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氷の奇公子 ~変人王子の生存術~  作者: 岸田減税
最終章 第二次ルイーナエ大戦
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第49話 到達

帝国軍はまだ遠くない。商工組合連合会による避難が進む一方で、王都そのものの戦争準備も、最終段階へ入ろうとしていた。


 その朝も、王都レクィエリアの東門には長い列ができていた。


 ただし、普段の王都で見られるような商人や職人の往来ではない。荷物を抱えた家族、子供の手を引く親、杖をついた老人、家財道具を積んだ荷車が、門の外へ向かってゆっくりと進んでいる。避難が始まってからすでにかなりの人数が王都を出ていたが、それでもまだ人の流れは途切れていなかった。


「次の列は西地区行きです!」


「この家族は病人がいるので、先に馬車へ!」


「荷物は一台へまとめてください。別の荷車は次の家族に回します!」


 商工組合連合会から派遣された担当者たちが、避難民の整理を続けている。普段なら商品の輸送に使われている荷車も、今日は人を運んでいた。大商会だけではない。地方の商店主、工房主、輸送業者、市場組合の人間までが、自分たちの持つ馬車や倉庫、人脈を使って避難を支えている。


 王家の輸送網も止まってはいない。ただし、こちらは軍用物資や王国の重要物資を優先しなければならない。王都の外へ住民を送り出す一方で、王都へ残る兵士たちのために小麦、豆、干し肉、塩、水などを運び込む必要があるからだ。そのため街道では、避難民を西へ運ぶ馬車と、王都へ食料を運び込む荷車が交互に行き交い、それを商工組合連合会と王国側の輸送担当者が調整していた。


「止めて!」


 担当者の一人が声を上げる。


「軍用の輸送隊が通ります!」


 避難民の馬車列が一度止まり、その横を軍用馬車が通過していく。荷台には武具や矢、食料、その他の軍需物資が積まれている。通り過ぎるまで待った後、再び避難民の列が動き出す。


 その光景を、門の近くにいた商人が眺めていた。


「戦争が始まる前は、こんなに馬車を使うとは思わなかったな」


「商品を運ぶより、人を運ぶ方が増えてる」


「そうだな」


 商人は苦笑した。


「だが、仕方ない。今は売る物より、逃がす人間の方が大事だ」


 その言葉を聞いていた別の商人も頷いた。


「王都を出れば安全とは限らない。それでも、ここに残るよりはいい」


 避難は、単純に人間を王都から追い出す作業ではなかった。


 どこへ行くのかを決めなければならない。避難先にどれだけの空間があるのかを確認しなければならない。家族が途中で離れないようにしなければならない。病人や高齢者には休息が必要であり、長距離の移動に耐えられない者には別の輸送方法を用意しなければならない。そして、避難先に到着した後も、食料と水が必要になる。


 内務卿の担当者たちは、各地方から届く報告書を一つずつ整理していた。南部地区からは約三万二千人、東部地区から約一万八千人、西部地区から約二万四千人が避難対象として報告され、現在確保できている荷車は約四百二十台、予備まで動かせば五百台程度まで増やせるという。街道沿いの宿場には約三千人分の宿泊能力があり、使われていない倉庫を仮設の宿泊場所へ転用すれば、さらに約五千人程度を受け入れられる。


 その数字を見ながら、ティアとエリシアは避難民の名簿を整理していた。


「この家族は西部の領地へ移動しています」


「親族が受け入れるそうです」


「こちらは?」


「高齢者が二人います。途中の宿場で休ませる予定です」


「なら、同じ馬車にまとめましょう」


「分かりました」


 ティアは一枚の名簿をめくる。


「避難先で食料が足りなくなる可能性は?」


「今のところはありません。ただ、避難者が一つの地域へ集中すると不足する可能性があります」


「じゃあ、別の受け入れ先へ振り分けて」


「はい」


 ティアは少し考えてから、もう一枚の資料へ手を伸ばした。


「それと、この地域には商人が多いから、到着した人たちの仕事も確保できるかもしれない」


「確かに。家族単位で移動できれば、生活の再建も早くなるでしょう」


 避難先へ移動することは、単に戦場から逃げることではない。そこから新しい生活を始めなければならない。そのため、商工組合連合会では、避難先の宿場や商人たちと連絡を取り、宿泊場所だけでなく仕事や物資の確保についても話し合いが始まっていた。


 王都を出た人々は、一か所へ集められてはいない。


 王領西部の農村。


 地方都市。


 親族が暮らしている領地。


 教会や宿場。


 空いている倉庫を転用した一時的な居住地。


 それぞれの場所へ分かれて受け入れられている。


 もちろん、誰もが安心しているわけではない。


「いつ戻れるんでしょう」


 避難してきた女性が、受け入れ先の商人へ尋ねる。


「戦争が終われば、王都へ戻れるでしょう」


「終わるでしょうか」


「……きっと終わります」


 商人はそう答えるしかなかった。


 その言葉に確信があったわけではない。


 それでも、不安を抱えてやってきた人間へ、他に何を言えるのか分からなかった。


 一方、王都に残る者たちもいた。


 行政を維持する官僚。


 医療を担う者。


 軍事に必要な鍛冶職人や工房主。


 王都の生活を維持する商人。


 そして、どうしても移動できない病人や高齢者。


 王都を離れることより、ここに残ることを選んだ家族もいる。


 内務卿の担当者は、残留者の一覧を整理しながら、王都へ残す食料を再計算していた。


「人口が減った分、備蓄の持ちはかなり良くなります」


「それでも、籠城が長引けば不足する可能性があります」


「水は?」


「現在の水源で確保できます。ただし、第二防壁の内側に集中させないよう配分を変える必要があります」


「分かりました」


 王都は少しずつ、普通の都市から戦時都市へ姿を変えていた。


 第一防壁の内側にある庶民街では、避難を終えた家々の扉が閉じられている。商店の看板が外され、倉庫の商品も、必要なものは可能な限り内側へ移されていた。普段なら大商会や中堅商会が忙しく荷物を出し入れしている場所も、今では軍が利用できる道を確保するため整理されている。


 第一防壁の内側を守り切ることが難しくなれば、兵士は第二防壁の内側へ退く。


 そこには貴族街があり、王立士官学校や王立貴族学園などの重要施設が存在する。士官候補生たちは、現在のところ前線へ投入するのではなく、伝令、記録、補給、警備、負傷者搬送などの後方任務へ配置されていた。


 そして最後に、王宮区域を囲む第三防壁がある。


 中央宮殿。


 王太子宮。


 第三王子宮。


 旧王弟宮。


 そして国王と王国中央の行政機能。


 現在、旧王弟宮は第二次諸国連合の本部として使われているため、それも守らなければならない。


 だからこそ、第三防壁は単なる王宮の城壁ではなかった。


 ここが最後まで維持される限り、国王がいる。


 王国の司令機能がある。


 第二次諸国連合との連絡も維持できる。


 つまり、王都が完全に陥落したと判断される最後の地点だった。


 防衛兵力についても、準備は進んでいた。


 中央軍約八千三百人。


 士官候補生約一千百人。


 再訓練された傭兵約七千人。


 王都防衛に残されるのは、合計約一万六千四百人。


 第六軍団一千五百人は北部・中部方面へ回されており、第七軍団一千五百人はモンタヌスに残っている。王都へ戻すことはできない。


 王都に残る軍は、決して帝国軍を正面から撃破するための兵力ではない。


 目的は、王都を可能な限り長く維持すること。


 帝国軍の進撃を遅らせること。


 そして、東方で動き始めている反撃準備が整うまでの時間を作ること。


 そのために第一防壁、第二防壁、第三防壁という段階的な防衛体制が組まれている。


 海上も同じだった。


 シルウァニア戦争で損害を受けた第二軍団の海軍には七百人の兵員が残り、そのうち約百人は港湾施設や艦艇の維持へ回され、三百人ずつが第一艦隊と第二艦隊に配置されている。王都周辺の海域を警戒し、必要なら沿岸輸送を支える。


 敵がいつ海から現れるかは分からない。


 だから、最低限の備えだけは残しておく。


 それでも、今最も重要なのは東だった。


 避難が始まってから一日半ほどが過ぎた頃、王都から出る人間の数は大きく減っていた。


「最後の避難隊です」


 商工組合連合会の担当者が報告する。


「予定していた輸送隊は、これで全て出発します」


 ティアは書類を確認した。


「避難先から受け入れ完了の報告は?」


「順次届いています」


「食料は?」


「不足している地域はありません」


 ティアはようやく小さく息を吐いた。


 王都の十五万人全てを移動させたわけではない。


 それでも、戦場になった時に最も大きな負担となる人々を、可能な限り王都の外へ出すことには成功していた。


 避難した人々は、もう王都にはいない。


 それぞれの避難先で、仮の生活を始めている。


 戦争が終われば戻れると信じている者。


 長期化を考えて新しい仕事を探し始める者。


 親族の家へ身を寄せる者。


 農村で働く者。


 商人の店を手伝う者。


 十五万人という大きな集団は、すでにそれぞれ別の場所へ散らばり始めていた。


 そして、その一部は東へ逃れていた。


 王都から東へ向かった避難民の一団が帝国軍へ接触したのは、その直後だった。


 彼らは武器を持っていない。


 荷物も最低限だった。


 帝国軍の先遣部隊に発見されると、一人の男が前へ出て、用意していた文書を差し出した。


「我々は王都から避難してきた民間人です」


 帝国軍の士官が文書へ目を通す。


「武装している者は?」


「おりません」


「所属していた軍は?」


「ありません。家族とともに王都を離れただけです」


 士官は後ろを振り返った。


 そこには老人、女性、子供、商人、農民、そして疲れ切った家族が並んでいる。


 帝国軍から見れば、ただの民間人だった。


「司令部へ報告する」


 士官が判断する。


 しばらくして、上級指揮官から命令が届いた。


「受け入れる」


「この人数を、ですか?」


「そうだ。武器を持っていないなら保護しろ。軍列から分けて管理する」


 帝国軍は民間人のための区域を設けた。


 軍用天幕とは別に避難場所を作り、食料と水を配る。体調の悪い者は軍医が確認し、老人や子供にはできるだけ優先して食事を与えた。兵士たちは民間人を敵兵として扱わず、移動できる者とできない者を分けながら、帝国軍の進軍に支障が出ない範囲で保護していく。


 しかし、問題は人数だった。


 数千人ではない。


 数万人でもない。


 約十五万人。


 帝国軍は二十五万人規模の侵攻軍を動かしている。その背後に十五万人の民間人を抱えれば、食料、水、衛生、移動、警備の全てに追加の負担が生じる。軍だけなら一日で進める距離も、民間人と一緒なら同じ速度では進めない。


「このまま西へ進むのは難しいな」


 帝国軍の士官が報告する。


「民間人を残して進むわけにもいきません」


「なら、予定を変更する」


 こうして帝国軍は、民間人を保護したまま進撃することになった。


 王都へ向かう速度は明らかに落ちた。


 結果として、帝国軍の進撃は約一週間遅れることになった。


 その一週間は、俺たちにとって決定的だった。


 王宮では、その時間を無駄にしなかった。


 エクィトゥム王国へ正式な援軍要請を送る。


 第二次諸国連合の各国へ、帝国軍の侵攻状況を伝える。


 軍事理事会へ共同防衛体制の前倒しを求める。


 そしてエクィトゥムから、約二万五千人の前衛部隊をアンティクイランド方面へ移動させる。


 カヴィーレスターン・スルタン国には、海軍と商業輸送網を利用して小麦、豆、干し肉、塩、武具などを追加で送ってもらう。


 大量の援軍を送る余裕はなくても、物資を少しずつ補充することはできる。


 それだけでも、長期戦になった時には意味がある。


 同時に、帝国軍側でも動きがあった。


 南部方面へ進んでいた帝国軍のうち、約五万人が主力から分離され、北西方向へ進み始めた。


 向かった先は、ウィムーヌ子爵領。


 アンティクイランド側からは約一万二千人。


 そこへエクィトゥム王国の前衛部隊約二万五千人が加わる。


 合計約三万七千人。


 対する帝国軍は約十万人。


 ウィムーヌ周辺は、帝国軍と西方側の大軍が接近しつつある新しい戦場になろうとしていた。


 北部でもプラエシディウス伯爵領東部への圧力が続き、その先にあるガイウシア子爵領がエクィトゥム王国との連絡路として重要性を増している。


 南では、帝国軍主力が王領東端へ向かっている。


 避難民を抱えて進んでいるため、その速度は落ちている。


 それでも、王都への距離は少しずつ縮まっていた。


 そして、その日の午後。


 王都東側の監視塔から、突然、鐘の音が鳴り響いた。


 最初は一度。


 続いて二度。


 最後には連続して。


「帝国軍です!」


 監視兵の叫び声が王都へ走る。


 城門が閉じられる。


 城壁上へ兵士が集まる。


 第一防壁、第二防壁、第三防壁へ伝令が走る。


 王宮からも警備兵が動き始める。


 俺はティアとともに城壁へ上がった。


 東の街道には、まだ淡い霞が残っていた。


 その向こうに、最初の兵士が見える。


 一人。


 二人。


 騎兵の列。


 その後ろに歩兵。


 さらに荷車、攻城兵器、軍馬。


 そして、その全てを後ろから押し出すように続いてくる、途切れることのない帝国軍。


 城壁の上にいた兵士たちは、誰も声を上げなかった。


 ただ東を見つめている。


 やがて、その軍勢の先頭に掲げられた旗が見え始めた。


 深い赤色。


 中央には、アエテリア帝国の象徴である灼熱竜の紋章が描かれている。


 風を受けて、赤い旗が大きくはためく。


 それはまるで、これまで帝国によって殲滅されてきた国々の民の血によって染め上げられたかのような、深く赤い旗だった。


 その旗の下を、帝国軍が進んでくる。


 北からも。


 南からも。


 そして正面からも。


 王都の外へ帝国軍が広がり始める。


 避難できる民間人は、ほぼすべて王都を離れた。


 王都へ残った人々は城壁の内側へ集まり、兵士たちはそれぞれの防衛線へついている。


 西方から来た援軍も、すでにウィムーヌへ向かっている。


 そして今、王都の東側には帝国軍がいる。


 俺は城壁の上から、その深紅の旗を見つめた。


 帝国軍は、もう遠くない。


 その先には、これから守らなければならない王都がある。


 そして、ついに。


 帝国の灼熱竜の紋章を掲げた深紅の旗が、王都レクィエリアを正面から捉えた。


 ついに、帝国軍がレクィエリアへ到達した。

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