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氷の奇公子 ~変人王子の生存術~  作者: 岸田減税
最終章 第二次ルイーナエ大戦
377/413

第41話 初動

帝国軍がアイティクイランドへの侵攻を開始した。


 それまで北方ではノルディア大公国が陥落し、セプテントリア諸国ではアルビオン公国、グランディス公国、レグナリア公国、オルセリア侯国、カルディア侯国、ネヴァリア侯国、マルティア侯国、フェリオ侯国、グレシア侯国、ヴァレンティア侯国をはじめとする各国が相次いで帝国軍の攻撃を受け、国家としては次々に降伏へ追い込まれていた。また南方ではシルウァニアが大軍の進撃を受けて降伏し、カヴィーレスターンも十五万人規模の帝国軍と激しい戦闘を続けながら戦線を維持している。しかし、そうした各地の戦況が伝えられる中で、アイティクイランド王国にとって最も重要だったのは、帝国軍がどこへ向かっているのかという抽象的な問題ではなく、東の長大な国境線をどのように守るかという、極めて具体的な問題だった。


 アイティクイランドと帝国の境界の大部分を形成しているのは、セパラーティオ川である。川は国土の東側を長く流れ、その両岸には場所によって広い平地があり、別の場所では丘陵や森林が迫り、街道が河岸へ接近している地点もあれば、農村や貴族領が川沿いに広がっている地点もある。地形が一様ではないだけでなく、渡河に適した場所も一つとは限らないため、川岸全域へ城壁を築き、一定間隔で大規模な要塞を建設し、そこへ十分な兵力を常駐させるという方法は、アイティクイランドにとって現実的ではなかった。


 必要な兵士を川沿いへ並べるだけで軍の大部分が拘束されてしまえば、北部を守る兵も、南部を守る兵も、王都レクィエリアを守る兵も足りなくなる。しかも帝国軍がある一地点へ大軍を集中させれば、その場所に配置した守備隊だけでは対応できず、後方から追加の軍を動かさなければならない。そのたびに別の地点が薄くなり、また違う場所から帝国軍が渡河を始めれば、新しい兵力を送らなければならない。長大な河川を一つの固定された防衛線として扱うこと自体に、すでに無理があった。


 そこでアイティクイランド軍は、セパラーティオ川を「絶対に越えさせない壁」として扱うのではなく、「敵の渡河を一刻でも早く発見し、最初に現場へ到着できる部隊が敵を足止めし、その間に中央軍を到着させ、主力が揃ったところで渡河部隊を押し返すための防衛線」として運用していた。


 そのため、川沿いには長距離にわたって見張り所が配置されていた。見張り所の一つ一つは巨大な軍事拠点ではなく、数名程度の兵士が川面と対岸を監視するための簡素な施設だったが、その代わりに見張り所同士を繋ぐ合図の方法が定められていた。昼間なら旗や煙を使い、夜間なら火や角笛を使う。帝国軍の動きを見つけた見張り所が合図を上げれば、隣の見張り所がそれを確認し、その先へ同じ情報を送る。それによって川沿いの広い範囲に「どこで異変が起きたのか」を伝え、最寄りの部隊が準備を始めることができるようになっていた。


 そして、その初動で最も重要な役割を担っていたのが、第二軍団に所属する海軍だった。


「第二軍団海軍は、平時には二個艦隊で運用されています」


 それは、戦争が始まる以前の軍議でアトラシート伯爵が説明していた内容だった。


「一個艦隊につき四隻ですから、平時の合計は八隻になります。ただし、戦時には商船などを徴用して増強できます。三個艦隊、一個艦隊十隻、合計三十隻までの編制が可能です」


 その海軍は、海へ出るためだけに存在しているわけではなかった。セパラーティオ川のような長い水上国境では、陸路よりも船の方が素早く兵を移動させることができる。敵がある地点で川へ船を集め始めたとしても、川沿いに展開している艦隊ならば、街道を長く進む陸軍より早く現場へ到着できる可能性がある。そして、その数十分や数時間の差が、渡河戦では決定的な意味を持つ。


 帝国軍が大きく動いていることが明らかになった段階で、アイティクイランドはこの仕組みをすでに戦時体制へ切り替えていた。宣戦布告を受けてから準備を始めたわけではない。帝国軍の異常な動きを警戒し、開戦前から商船などの徴用を進め、第二軍団海軍を三個艦隊、最大三十隻の戦時編制へ移行させていたのである。


 そのうち、第二艦隊と第三艦隊、合計二十隻はセパラーティオ川へ先行展開していた。長い川岸の全てを一度に守ることはできないため、二個艦隊を北側と南側へ分散させながら、敵の渡河地点へ迅速に移動できる位置を取っていたのである。


 一方、第二軍団第一艦隊十隻は、王都レクィエリア周辺の主要河川と沿岸部、王都へ続く水上輸送路の警戒に残されていた。さらに第六軍団には独自に二個艦隊、合計二十隻の海軍があり、こちらはガルディシア周辺の防衛と港湾警備を優先して待機している。戦時編制へ切り替えたからといって、全ての艦艇を一つの河川へ集めるわけにはいかなかった。


 それでも、セパラーティオ川には開戦前から二十隻が配置されていた。


 見張り所がある。


 海軍がある。


 後方には中央軍がいる。


 敵が動けば知らせが届く。


 艦隊が向かう。


 そして陸軍が続く。


 それが、アイティクイランドが考えていた国境防衛の基本形だった。


 帝国軍は、その防衛体制が存在することを知っていた。


 だが、それを正面から一つずつ突破しようとはしなかった。


 セパラーティオ川東岸に帝国軍が姿を見せた時、その準備はすでに複数の地点で始まっていた。夜明け前の薄暗い時間帯から、歩兵たちは川岸へ集まり、工兵たちは船着き場を整え、渡河に使う舟を並べていく。その後方では、大量の荷馬車が整然と列を作り、食料や武器、矢、工兵用の資材などが順番に移動を始めていた。


 しかも、それは一ヶ所ではなかった。


 北部。


 中部。


 南部。


 川の異なる地点で同じような準備が進んでいる。


 一つの渡河地点へ二十万人を集中させるのではなく、複数地点で同時に動くことで、アイティクイランド側へ「どこに艦隊を向けるべきか」を判断させない。北側に艦隊が向かえば中央を渡る。中央へ艦隊が集まれば南へ回る。その間にも、西岸へ渡った部隊は川岸で待機することなく、そのまま内陸へ向けて進めるように準備されていた。


 そして夜明け前。


 最初の見張り兵が、東岸に異常を発見した。


「船影!」


 見張り所から声が上がる。


 兵士はすぐに合図を送った。


 旗が上がる。


 少し離れた見張り所がそれを確認し、その後方で火が上がった。


 また別の場所で火が上がる。


 セパラーティオ川沿いに、異常の知らせが連鎖していく。


「帝国軍が渡河準備を開始しました!」


 前線指揮所へ報告が届く。


「どこだ?」


「北側で確認!」


「中央もです!」


「南側にも船が集まっています!」


 報告を受けた指揮官は地図を広げた。


 その時点で、アンティクイランド側の見張り網は正常に機能していた。敵を早期に発見し、その情報も後方へ伝えられている。


 だからこそ、現地指揮官はすぐに次の命令を出した。


「第二艦隊を中央へ。第三艦隊は南側へ回せ。北側には陸軍先遣隊を急行させる!」


 命令が伝わり、艦隊が動き始めた。


 第二軍団第二艦隊の十隻が川面を進む。


 第三艦隊の十隻も別の渡河地点へ向かう。


 見張り所では新しい合図が上がり、後方の部隊へさらに情報が送られていった。


 ここまでは、アンティクイランドの防衛計画どおりだった。


 敵を見つけることができた。


 敵が川を渡る前に艦隊を動かすこともできた。


 あとは時間を稼げばいい。


 第二軍団第二艦隊は、中央の渡河地点へ向かった。


 十隻の艦艇が川面を進み、船上では弓兵と弩兵が射撃位置につく。艦艇には大規模な攻城兵器が積まれているわけではない。この艦隊の仕事は、敵軍を一気に壊滅させることではなく、渡河を遅らせることだった。


 帝国軍の兵士が船へ乗り込む。


 舟が川へ出る。


 それを見て、アンティクイランド艦隊が接近する。


「敵船、中央!」


「射撃準備!」


 弓が引かれ、弩が構えられる。


「撃て!」


 矢が川面を越えて飛んだ。


 対岸でも帝国軍が反応する。


 矢が返ってくる。


 川の上で双方の射撃が交わり、渡河作業は一時的に鈍った。


 だが、帝国軍はそこからさらに船を出してきた。


 十隻のアンティクイランド艦隊が一つの地点で敵を押さえようとすれば、その間に北側から新たな船影が現れる。


「北側です!」


「第三艦隊は!」


「南へ向かっています!」


「中央に敵が増えています!」


 報告が重なる。


 第二艦隊指揮官は、そこでようやく理解した。


 帝国軍は川そのものを攻撃している。


 正確には、川の長さを攻撃している。


 アンティクイランド側は艦隊をどこへ向けるのか、一つに決められない。


 一つの地点へ集中すれば他が抜かれる。


 分散すれば、一ヶ所あたりの戦力が足りない。


 その隙を利用して、帝国軍は西岸へ兵を渡し始めていた。


「西岸、敵上陸!」


 報告が飛ぶ。


「数は!」


「まだ少数です!」


「陸軍を急がせろ!」


 指揮官は怒鳴った。


 まだ少数なら止められる。


 そう考えた。


 しかし、その直後に別の報告が届いた。


「北側でも上陸しています!」


 さらに、


「南側もです!」


 指揮官は川の向こうを見つめた。


 敵が増えている。


 しかも、増え方が速い。


 中部軍の先遣部隊が川へ到着した。


 兵士たちは急いで隊列を整え、帝国軍が上陸した地点へ向かう。


「ここで押し返す!」


 指揮官が命じる。


「全員、盾を揃えろ!」


 兵士が進む。


 川岸へ上がった帝国兵と衝突する。


 槍が交わり、盾がぶつかる。


 しかし、帝国軍の後方から新たな部隊が到着していた。


 一つの部隊が押されれば、後ろの部隊が前へ出る。


 別の地点で攻撃が起きれば、隣接する部隊が移動する。


 川を渡る部隊と、渡った後に前進する部隊と、後方から物資を運ぶ部隊が、互いに邪魔をしないように動いている。


 アンティクイランド側は、ようやく自分たちがこれまで考えていた以上の規模の敵と戦っていることを理解し始めていた。


「まだか! 中央軍本隊は!」


「現在移動中です!」


「どれくらいだ!」


「分かりません!」


 それでも、待っているわけにはいかない。


 先遣部隊が前へ出る。


 帝国軍が押してくる。


 別のアンティクイランド部隊が横から入る。


 その間に、さらに別の帝国軍部隊が川を渡る。


 そして、後方から新たな船が出てくる。


 川岸の戦いは、次第に「渡河を阻止する戦い」ではなく、「渡河してきた敵をどこで止めるか」という戦いへ変わっていった。


 その変化を受けて、前線の判断はさらに早くなった。


「中央軍本隊到着!」


 ようやく報告が届く。


 だが、到着した中央軍が見たのは、川岸で足止めされているだけの帝国軍ではなかった。


 すでに複数地点で大規模な上陸が成立している。


 川岸の後方には帝国軍の部隊が並び、そのさらに向こうには大量の荷馬車が見える。


「多すぎる……」


 中央軍指揮官が呟いた。


 川岸へ陣を組んで押し返せば、一時的には敵を押せるかもしれない。


 しかし、北でも南でも同じことが起きている。


 そしてセパラーティオ川は長い。


 この河川全体を守ろうとすれば、中央軍そのものが三方向へ分割されてしまう。


 分割すれば、どの地点でも帝国軍に数で押される。


 集中すれば、別の地点を抜かれる。


 その時、指揮官は地図を見た。


 ここで一つだけ判断を誤れば、中央軍そのものを失う可能性がある。


 だからこそ、まだ防衛線の一部が機能している段階で判断しなければならなかった。


「伝令!」


「はっ!」


「王都へ急報しろ」


「内容は?」


 指揮官は地図を見ながら答えた。


「セパラーティオ川全域での渡河阻止は不可能と判断する。第二軍団第二艦隊、第三艦隊による足止めを継続するが、川岸へ戦力を固定すれば中部・南部の軍そのものが包囲される危険がある」


 伝令が書き取る。


「だから――」


 指揮官は続けた。


「渡河防衛の破綻が確定する前に、中部・南部、そして中央軍を指定地点へ後退させる準備を開始するよう伝えろ」


 この判断は、一瞬でも遅ければ意味を失う。


 だから伝令は即座に馬へ乗せられた。


 川岸から王都へ。


 王都から中部軍へ。


 南部軍へ。


 中央軍の各部隊へ。


 それぞれが、事前に定められていた撤退地点を知らされることになる。


 撤退命令が最前線へ届くまでの間も、海軍は戦い続けた。


 第二軍団第二艦隊は川の中央付近で帝国軍の渡河船を妨害し、第三艦隊も南側で敵船団を足止めする。


 どちらの艦隊にも余裕はなかった。


 帝国軍は船を次々と投入し、その後方にはまだ大量の兵がいる。


 アンティクイランド側は、艦艇を一隻ずつ動かして敵の渡河を遅らせる。


 一隻が敵船を牽制している間に、別の一隻が側面へ回る。


 しかし、十隻で十隻以上の敵を相手にする状況が続けば、いずれ限界が来る。


 第三艦隊でも同じだった。


 南側の渡河地点を止めようとすれば、中央から別の帝国軍が抜ける。


 中央へ移動すれば、南で帝国軍が西岸へ上がる。


 それでも艦隊は可能な限りその場に留まった。


 なぜなら、その時間が中部軍と南部軍の撤退を成立させるからだった。


 戦うことそのものが目的ではない。


 撤退を成立させるための時間を作る。


 それが、開戦前からこの川へ配置されていた二十隻の役割だった。


 やがて、撤退命令が中部軍へ届いた。


「本部から命令!」


 伝令が駆け込む。


「全中部軍はウィムーヌ子爵領まで後退!」


 指揮官が命令書を受け取る。


 そこには明確に、撤退地点が書かれていた。


「中央軍も指定地点へ後退する」


「南部軍も同様です」


「各部隊は独断で王都へ向かうな。指定地点で再編し、次の防衛線へ入れ」


 命令が各部隊へ伝えられていく。


 最前線の兵士たちは、ようやく自分たちが戦いながら下がることを知った。


 それは敗走とは違った。


 ただ、川岸を守ることを諦めるのである。


 川そのものを失う代わりに、軍を残す。


 そのための撤退だった。


 中部軍の前衛が後退を開始する。


 その後ろへ第二線の部隊が入る。


 さらにその後ろへ中央軍の一部が入り、後衛を担当する。


 帝国軍が追ってくる。


 それでもアンティクイランド軍は完全に背を向けない。


 ある部隊が街道を横切る間、別の部隊が足を止めて敵を牽制する。


 荷馬車が通過したら、その部隊も下がる。


 次に別の部隊が後衛に回る。


 その繰り返しによって、本隊を少しずつ後方へ移していく。


「急げ!」


「負傷者を先に!」


「武器庫の予備を持っていけ!」


「使える馬は全部使え!」


 街道を兵士と荷馬車が流れていく。


 しかし、帝国軍の進撃は速い。


 後衛へ距離を詰める。


 追いつかれれば戦闘になる。


 それでも、中部軍はウィムーヌ子爵領へ向かって進んでいった。


 南部軍にも、同じ命令が届いた。


 ただし、南部は中部以上に苦しかった。


 セパラーティオ川南部流域では、すでに複数の貴族領が帝国軍に侵入されている。


 領地を守るために残っていた兵士たちも、撤退命令を受ければ、その土地を置いて後ろへ下がらなければならない。


 領主たちにとって、それは容易な決断ではなかった。


 しかし、ここで軍を失えば、領地を取り戻す力そのものがなくなる。


 そのため南部軍も、事前に指定された防衛地点へ向けて後退を開始した。


 前方では帝国軍が進んでいる。


 後方では王都へ続く街道がある。


 その間を、撤退してくる兵士と避難してくる住民が埋めていく。


「この領地は?」


 ある指揮官が尋ねる。


「放棄します」


 返答は短かったが、その意味は重かった。


「次の防衛地点まで下がる」


 兵士たちは動いた。


 一つの村を失う。


 次に砦を失う。


 さらに街道を失う。


 それでも軍そのものは失わない。


 後衛部隊が残って敵の進撃を遅らせ、その間に本隊が西へ向かう。


 帝国軍が追ってくれば後衛が戦う。


 後衛が下がれば、別の部隊が後ろを引き受ける。


 そうやって南部軍も、可能な限り戦力を保ちながら後退した。


 王都レクィエリアでは、撤退の報告が次々と届いていた。


 北部はまだエクウス伯爵らの防衛線が持ちこたえている。


 中部軍はウィムーヌ子爵領へ向かっている。


 南部軍は指定された第二防衛線へ後退している。


 中央軍も各部隊ごとに指定された地点へ移動している。


 それでも敵は進んでいる。


 セパラーティオ川の東側にあった貴族領は、次々と帝国軍へ占領されていた。


 その報告が届くたび、王都の地図へ新しい印が加えられていく。


 しかし、まだ戦線そのものは消えていない。


 撤退命令が出されたのが、完全な崩壊の後ではなかったからだ。


 もし渡河防衛が完全に崩れてから命令を出していれば、中部軍と南部軍は帝国軍の進撃に追われながら、互いに別々の道へ逃げることになっていた可能性が高い。


 そうなれば、部隊は分断される。


 中央軍も各所へ散る。


 ウィムーヌまでまとまった軍を送ることも難しくなる。


 だからこそ、川を守り切れないことが確定した段階で、まだ撤退路が残されているうちに命令を出したのである。


 それが、ぎりぎりのところで功を奏した。


 翌日。


 中部軍の先頭部隊が、ウィムーヌ子爵領へ到着した。


 長い撤退の末に、ようやく一つの地域へまとまった兵士たちが集まり始める。


 先に到着した部隊は街道の周辺へ配置され、後方から来る部隊を受け入れる。


 工兵たちは防御に適した場所を探し、街道を塞ぐための障害物を用意し始める。


「東側は?」


 中部軍の指揮官が尋ねる。


「帝国軍が進出しています」


「どこまで来ている?」


「ウィムーヌの東にある中部貴族領の大半が落ちています」


 指揮官は地図を見る。


 東側は、すでに敵の領域になっている。


 西側には外海。


 つまり、帝国軍が西へ大きく回り込むことは難しい。


 ならば、ここで戦線を作る。


「北部との連絡は?」


「現在は維持されています」


「南部は?」


「後退中です」


 指揮官は頷いた。


 ウィムーヌは、北部と南部を繋ぐ最後の要所の一つだった。


 ここを失わなければ、中部軍はまだ北と南を結び付けることができる。


 だが、北側にも別の重要地点がある。


 プラエシディウス伯爵領だった。


 プラエシディウス伯爵領は、アンティクイランド中部の貴族勢力の中でも特に大きな政治的・経済的影響力を持っていた。


 その位置は中部のやや北側にあり、北部戦線との接続を考える上で無視できない場所だった。


 北部にはエクウス伯爵領の防衛線がある。


 その南へプラエシディウス伯爵領が続き、さらに中部へ下ればウィムーヌ子爵領がある。


 この地理的な関係が残っているからこそ、北部と中部がまだ完全には切れていない。


 しかし、帝国軍がプラエシディウスへ大軍を送り、そこを突破すれば状況は変わる。


 さらにその先にあるガイウシア子爵領は、エクィトゥムとの国境に接している。


 ここが重要だった。


 アンティクイランドとエクィトゥムを陸上で結ぶ道が残されている限り、エクィトゥムからの援軍を送ることができる。


 しかし、プラエシディウスが落ち、そのままガイウシアまで帝国軍が進めば、その連絡路が断たれる。


 エクィトゥムから兵を送ることが難しくなる。


 そうなればウィムーヌに集まった中部軍を支えることも、王都へ続く北側の防衛線を維持することも、極めて困難になる。


 そして、北部と中部のどこか一ヶ所でも帝国軍が大きく前進すれば、西方評議会全体にとっても重大な意味を持つ。


 エクィトゥムとアンティクイランドを繋ぐ陸路が切れる。


 さらにカヴィーレスターンとの連携も陸上では難しくなる。


 西方評議会本部のある王都レクィエリアは孤立しやすくなる。


 その時点で、軍事的には西方側の敗北が決定的になる可能性が高かった。


「プラエシディウスを失うな」


 北部方面の指揮官へ命令が送られる。


「その次のガイウシアも守れ」


 帝国軍の進撃を止めるために、部隊が配置される。


 ここでは、一つの領地を守ること自体が目的ではない。


 エクィトゥムとの援軍路を維持することが目的だった。


 南部では、さらに状況が悪化していた。


 セパラーティオ川南部流域から西へ伸びる道沿いにある貴族領が、次々と帝国軍の支配下へ入っている。


 最初の領地が落ちた時には、まだ「前方の一地域を失った」と考えられていた。


 だが、その次の領地が落ち、そのさらに次まで陥落すると、南部軍の後ろへ残る地域は急速に減っていった。


 避難する住民。


 王都へ向かう馬車。


 負傷した兵士。


 武器を積んだ荷車。


 それらが同じ街道を行き交う。


 南部軍は指定地点へ下がっている。


 そのため、完全な敗走にはなっていない。


 しかし、前方の領土が次々に失われていく以上、撤退先そのものも少しずつ後ろへ移っていた。


 そしてついに、帝国軍の先頭部隊が王領の東端に近づき始めた。


 王領。


 王家が直接支配する土地であり、王都レクィエリアへ食料や物資を送り、王都の行政を支える重要な地域でもある。


 そこを帝国軍へ奪われれば、王都はさらに直接的な危険にさらされる。


 しかも王領から西へ進めば、その先にあるのは王都だった。


 王都へ向かう街道も存在する。


 王領東端から先へさらに進めば、帝国軍は王都レクィエリアへ到達できる距離まで迫ることになる。


 南部軍の指揮官は、王領周辺へ防衛部隊を集めるよう命令した。


「王都への街道を守れ」


「後方の荷車を先に通せ」


「王領東端の部隊は、敵が近づいても勝手に崩れるな」


 その一方で、王都からも追加の兵力が送られる。


 できる限り前方へ。


 しかし、無理に前へ出しすぎない。


 帝国軍がどこへ集中するのかを見ながら、防衛線を調整する。


 戦争は、すでに国境を守る段階を超えていた。


 その頃、ウィムーヌ子爵領では、撤退してきた中部軍の再編が進んでいた。


 兵士たちは疲れている。


 武器も一部が壊れている。


 軍馬にも消耗が見える。


 それでも、軍としてはまだ存在している。


「中央軍の部隊が到着しました」


 報告を受けた指揮官が頷く。


「そのまま所定の位置へ」


「はい」


「南部から来る部隊のために、街道を空けておけ」


「承知しました」


 ウィムーヌの防衛線には、少しずつ人が増えている。


 ここを守る。


 ここを抜かせない。


 それが、北部と南部を繋ぐために必要だった。


 だが、東からは帝国軍が近づいている。


 ウィムーヌ子爵領の東側にある貴族領は、すでに多くが陥落している。


 つまり、帝国軍との距離は決して遠くない。


 指揮官は地図へ目を落とした。


 北。


 プラエシディウス。


 その先にガイウシア。


 中央。


 ウィムーヌ。


 南。


 王領。


 この線を維持しなければならない。


 しかし、それは一本の連続した城壁ではない。


 それぞれの地点に部隊を置き、街道を繋ぎ、敵が一ヶ所へ集中した時に隣の部隊が援護できるようにする。


 長いセパラーティオ川を守っていた時とは、全く違う戦い方だった。


 川は失った。


 その代わり、守る範囲を狭めた。


 軍を残した。


 次の戦場を選んだ。


 それが唯一の救いだった。


 王都レクィエリアにも、夜になって新しい報告が届いた。


「第二軍団第二艦隊と第三艦隊について、最終的な損害は現在集計中です」


 アトラシート伯爵が軍議室で報告する。


「ただし、二個艦隊二十隻は、ほぼ壊滅状態と考えるべきでしょう」


 そこにいた者たちは、しばらく黙っていた。


 開戦前から戦時体制へ切り替えた。


 商船を徴用して三個艦隊へ増強した。


 二個艦隊二十隻をセパラーティオ川へ展開した。


 長距離の見張り網も機能した。


 敵を早期に発見した。


 海軍も、敵が西岸へ大規模に展開するまで足止めを続けた。


 それでも二十隻の艦隊を守り切ることはできなかった。


 ただし、その二十隻が戦った時間があったからこそ、中部軍と南部軍は撤退命令を受け取り、指定地点へ向かう時間を得ることができた。


 それは、数字だけでは表せない意味を持つ損害だった。


「残存艦隊は?」


 軍務卿が確認する。


「第二軍団第一艦隊、十隻です」


「それと第六軍団の二個艦隊、二十隻」


「はい」


「合計三十隻」


 もともと戦時編制では五十隻。


 そのうち二十隻を失った。


 これから残った艦隊には、王都周辺の水上輸送路、ガルディシア、後方の河川、そして必要な地域への物資輸送という新しい役割が待っている。


 セパラーティオ川で敵を止める役目は終わった。


 しかし、海軍そのものが終わったわけではない。


 夜がさらに深くなる。


 ウィムーヌでは防御陣地が少しずつ形になり、南部では王領周辺へ新たな兵が集まり、北部ではエクウス伯爵領とプラエシディウス、ガイウシアの連絡を維持するための部隊が動いていた。


 東から来た帝国軍は、セパラーティオ川を越えた。


 そして、その川を越えた二十万人規模の軍勢が、アイティクイランドの内部へ広がっている。


 それでもアンティクイランド軍は、完全な崩壊を免れた。


 決定的だったのは、渡河防衛が完全に壊れてから撤退を始めたのではなく、「このままでは川沿いの全部隊を失う」と判断した時点で、すぐに伝令を走らせたことだった。


 命令が届いた時には、まだ川岸の一部で艦隊が戦っていた。


 まだ中部軍も戦力としてまとまっていた。


 まだ南部軍も後退できた。


 だからこそ、撤退が間に合った。


 川を守ることには失敗した。


 第二軍団第二艦隊と第三艦隊も壊滅した。


 東部の貴族領も次々に失われた。


 しかし、中部軍はウィムーヌまで到達した。


 南部軍も指定された防衛地点へ向かっている。


 北部もまだ持ちこたえている。


 つまり、アンティクイランドはまだ一つの国として戦えている。


 その代わり、戦場はますます厳しくなっていた。


 北部では、プラエシディウス伯爵領を守らなければならない。


 その先のガイウシア子爵領を失えば、エクィトゥムからの援軍が途絶える。


 中部では、ウィムーヌ子爵領を失えば北部と南部が繋がらなくなる。


 南部では、王領を失えば王都レクィエリアが直接危険になる。


 そして帝国軍は、その全てを同時に脅かす位置まで進んでいた。


 アンティクイランド軍に残された時間は少ない。


 それでも、まだ終わってはいなかった。


 ウィムーヌ子爵領の防衛線が完成しつつある。


 北部の防衛線も、まだ維持されている。


 南部では王領が残っている。


 そして何より、エクィトゥムからの援軍が到着する可能性もまだ消えていない。


 だからこそ、次の戦いが始まる。


 セパラーティオ川を越えた帝国軍を、ウィムーヌで止めるための戦いが。

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