第58話 王宮司令部の混乱
城壁から王宮司令部へ戻った俺は、鎧を脱ぐ間もなく、そのまま作戦会議室へ入った。
第一防壁では帝国軍による直接攻勢が始まっている。中央右区域を担当する第三軍団では、帝国軍の攻城塔が城壁へ到達し、それを足掛かりにして帝国兵が城壁上へなだれ込もうとしていた。俺が城壁から見てきた光景を思い返せば、あの場所が今の第一防壁で最も危険な地点になっていることは明らかだった。
会議室には父上、軍務卿アトラシート伯爵、各軍団長、それぞれの参謀や伝令役の士官たちが集まっている。長机の中央には王都周辺の地図が広げられ、城壁や港湾、各軍団の配置が細かく記されていた。そこへ次々と新しい報告が追加されるため、机の上にはすでに何枚もの書類が重なっている。
「第三軍団中央右区域について、現在までの状況を報告してくれ」
俺が言うと、アトラシート伯爵が資料を開いた。
「帝国軍は攻城塔を城壁へ接近させ、そこから歩兵を投入しております。第三軍団は第二兵士部隊を増援として投入しておりますが、先ほど現場の部隊長が戦死したとの報告が入りました」
室内の空気がわずかに変わる。
「部隊の指揮は?」
「副官以下が引き継いでおります。ただ、敵との距離が近く、帝国兵の侵入も続いているため、このままでは部隊そのものが崩れる可能性があります」
俺は地図へ視線を落とした。
帝国兵が城壁上へ入り込み、その地点を橋頭堡として後続部隊まで流れ込めば、単なる局地的な侵入では済まない。第三軍団第二兵士部隊が崩れれば、その区画の防衛線そのものが危うくなる。
「傭兵部隊を追加投入する」
俺がそう言うと、フェルディナン子爵がすぐに口を開いた。
「陛下、お待ちください。現在の状況で傭兵を前線へ投入するのは危険です」
「理由は?」
「戦況が不利になった瞬間、離脱する可能性があります。特に今の第三軍団第二兵士部隊は帝国兵と密着しており、後方へ逃げる余地もほとんどない。そのような場所へ傭兵を入れれば、前線で不利になった瞬間に離脱者が発生し、正規軍まで巻き込んでしまうおそれがあります」
別の軍団長も続けた。
「第四軍団としても反対いたします。傭兵は正規軍と違い、王国そのものへ忠誠を誓っている兵ではありません。もちろん全員が逃げるとは限りませんが、少なくとも現在のような状況で信用できる予備兵力として扱うのは危険です」
さらに別の将校からも同意の声が出る。
「前線が崩れれば傭兵が離脱する可能性だけでなく、退路へ殺到する兵士によって周囲の隊列まで乱れるでしょう」
「第三軍団の指揮系統が不安定な状態で、別系統の兵を追加すること自体が危険です」
次々と反対意見が出てくる。
俺は黙って地図を見た。
傭兵を入れれば人数は増える。
それだけなら単純な話だ。
だが、前線は帝国兵と押し合うほど密着している。そこへ後方からさらに兵を送り込めば、増援部隊が戦場へ展開するための場所そのものがない可能性が高い。前方の兵士が止まっている場所へ後ろから人数だけを追加すれば、追加した兵まで同じ場所へ詰まり、かえって混乱を広げる。
それでも第三軍団が崩れる可能性を考えれば、何もしないわけにもいかない。
「……分かった」
俺は一度、資料へ目を戻した。
「傭兵部隊の追加投入は行わない」
伝令が命令を待つ。
「第四軍団の投入準備を進めろ。現場から再度要請が入った場合は、すぐ動かせるようにしておく」
「承知しました」
伝令が一礼して出ていく。
俺も再び地図を見る。
だが、その直後だった。
第四軍団を入れれば、本当に状況が良くなるのか。
第三軍団第二兵士部隊が現在どれだけの密度で帝国軍と接触しているのかを考えると、第四軍団をそこへ投入しても、兵士の大半が前線に張り付くだけになる可能性が高い。第三軍団の崩壊を防ぐために第四軍団を消耗させれば、今度は別の場所で帝国軍が突破を試みた時に予備がなくなる。
俺は地図上の第四軍団の位置を見た。
「……いや」
思わず声が漏れた。
「第四軍団の投入は待て」
フェルディナン子爵がこちらを見る。
「陛下?」
「今の第三軍団第二兵士部隊は、敵と密着している。そこへ第四軍団を入れても、戦力が十分に使えるとは限らない。むしろ予備兵力だけを消費する可能性が高い」
俺は第三軍団の周辺を指した。
「隣接区画からの弓兵と弩兵による支援を強める。帝国軍を側面から牽制し、橋頭堡を広げさせない。それでも第三軍団が崩れるなら、その時点で改めて予備を投入する」
「承知しました」
第四軍団への投入準備命令は、その場で撤回された。
だが、俺が次の報告を確認するより早く、また扉が開いた。
「陛下!」
別の伝令が息を切らせながら入ってくる。
「港湾区域から緊急報告です!」
「話せ」
「帝国艦隊が第二軍団管轄の港区域へ接近しています。第三艦隊が現在、迎撃に入っております!」
「第二軍団第四兵士部隊は?」
「港湾の陸上部隊として配置されている百名が、第三艦隊を支援するため、陸上から火矢などを使用して攻撃を行っています!」
俺は海岸線へ視線を移した。
「第一艦隊は?」
伝令が一瞬、言葉を詰まらせた。
「……現在、確認できておりません」
俺は黙った。
第一艦隊。
王都への海上補給を支えるため、カヴィーレスターン艦隊とともに運用されていた艦隊だ。
その艦隊が戻ってきていない。
しかも今、帝国艦隊が港湾区域へ接近し、第三艦隊がその迎撃に拘束されている。
ならば、最悪の可能性を考える必要がある。
「第一艦隊は、いつ最後に確認された?」
「帝国艦隊がこちらへ接近する前です。その後の連絡はありません」
「……そうか」
俺は目の前の地図を見つめた。
第一艦隊が戦闘に巻き込まれ、そのまま壊滅した可能性は高い。
まだ確定ではない。
だが、戻ってこない。
そして帝国艦隊が来ている。
第三艦隊はすでに戦っている。
ならば、今まで王都を支えていた海上補給路は、事実上なくなったと考えるべきだった。
「食料は?」
補給担当の士官がすぐに答えられず、手元の資料を何度も確認する。
「現在の王都備蓄で、およそ二十日分です」
「海上補給がなければ?」
「その二十日分を消費する一方になります」
俺は黙って聞いた。
一万五千四百人。
兵士だけではない。
王都に残っている住民、行政官、職人、医療関係者、その他の人間を含めた人数だ。
これまでなら、海から食料を運び込むことで備蓄を補う予定だった。
その前提が崩れた。
「第三艦隊は戦闘を継続しているんだな?」
「はい」
「なら、今すぐ別の補給船団を出せる状況でもない」
「……はい」
答える士官の声も小さくなる。
会議室のあちこちで、紙をめくる音が重なった。
誰かが港湾区域の地図を広げる。
別の者が王都の食料備蓄量を再計算する。
補給担当が倉庫ごとの在庫を書き出し始める。
その一方で、第三軍団から新しい伝令が入る。
「陛下、第三軍団第二兵士部隊より追加報告です!」
俺がそちらを見る。
「敵の城壁上への侵入は続いておりますが、現在のところ防衛線は維持しています!」
「分かった」
伝令が出ていく。
今度は別の声が上がる。
「ウィムーヌ子爵領からです!」
さっきまで港湾の資料を見ていた士官が顔を上げる。
「帝国軍の攻撃が開始されたとのことです!」
「防衛兵力は?」
「現在、再確認中です!」
「確認中ではなく、分かっている数字を出せ!」
軍団長の一人が苛立った声を上げる。
「先ほどまでの報告では約五千でした!」
「その数字は攻撃開始前のものだ!」
「現在の戦力について、まだ新しい報告が届いておりません!」
声が重なる。
俺は手を上げた。
「必要以上に叫ぶな。確認できた数字だけをまとめろ」
だが、その数秒後には別の伝令が入る。
机の上に新しい資料が置かれる。
誰かが王領の地図を開く。
誰かがウィムーヌの位置を確認する。
別の者が港湾部の海図を広げる。
その隣では、第一艦隊の所在を確認するための報告が作られていく。
会議室の中で、人が立ち上がり、席を移動し、別の担当者へ資料を渡し、また新しい情報を受け取る。そのたびに地図の上へ印が増えていく。
先ほどまで第三軍団への増援について話していた。
その直後には港湾の海戦。
その直後には第一艦隊の喪失。
そこから海上補給の断絶。
さらにウィムーヌ。
一つの報告を処理している間に、別の戦線から新しい問題が届く。
「第三軍団から、また来ました!」
「今度は何だ!」
「帝国軍の攻城塔が――」
「港湾からも追加報告です!」
「ウィムーヌの報告を先に確認しろ!」
「食料の再計算がまだ終わっていません!」
声が交差する。
誰かが別の報告を遮り、別の誰かが資料を持って移動する。
さっき決めたばかりの判断についても、新しい状況が入れば再確認が必要になる。
第四軍団を温存する。
だが第三軍団が崩れれば?
王都の予備を残す。
だがウィムーヌが落ちれば?
港湾へ兵を出す。
しかし陸上の防御兵力は減る。
第一艦隊が失われたなら、そもそも海上からの食料補給そのものが成立しない。
王都の備蓄を温存しようとすれば、避難を急がなければならない。
避難を急げば輸送力が必要になる。
輸送力を戦時輸送へ回せば、別の物資が遅れる。
判断すべきことが増える。
だが、判断のために必要な情報がまだ揃わない。
新しい報告が届けば、その情報を整理する前に、さらに別の報告が重なる。
会議室の空気は、少しずつ変わっていった。
最初は冷静に資料を確認していた士官たちの声が次第に速くなり、報告書を探す者、地図を確認する者、伝令を呼び止める者が増えていく。誰も怠けているわけではない。むしろ全員が自分の仕事を処理しようとしているからこそ、次々と情報と命令が交差し、どこから手を付けるべきなのかさえ一瞬では判断できなくなっていた。
それでも、俺は机の中央に広げられた地図から目を離さなかった。
第三軍団。
港湾区域。
ウィムーヌ。
王都。
五つの場所が、それぞれ別々の問題として存在しているわけではない。
第三軍団へ予備を送れば、王都の予備が減る。
港湾へ兵を回せば、陸上防衛が薄くなる。
海上補給が失われれば、王都の備蓄が減る。
ウィムーヌへ増援すれば、王領への対応力が落ちる。
何かを守ろうとするたびに、別の何かが薄くなる。
俺はその状況を見ながら、ようやくはっきりと理解した。
今、崩れかけているのは一つの防衛線ではない。
王都を守っている軍事、海上補給、各方面の予備兵力、情報伝達、その全てが同時に限界へ近づいている。
そして王宮司令部そのものが、それらを同時に処理しなければならない状態へ追い込まれていた。
それでも、ここで判断を止めるわけにはいかない。
会議室ではなお、次の報告が届こうとしていた。
しかし、王宮司令部の混乱はもはや収拾のつかないものになっていた。




