巧……たくみぃ……」

 ポロポロと、いつもの神ヶ丘千早が泣いていた。


 俺の……大好きな、俺を大好きな千早がそこに居た。


 ☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆


 黒き鬼が、千早だった鬼の足取りを掴み駆け続けた最中、その光景が目に入ってきた。

「アレハ……」

 人を凌駕する鬼の知覚力を以てしてようやく得られる情報に思わず言葉が漏れる。

『楠木巧だと!? まさか生きていたというのか』

 衝撃が隠せない。あの状況、あの配置で生き残るなど過去の経験を完全に否定している。

『馬鹿なっ、何をする気だ!? 近すぎる』

 何故か立ち尽くす鬼の正面で少年が言葉を発していた。

「でも、俺以外を喰うのは無しだぜ? お前にとってたった一人の俺で居たいから、さ」

『なんと言うことを言う、死にたいのかっ!』

 自らの足に更なるムチを入れる。

『天見神奈だけではない。生き残ったのだ。みすみす死なせるわけには……』

 誠司郎の思いと裏腹にその光景は予想と異なる情景を映していた。

「ワたシ……わタ、シ、タクみを……タベタぃノに、たベタクテ、タベタくなくテ」

 鬼が……動かない。

 かろうじて見て取れば、鬼の双眸の輝きは赤から紫に変わる。

『馬鹿な』

 誠司郎はそれを知っている。

 そして、それが自然覚醒では起こり得ない事も熟知している。

「俺は、千早なら良い」

 鬼が力なく膝からくず折れていた。

「コんナ、コンなバけモノオんナ……ナのニ」

「俺はお前が良い」

「……」

「言っただろ。俺は、お前が良いんだ。神ヶ丘千早」

 逆立っていた髪が力を無くして落ちてゆく。

 これも……知っている。

 そして、高台の斎場駐車場に至った時、それを目撃することになった。

「タく……み……?」

「覚悟しろよ千早、お前は一生俺だけの千早だっ」

 そして、鬼の瞳が蒼を経て元の瞳へと戻る。

 一気に収束する鬼気。

「バカナ、コレハマルデ……」

 誠司郎はこの気配を知っている。これは。この現象は。

『自然覚醒では有り得ん事だ。前提が違い過ぎる』

 自らの経験で知るがゆえ、それが起こりえないことを熟知している。

 だからこそ、自然発生した野良鬼を救う術などないのだから。

 不意にある事実が閃いていた。

「ソウカ……」

 一連の事件。そもそもの発端。

 今に至るまでの事態の流れ、誤解があり、修正し、そして、その修正の隙間。

『そうだったな……あの時、楠木巧の血肉を食ったのは……』

 全てのパズルが組みあがるように、誠司郎の論理は一つの結論に導かれていた。


 ☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆


 改めて千早を正面から見る。

「たく、み?」

 泣き顔だった。捨てられた子犬のような顔をしていたけれど。

 俺の知っている。俺が一番好きな少女の顔だ。


 あ、ヤバいかも……でも、いいよな。


 所々泥がついていたり、何より口回りが俺の血で汚れていたりするが構うものか。

 俺は千早の肩を抱き寄せる。


「へっ? んっんむ、ぅ……っ!?」

 その唇を強引に奪った。


 余りの事に千早は目を白黒させている。

 萱島さんや神奈がこちらを見て固まっているが気にしない。

 何もかも構わない。多少泥が口に入ろうが、血の味が混じっていようが、この唇は俺の物だ。俺は感情の赴くまま千早の唇の感触を味わっていた。

「んぅ……!? ん…ん、ん……ぅんっ…んぅっ♡」

 最初は弱々しく俺の胸を押したり、俺の顔を確かめるようにおろおろと視線をさ迷わせていた。俺が一心に千早を求めていることを悟ると、戸惑いに代わって喜びの色が浮かび上がる。全身から力が抜けて、こちらに身を委ねると、瞳を幸せそうにとろんとさせていく。それでも懸命に俺を見つめながら、俺の唇を受け入れ、背中ごと抱きしめ返してきた。

「んぅ、んっ♡ ……ん」

 お互いがお互いを求めていた。やっと取り戻せた。

「んぅん♡ ……っは……ぁっ」

 長い口づけを交わして、ようやく唇を離した。千早はまだ少し余韻に浸りながら俺を蕩けた上目遣いで見ている。

「もぉ……」

 少し唇を尖らせて俺を拗ねたような眼差し。

「……いくらなんでも強引すぎるよ?」

 赤らめた顔が可愛かった。

「ごめん、我慢できなかった……」

「もぅ……っ」

 小さく頬を膨らませ、ほどなくして安堵の表情に変わる。

「……嘘じゃ、なかったんだね」

「え?」

「……あんな風になっちゃったのに、私が良いって、私が欲しいって本気で言ってくれてたんだなって」

 頬を朱に染めて、愛しい少女が俺を見ている。

「本気だからな」

「……血まみれだったのに」

「関係ない」

「……私が嫌がるとか思わなかったの?」

「それは凹む」

「……バカ、嫌なわけないよ」

「……ヤバい」

「巧?」

「……実は今でも我慢できないくらい千早が欲しい」

 俺の恥ずかしい言葉を聞きながら、千早は嬉しそうに目を細めていた。

「もぅ馬鹿……」

 照れくさくて視線をそらしたくなるが、嬉しそうな千早を見ていたくもあった。

 互いに見つめ合っていると、千早が目を瞬かせて、サッと頬を朱に染める。

 ……うん、もう一回くらい。


「終わったか?」


 出し抜けに静かな声が割り込んできていた。

「うわぁっ!」

「うにゃぁっ!」

 俺と千早が飛び上がらんばかりに仰天する。

 振り向いた先に居たのはバラけた長い髪をおろしたままの黒ずくめの男。追矢誠司郎。

「あっ」

 神奈が声を上げて、警戒をあらわにしている。

「先輩っ」

「追いついてきてみれば……想定外の事態がここまで来ると呆れても物も言えん」

 追矢さんが肩をすくめていた。

 無言のまま千早を正面から確認していた。

 頭の上からつま先まで2度ほど視線が往復する。

「あ、あの……」

 千早が小さく震えかける前に俺は前に出る。

「何か用があるなら俺が聞きますよ」

「……」

 追矢さんは何も言わない。

 神奈も俺と並んで彼の前に立ちふさがろうとしている。

「まさか、あんたまだ……」

「終わりだ」

 神奈の呼びかけに対し、目を伏せて短く返す。

「神ヶ丘千早は……既に処分すべき対象ではなくなった」

 そのまま続けると周囲に散乱した荷物を簡単にまとめ始める。

「え? え?」

「萱島樟葉、俺たちの仕事は終わりだ。以後の経過観察はするが状況はほぼ完了と見ていい。事後対応班への引継ぎを頼む」

「あ、あの……先輩?」

「何だ?」

「神ヶ丘さんは……?」

 目線を近くに居る俺達にチラッと向けた。

「……今は言えん」

 何か話しているが良くは聞き取れない。

 だが……少なくとも当座は大丈夫そうだった。

「あんたら……」

 振り返ると神奈が半眼で俺たちを見ていた。

「あ……えと神奈」

「私が今までどんな気持ちで見てたと思ってんのよ……千早っ!」

 鋭く千早の名前を呼ぶ。

「ひゃいっ」

 ビクゥッと分かりやすく縮こまった千早が反応している。

 そして、神奈は千早に抱き着いていた。

「千早ぁ……」

 ボロボロと泣いていた。

「良かった……良かったよぉ……」

「神奈……? 神奈ぁ……ごめん、ごめ。心配かけて、ご……ごめんなさぃ」

 千早も涙をこぼし始める。

「ホントだよ。ホントに……もうダメかと思った」

 親友二人が抱擁しながら泣きじゃくっていた。

 しばらく泣き続けて……次第に落ち着きを取り戻していく。

「はぁ、無事でよかったけど……」

 ひとしきり泣いた末に落ち着いて。

「あのさ、あんたら早速何やってんのよ」

 神奈が半眼で俺たち二人を見ている。

「あー、えと、な」

「あ、うん。その……ね? ね?」

「もぅね。何か途中から『私は何を見せられてんだ?』って思ったよ……」

「……」

「……」

 返す言葉もなかった。

ついにここまで来ました……。

千早が戻れたのは「愛の奇跡」だけではありません。

序章からずっと、彼女は無意識に戦い続けていました。

それが実を結んだのが、この結末となります。

もちろん巧の行動が不可欠です。

彼が躊躇ったり、及び腰になったり、まして逃げたりしたらこの結末はあり得ませんでした。

一切の躊躇なく、ただまっすぐに千早を求めたからこその結末です。


解説については終章にて語られます。


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