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第六章 其の壱 彷徨 紅眼の泪

巧と千早

二人きりのバンガロー……

重なる想い、ファーストキスを交わした時、すべてのタガが外れた。

 ピチャ……ピチャ……クチュ、ゴクッ

 水音を立てて、少女は何かを咀嚼し飲み込む。

「アァ……」

 涙を流しそうなほど感極まった声。

 月光に照らされたその姿は恍惚という言葉を体現するものだった。

 紅く輝く双眸、上気した頬、表情は幸せに満ち、愛しい少女の面影そのものだった。

 美しいとさえ言えた。

「ウレシィ……シアワセ、シアワセダヨォ……」

 口を真っ赤に染めているという事実を除けば……。

「千早……」

 俺の脳は首筋から感じる痛みをようやく受け取っていた。

 脂汗がにじむ。

 歯を食いしばって、痛みを堪えて。

「千早っ」

 少女の肩をつかんで少しだけ体を離し、その目を見据える。

 俺の呼びかけにビクンッと千早の体が震える。

「え? た、たく……み……?」

 紅い瞳が揺らぎ、目の焦点が少しだけ合ったように見えた。

「あれ?」

 ゆっくりと周囲を見回している。

「……あれ? おかしいな……」

 千早の視線が虚空を彷徨いだす。

「だって……だってあの時……あいつにナイフを突きつけられてブラウス引っ張られて、頭が真っ白になった後、目の前が真っ赤で……振り払ったら簡単に飛んでいって……」

 焦点の合わない目で、小さな言葉が零れていく。

「誰か来て……慌てて振り返ったら巧で、倒れ込んだ巧が私に『逃げろ』って、だから逃げ出して……でも、私、その時今みたいな美味しい何かを口に……」

 左手を口に当てる。

 呆然と宙を彷徨っていた千早の視線がゆっくりと降りていく。

 そして、鮮血に染まった俺の首筋で止まった。

「今、みたい……な?」

 操り人形のような動きで口に触れていた左手を目の前に動かす。赤く濡れた手のひら。


 ひゅっと息を吸い込む音が聞こえた。


「いやあぁぁぁぁぁぁああぁぁぁぁっ!!!」


 両手で顔を覆って叫び声をあげる。

 千早はその場で蹲っていやいやするように頭を振る。


「やだぁっ! やだやだやだぁっ!! 見ないでぇっ、お願い見ないで巧ぃっ!! やだぁっ、こんなのやだぁっ! 私をみないでぇぇぇっ!! 見ないでよぉ……っ」


 高ぶる感情に当てられたかのように千早の黒髪がザワリと逆立ち始める。2つくくりの髪留めが解けて長い髪が大きく広がる。

 瞳はどんどん紅く輝き、爪が伸び、小さな唇の隙間から鋭く尖った牙が姿を見せ始めていた。

「やだぁ、やだアァあぁぁぁッ…来ないで、私を壊さないでっ、こなィでヨぉ、私、ワタシ、わた……シ、巧、たくみ、タクミ……」

 全身から何かが漲っていく。

 華奢な体から想像もつかない威圧感が吹きあがりビリビリと空気を震わせていった。

「あ、ああぁぁあぁぁぁぁアアアァァァアアアアァァァァァァッ!!」

 ひときわ大きな声を上げたかと思うと千早はバッと上体を上げ、俺を見る。

 その瞳は紅い。ルビーのように美しく輝き、見る者を蠱惑する妖艶な光を放つ。

 その表情は先ほどまで泣き叫んでいたのが嘘のように、とろんと蕩けていた。


 視線が合う。


「……アァ……」

 恍惚の表情。灼け付くような熱と、満たされぬ渇きが織り交ざった吐息。

「オィシソゥ……」

 俺を欲する原始の欲望。捕食の願望。

 フッと右目だけ紅い輝きが揺らぎ、涙が零れ落ちる。

「チがう、ちがぅ……ダメ、やだ……にげテ、私から、ワタシから逃げテエェェェェェッ」

 頭を抱えて天を仰ぎ、矛盾した欲望と願望が交じり合う絶叫が木霊した。

 髪を振り乱し、いや、逆立つ髪は苦悩するように虚空をのたうっている。

「お願いィィィ、ハやクわたシカラ、モゥ、モウ……ッ!」

 叫ぶ千早を見て俺は。

「千早」

 思わず抱き寄せていた。

「エ……?」

 一番驚愕していたのは、ほかならぬ千早だ。

「俺は……お前を離さないぞ」

 強がりではない。

 ただ俺には、誰もが鬼と呼ぶだろうその姿も、千早にしか見えなかった。

 全力で抱きしめる。

「ダ、メダヨォ……私、ワタシ、ワタ、ワ……」

 ドンッ

「うぐっ」

 俺の全力の抵抗も空しく千早の押す力にあっさりと吹き飛ばされる。

「ゴめん、ごメンネ、タクミ……コんなオニが、アなタを好キニナッテ……」

 ポロポロと涙をこぼし、両目に再び紅い輝きを灯しながら。

「デモ、ダイスキ……」

 そのまま背を向け、扉を吹き飛ばしながらバンガローを飛び出していった。

 また俺は動けない。くそっ情けねえ……情けなさすぎるだろっ。

「千早……っ、千早あぁぁぁぁぁあぁぁぁっ!!」

 喉が裂けんばかりに俺は彼女の名を呼んでいた。

 残された麦わら帽子だけが、彼女の痕跡だった。


 ☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆


 誠司郎が身をひるがえした瞬間、その先には神奈が手を広げて立っている。

「そこをどけ、天見神奈」

「待ちなさいよっ!! 絶対にろくでもない話でしょっ!!」

「天見さんっ」

 樟葉が呼び止めるが神奈は構わない。

「そんな顔して巧たちの所に何の用だっていうのよ。鬼はもう倒したはずでしょ」

「……終わっていない。楠木巧を捕食しかけた鬼は別に居た」

 誠司郎が短く返す。

「何言ってんのよっ、巧を追いかけてきたあの鬼は……っ」

「複数の鬼が近い場所にいるとき……縄張りを侵した者を執拗に排除しようとする」

「何を……」

「半覚醒の者は、常時鬼気を発しない。感情が昂った時のみ鬼気を発する。自然覚醒においてまず存在しないが、な。通常は覚醒と同時に一気に呑まれるからだ」

「何……を」

「乙が現れた時、楠木巧の近くに居たものは誰だ? 感情を揺らした者は誰だ?」

 誠司郎が静かに告げる。

 鬼が現れた時、彼の近くに居たのは……展望台では具体的な行方は知れず。文化園近くの山道では―― すぐ隣。

「感情の起伏が大きくなった者は居ないか? 抑制が効かなくなった者は居ないか? 攻撃的になった者は居ないか?」

 誠司郎が言葉を続ける。

 巧への好きが止まらなくなった。巧を見つけるだけで突進するようになった。巧が他者と交際を始めたらと匂わせただけで激しい嫉妬を見せた。

「う、そ……」

「天見神奈……お前のその表情が答えだ」

 そのまま神奈の横を通り過ぎようとする。

「待ってよっ!! 千早なんだよっ! 待ってっ! やめてよっ、お願いだから!!」

 思わず腕を掴んで押し止める。神奈の頬に涙が伝っていた。今はただ懇願するしか術はない。

「残念だが、覚醒した鬼に救いはない。少しでも早く終わらせるのがせめてもの慈悲だ」

「っ!! ふざけないでっ!」

 誠司郎は真っ直ぐに神奈を見据えた後、一瞬だけ瞑目し、片手で軽く押すように突き放した。

「あ……」

 神奈の体は抵抗も許されず軽く宙を舞って、樟葉が抱きとめる。

「悪いが猶予はない。恨むなら俺を恨め……慣れている」

「……っ!! 待てぇっ! 待って! 待ちなさいよぉおぉっ!!」

 神奈の絶叫は遠ざかる誠司郎の足を止めるに至ることは無かった。


「こ、のっ」

 駆けだそうとする神奈の腕を掴む。

 振り返った先にいるのは必死の表情を見せる樟葉だった。

「天見さん待ってっ!!」

「いやよっ、絶対に止めてやるっ」

「辛いものを見るだけですっ!! お願いですから止まってくださいっ!!」

 樟葉の必死の叫びを受けて、神奈は一度振り返る。

「何よそれ……」

「天見さんも、もう……分かってるはずです」

 感情を抑え込むような声。

「分かりたくないわよっ!!」

 感情のまま叫び誠司郎の消えたキャンプ場へ向き直る。

「天見さん……」

 樟葉は奥歯を噛み締めていた。

「おそらく楠木君は……亡くなっています」

 出てきたのは神奈の心を折るための言葉。

「……っ!?」

 バッと神奈が振り返った。

 涙を堪えて歯噛みする。反論の言葉が見つからない。

「先輩が……追矢誠司郎が立ち止まって説明までしたのが答えです。間に合うなら無視して走り出します」

「何よ……」

「自然覚醒した鬼が最初にすることが……捕食殺人です。他者を獲物としか認識できなくなり、人というものへの終わらない飢餓が芽生えます」

 先ほど目にしていた紅い双眸の乙鬼が浮かぶ……まさしくそれが末路だと言わんばかりに。

 そして、その想像は鬼狩り・追矢誠司郎が一方的に蹂躙した光景も想起させる。

「あの娘が、そんなわけないじゃないっ!!」

「……私は嫌になるくらい、似たような例を見ています。もう間に合いません。お願いします。これ以上あなたを傷つけないでください」

「……大体パターンBって何なのよ」

「現地に入る前に関係者は調査しました」

「え……」

「被疑者候補を洗うのは当然の事です」

「っ!?」

「楠木巧君に無関係な鬼であればA、関係者ならB、事件関係者ならばCです」

「ふざけ……っ!」

「自然覚醒した鬼であれば行方不明になります。ですから、Bはほぼ破棄していました。事実あの乙型が現れた」

 自嘲的な笑みを浮かべる。

「天見さん、当然あなたも候補だったんですよ?」

「……っ!!」

「私たちは散々嫌なものを見てきました。ですが、それは本来私たちだけが知っておけばいいことなんです。これは私個人からのお願いです。どうかこれ以上深入りせずに守られる立場にいてください」

 眼鏡の向こうにある瞳は真摯に神奈を見据えていた。

 逸らすことのないまっすぐな眼差し。

「私は……まだ諦めないっ!」

 腕を振り払い、そのまま身をひるがえす。誠司郎が走り去った後を全力で駆けだした。

「天見さんっ!!」

 その背中を樟葉も追いかけ始めていた。

 月光の映える中、幕はまだ下りなかった。

千早の正体が明らかになりました。

千早は別に騙していたわけではありません。

本人も理解していなかったのです。

誠司郎が神奈に対して確認していく事項というのは敢えて、作中で強く描写している内容となります。

引っ込み思案だった千早が何故あれほど弾けていたのか?

第四章での鬼の性質説明ですが、実は「千早の取り扱い説明」だったりします。


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