第57話 指揮官
第三軍団軍団長カシウス・ゲンス・デイ・アイティクィランドは、第三軍団第2兵士部隊部隊長の戦死を聞き、焦燥感に苛まれていた。
そして目の前の、指揮権を継承した副部隊長からの伝令の報告にさらにそれが強くなるのを感じた。
「帝国弓兵、帝国弩兵部隊の我が部隊への攻撃が激化!混乱している歩兵も帝国兵との押し合いで崩壊寸前!弓兵部隊又は弩兵部隊による援護及び歩兵部隊の追加を要請します!」
伝令より提示されたその要請は正規兵が不足している状況下での追加投入というもの。
使えるとすれば傭兵部隊だが、軍が崩れかけている状況で傭兵部隊を投入すれば帝国軍に裏切る可能性が無視できない。
となると、頼りになるのは後方に詰めている正規軍だ。
カシウスは即断し、口を開く。
「第四軍団の追加投入を王宮司令部に要――」
「要請はお止めください!」
その言葉を遮る声が上がった。
カシウスが振り返る。
声を上げたのは、第三軍団の参謀の一人だった。
「何故だ」
「現在の第二兵士部隊の状況では、増援を送っても、その戦力を十分に活用できる可能性が低いからです」
カシウスは眉をひそめた。
「現状を見て言っているのか。部隊長を失い、歩兵は崩壊寸前だぞ」
「承知しております」
参謀は地図へ目を落とした。
「ですが、現在の戦場では敵味方が密着し、激しい押し合いになっています。あの状態では、後方から弓兵や弩兵を追加しても、味方ごと射抜く危険が高く、十分な援護射撃を行えません」
「……歩兵ならどうだ」
「歩兵も同じです」
参謀は第二兵士部隊の位置を指で示した。
「現在の前線は狭く、敵と我が軍がほとんど接触した状態で押し合っています。そこへ大規模な増援を投入しても、前線へ送り込める兵数には限界があります。後続の兵が前へ出られず、かえって混乱する可能性すらあります」
カシウスは黙り込む。
確かにそうだった。
増援を送れば、それだけで戦況が好転するわけではない。
兵士を投入できる場所がなければ、その兵力はただ後方で詰まるだけだ。
「つまり、第四軍団を投入しても……」
「前線を押し返すだけの効果を発揮できない可能性が高い」
参謀は淡々と答えた。
「その一方で、第四軍団を投入すれば、後方に残されている貴重な予備兵力を大きく消費します」
カシウスの視線が地図の後方へ移る。
現在、第三軍団の後ろに控えているのは、まだ戦線へ投入していない正規軍だった。
それは、いざ別の地点で突破が起きた際に投入するための戦力でもある。
「もし第四軍団を送った直後、別の戦線で帝国軍が突破したら……」
「対応できなくなります」
参謀が言葉を継ぐ。
「さらに、第二兵士部隊への増援が十分な効果を上げられなかった場合、我々は後方予備兵力だけを失い、戦況を改善できないという最悪の結果になります」
カシウスは拳を握った。
第四軍団を送れば、確かに目の前の部隊を助けようとしているようには見える。
だが、今必要なのは「増援を送った」という事実ではない。
投入した兵力によって、戦況を変えられるかどうかだ。
敵と味方が密着している現状では、弓兵も弩兵も十分な火力を発揮できない。
歩兵を追加しても、前線そのものが狭いため、その兵力を戦闘に参加させることが難しい。
それにもかかわらず、大規模な増援を送れば、後方の予備だけが消費されていく。
それは、戦況を変えられない可能性が高い戦力を、より重要な局面で使えるかもしれない予備兵力と引き換えに投入するということだ。
カシウスは低く呟いた。
「……それでは愚行だな」
「はい」
参謀も頷く。
「助けるために送るのではありません。使える見込みの薄い兵力を、ただ前線へ投げ込むことになります」
しばらくの沈黙が続いた。
だが、カシウスの焦燥が消えたわけではない。
目の前では、第二兵士部隊が今この瞬間にも押し込まれている。
「では、どうする」
「大規模な増援は送りません」
参謀は地図上の別の地点へ指を移した。
「まずは現在戦闘に参加している兵力を立て直します。伝令を通じて指揮系統を再確立し、後方の小規模な予備だけを投入する。目的は敵を押し返すことではありません」
「崩壊を止める、か」
「その通りです」
カシウスはしばらく考えた。
やがて、ゆっくりと頷く。
「……第四軍団への要請は出さない」
参謀たちが顔を上げる。
「第二兵士部隊へ伝えろ。大規模な援軍は来ない」
そして一拍置いて、
「だが、戦線を維持しろと」
伝令が敬礼する。
「了解しました!」
伝令が駆けていく。
カシウスは再び戦場へ視線を向けた。
部隊長を失い、敵との押し合いの中で崩れかけている部隊。
助けてやりたい。
だが、助けるための兵力を無闇に投入すれば、もっと大きな崩壊を招く。
指揮官に求められているのは、最も苦しんでいる場所へ兵を送ることではない。
兵を送った結果、何が変わるのかを見極めることだ。
カシウスは、奥歯を噛み締めた。
「……耐えてくれ」
誰に聞かせるでもなく、そう呟いた。
誰に聞かせるでもなく、カシウスはそう呟いた。
その直後だった。
「軍団長!」
別の伝令が駆け込んでくる。
「何だ!」
「第二兵士部隊より新たな報告です!」
カシウスは振り返った。
「申せ」
「副部隊長が指揮を引き継ぎ、前線の再編を開始。しかし、敵の圧力は依然として強く、中央部でさらに後退しているとのことです!」
「どれほどだ」
「およそ十数歩。ですが、部隊の一部が崩れ、左右との連携も失われつつあります!」
カシウスの眉間に深い皺が刻まれる。
「……今、どれだけの予備をあの地点へ送れる?」
参謀が即座に答えた。
「一個分隊程度なら可能です。それ以上となると、他の予備配置に穴が生じます」
カシウスは地図を見つめた。
第二兵士部隊の後方。
そこには、わずかながら予備兵が控えている。
一個小隊程度なら、送っても軍団全体の予備を完全に失うわけではない。
だが、問題はその使い方だ。
「その小隊を前線の正面へ入れるな」
参謀が顔を上げた。
「では?」
「崩れた中央を直接埋めるのではなく、左右の部隊との間へ入れろ」
カシウスは地図上を指でなぞった。
「第二兵士部隊そのものを押し返すのではない。まず左右との連絡を繋げる。今のままでは一部分だけが後退して、そこから戦列全体が引きずられる」
「しかし、それでは敵を押し戻せません」
「構わん」
カシウスは即答した。
「今は勝つ必要はない。崩れなければいい」
参謀が頷く。
「了解しました」
カシウスは伝令を呼び寄せた。
「第二兵士部隊へ伝えろ。大規模な増援は送らない。ただし、一個分隊を送る。目的は敵を撃退することではない。左右との連携を回復し、戦列を維持することだ」
「了解!」
伝令が走り去る。
カシウスは再び戦場へ目を向けた。
敵と味方の距離は、未だ異常なほど近い。
帝国兵は盾を押し出し、その後方から弓兵と弩兵が矢を放っている。
だが、あの距離では射撃にも限界がある。
味方へ当たる危険があるため、援護射撃も思うようにできない。
だからこそ、今の戦闘は純粋な歩兵同士の押し合いになっている。
ここで大部隊を投入したところで、そのすべてを戦闘へ参加させることなどできない。
それなのに、前線が崩れているのを見れば増援を求めたくなる。
軍団長であるカシウス自身でさえ、先ほどそうした。
だが、それを繰り返してはいけない。
一個の部隊を救うために予備を次々と使えば、別の場所で何かが起きた瞬間に対応できなくなる。
まして、この戦場ではまだ何が起きるか分からない。
「軍団長!」
再び声が飛んできた。
「第二兵士部隊、中央の後退が止まりました!」
「……そうか」
ほんのわずかに、カシウスの表情が緩んだ。
だが、次の報告は違った。
「ただし、部隊長を失った影響で指揮系統は依然混乱しています!」
「ならば、副部隊長には一つだけ伝えろ」
カシウスは低い声で言った。
「勝とうとするな」
伝令が目を瞬く。
「……は?」
「今の目的は帝国兵を押し返すことではない。前線を崩さないことだ。兵を無駄に前へ出すな。今いる場所を維持しろ。左右との連携を切らすな。それだけを伝えろ」
「了解!」
伝令が再び走り去る。
カシウスは大きく息を吐いた。
戦場では、勝つための命令よりも、時に負けないための命令のほうが重要になる。
今はまさに、それだった。
もしここで第二兵士部隊が完全に崩れれば、敵はその穴へ流れ込む。
そうなれば、第三軍団は新たな部隊を投入せざるを得なくなる。
その結果、予備がさらに削られる。
そして一度予備を失えば、次に敵が別の場所を突いた時、止める兵がいなくなる。
だから今必要なのは、華々しい反撃ではない。
戦列を維持すること。
時間を稼ぐこと。
そして、敵にこちらの予備兵力を吐き出させず、自らの戦力だけを消耗させることだった。
「……戦場は、目の前だけを見ていては勝てん」
カシウスはそう呟いた。
そのとき、遠くからまた別の角笛が鳴り響いた。
港方面、第二軍団の管轄区域からだ。
カシウスが顔を上げる。
「……新しい報告か?」
参謀が耳を澄ませる。
「いえ……これは、港区画からの合図です」
カシウスの表情が変わった。
戦場には、まだ何が起きるか分からない。
だからこそ――
今は、予備を残しておかなければならなかった。




